(2)
「……まだ七時だぞ、起きてるのか? 」
持っている紙袋の中身の事もあるが、いざ、扉の前に立ってから、現在時間を確認して躊躇し始めた。
キタサキさんが出てきても、黒づくめの男が出てきても、褌なんて持ってきて、もし違ったりしたら引っ越しレベルの恥ずかしさだ。
……勇気を出せ、
ゆっくり、インターフォンを押した。
「……はい? 」
前と同じ、か細い声だった。やっぱりここはキタサキさんの家なんだろうか。
「あ、朝早くから申し訳ございません……あの、先日の隣の百家と申しますが、その、き、今日……風で飛んで来た服がありまして、そ、それを」
「何がですか? 」
「え? 」
声の芯が少し強くなった。しどろもどろなのが気に障ったのだろうか。
「何が、飛んで来たんですか? 」
「えっと……」
「こっちは分かってますから、答えてください」
もしかして、怒ってる……な。もう、俺はお終いだ。
「……も、申し訳ございません。ふ、褌が飛んで来たかと思います」
「……」
しばらく無言が続き、鍵が開く音がして、ゆっくりと扉が開いた。
「えっ……」
部屋から出てきたのは、キタサキさんと同じ、ストレートの黒茶色の髪の人物だった。違うのは、何の化粧もしていない事、この前飛んで来たあの白いTシャツを着て、あの時見た黒のジーンズを履いている事だ。今にも泣きそうな、不安そうな顔をしている。
「……あの、えっと」
頭が現状を理解しようと必死になっているが、よく分からない。これは、どういう事、ですか?
「とりあえず、そちらをお渡し頂けますか? 」
「あ、はい。こちらです」
下を向いて紙袋を受け取り、中身をゆっくり確認し、口をキュッと結んだ目の前の美人は、少し声を震わせながら顔を上げた。
「……誰にも言わないって、約束できますか? 」
何か、弱みを握ってしまっている予感がする。いいえ、なんて言ったら警察沙汰になるかもしれない。実質、俺に選択肢はない状況じゃないか。
「は、はい。言いません」
じっと大きな瞳に見つめられたのは、久しぶりだ。思わず目を逸らしそうになるが、逸らしてはいけないような、真剣な眼差しだった。
「……じゃあ、どうぞ。こちらへ」
「……中に、入るんですか? 」
「はい、大事な話がありますから」
正体不明な住人の部屋に通されるのは、生まれて初めてだ。俺を部屋に入れると同時に、すぐ施錠された。逃げられなくなった、何かされるのか……
玄関周りは綺麗に掃除されてあり、床は埃一つない。廊下を進むと、リビングに通された。必要最低限の家具しかない、整理整頓されていて、本当に俺の部屋と同じ間取りとは思えない。リビングの横の扉の先がおそらく何かしらあるんだと思うが、まず、まだ二回しか会っていない隣人を家に入れる事自体がおかしい。やっぱり何かされるのか、まずこの人は誰なんだ。いざと言う時の為にスマホを持ってきておいてよかった。
部屋の隅に黒いテレビがあり、その前に白くて背の低い、横長に広い机があった。
「そちらにおかけください。話があります」
「は、はい」
初めて訪れた時の匂いが何か分かった。棚にひっそりと置かれた、あの芳香剤だ。売ってるのは見たことあるが、嗅いだことはなかった。こんな匂いだったのか。
「……水とお茶、どちらが良いですか? 」
「え? ……あぁ、じゃあ水で、お願いします」
そんな長話するのか、尋問か何かだろうか。飛ばしてきたのは貴方の方からですよ、俺は届けに来ただけなはずですが……
「はい、どうぞ。冷たいですよ」
優しい声の方を向くと、キタサキさんと思わしきこの部屋の住人が、優しく微笑んで水入りペットボトルを差し出していた。一応キャップを少し捻ってみると、硬かった。やはり未開封だった。
俺の反対側に座った住人は、気泡が目立つ炭酸水のペットボトルを持ってきていた。
改めて見ると、毛穴ひとつ目立たない、いわゆる卵肌で、中性的な顔立ちではある。どちらか分からないくらい、ただただ美人というお顔だ。
「まず、二度も飛んでしまった服を届けてくださって、ありがとうございました」
「あ、あぁ、いいえ。とんでもない事です。他の所に飛ばされてなくて良かったです」
「もうお気づきの事だと思いますが、世間的には知られたくない事なので、釘を刺す意味でのお話をさせて頂きます」
改まって何を言い出すんだ、怖い。
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