花園

 ルミナはこれからどうなるのだろう。あれほど有名な劇団だ。それが人攫い集団であると世の中に知らしめられたら、演劇どころではなくなる。奴隷商は、法の定めで裁かれる。団長を含め、劇団の団員には実刑が下るだろう。

 そのとき役者は、サリアさんはどうなるのだろう。


「イチヤくん」


 突然、ツヴァイエル卿に名前を呼ばれた。びくっと振り返ると、彼は手紙を片手にゆっくり歩いてききた。


「信じてもらえないかもしれないけれど、君に協力したいというのは本音だよ。まあ、失った信頼は取り戻すしかないか」


 すっと伸びた高い身長で、俺を見下ろす。


「セレーネについて続けよう。君も知りたいでしょ?」


 セレーネの名前が出てきて、俺の体は自然と強ばった。ツヴァイエル卿の指の間で、手紙をひらっと揺れる。


「そもそも最初は、セレーネを拉致する案はなかったんだ。セレーネを何度か議会に招いて、月の都の天文台を止めるよう説得したんだけど、彼女は首を縦には振らなかった」


 彼は包み隠さず事情を暴露してきた。


「そこで議会は、セレーネを天文台から強制的に引き剥がす手段を取った。セレーネを罪人に仕立てあげて投獄するとか、処刑するとか、酷い案も上がったよ。でも議長は、なるべく穏やかに事を進めるよう望んだ」


「それが、本人の意思を無視して拉致することだったんですか」


「そう。突然行方不明になって、そのまま帰ってこない。天文台の管理者不在で、月の都はずるずる衰退……というのが議会の筋書きだったんだ」


 ここ数日の月の都は、まさに月の雫が足りなくなってきていた。大地の国の筋書きどおりに躍らされていたのだ。


「セレーネにはしばらく地下牢に入ってもらって、出してあげる条件として月の都の天文台停止を再度交渉するつもりだった。しかしそうする前に、セレーネは地下牢から消えたんだよ」


 ツヴァイエル卿が眉を寄せた。


「このまま彼女を放っておけば、セレーネは月の都に戻るだけでなく、王国議会から受けた仕打ちを民衆にバラして逆襲するかもしれない。だから、議会としてはなんとしてでもセレーネの居場所を突き止めたいんだ。そんなときに月影読みの代理なんて現れたものだから、議会はパニックさ」


 夜の闇がツヴァイエル卿の背中を包んでいる。息を呑んで聞く俺に、彼はあっさりと話した。


「セレーネを逃がした被疑者として挙がったのが、赤い首輪」


「赤い首輪……セレーネを拉致した人攫いですよね。どうして拉致してきた人が、今度は逃がすんですか?」


 俺は声の震えを押し殺して、訊ねた。ツヴァイエル卿が真面目な顔で頷く。


「理由はまだ憶測だけれどね……。議会の他に、月影読みを奴隷として買い取る者が現れたんじゃなかろうかと。現に、報酬のやりとりをしたあと、赤い首輪と連絡がつかなくなってる」


 なるほど、議会の指示どおりにセレーネを拉致してきて、議会から報酬を受け取ったあとに今度はセレーネを別の買い手へ売る。そうすることで新しい買い手からも報酬が出て、報酬の二重取りができる。


 淡々と説明される内容に、俺の心拍はより速くなっていく。

 俺の頭の中に、グルーダの顔が浮かんだ。彼はまさに赤い首輪を探っていた。議会は兵士を遣わして、赤い首輪を血眼になって捜していたのだ。

 それも、赤い首輪がセレーネを拉致したからではなく、セレーネを「逃したから」。


 ツヴァイエル卿は顎に手紙を添えて唸った。


「奴隷にされようとなんだろうと、月影読みは大賢者だ。かなり頭が切れるから、そのうち月の都に戻ることは充分ありうる。いい加減セレーネ本人を指名手配しちゃえばいいのにね。議会ではすでに、二度とこんなことが起こらないよう、発見次第殺してしまえという意見が多数出はじめてるよ」


 フレンドリーに話しかけてくるツヴァイエル卿に、俺は身震いした。


「……随分とよく喋りますね」


 どうしてこの人は、こんなにあっさり手の内を見せるのだろう。


「あなたの話は、どこまで本当か分かりません」


「あっ、疑ってる」


 ツヴァイエル卿が苦笑を浮かべる。俺はその柔和な態度に対し、キッと睨みをきかせた。


「当たり前じゃないですか。ずっと俺を手のひらで転がしてたんですよね? 暗殺の容疑をかけたのも……あなたなんですか?」


「暗殺容疑の件は違うよ。僕ならこんな大ごとにしないで、上手く誘い出す。何度も言うけど、僕は本気で君に協力したい。情報は共有するのも、僕なりの誠意だ」


 ツヴァイエル卿がサリアさんの手紙をきれいに折りたたみ、自身の胸ポケットに差し込む。


「王国議会の意向としては、月影読みの代理は処分する方針だった。カツラギ家なんて誰も聞いたことがなかったから、セレーネほど重要視されてないんだ。でも僕個人としては、セレーネ以上にイチヤくんと和解したかったんだ」


「和解……ですか?」


 たじろぐ俺を見下ろし、ツヴァイエル卿はにこにこと小首を傾げた。


「だってかわいそうなんだもん。まだこんなに若いのに、記憶喪失で自分のことすら分からないのに、大役を押し付けられた上に処刑だよ?」


 同情にも、嘲笑にも聞こえる。


「結果として後出しになってしまったのは、本当にごめんね。だけど僕は心から、君に力を貸したい。だから、取引をしよう」


 息が詰まりそうだ。窓の向こうに浮かぶ月が、その輪郭をぼんやりとくすませている。

 ツヴァイエル卿はぽんと、俺の肩に手を置いた。


「僕のところで働かない? もちろん役員待遇で!」


 つうっと、額から汗が流れた。

 肩に乗せられたツヴァイエル卿の手は、大きくて温かい。


「月影読み関係の経歴を全て捨てて、全部なかったことにするんだ。そうすれば僕は君を王国議会から守ってあげれられる」


 彼の柔らかな声が鼓膜を擽る。言葉が甘ければ甘いほど、疑ってしまう。

 なにか裏があるに違いない。しかし、たしかに俺はツヴァイエル卿の元にいれば安全だし、ツヴァイエル卿も、裏稼業を知ってしまった俺を、自身の目の届くところに置いておきたいはずだ。もしもツヴァイエル卿が約束を破れば、俺に報復される。彼ならそこまで考えているはずだ。


 逆に断ったらどうなるか。ツヴァイエル卿は、つるむと飛び火すると判断したルミナにあっさりと見切りをつける人だ。ツヴァイエル商会の持つ奴隷商の側面を知る俺を、野放しにするわけがない。

 今の状況を鑑みれば、このまま月影読みの代理として、王国議会の地下牢に放り込まれることだろう。そのときはもちろん、クオンとシオンも道連れだ。


「悪い話じゃないよね」


 ツヴァイエル卿は微笑んで、肩から手を離した。そしてその手を俺の前に差しのべ、握手を求める。

 優しげな声なのに引きずり込むような恐ろしさがある。ツヴァイエル卿の提案を断れば、俺も、双子もそれまでだ。


 結論は、決まっている。


 ツヴァイエル卿の方へ、自分の手を伸ばした。満足げに俺を見下ろす彼の手が、この手を迎えようとする。


 俺の手はツヴァイエル卿の手を通り過ぎ、彼の胸ポケットから、サリアさんの手紙を抜き取った。


「これ、返してもらいます」


 そう言った俺の目が反抗的だったのだろう。ツヴァイエル卿は少し、残念そうに目を細めた。俺は手紙を、自分のポケットに突っ込んだ。


「俺がツヴァイエル卿についた場合、セレーネはどうなるんですか? セレーネがいなくなって、代理の俺もいなくなった月の都はどうなるんです?」


 そもそも俺の最大の目的は、セレーネを見つけ出して、失った記憶を取り戻すヒントを得ることだ。セレーネなくして、月の都の天文台なくして、合意できるはずがない。


「俺とあなただけが助かっても意味ないんですよ。よって、そのご提案には乗れません」

 

 強気に言い切って、顔を上げる。


「そういうことですから、今日はお暇させていただきます。お部屋を貸してくださり、セレーネの情報も提供してくださって、ありがとうございました」


 そしてツヴァイエル卿の目を見るなり、ひゅっと血の気が引いた。


 ぞっとするような無表情だ。これまで絶えることなく携えていた微笑みが、一切残っていない。夜空の窓を背に、氷のような冷たい瞳の男が、机に寄りかかっているのだ。

 しかし次の瞬間には、彼は元の朗らかさを取り戻していた。


「残念だなあ。一緒に働きたかったよ」


 この人は多分、微笑が表情筋に癖づいている。優しい表情に胡散臭さは全くない。一瞬の無表情は見間違いだったのか、と疑ってしまうほどだ。


「僕は君たちを救いたかったのに。ご一緒できないとなると、君もクオンちゃんとシオンちゃんも、セレーネを殺したことになっちゃうよ?」


 彼の別人のような真顔にたじろぎ、俺は一歩、後退りする。


「セレーネが出てきてくれれば、そんな疑いはすぐに晴れます」


「どこかで死んでたらどうするの。仮に生きてたとしても、議会が先に見つけるよ。そのときは確実に、セレーネは殺される」


「絶対にこっちが先に見つけます」


「僕がこの場で君を縛り上げて、奴隷船に乗せて遠くの国へ売り飛ばすかもしれないのに?」


 ツヴァイエル卿がゆっくりと詰め寄ってきた。俺はびくっと飛び退く。彼は、あははと軽やかな笑い声を立てる。


「冗談だよ。その前に君は月影読みを殺した設定なんだから、間違いなく死刑だもの。かわいそうだけれど、双子ちゃんも」


 俺はずる、とまた一歩、後ろへ下がった。ツヴァイエル卿と手を組むつもりは毛頭ない。だけれど今を切り抜ける方法は、なにも考えていない。俺は今、この人のフィールドにいるのだ。建物は彼のものだし、使用人は全て彼の味方。走って逃げたところで、すぐに取り押さえられる。

 せめてクオンとシオンだけでも、どうにか逃がす方法はないか。


 焦りが頭を掻き乱す。考えろ考えろと思うほど、焦燥が募っていく。

 背後から声がしたのは、そんなときだった。


「イチヤくん! 助けてー!」


 開け放たれていた扉の向こうから、甲高い声がする。見ると、クオンとシオンが飛び込んでくるではないか。

 ふたりともなぜか、全身に泥水を被っている。きれいに磨かれていた床も、廊下の壁も、飛び散った泥で汚れている。


「は!? なに、どういう状況!?」


「花園で遊んでたら、なんか怖いおばさんが来た!」


 クオンが叫び、シオンが俺にしがみつく。


「いきなり泥水かけられて、使用人を使って追い回すの。舌を切るっていうの!」


「舌を……!?」


 なにがなんだか、訳が分からない。ただただ困惑する俺の背後で、ツヴァイエル卿が笑った。


「あらら、妻に見つかっちゃったの? あーあ、上手くやり過ごそうと思ったのにな」


 それを聞いて、俺は卿を振り返った。彼は困り顔で笑っている。


「花園は大切な場所だから、そこに獣が入ったなんて知ったら、激怒するだろうね」


『妻は月の民が苦手でね』――ツヴァイエル卿の、その言葉を思い出す。苦手なんて生温いものではない。害虫のごとく毛嫌いしているではないか。


 俺は頭にあった混乱を全て放棄し、クオンとシオンの手を引いて、全速力で書斎を飛び出した。

 俺と双子に向けて、ツヴァイエル卿が呆れ声を投げてくる。


「無駄だよ、大人しくしなよ」


 廊下には使用人が四、五人、姿を見せた。廊下の途中で揉めている。


「無礼を働いたとはいえ、ご主人様の客人だぞ。いくら奥様のご命令でも殺すわけには……」


「しかし奥様に逆らえば、私もどんな目に遭うか!」


 花園の件で彼らも大混乱のようだ。主人であるツヴァイエル卿に相談しに来たらしく、書斎に向かっていたようだ。

 俺は彼らの懐に突っ込んで、突っ切って、廊下を突進した。自分に貸されていた部屋の扉を開けて、中へと転がり込む。

 シオンが不安げに俺の腕を掴む。


「籠城してもだめだと思う」


「そうだよね、このままここにいても仕方ないよ」


 クオンは部屋の奥の出窓に歩み寄り、意を決したように思い切り窓を押し開けた。両開きの窓が全開になると、外からひんやりした風が吹き込んでくる。俺はえっと息を呑んだ。


「クオン!? まさか飛び降りる気か?」


 窓の桟に足を乗せたクオンを見て、シオンが慌てて彼女の腰にしがみついた。


「危ないよ! ここ、二階だよ!?」


「でもここから逃げないと捕まっちゃうよ! ツヴァイエル卿の奥さん、本気で怒ってた!」


 クオンの言い分も分かるが、あまりにも無謀だ。シオンがクオンの腰を引っ張る。


「だめだって! ツヴァイエル卿に相談した方がいいよ」


「いや、その人も頼っちゃだめ」


 事情を聞いていないふたりは、ツヴァイエル卿がなにをしたのか知らない。

 やがて揉み合いをしているうちに、ふたりはバランスを崩した。ふたりの少女の足が浮き、頭から真っ逆さまに窓の向こうへと落ちていく。俺は咄嗟に手を伸ばしたが、間に合わなかった。


「クオン、シオン!」


 俺は窓の下に身を乗り出した。二階とはいえ、一階の天井の高さを鑑みるとかなりの高さがある。頭から落ちたら、少なくとも大怪我は免れない。

 しかし下を覗いた俺は、ハッと短く息を呑んだ。

 真下に花園が広がっている。ツヴァイエル卿の奥さんが育てたという、青い花だ。暗くなった庭に絨毯を敷くように、低い樹木が広範囲に植えられていた。

 クオンとシオンは、その花の上に団子状で寝そべっていた。

 短い枝がシオンのスカートに絡んで、裾が引き上げられて中のドロワーズが丸見えになっている。クオンの靴も数メートル向こうに吹き飛んでいた。

 だが、ふたりともその場ですぐに顔を上げた。


「いててて。シオン、大丈夫?」


「ちょっと擦りむいただけ。クオンは? あっ、服が破けてるよ」


「シオンもだよ」


 会話が聞こえてきて、俺は大きく安堵のため息をついた。あまりにもほっとして、窓の桟に腕を垂らして突っ伏す。そういえば月の民は、身体能力の高さが獣のそれなのだった。猫が高いところから落ちてもすぐに受け身を取れるようなもので、この子たちも身軽なのである。

 しかし安心したのも束の間、背後でバンッと扉が開いた。使用人の若い男性が飛び込んでくる。ツヴァイエル卿からなにか聞いたのだろう、俺の襟首に手を伸ばしてきた。


 もう他に道はない。俺は窓枠に手を突き、桟に上り、空を見上げた。雲の多い空に星が霞んでいる。針金みたいな細い月が、薄べったい雲の影に隠れたり顔を出したりを繰り返す。

 俺は腹を決めて目を瞑り、窓辺から飛んだ。


 一瞬全てがスローモーションに感じたが、直後には全身に突き刺さるような痛みが走った。葉っぱがピッと頬を切り、枝の刺さった脚に血が滲む。


「痛……」


 枝から体を擡げて、顔を上げる。と、目の前にはちみつ色のロングヘアを垂らした、ドレス姿の女性が立っていた。

 淡いブルーのドレスは華やか且つ品があり、美しいのに、その立ち姿には氷のような冷たさがあった。


 彼女に気づいた双子たちが、ギャーッと悲鳴を上げた。


「出たー! 怖いおばさん!」


「イチヤくん、この人! 私たち花園で隠れんぼしてただけなのに、この人が怒るの!」


 ああ、このドレスは。俺は出かける前に中庭に見た、はちみつ色の髪を思い出した。この人はあの時点ですでに、出先から帰ってきていたのだ。

 この人が、ツヴァイエル卿の奥さんだ。


 夫人の涼しげなエメラルドグリーンの瞳が、俺を見つめている。ぞくっとして体が強張った。


 しかし彼女は、長い睫毛を伏せて、にっこり微笑んだ。


「こんばんは」


 俺に柔らかな声で語りかける。


「ご挨拶が遅れて失礼しましたわ。イチヤさんでしたわね。あなたのことは主人から聞いております」


 そして彼女はドレスの腰から下辺りを摘み、小さく持ち上げ、品のいいお辞儀をした。

 本来ならば自分も挨拶をすべきところだが、それどころではない。叫ぶクオンとシオン、窓から落ちてきた俺に対して、それを意に介さない態度の、夫人。

 異様な光景を前にして、俺は声すら出せなかった。夫人は青ざめる俺を見て、自身の白い頬に指を添えた。


「汚い獣を家に上げたなんて……全く、主人ときたら」


 ツヴァイエル卿本人は月の民を庇って、月の民からも厚い信頼を寄せられていたようだったが、その妻はこうなのか。

 ツヴァイエル卿の月の民への優しさも、ビジネス上の態度だったのだと思い知る。


「イチヤくん走れる?」


 クオンの声で目を上げると、傷だらけになった双子がこちらに手を差し伸べていた。ふたりとも顔や手に小さな擦り傷ができ、スカートの裾は枝に割かれて引きちぎれている。

 クオンが俺の右手を、シオンが左手を取った。ふたりに手を引かれ、花の木から降ろされる。


 俺は夫人に挨拶のひとつもせずに、その場から走り出した。クオンの靴を拾って花園を抜ける。少し先には、俺が街で受け取った号外が風に舞っていた。自分と双子が殺人者として取り上げられたその記事が、汚れて破けて地を這っている。

 俺は血が垂れた脚を奮い立て、クオンとシオンとともに邸宅の門を飛び出した。

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