Ⅹ.ウィルヘルム
王都
「見て見て見て! シオン、こっち来て。ウィルヘルムが見えるよ」
「しっ。クオン、喋ると見つかっちゃう」
ガタゴト揺れる荷馬車の中。俺はクオンとシオンの声で目を覚ました。
「ウィルヘルム……?」
暗い荷台の中に、糸のような光の筋が差し込んでいる。幌に綻びがあるのだろう。
「あっ、イチヤくんが起きちゃった。ちょうどいいや、もうすぐ着くよ」
クオンは積み上がった荷物の上に登って、幌の綻びから外を眺めていた。
数時間前。半分寝ているクオンは月の雫をひと口飲み、眠ったままのシオンの口にも数滴の月の雫を垂らした。するとものの十分程度で、ふたりは完全に目を覚ました。月の雫の即効性に驚かされた。
その後少し休憩しようかと提案したのだが、ボスから聞いていた無人小屋の話をした途端、クオンとシオンは先に進みたいと大騒ぎした。行商人が休みに来る場所ならば、夜中のうちに行けば荷馬車が無防備に停められている可能性が高い。だから今のうちに忍び込むべきだという理屈だ。
夜中に山歩きは不安だったが、カンテラがあるのが幸いだった。しかもすぐそこを川が流れていたので、この川に沿って下っていくと、三十分ほどで山の麓へと下り立ったのだった。
ボスの言っていたとおり、粗末な掘っ建て小屋を見つけたのがさらにその数分後。雨風を凌ぐ程度のボロ屋である。厩舎も併設されており、馬車で来た行商人が馬と荷物を置いておける。
行商人が宿泊しているようで、馬が二頭と荷台が一台、停まっていた。俺たちはその荷台に忍び込み、荷物の中に体を隠した。そのまま眠りこけて、今に至る。馬車の主である行商人は、俺たちに気づかずに街へと運んでくれているのだ。
「ウィルヘルム行きの馬車だったのはラッキーだったね」
クオンが小さな綻びに張り付いて外の景色を楽しんでいる。
「ほらほら、イチヤくんも見て」
クオンに呼ばれて、俺は積み込まれた木箱をよじ登った。狭いところに無理やり収まっていたせいで、体の節々が痛む。関節をミシミシいわせながら木箱を登り、クオンが覗いていた穴に、目を近づけた。
思わず、わあ、と口から感嘆が洩れ出した。
一キロ程先に、サンドグレーの城壁に深い緑色の屋根の、巨大な城が見える。そしてその城の色に統一された街並みがあり、周囲は深い水路で囲まれている。水路の上に可動式の橋が架けられているのまで見えた。
「あれがウィルヘルムか。大都会だな」
「私も初めて見た。お城があるから、間違いないよ」
クオンが興奮気味に目を輝かせる。下にいるシオンがぽつりと言った。
「しかもこの荷物、ツヴァイエル商会行きだよ」
シオンの言うとおり、箱の側面にツヴァイエル商会の名前が刻まれている。文字が読めない俺に代わって、クオンとシオンが気づいた。
クオンが無邪気に尻尾を振っている。
「このままツヴァイエル卿のところにお届け! してほしいなあ」
そうこうしているうちに、馬車が橋に差し掛かった。車輪がカラカラと小気味のいい音を立てる。橋の都市側の袂には、兵士が二名、門番として構えていた。
「そろそろ隠れようか」
俺らクオンを小脇に抱え、荷物の山から下りた。木箱を開けて、比較的中身の少ない箱を探す。クオンとシオンがそれぞれ入るだけの隙間がある箱を見つけ、ふたりに入ってもらい、俺も別の箱の中に潜り込んだ。かなり狭いが、あと少しの我慢だ。
馬車が停止した。馬を御していた行商人が、兵士と会話しているのが聞こえる。通行証のやりとりを終え、馬車は再び走り出した。
街の人々の賑わいが聞こえる。クオンとシオンは静かにしている。俺も息を潜めて、馬車の揺れに耐えた。
やがて、また馬車が停まった。
「モレノの鋳造所より、輸送馬車用部品をお持ちしました」
「入れ」
聞こえてきた対話から、ツヴァイエル商会の社内に入ったようだと分かる。いよいよ、タイミングをはかってここから出なくてはならない。
複数の人の声と足音がする。荷台の中に入ってくる作業者の気配に、俺は背嚢を抱きしめて、息を止めた。
ほんの少し木箱の蓋を押し上げて、外の様子を窺った。下働きらしき人たちが、数人で箱を降ろしている。人が近づいてくる前に、木箱の蓋を閉めて、運び出されるのを待つ。
「うっ、重た」
作業員が呻いている。クオン入りかシオン入りを持ち上げてしまったのだろう。ふたりは尚も静かにしている。箱が乱暴に扱われないことを祈る。
やがて俺の箱も、持ち上げられた。人ひとり分の重さに作業員は悲鳴を上げ、ふたりで持ち上げている。なんだか申し訳ない。
ぐらぐら揺れる箱が、やや乱暴に地面に着地した。俺はまた木箱の蓋を数センチだけ上げて、目を覗かせる。
足元に広がる淡いグレーの石畳、周囲を取り囲む白い壁。そこは巨大な施設の中の中庭のような場所で、俺が降りたもの以外にも、馬車がいくつも並んでいた。降ろした荷物を何人もの作業員が運び出し、中身をチェックしたり、リヤカーに載せて別の場所へと運搬したりと、忙しない景色が目まぐるしく動き回っている。
馬車を上手く降りることに成功した。あとはこの木箱から抜け出して、現場から立ち去る。
作業員がこちらを見ていないのを確認して、そっと箱を開ける。外に這い出て、隣の箱を開け、クオンとシオンを捜す。箱はいくつもあるが、ふたりが入っていたのと同じ大きさの箱は、十個程度だ。
慎重に開けて捜していると、後ろから声をかけられた。
「おい、中身のチェックは、奥の箱からだぞ」
びくっと飛び上がりそうになった。そしてそれと同時に、俺が開けた箱からシオンの顔が覗いた。
声をかけてきた作業員は、シオンと目が合って、唖然とした。
「は……? 荷物の中に子供が……?」
咄嗟の言い訳がなにも出てこなかった。折角上手く降りられたと思ったのに、こんなところでバレるとは。そして作業員は、俺にも怪訝な顔をした。
「お前も作業員じゃないな? どこの小僧だ」
「やっべ……」
瞬時に、脳内で最悪のシナリオが構築されはじめる。怪しい侵入者として捕まり、調べ上げられ、月の都の天文台から来たことまで明らかにされたら。月影読みを暗殺したと決めつけられてしまったら。
ここで捕まったら、全部が終わる。折角ここまで乗り越えてきたというのに。
「なにしてるの、イチヤくん!」
大人しくしていてくれればいいのに、クオンが木箱から顔を出した。
現場は騒然となり、周りの労働者らが手を止めて集まってくる。中には責任者クラスらしき人物も数人おり、彼らは威圧的な態度で俺に詰め寄ってきた。
「どこから紛れ込んだんだ! 警備部に突き出せ」
「抵抗するようなら縛りつけろ」
「いや、あの、その……」
俺は目を白黒させた。言い逃れのしようがない。焦りで頭が回らない。だが無心で逃走しようにも隙間なく包囲されている。
と、そこへ、まったりとした声が届いてきた。
「なになになに、お仕事止めて、なんの騒ぎかな」
のほほんとしたその声が聞こえた途端、ざわざわしていた現場はひと際大きくざわついた。
「卿!」
「卿だ、道を開けろ」
人々がはけて、そこにその男が姿を現す。青みのかかった黒髪の、背の高い男だ。俺が固まっているのを見て、彼も目を丸くする。
「イチヤくんじゃないか」
「ツヴァイエル卿……」
何度も顔を合わせている、ツヴァイエル卿だ。彼はこの騒然とした現場にきょとんとしながらも、当たりを見渡し、そしてにこっと微笑んだ。
「ごめんごめん、皆。イチヤくんは僕が招待した臨時支援の労働者だよ。双子ちゃんも僕が呼んだ。見ない顔だったから驚いたよね。でも彼は侵入者じゃない」
ツヴァイエル卿は一歩踏み出し、責任者らを一瞥した。
「僕の大切な客人だ。丁重に扱ってくれないか」
まさに、鶴のひと声だった。それまで散々怒鳴り散らしていた責任者らは揃って頭を下げ、俺を押さえていた労働者はぱっと手を離した。
「失礼しました!」
ツヴァイエル卿は相変わらずにこにこと目尻を下げて、周囲に合図を送った。
「さあ、仕事に戻って。手を休めている暇はないはずだよ」
そのひと言で、労働者も責任者も、ざっと敬礼して蜘蛛の子を散らすように作業に戻っていった。
俺は呆然と、背嚢を抱きかかえていた。ぽかんとするクオンと耳を下げているシオンが、脇に張り付いてくる。
ツヴァイエル卿は周囲の労働者を満足そうに見渡してから、俺ににっこり微笑みかけた。
「さて。ようこそ、侵入者くん」
俺にしか聞こえないくらいの、囁き声だ。俺はしばし魂が抜けたように固まっていたが、腰から深く頭を下げた。
*
それから俺たちは、ツヴァイエル卿の住む屋敷へと案内された。
「先程は本当にありがとうございました」
俺は応接間のソファで、再び深々と頭を垂れた。卿は張っていた糸が切れたみたいに笑い転げていた。
「いやあ、こんなの初めてだよ! 来るなら先に手紙を出してくれればよかったのに。なにも荷馬車に忍び込んで侵入しなくても」
「すみません……」
座り心地のいい高価そうなソファは、俺には不相応だった。山で汚れたり野生生物に襲われたりしてみすぼらしくなっている自分は、この豪邸に立ち入ることすら恐れ入る。
馬車で連れられてきた彼の自宅は、城と見間違うような豪邸だった。広い庭を抜けて応接間へと通されるまでに、何人もの使用人とすれ違った。建物の中は天井が高く、家具や照明などあらゆるものがいかにも一級品といった質のよさが窺える。しかし主張の強い仰々しいものではなく、シンプルで品がよく、ツヴァイエル卿の落ち着いた性格を投影しているようだ。
その圧巻の佇まいに、高揚していたクオンでさえ緊張して静かになっている。俺に並んでソファに乗るクオンとシオンは、両手を膝の上で重ねて、背筋を伸ばせるだけ伸ばし、置物みたいに固まっていた。
使用人の女性が、お茶を運んできた。卿は使用人にありがとうとひと言添えて、ティーカップを口元へ持ち上げた。
「でも、そうだよね。君たちは月影読み殺しの容疑がかかってる。門を突破するにはそれしかないか」
お腹を抱えて笑っていた彼の瞳が、変わらない微笑みを浮かべつつも真剣な色に変わった。俺は膝に拳を置き、ひとつ呼吸を置く。
「事情は、ご存知ですよね」
「もちろん。僕も議会に出席しているからね。疑惑が浮上したと思ったらそのまま勝手に決めつけられて、反対意見は耳を塞がれる。酷いものだったよ」
ツヴァイエル卿は心配そうに声のトーンを落とした。
俺は月の都から、この人を訪ねてここまでやってきた。この人に助けを求めるために、命からがら困難を乗り越えてきたのだ。胸の中に収め続けてきた苦しみを、ようやく吐き出せる。
卿はひと口お茶を啜って、受け皿にカップを戻した。
「無意味な質問だと承知の上で訊ねよう。話題になってる月影読みセレーネの件は……」
「もちろん、暗殺なんかしていません」
俺はきっぱりと、ツヴァイエル卿の目を見て断言した。
「月影読みの地位を手に入れるために、現役月影読みのセレーネを暗殺した……なんて言われてるみたいですが、そんな事実は一切ありません。クオンとシオンは本気でセレーネを慕っていて、彼女の失踪を悲しんでいます。俺は俺で、代打に入ったはいいけど天文台の望遠鏡を上手く操作できなくて困ってます。俺たちは、誰よりもセレーネの帰還を願っています」
ちらりと、横に並ぶクオンとシオンに目をやる。ふたりともこくんと、大きく頷いた。
ツヴァイエル卿は俺たちをそれぞれ眺め、微笑んだ。
「僕もそう信じていたよ。僕のところへ逃げてきてくれてよかった」
心強い言葉を貰えて、俺はほっと安堵した。
「ツヴァイエル卿に申し訳ないとは思いました。だけど他に頼れる人がいなくて……」
「そんなことないよ。力になりたいと、常々思っていた」
やはりこの人を頼ってよかった。クオンとシオンも緊張を緩めて、安心した顔で俺の顔を見上げている。
ツヴァイエル卿は前屈みになり、両手の指を組んだ。
「ちょうど昨日、月影読み暗殺の件が新聞で取り上げられていた」
「そうなんですか?」
「といっても、昨日の時点では名前も人相書きも載っていないよ。行方不明のセレーネは暗殺されたんじゃないかって、議会の関係者が洩らしたという程度の話だ」
ツヴァイエル卿は、言葉を選ぶようにゆっくりと話した。
「だけど、議会の中で君たちを容疑者として固めたのは二日前だ。今日にはもう容疑者の名前入りで、新聞の印刷が済む頃かな」
それを聞いて、黙っていたクオンが口を開いた。
「酷い。それじゃ外を歩けなくなっちゃう」
「そうだね。だけど大丈夫、僕が匿う」
ツヴァイエル卿が堂々と言い切る。なんて頼りになる人だろうか。彼は真剣な顔で続けた。
「ただし、絶対に目立つ真似はしないでくれ。僕は君たちを信頼するけど、社会的には君たちは容疑者だ。それを匿ってると知られたら、僕も君たちを守れる立場でいられなくなってしまう」
「もちろんです。なるべくご迷惑をおかけしないように、注意して過ごします」
誓いを立てて、俺はひとつ深めに呼吸をした。それから改めてツヴァイエル卿の目を見て、切り出す。
「あの……セレーネの件は、王国議会ではどれくらい捜査が進んでるんですか?」
頭の中で、フレイやグルーダが話していた、あの名前が蘇る。
「拉致されたんですよね。赤い首輪とかいう……」
俺がその名を口にすると、ツヴァイエル卿はしばし、沈黙した。そして再び、小さく口を開く。
「そうだね……それに関しては、話せば長くなる。あとでゆっくり説明しよう」
それからお茶を啜り、彼はにこっと優しく微笑んだ。
「それよりも、心身ともにお疲れだろう。部屋を用意するから、休んでくれ」
「こちらこそ、いきなり押しかけてすみませんでした。お言葉に甘えさせていただきます」
俺は何度も何度も、ツヴァイエル卿に感謝を繰り返した。卿はカップを置くと、ソファを立ち上がった。
*
ツヴァイエル邸の二階には、来客を宿泊させる部屋が十部屋ほどあるという。俺たちにはその個室をひと部屋ずつ、贅沢に与えられた。使用人に部屋へと案内される。ツヴァイエル卿自身も、同行してくれた。
クオンとシオンにそれぞれ一室ずつ与えられ、ふたりが部屋へ入る。残された俺に、ツヴァイエル卿はこそっと耳打ちした。
「後程、妻を紹介するよ。今は出かけているが、夜までには戻るから」
「奥さん! はい、ご挨拶します」
「でもそのときは、イチヤくんだけで。妻の前では、クオンちゃんとシオンちゃんはいないことにしてほしい」
思いがけない条件に、俺はきょとんとした。彼は苦笑して続ける。
「妻は月の民が苦手でね……。今時、考え方が古いと思うのだけれど、どうも受け付けないみたいなんだ。だから妻に対しては、客人はイチヤくんだけって設定にしたい」
かつて見てきた、大地の民から月の民へ与えられる仕打ちを思い起こす。街の中で理不尽に怒鳴られたり、獣と罵られたり。あれだけ差別が根付いているのだ。貴族の奥様にとっては、月の民は気分のいいものではないのかもしれない。
俺はぺこりと頭を下げた。
「すみません、知らずに連れてきてしまって……」
「ううん、君は悪くないよ。クオンちゃんとシオンちゃんも悪くない。上手くやり過ごそうね」
いたずらっぽく笑うツヴァイエル卿を見ていると、包み込まれるような安心感がある。俺は、彼に身を委ねる思いで、はいと頷いた。
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