第8話 素敵なおふろ
「……着いたよ。オルバ。」
外套の下、背に負う小さな弟に声をかけ、雨に濡れたカミナは外套のフードを外す。懐かしい家に至って、ようやく小さな安堵の吐息を漏らすことができた。
『双ツ森の水辺』。
そこは、若きを詩想に誘うような、風情に満ちた隠れ場だった。
静かな生命を感じさせる白樺の木立に囲まれた小ぶりな湖。今は冷たい雨に泡立っていたが、朝夕には小鳥や獣たちが水を飲みにくるほどに澄んだ水をたっぷりと湛えた水源である。
池の北側には、母の姉——叔母が少女のころに男たちの手を借りて作ったという愛らしい桟橋が設えてある。
塗られた色は褪せているが十分に堅牢で、釣りや写生はもちろん、青空の下での心地よいランチや午睡などにも丁度良い。
桟橋の根元には、玩具のような藍色の小ぢんまりとした家——かわいらしいグレーの勾配屋根とレンガの煙突を載せた平屋建ての、別邸というよりは大きな小屋だ——が風景に溶け込むように配されている。
(こんな時でも、来られてよかった……。)
そうしたすべての色彩は濡れそぼる夕暮れの光に色あせていたものの、疲れたカミナの心を元気づけるには十分すぎるほどだった。
カミナは小さな階段を注意深く上がると、庇の下で一息をついた。玄関の前には、雨を避けてくつろぐことができるほどの十分なスペースが確保されていた。
「えっと……ただいま?」
雨に打たれたフードを外し、カミナは玄関の扉を引き開ける。血族の魔力に応じてひとりでに解錠される細工がしてあるため、あたかも鍵がかかっていないかのようだった。
扉の中には、懐かしい匂い、穏やかな空気。雑然とした、しかし不思議に美しいと感じる空間が少女の目の前に広がっている。
家族と過ごした幸せな時間が、突如として走馬灯のようにカミナの脳裏を駆け巡る。灰色の大きな瞳に、じわりと涙が滲んでいった。
(——だめ。今は。)
カミナは軽く首を振ってきっと口を結び、家の奥へと進んでいくと、手触りのよい木製のドアノブをがちゃりと回した。
2台のベッドが置かれた寝室には、小さなベビーベッド——かつてはカミナが寝かされていた、父が手ずから仕上げた逸品だ——が備えられていた。そこに清潔な柔布を重ね、すやすやと眠るオルバを静かに寝かせる。少しも濡れることもなく、赤子ならではの健康な体温に満ち満ちている様子だった。
壁には花木を描いた絵が飾られ、窓からは暮れ泥んだ森林の暗がりが見える。
(だいじょうぶ。なんにも怖くないからね……。)
やわらかい赤髪と小さな寝顔を優しく撫ぜると、カミナはリビングへと戻ってきた。
エントランスホールや廊下は無く、玄関扉がそのまま広々としたリビングルームにつながり、リビングを介して他室へ向かう構成になっている。
「さて、と……。」
カミナは改めて辺りを見回した。
父の趣味と世間体から質実に整えられた本邸とは違い、小さな別邸は母と叔母の手により数多のモノで埋め尽くされ、一歩間違えば巨大な倉庫と思われかねない様相を呈していた。
料理道具にさまざまな手道具、漁具と猟具。王国製のハンモックに本で溢れたアンティークの書棚。画材、楽器、玩具。保存の効く食料やお菓子に調味料、スパイス、乾したハーブ。
家のサイズにあわせた小さな暖炉と、軒下には二年分のよく乾いた焚き付けまで備えた、煩わしい俗世からの完璧な避難場所となっているのだった。
「そうか……そうだわ……そうだった……!」
そして、この家にはもうひとつ、代々受け継がれたカミナの取って置きのお気に入りが備えつけられている。そのことをカミナは思い出した。それはもう、このような雨の寒い夜、冷え切った小さな体にはぴったりの設備と言ってよかった。
「ふっふっふ……」
キッチンの隣に設えられたその部屋は、香りのよい熱い蒸気で体を温め、清め、ほぐしてくれる至高の場——《蒸気風呂》と呼ばれる一風変わった浴室だった。
「うぇっへへっへへ……」
水は湖にたっぷりとある。
火魔法の使い手ばかりであるルシッドレッド家において、火力の調節はお手の物。
さらに森の薬師としてハーブに長じた叔母謹製の香り袋をたっぷりの蒸気で蒸し上げれば、堰鼎都市で一番といっても過言のないほどの最高の蒸し風呂となるのであった。幼い頃には家族揃って贅沢なひとときを楽しんだものだった。
「うぇっひっひ……おっふろ、おふろっ……!」
いつの間にやら着替えた湯浴み着を雑に羽織った半裸の少女は、分厚い木でできた浴室の扉へにじり寄り——
「どっかーーん!!」
——こいつ大丈夫かと思うような効果音とともに、数年振りに、ときには夢にまで描いた素晴らしい蒸し風呂へと身を躍らせる。
細く冷え切り汚れ汗ばんだ、しかし瑞々しい若い肢体が、芳しい蒸気を待ちきれずに今にもこぼれ出そうとするほどだった。
(わたし、つかれた! 隅々までぜんぶ、熱々のミストできれいにするの……!)
今この瞬間は、身を呈して囮となった老執事も、決死で戦い傷ついているであろう煙草の騎士も、過保護な父、もちろん騎士学院の三バカに蛙先生、そもそも都市に迫りくる危険のことも、完全に頭から消え去ってしまっていた。
「……どっかーーー……ん?」
そして少女は——寒く乾いた浴室のなか、磨かれた木製の浴台に座って首をかしげた。
「あれ……?……おふろ……。」
さもありなん。
そもそも火魔法を使えない灰娘は——過保護な親や執事たちに「最高の蒸気」を起こしてもらっていたばかりか、そのことを認識してすらいなかった。
(ただ、「便利で素敵なおフロだな」と思っていた時期が、わたしにもありました……。)
入浴のためには「自分で」「魔法を使わず」火を制御して、大量の蒸気を起こさなければならないのだ。
いろいろなところを剥き出しにしてブルッと震えた少女がそのことに気づくのには、今しばらくの時間が必要だった。
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