第3話 夜が、死が来る
礼拝堂を出ると。辺りはすっかり薄暗くなっていた。
遥かに連なる山の稜線に夕陽が沈む。
神殿の敷地を歩くカミナは、眉をひそめて空を仰ぐ。
冷え切った指で、肩からななめに掛けたちいさな革鞄の紐をきゅっと握りしめた。
(「……おや、《照霊》は、どうされました……?」)
儀式を終え。
(「顕れなかった? やはり、《灰娘》には、難しかったようですねぇ……!」)
奥院から何も連れずに戻ったカミナを蔑む、神官たちの目、声、態度。
小さな頃から馴染んできた視線は、15歳になって、儀式を受けても、結局変わることはなかった。そして、これからもずっと、一生ずっとそうなのに違いない。
そう。きっと。
『15歳になれば……』なんて母さまのことばも、ただの気休めにすぎなかった。
外套を引っ張り前を合わせる。
ああ、帰りたくない。帰れない。でも。だけど。
「……はやく、おうちに帰らなきゃ。」
吐く息が白く空へとたなびいた。
追い出されるようにくぐった門が真後ろでがちゃがちゃと音を立て、閂で固く閉ざされる。
まもなく暗くて寒い夜が。
死が、すぐそこにやってくる。
父さまは任務で留守のはずだから、今夜は会わずに済むはずだし。
わたしが家を逐われるのだって、今日や明日のことじゃない。
今日は帰って。部屋にこもって。
あとのことはあとから考えればいい。
帰ったらココアを飲むのもいいな。
おやつはきび砂糖のクッキーを所望。
心を決める。紫赤の空から目を離す。
行く手を見ると、そこには男が立っていた。
「なによ。モーケス。……呼んでない。」
ゆったりした上着に大きな狩帽。
中肉中背というには少し痩せている若い男は、優しげな猟犬のような顔に鋭い眼光と皮肉っぽい笑みを貼り付けている。
帯剣はせず、大小いくつかの丈夫そうな腰袋を身につけて、いかにもありふれた非番の騎士といった佇まいだ。
「あれぇー? お嬢。あなたのしもべ、モーケスですよ? 呼ばれなかったら来ちゃだめです? そんな法律あったかな?」
「……うざい……あるもん。無ければ……つくる。」
言いながらカミナは足早に歩き始める。
父の腹心だというこの男は、へらへらしていてうるさくて……子供の頃から得意じゃなかった。
それなのに、自分の護衛で、師匠でもあるのだから始末が悪い。
「冷たいなあ。せっかく来たのに……。なんか嫌なことあったかな?」
「……うるさい。しらない。しかも、くさい。」
「くさっ……て、貴重な葉っぱなんだぜ……お嬢もどうです?」
モーケスは指でつまんだ小さな筒——細く煙を上げている、大陸式の紙巻煙草という代物だ——をカミナに差し出し、しかめっつらを一段としかめさせることに成功した。
「……うるさい。禁止。」
「へいへい。仰せのままにいたしますよっ……と。」
名残惜しそうに筒を咥え、横を向いてたっぷりと煙を吐く。
短くなった煙草の火を消し、大事そうに腰袋にしまい込むと、カミナの前に恭しく膝をついた。
「では、お嬢様。お父上の命により、どうかご自宅までお護りさせていただきたく。」
ゆったりと、芝居掛かった手つきで右手を差し出す。
いつもながら、冗談だか真面目だかわからないふざけた男なのだ。こんなのが世の貴婦人たちの関心の的だというのだから、ほんとうに社交はニガテだわとカミナは思う。
暗い夜。
死者は海からやってくる。
闘うすべをもたない者たちは——毎夜、毎夜、聖火と聖水に守られた居住区の厚い石造りの家のなか、戦に赴く家人の無事をひたすらに祈り、迫り来る死をただ恐れながら過ごさねばならない。それが堰鼎都市の日常だった。
モーケスは、上司である父に命じられ——たぶん少しは金銭を握らされ——カミナの護衛を請け負うことが多かった。
帰りが遅れることを見越して、わざわざ神殿まで迎えにきたということだろう。
「……好きにして。どうせついてくるつもりでしょ。」
差し出された手が見えないかのように、カミナはすたすたと坂を下り歩き始めた。
**
正門から街へ、そして海へと下る大参道。路面にはみっしりと石畳が敷き詰められ、大ぶりな馬車が数台すれ違えるほどの広さと平滑さを誇っていた。
——ちきしょう、もうちょっと粘れると思ったのによぅ……!
——だから言ったろ!?ここらは土地が低いから、夜が故郷くにより早いんだって!!
道の向こうから、悪態をつく声が聞こえてくる。
昼間には露店や行商で賑わう広場も、声の主たち——慌てて荷車を引く旅装の男たち以外には人っ子一人いなかった。固く護られているとはいえ、地元の人間は夕暮れを待たずに撤収するのだ。
「……なぁ、お嬢。」
モーケスはカミナの背中に呼びかけた。返事はない。
「……見ればわかるぜ。残念だったな。儀式のことは。」
「…………!」
妙に察しが良いところ。戦いや政争を生き抜くのには良いかもしれないが、思春期の少女には、分かられたくないことも多いのだけど。
「……いてっ……おい、やめっ……」
カミナの振り回す鞄が、男の頭、肩、脇腹をぽこぽこと打擲する。
「ったく……まあさ、《照霊》なんかいなくてもよ。最悪、うちにお嫁にくれバッ……ておぃ、くそ、痛ってぇ! やめろ、鞄の角でぶつのは!」
「ばか。ヘンタイ。おじさん。騎士。独身。猫背。たばこ。加齢臭……!!」
「ってて……俺に一撃当てるとは、さすがは副長の……って、『騎士』を悪口にしないでね!?」
革鞄によるカミナの殴打、いやに滑らかな口撃にもめげず、独身でよくない? 臭くはなくない? とぶつぶつ言って、ふらふら後ろをついていく。
(……おヨメ……いやだな……。)
——たしかにモーケスの言う通り、今のわたしは。
照霊もいない。特技もない。普通はお嫁に行くものだけど、社交も家事もできない(絶対にしない)、そのうえどんな子を産むかもわからない《灰娘》をもらってくれる家なんて……。
「……なあ、お嬢。」
ああ、愛されなくても構わない。
何も求められず、何も負わずに、一生ぬくぬくと引きこもっていたい。
そうだわ、寝ている間に儲かるような、素敵な商いはないものかしら……?
「……おい、お嬢って。」
「……わかってる。曲がって左に2体いる。たぶんどっちも
「ああ、正解だ。ちょっと待ってな。炙ってやる。」
にやりとするなり、騎士は滑るように駆け出した。
街を征く騎士というよりは、野を往く狩人のごとき身のこなし。
食堂と食器屋の間の街路に、音もなくするりと飛び込んでいく。
カミナは小走りに駆け、一息遅れて建物の角へとたどり着く。
息を潜めて道を見やれば、ゆったり構えたモーケスがいた。
その向こうには、妙に傾きながらぐちゃり、ぐちゃりと歩み寄る、ふたつの人影。
意思なき肉。
闇の傀儡。
海より来たる死者たちの姿がそこにあった。
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