第12話 常闇の卵

(……く……うぅ……。)


目を閉じた少女が感じたのは、鈍い背中の痛み。そして骨の髄まで侵されるほどの恐ろしい冷たさだった。


(……つめたい……寒い……。しまった……わたし……っ痛ぅ!)


跳ね起きようと動いたカミナを襲ったのは、引き裂かれるような全身の激しい疼痛だった。それは、幼い肉体の限界をこえた激しい戦闘の代償だ。《灰闘術》をここまで長く運用したのは、今日このときが初めてだった。


薄く、ゆっくりと目を開く。

雨は止み、月明かりが変わり果てた辺りの風景を——そしてよく知った親しい顔をカミナの眼前に照らし出していた。


「……っ……爺やっ?」

「お……嬢さま……。よくぞ……ご無事、で……!」


それは、老執事ウェルダの皺深い——そして血塗れた顔だった。


毎朝、毎晩、見飽きた顔。

その口からはどす黒い血液が垂れ流され、凍った地面に大きな血だまりをつくっていた。


氷に呑まれるカミナを、間一髪、体を張って庇ったのだ。


カツッ、カツッ。黒い氷原に硬い靴音が響く。


「……おうおう、なんだ? このじいさん。てめぇらの好きな自己犠牲?……気味が悪いぜ、反吐が出る……んん?」


言いながら女——氷瀑の魔女、《殺生》のヴォーチェが月下に姿を現した。

ぐいっと背を曲げ、息のかかる間近でウェルダを覗き込む。

途端、口が裂けるようにしてニタリと笑んだ。


「てめぇ、あれだな? 海を渡って攻めてきた、《溶接》の小僧の成れの果てだなぁ?」

「——なぜだ、《殺生》……。貴様が……都市に、来よる、など……?」

「こっちもいろいろ事情があんだよ。——しっかし、小僧ぅ……こんなにジジイになっちまってよぉ?」


尖った手爪が、傷ついた老執事の額をこつんと小突く。


「てめぇの自慢の照霊サマも、とっくの昔にもう居ねぇ。痛ましいなあ、悲しいなあぁ?」

「……ごぼっ……失せろ……忌まわしき魔女め。耳が腐るわ……。」

「はっ、言いやがれ。てめぇのほうが、よっぽど腐って死にそうだろうが。みじめな小娘のお守りで死ねて、まったくご機嫌な人生ってやつだなぁ、おい?」


「……ふっ……違いない。まったく、本望と言う、ものよ……。」

息も絶え絶えにウェルダは笑う。


「……嘘でしょ。爺や……?」


嘘。死なないで。カミナは思った。

また、死んじゃうの? わたしのせいで。

十年前。カミナの母は、カミナを庇い命を落とした。

血を失い青黒い顔をした目の前のウェルダもまた、今にも命を失いかけていた。


嫌だ。嫌だ。ごめん。ごめんね……!

押し込められたはずの感情が揺らぐ。動揺する。

だから、自分がこれからどうなるかなどということは、ただの少しも想像してはいなかった。


「それで、てめぇだぁ、灰の嬢ちゃん。」


黒い氷上。ヴォーチェは上半身を起こしたカミナの肢体に馬乗りになると、カミナの灰色の瞳をまじまじと覗き込んできた。


鼻の曲がるような麝香の匂い。そして微かな死臭がした。


「あたしは決めたぜ。てめぇは具合が良さそうだ。《使って》やるよ、てめぇの体。うちの女王サマにお願いしてなぁ?」


残忍な笑みを浮かべたままで告げられた言葉。それは、カミナを、死者の軍勢のひとりに変えて、魂を集める——人間を喰う道具にするということだった。


すべての人間が最も恐れる、死よりもなお惨たらしい結末だ。カミナにもその知識はあった。


「……え……何で? うそ? 嫌だ……なんで……?」

「嫌だ、じゃねえよ。駄々っ子か?」

ヴォーチェは笑う。


「……魔力はカスだが、よく視える目に、動ける身体。あたしが《氷》を見せるほどの、だ。ションベン臭ぇ割には器量もなかなか。使わねぇほうが、どうかしてるぜ?」

「……ぐっ……ごぼぉっ……貴様ァ、許さん、許さんぞおぉっ!」

「うっせえ、死んどけ!! あたしの氷は特別製だぁ。」


氷河に凍てつき傷だらけの老執事は、身体中を氷棘に刺し貫かれて動けない。

老執事の頼みの《溶鉄》の炎熱も、放つそばから魔力ごと毒々しい氷晶に吸い散らされ、何の威力も示さない。そもそも老いた肉体からは、血液が失われすぎていた。


せめて……せめて、失った照霊があれば……! 

老人の、ただ虚しい苦悩がそこにはあった。


……さぁて、ひとまず、染めておくかな。

そう言うとヴォーチェは、大きく開いた胸にずぼっと腕を突っ込む。豊かな双丘のあいだをがさがさと無造作にまさぐると、小さな物体を細長い指で取り出した。


「よぉしよし……育ってるなぁ……?」


それは、一見すると大きめの飴玉のようにも見える。しかし、ざらざらとした光沢のある表面には、どす黒い暗紫色の渦がぐねぐねと妖しく蠢いていた。


そのモノを、闇なる女王——常闇の魔女は《卵》と呼んだ。


死へと誘う魔力を込めた、生者を生きながらにして死の傀儡とするための——そしていつしか魂を奪い、意思ある屍として迎えるための——悍ましく強力な術具であった。


「……ほらぁ、開けろぉ。……開けなぁ、口ぃ!」


黒く長い爪でつまんだそれが、ぐぃっと少女の薄赤い唇に押し付けられる。


「……むぅぅ?……く、ぅう、むぅっ……!」

「……おら、あきらめなぁ!!……おい、こらっ、噛むなっ!!」

「がるるるるぅ……!」

「お嬢様っ……!」


指なんか齧ったらお腹壊す。けど、もっと超絶に体に悪そう&マズそうなのを食わされるよりはよっぽどマシ……!

などと、微妙にずれた思考が頭をよぎる。何年もぬくぬくと引きこもってきた少女の思考は、この状況に今ひとつ追いついていなかった。


とにもかくにも必死の抵抗。絶望的な覚悟で歯を食いしばる。


「……ごめんなぁ。痛み、感じねぇんだわ。」


抵抗むなしく、噛まれた指にそのままギチギチと万力のような力を込めて——食いしばるカミナの顎を呆気なくこじ開けると、ころりと《卵》を転がし入れた。


吐き出してっ——。


カミナが思ったその瞬間。

熱した鉄板に乗るバターのように、舌上で《卵》がどろりと溶けた。


——苦い。

酸っぱい。甘い。臭い。痛い。絶望。哀しみ。恐怖。憎しみ。恨み。罪と罰。

それらを味覚として一度に味わうかのような、毒、薬、草、蟲、金属、泥土、腐った空気の。糞便の。そして死人の味がした。


そして同時に——濃密と表現してもなお足りない、固く圧縮された闇の魔力が体内に弾けた。


地獄のような味覚の刺激。

そして生まれついた魔力を、身体中の感覚を暴力的に剥がされ塗り替えられ——乗っ取られていくあまりの苦痛に、カミナの目玉が白眼を剥いて裏返る。


身体中の毛穴から冷や汗を、口角からは不吉な黒い泡を吹き出す。目鼻耳からは赤黒く、温い鮮血がたらりと垂れ流されていく。人が生きながら屍者に連なるモノへと変じる兆候だ。


(わたし……もうだめ? 死人になるの……?)

急速に遠ざかる意識の中、カミナは己の結末を悟る。


「馴染みがいいねぇ。いぃ感じだぁ……。」

馬乗りのままのヴォーチェがにたりと笑み。

「……ごぶぉっ……がぼぉっ……カミナっ……様あぁぁっ……!」

瀕死の痛みにも構わずウェルダが叫んだ。


(……でも、わたしが弱かっただけだもの。そう。しかたない。出来損ないの、《灰娘》……。)

苦痛とともに浮かぶのは、薄暗い灰色の諦念と。


(……オルバ……父さま……ごめんなさい……。爺や……生きてね……母さま……母さま、いつか向こうで、会えるかな……?)

謝罪。悔やみ。そして祈り。


闇に捉えられた魂は、きっと母の待つ場所には行けないだろう。

それでも——出来損ないと言われた人生を諦めたとしても、死後の儚い希望をも捨てることは、15才の少女にはできなかった。


——もう動けない。見えない。聞こえない。感じもしない。

そのはずなのに。

夢か現か、声がした。


『——、……。——三元・九属の——ヲ確認。《#$%》の——を開始しまス——。』


途切れ途切れに、それは聴こえた。

頭の中に響く声。気配も魔力も存在も無い。

そんな誰のものでもないような声だった。


最後の力を振り絞り、カミナは閉じかけの瞼をこじ開けた。

そこでは全てが停止していた。


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