第15話 火の解放

——っ、消えた……?


今の今まで自分がまたがり組み伏せていた少女がいない。魔女ヴォーチェは咄嗟に尻餅をつきそうになるのを凄まじい膂力で回避しながら、前後左右を見回した。


「……ちっ、なんだぁ?」


緊急退避? どんな手品かは知らないが、注いだ闇の魔力は感じられる。あの娘が意思なき人形と化すのは時間の問題だ。どうせ逃げ切れるはずも無い。

……そのはずだが。どうにも嫌な予感がした。


「……あぁん? 上かあ!」


はるか上空。人影が月に照らされ落ちていく。

ヴォーチェは傍に突き立てた大鎌を引き抜き肩に担ぐと、落下地点めがけて無人の氷原を走り始めた。


予感が的中することを祝い呪うかのように、ちいさな人影は巨大な存在感を放ち、赫々と輝きはじめていた。


**


空高く。

おれはカミナに乗っていた。

仰向けのままあらわになった、白くやわらかなお腹の上に。


「ねぇ、猫ちゃん。ちょっと寒いわ。」

「ああ、そうか。ひとまず服は必要だなあ。」

「……それからね。おなかもすいた。」

「そうだろうなあ。用意しよう。」

「あと、猫ちゃん。……落ちたくないわ。痛そうだもの。」

「同感だ。……猫ちゃんて。」


月を見ながら、カミナは仰向けに落ちていた。おれも一緒に。


「色々あるが、手始めに。おまえの魔力を解き放つ。食い物以外は、それで解決。」

「わたしの……魔力? あんまり無いよ?」

「表向きはな。まあ、任せとけ……。」


おれは尾を三又に別れさせ、それぞれの先端に異なる形の鍵を象った。


そのまますばやく尾を振ると、三つの鍵をカミナの眉間・胸・下腹へと突き入れて、魔力を閉じる封印を触る。


封印は、年月を経た岩塊のように堅牢に隙なく組まれていた。

誰の仕業か——相当に手の込んだ術式だ。


「誰だか知らんが、失礼するよ——啓け・展け・開いて・廻れ==こじ開けろっ……《三元解錠》!!」


がちがちと歯車を回すような音を立て、封印が目に見えて緩んでいく。

この短時間で全解放とはいかないが、急場を凌ぐことはできるだろう。


鬱積していた魔力がカミナの体内に溢れ、そして廻る。

その魔力は波立つ溶岩のように熱く、激しく、赫々と燃えて揺らめいていた。

周囲の温度がごぅ、と上がる。


「……猫ちゃん。これって……?」

「正真正銘、火の魔力。——お前の望んだ、お前自身の、本当の力だ。」


体内を巡る熱、全身から溢れ出る火勢を感じ、カミナは呆気にとられていた。

まだまだ、こんなもんじゃないけどな。


近づく黒い地面には、不吉な人影が迫っていた。

「……さあ、やるぜ。ぶっとばすんだろ?」

「……そうだった。あのおばさん。ボッコボッコのフルボッコ……!」


カミナの意思に呼応して、舞い散る火の粉が渦を巻く。

短く揃えた灰色の髪は、長く翻る火炎の赤に。

灰の瞳は紅珠の赫に。

貧相な肢体は女性らしくも力強い肉に満ちて弾けんばかり。

烈火を湛えて溢れる力が、肉体すらも変えていた。


火の魔力とは。

神を讃える生命の火。

死者を滅する裁きの炎。

それだけではない。


「——許せない。屍人は灰に。泥魔も灰に。魔女は火あぶり。そして死刑……!」


火が精神にもたらすものは、過剰に燃ゆる傲岸な正義と——


「焼いて。燃やして。焦がして。溶かして。滅ぼし散らして蹴散らしてっ……!」


——万象焼き尽くす破壊衝動。


猛る炎の使い手は、過剰な正義の威のもとに、凄絶な情炎で世を滅しかねない存在なのだ。


「——ああぁぁぁっ!!」


抑えられない。

カミナは吠えた。

闇夜に燃えるような赤髪を煌めかせ、空中でくるりと姿勢を変える。

纏ったばかりの火炎を操ると、地上を走る魔女に向かって加速した。


雄々しくすらある少女の姿は、カミナの——そして、おれ自身のための——引き返せない一歩が踏み出されたことを告げていた。


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