第13話 擬神殿
目を開けたカミナの眼前では、迫る魔女ヴォーチェも、何かを叫ぶ老執事も——月夜の木々の揺らめきすら、まるで生きたまま凍りついたかのように、ぴくりとも動かず静止していた。
『——魔力虹彩……完全一致——次元認証……オールクリア。』
脳内の声。それと呼応するかのように、カミナを取り巻く中空に——そしてカミナ自身の身体にも、見たこともない不可思議な記号や文字が現れて消え、列をなしては明滅する。
構成された文様はびゅんびゅんと空間を流動しながら、円や四角や、さらに複雑な様々の図形や図像を目が眩む速度で形成していった。
『……——の解放を完了。鍵座標を同定。世界拡張:《擬神殿》を現界します——。』
時の止まった氷原に、何もない空間から白い光が——光る輪郭が滲み出す。
そのまま現実と重なるように姿を現したそれは、途方もなく巨大な建物だった。
優美な曲線を描いて反り返る勾配屋根は、堂々たる山体にも似た威容を誇る。暁色に光るその屋根を、朱色の複雑な架構と儚げな柱組が精妙なバランスで支えている。見たこともない様式の建造物だ。
その内側に、気づけばカミナはただ一人きりで放り出されていた。
「なに……これ……?」
無表情たるカミナの色に、薄いが確かな驚きが宿る。
建物の内部には朱銀色に輝く繊細な列柱が立ち並び、途方も無い精緻さで象られた透し彫りの天井を支える。
柱廊の奥には神々しい白金造の造形物——荘厳な祭壇のようなものが光って見える。白く光沢のある壁は虹色の色彩に輝く数々の窓で彩られ、カミナがいつの間にか横たわっていた広大な床面を幻影のように照らしていた。
《擬神殿》。
見知った神殿とは何もかも違う。しかし、それは確かに——少女がつい数時間前に儀式を受けた礼拝堂より何倍も大きく、何十倍も立派で壮麗な——錚々たる「神殿」に違いなかった。
「なんか……透け……しかも……浮いてる?」
驚くことに、それら全ては、確固たる物質でありながら半透明の質感を持っている。さらに神殿そのものは、魔女が放った黒氷の遥か上——木々を見下ろすほど高い宙空に、微動だにせず静止し浮かんでいた。
カミナは都市を、木々を、弟がいる湖畔の家を、そして動かぬ魔女と執事を、はるか上空から透かし見るのだった。
**
痛む身体。傷の浅い右半身を下にして硬い床——半透明の発行する床に寝そべるカミナ。少しまぶしさを感じ始めた少女の後方から、先ほどと同じ声がした。
『——現界完了。因子残量を再測定——カウントダウンを開始します。《契約》可能な残り時間は:108秒、7……6……』
今度は頭の中からでは無い。相変わらず薄い気配だが、明確に存在する者が発する声だった。足音は無い。空気の動きと虫の鳴くような僅かな異音が、何かが肉体を持って近づいてくることを示していた。
『——
その存在は、カミナの背後ですぅっと停止した。
激しい体の痛みが、闇に侵されたおぞましい不快感が、嘘のようにふぅっと消え去った。
うつ伏せに倒れ、かろうじて声の方向に首を向けると、そこには一人の——あまりに白い女がいた。
奇怪な造形の服だけではない。
白い陶器のような素材で作られた身体そのものが、見たことも無いほど完璧に白かった。
つやつやと光沢を帯びた体表には、無数の継ぎ目が走っている。目を刺すような黄緑色の長髪をふわふわとなびかせた、人形のように異常に整った顔をした女だった。
白い女は、虚ろな目線でカミナを見て言った。
『——緊急修復、完了しました。
ます、たぁ? さい……きどう?
『……94……93……』無機質な声が響き渡る。
疲れ混乱したカミナが肘をつき、四つん這いになり起き上がろうとした、そのときだった。
『……91……90……新規マスターより応答なし。モード:強制執行に移行します——だッシャァっ!』
——っぱあん!
「あぎゃっ!?」
蹴られた。
尻を。
『——よっしゃあァッ!!』
ぱあぁあん!
「っっ!……ちょおっ……!」
カミナは見た。
程よく突き出された小ぶりな臀部を、鞭のようにしなる女の脚が容赦なく引っぱたくのを。
それは、甘々に育てられたカミナが、生まれてはじめて経験する種類の痛みだった。
『——めっしゃあアァァっッ!!』
すっぱあぁあん!
「あっふぅん!」
変な声出た。超痛い。形のよい尻がぐにゃりと歪む。
ちょっと気持ちよくなんか、な、な、ないんだから……!
『こほん……83……82……《マスター》。至急、再起動シークエンスの実行を。すみやかに祭壇へ移動、《要石》への接続および認証解除を要請します。』
声の主——白い服を着た女は、何事も無かったかのような口調で言った。
「……にん……なに? ……ちょっ……えぇ……?」
問答無用。動かねば蹴る。
両脇を締め、片足を上げて構えた女の姿は、言外に明確にそう語る。
何かを悟ったカミナは『……77……76……』と数えながら圧をかけてくる女に追われ、よち、よち、と神殿の奥へと歩いて行った。腫れはじめた尻を抑えながら。
《要石》。
白金の祭壇の中央には、確かにそれらしい物体が、金色の台座に据えられ安置されていた。
指示された場所に立ち止まり、美しい祭壇の意匠をぼぉっと見上げるカミナに女は言った。
『——マスター。《要石》への接続を要請。……70……69……。』
「……これ……なぁに?……ここは……あなたは……?」
「……66……65……認証タイプは接触式です。速やかに接続してください。」
だめだわ。話は通じない。
どうやら、触れ、と言ってるのかな?
じっと目線を下げて蹴り足を構える女にため息を吐いて、カミナは球体のほうへ向き直った。
それは赤ん坊の頭くらいの大きさの、暗灰色の球体だった。磨いていない石のようにざらざらした質感で、建物の他の部分と違って透けてはいない。
何の気配もしない、魔力も感じないただの石。なんだか不思議と懐かしく、どこか見覚えのあるような感じがした。
(この場所が、夢なのか幻なのかわからない。)
カミナは思った。
(けど、目が覚めたら、死ぬか、もっとひどいのに決まってる。だったら、いっそ……)
そして、おずおずと指を伸ばす。無機質なそれにつん、と触れた。
カミナも知らない奥底から、体に残った魔力がずるりと吸い出されるような感じがした。
『——認証クリア……スフィアドライブ《=サ=マ=ヤ=》を解放——転生プロセスの凍結を解除——再起動シークエンスを実行します。』
球体が薄く光を帯びる。とく、とくん、と脈動した。
固いと思った表面に指先がつぷ、と沈む。
それはふわりと柔らかく、あたたかい血が通ったような熱を帯びていた。
傷ひとつなかった球面に、幾本かの円弧のような割れ目が走る。ざらざらしていたはずの質感は、上質な毛皮のようにすべらかな毛並みに覆われた。
球体は割れ、ちいさな頭に尖った耳、しなやかな手足と、長く豊かな尾を伸ばした。
「——んん?……うぅーん……ふあぁーあっ……。」
のんびりと大欠伸をして目覚めたその存在は、一匹の煤色の猫だった。
『……58……57……』
時から切り離された神殿に、無機質な女の声が機械仕掛けのように響いていた。
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