獄卒
冷たい地下の廊下を、獄卒が先導する。ふたり分の足音だけが、コツコツと響く。脚の怪我のせいで、少しふらついた。獄卒の後ろ姿が、俺の縄を引っ張る。
「ちゃっちゃと歩け」
威圧的に低音を出しているが、それでもどこか甘い声だった。この獄卒は、女だ。
厚着のせいで体格は分からないが、少なくとも身長は、俺よりやや小さい。腰縄の端を握る指は、かなり華奢だ。この細い手指からなら、縄を奪えそうに思える。思い切り暴れてしまえば、抑止しきれなくて縄を手放すのではないか。上手く行けば脱出できるかも……などと、考えてみる。
しかし、俺の腕をぐいっと引っ張る彼女の力は存外強かった。
「ぼんやりするな。急げ」
地下は外の景色も時間も分からない。クオンとシオンは無事だろうか。
気がかりは双子だけではない。セレーネはどこへ消えたのか……そして、彼女の本当の心はどこにあるのか。尋問を受けているうちに、分からなくなってきた。
ツヴァイエル卿から聞いた話では、セレーネは何度か王国議会に呼ばれ、天文台を止めるよう指示されている。しかしセレーネはそうしなかった。
セレーネが月の雫の毒性を知らないはずがない。彼女はロロと一緒に、眠りの病の研究をしていたくらいだ。むしろ、眠りの病の原因を突き止め、議会に報告したのは彼女自身だろう。
セレーネは、月の雫は大地の国にとって脅威になると知っていながら、それを作り続けた。
獄卒に連れられ、冷たい地下通路を歩く。足音が妙に響いている。他の獄卒とはすれ違わない。
獄卒の女は、徐ろに口を開いた。
「月影読みを拉致して暗殺した上、素知らぬ顔で月影読みの代理をしていた凶悪犯。世界的なニュースになるね」
俺は彼女の、フードを被った後ろ頭を見ていた。この報せは、月の都にも届く。フレイは、ロロは、どう思うだろう。これでもまだ、俺を信頼してくれるだろうか。
だが、その「世界的ニュース」もすぐに覆る。俺が本物の赤い首輪ではないのは、ツヴァイエル卿が知っているはずだ。尋問調書が議会に報告されれば、彼が、俺の虚偽に気づく。
今後の行く末を想像する。
拷問でぼろぼろに痛めつけられて、あらぬ罪を着せられ、処刑される。そんな未来が口を開けて待っている。
絶望に胸が締め付けられたとき、頭がずきっと痛んだ。
「うっ……」
痛みに気を取られ、立ち止まる。獄卒も縄を引っ張りつつ、足を止めた。
この壮絶な感情。壊れそうな心。なにかを思い出しそうだ。
その夜は、煌々とした満月が、空の闇を支配していた。
母さんはとうとう、父さんの葬式にも来なかった。学校の制服で葬儀を終えて、俺は家族で暮らしていたアパートの屋上で、風に当たっていた。
月が大きくて丸いせいだ。いつもより少しだけ近くに感じる。
柵に腕を置いて、夜空を眺める。ここ数日の睡眠不足のせいだ、頭がぼうっとする。
だから、判断力が鈍っていたのか、覚悟が決まっていたのか、なにもかもどうでもよかったのか。そのときの自分の感情は、自分でも分からない。
ただ俺は柵を乗り越え、冷たい風の吹く透明な闇の中へ、躊躇いもなく踏み出していた。
体が宙に浮く。体勢を整えれば間に合うはずだったのに、俺は意図的に、重力に身を任せていた。
月が俺を見下ろしている。不思議だ、体は落ちていっているのに、あの月に吸い込まれていくみたいな気分だ――。
「おい、大丈夫?」
獄卒が俺の肩を揺する。彼女の声で、我に返った。
「あっ、あれ? ここは……そうだ俺、赤い首輪として地下牢に……」
「ちょっとちょっと。意識飛んじゃった? まだ拷問のひとつも受けてないだろ」
獄卒は体こそ前に向けているが、顔を少しだけ、こちらに傾けていた。フードの中から、頬の輪郭が覗く。
そのとき、後ろから悲鳴が聞こえた。
「やめて、離してー!」
廊下の中でわんわんと反響するその声に、俺は息を呑んだ。
間違いない、クオンの声だ。
クオンも兵士に捕まってしまったのか。
俺は考えるより先に、来た道を逆走した。獄卒の女が縄を握っているが、今度は彼女の方が俺に引きずられる形になる。
「おい! 走るな」
「うるさい黙れ。離せ!」
「ちっ。タイミング悪いな」
獄卒が舌打ちをする。俺はクオンの声を頼りに、地下通路を駆け抜けた。
「やめて、触んないでよ!」
「ううっ……やだよお。助けてイチヤくん……」
クオンの声が近づくにつれて、シオンのものらしき啜り泣きも聞こえてきた。複数の獄卒の話し声も混じる。
「怖くないよ、君たちは処刑にはならない。小さい女の子は需要があるからね」
「優しいおじさんのところへ売られていくだけだよ」
やがて、尋問室へ伸びる廊下に、その後ろ姿が現れた。黒と白のワンピースの少女たちが、それぞれに獄卒をふたりずつつけられ、引きずられている。クオンはばたばたもがき、シオンは諦めたように俯いて泣いている。
俺はふたりに向かって叫んだ。
「クオン、シオン!」
クオンとシオンは、同時に顔を上げた。
「イチヤくん!」
「助けて……!」
尋問室の前には、グルーダと部下ふたりが待機していた。獄卒が敬礼する。
「グルーダ将軍、件の双子をお連れしました」
「ご苦労」
グルーダは少女たちを冷ややかに見据えたあと、走ってくる俺に気づいた。
「貴様は牢に入れ」
「その子たちを解放しろ!」
縛られていてろくに動けもしないのに、俺は考えもなしに突っ込んだ。クオンとシオンが泣き喚く。
「イチヤくん、イチヤくん!」
「助けて、怖いよ!」
獄卒らはニタニタしながら双子を尋問室へ押し込んだ。尋問室の扉を閉めようとして、グルーダが途中で手を止める。
「そんなにこの小娘らに情が移っているのか」
グルーダの冷たい瞳が俺を射抜く。
「なら、希望を叶えてやる。小娘らが貴様の目の前で辱められる様子を、なにもできずに拝んでいろ」
「は……?」
これほど残虐な拷問がこの世にあるのか。尋問室から泣き叫ぶ双子の声がする。青ざめる俺を、グルーダはニヤリと嘲笑した。
「気分はどうだ」
腸が煮えくり返る。吐き気を催すほどの不快感、動けないもどかしさ。気が狂いそうだ。
「最悪に決まってんだろ」
と、答えたのは、俺ではない。
俺の一歩後ろにいた、獄卒の女だった。
女がグルーダの前に出てくる。そして彼の腰に差されたレイピアを、すらっと抜き取った。グルーダが目を剥く。
「お、おい、貴様……」
「これ借りるぜ、グルーダ将軍」
獄卒の女はそう言うと、レイピアの刃を俺に向けた。銀色の刃が艶めく。正面を向いたその女の、フードの中の不敵な笑みが見えた。
その夜空色の瞳に、俺は自分の目を疑った。
「……あんた……」
獄卒の女が、レイピアの先を俺の腕の縄に当てた。
「昨晩ぶりだね。捕った鳥肉、おいしかったよ。あんたにも分けてやればよかったな」
きつく縛られていた縄が、はらりと切れて落ちる。
「さあ、思う存分暴れな。飴ちゃん」
女は俺にくるっと背を向けて、羽織っていた弁柄色のマントをかなぐり捨てた。
中からぶわっと、鳥の子色のポニーテールが躍り出る。銀河のように煌めく髪の束には、結ばれた赤いチョーカーが絡みついていた。
クオンとシオンが倒れたまま目を見張り、ふたりを取り囲む兵士と獄卒もぽかんとしていた。
俺は未だに、目の前のその人物の存在が信じられなかった。
「ボス……どうしてここに?」
ボスは顔だけこちらに向けて、ニッと笑った。
「ぼけっとすんな。あのかわいい子たちを助けたいんだろ?」
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