鳥肉

 俺は未だに、あの瞬間の余韻から抜けられなかった。ひと筋の流れ星のようだったボスの、美しい立ち回り。滑らかで、無駄がなくて、迷いもない。強い信念のようなものが伝わってきて、俺はそれを美しいと感じた。


「おいおい、大丈夫か飴ちゃん。腰抜かしちゃった?」


 ボスがこちらに戻ってくる。まだ立てない俺に、彼女は帰り血塗れの手を差し伸べてきた。


「私の生脚に魅了されたか? ジャムもパッチもそうなんだよ。太腿ばっかり見やがって」


 ボスは冗談をかましてニヤリとする。

 彼女に手を引いてもらって腰を上げる。至近距離で並んで立つと、ボスの背丈を僅かに抜いてしまう。改めて、ボスが意外と小柄な女性であると思い出す。握った彼女の手は、巨大な鳥を仕留めたとは思えないほど、細くて柔らかな手だった。


 ふいに、周囲がほわっと明るくなった。洞穴のカーテンが捲られ、中からカンテラを持ったパッチとモジャが出てきたのだ。パッチは背中に荷物を背負い、モジャはノコギリみたいな刃物を携えている。


「折角仕留めたけど、でかすぎて一部しか持っていけねえぞ」


 肉を削ぎ落とそうと、モジャが鳥の周りを彷徨く。ボスは顔に飛び散った鳥の体液を、腕で無造作に拭った。


「えー。じゃあモモ肉をメインに戴こう。余裕があったら手羽も。もっと持てればムネも、ササミも」


「欲張りだなあ」


 モジャは苦笑いして、鳥のモモにノコギリを当てた。

 パッチについてぞろぞろと、洞穴から人が出てくる。それぞれの持つカンテラのおかげで、周囲がほわほわと明るくなっていく。皆それぞれ、この場所を後にするため荷物を抱えていた。


 パッチがこちらに歩いてきて、ボスの背中にバサッと毛皮を引っ掛ける。獣の頭を被ったボスは、その厳ついフードの中で朗らかに笑った。


「おお、ありがと」


「これも持ってください」


 パッチがボスの手にカンテラを持たせる。灯火が揺らめき、パッチの背後に光が当たった。そこで俺は、パッチについてきているマイトに気づいた。


「イチヤさん。俺、決めました。ボスについていこうと思います」


 マイトの声は真剣だった。


「旅に同行させてもらって、自分が入りたいと思える劇団を探す旅をしようと思います。仲間の中にルミナを下ろされた人もいて、同じ夢を語って。それで、心を決めました」


 相変わらず、よく言えば前向き、悪く言えば夢見がちな動機だ。マイトは首だけ、鳥の方に向けた。


「こういう大きい生き物に襲われるのは、怖くもあります。全部自己責任だし、覚悟以上の苦労もあるでしょう。それでも俺は、この人たちと前に進みたい」


 ちゃんと彼なりに考えたのだろう。腹を決めたマイトの声は、芯がしっかりしていてブレがなかった。

 マイトは歌うのが得意だと話していた。ルミナ以外にも、夢を叶えられる場所はあるはずだ。きっといつか、報われる。

 ボスがマイトの頭を引っ掴むように、ぐりぐり撫でた。


「いい心意気だ。私が鍛えてやるよ。早速だがモジャの手伝いを頼む。肉を削ぎ取って保管袋に詰めて運べ」


「はい!」


 元気よく敬礼して、マイトはモジャの元へ駆け出した。パッチがマイトを横目に一瞥して、今度は俺の方を向く。


「あんたも来るのか? 言っておくが俺らは皆、自己責任故に自己中心的でらめちゃくちゃ理不尽だ。特にボスの人間性は、そこらの獣以上に危険だ」


「パッチ。ごちゃごちゃ言ってないで周囲の警戒に当たれ」


「気分を害すとすぐこれですよ」


 不服を洩らしながら、パッチが去っていく。俺はまた、ボスとふたりで残された。カンテラに照らされたボスの頬が、オレンジ色に染まって見える。


 パッチの質問を、頭の中で反芻する。俺も彼らと行くのか。それを決めるにも、クオンとシオンと話し合って決めたいところだが……。

 考えていると、ボスが言った。


「飴ちゃんはついてくるな。あんたには、ここにいる資格はない」


「え? え!?」


 先程まではついてくるかどうか、俺に選択を委ねていたくせに、ボスは今度は、あっさりと俺を切り捨てた。

 急な意地悪かと思いきや、ボスはニーッと笑って俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。


「あんたはウィルヘルムに行くんでしょ。そこに頼れる人もいるって言った。信頼できる人がいて、安全な道がある奴は、こんなならず者集団に混ざっちゃだめだ」


 鳥に襲われる直前のやりとりを、ボスはきちんと覚えていた。その上で、この集団は俺のいる場所ではないと、彼女の中で決まったのだ。

 ボスがわざとらしくニヤリとする。


「まあ、そんなに私の生脚が好きで、どうしてもついてきたいって言うなら、仲間に入れてやってもいいけど」


「生脚引っ張りすぎだし、俺からは一度も言ってないからな、それ」


「ははは。冗談はさておき、ウィルヘルムならすぐに行ける。私らについてくるより、ずっと危険が少ないよ」


 ボスは毛皮のフードの中で、ウィルヘルムの方角に目を向けた。


「この森の東に出るとすぐのところに、無人小屋があってね。商業都市のカランコエとウィルヘルムの間を行き来する行商人のための、寝床とキッチンだけある簡素な宿だ」


 そして人差し指を立て、にんまりする。


「そこで行商人を待つといい。荷馬車が停まったら、その荷物の中に紛れ込むんだ。上手く行けばそのまま、街は侵入できるぞ」


「そうなのか。教えてくれてありがとう」


 ボスが俺を連れて行かないのは、ウィルヘルムが案外近いというのがメインの理由かもしれない。


「さて、私らはこっからどうすっかな。とりあえずモレノでも目指すか。モジャの恋人がいるとかいないとか聞いてんだ」


 ボスがどこかしらの地名を口にする。俺は揺らめくカンテラの灯火を眺めていた。


「ここにいる人たちは、居場所を探して旅をしてるんだよな」


「そうだよ」


「ボス自身も、居場所を探してるの?」


 常々疑問に思っていた。こんな危なっかしい旅を続ける彼女の、本当の目的。ボスはフードの中で視線を彷徨わせた。


「私にも会いたい人がいて、帰りたい場所がある。そこへ着いたら、ここにいるメンバーがまだ旅の半ばでも、離脱して会いたい人へ会いに行くよ」


「ボス」というのはあだ名にすぎない。周りが彼女を慕っていようと、彼らを取りまとめる義務なんか、ボスは背負わない。


「ただ、帰れる状況じゃなくてさ。落ち着くまでは、今いるあいつらの居場所を探す」


 なんて芯の強い女性なのだろう。こんなに華奢なのに、何者にも屈しない力強さがある。

 ボスの夜空色の瞳がじっと俺を捕らえている。その深い紺碧を見ていると、不思議と勇気が湧いてくる。クオンとシオンと一緒に、どこまででも行けるような気がしてくるのだ。


 俺は途中まで、彼らと道を共にすることにした。落としていた背嚢を背負って、隊列の中に混ぜてもらう。

 ボスは仲間を数え、腕を組んだ。


「全員揃ってるな。行くよ」


 新月の森の中、いくつものカンテラが揺れ動く。モジャは削ぎ取った鳥の肉を肩からぶら下げている。マイトも、その半分くらいの量の肉を抱えて運んでいる。

 カンテラの炎のおかげか、人数が多いからなのか、獣に襲われずに進んでこられた。


 やがて、見覚えのある杭とロープのある登り坂を発見した。


「あ、ここだ。俺、この上から落ちた」


 俺は坂道の入口で、山賊の面々を見渡した。


「ここまででいいです。ありがとうございました」


 彼らは山を越えて、どこかの街へ向かうのだ。これ以上、俺の都合で山道に付き合わせるわけにはいかない。小さい子もいるし荷物の多い人もいる。ひとりになるのは不安だったが、彼らから余計に体力を奪うことはしたくなかった。


「そうかい、分かったよ。仲間に会えるといいね」


 ボスはそう言うと、俺にカンテラを突き出した。


「あんた、これ持ってきな。私はあいつらと一緒にいれば、自分の分がなくても問題ない」


「いいの? すごく助かる。ありがとう」


 俺はボスの手からカンテラを貰い、感嘆した。ボスの後ろで、山賊たちは各々会釈したり手を振ったりしてくれた。俺も彼らに頭を下げる。正直過去五本指に入るほど恐ろしい体験だったが、総括でいえばいい出会いだったと思う。

 マイトがトトトと駆け寄ってきて、俺を真っ直ぐに見上げた。


「どうかご無事で」


「マイトも。いい劇団に出会えるといいな」


 彼らのカンテラが遠のいていく。俺を残して、彼らは彼らの道へと歩いていくのだ。

 そんな中、ボスだけ数秒、俺の傍に留まった。他の全員の背中が離れるのを待って、彼女はささっと俺に近づく。


「飴ちゃん。あんたにこれをやろう」


 ボスはコートの中に手を入れて、再びその手を抜き出した。


「故郷のお菓子を分けてくれたお礼。受け取りな」


 囁き声と共に、彼女は俺の胸元にそれを突き出した。手のひらに収まるほどの小瓶である。カンテラの灯りが強すぎてはっきりと色を識別できなかったが、中に液体が入っているのは分かった。俺はなにか分からずに受け取り、瓶を眺めて頭上に疑問符を浮かべていた。

 ボスがしれっと答えを言う。


「月の雫だ」


「月の……えっ!?」


 仲間になるのなら分けてやると言われていた代物だ。思わず声を張る。ボスが人差し指を、俺の口に押し付けた。


「しっ。他の奴らには内緒!」


 俺は肩を竦め、今度は小声で聞いた。


「俺、仲間にならなかったのに、くれるの?」


「まあ、怒られるかもね。でも私たちは強いんだ。なにが起きても強行突破するさ。なんとかなるだろ、多分」


 なんともいい加減な言葉尻だ。ボスの手から渡された瓶が、カンテラの光で煌めく。

 彼女は晴れやかに目を細め、俺の肩をバシンと叩いた。


「持ってって。あんたにとっての大事な人は、私にとっても大事な人だよ」


「……分かった。ありがとう」


 ありがたく受け取ることにした。会ってもいない双子を想ってくれた、ボスの厚意を無駄にしたくない。

 少し離れた距離から、パッチの声がした。


「ボス! 行きますよ」


「はいよ! じゃ、飴ちゃん。いい旅を」


 ボスは満足げににんまりして、俺に背を向けた。

 ボスの毛皮の背中が、彼女の仲間の持つカンテラの灯りへと向かっていく。

 彼女は途中でくるりと振り返って、俺にニッと笑いかけた。


「あんたから貰ったお菓子、めちゃくちゃ甘かったけど嫌いじゃないよ。むしろ好きだ」


 そう言い残すと、彼女は手をひらっと振り、隊列の中へと歩いていった。

 彼らのカンテラの光が遠のいても、しばらくその眩しさが網膜に焼き付いていた。


 *


 ボスから貰った瓶を背嚢に詰めて、同じくボスから貰ったカンテラをかざし、新月の坂道を登った。月のない夜は、あまりにも暗かった。


 道は旅人用に整備されており、比較的歩きやすい。向かって右は岩肌が剥き出しで、左はロープの手摺こそあるが、その向こうは木々が鬱蒼と茂った急勾配である。


 無心で登り続けること十五分程度、杭とロープの手摺が途絶えた。俺がクマに叩き落とされた、あの絶壁に戻ってきたのだ。

 カンテラで周囲を照らして、森へ入る。岩穴に置き去りにしたクオンとシオンは、無事だろうか。あんなところへ放ってきてしまったが、なににも襲われていないだろうか。

 どうか、どうか無事でいてくれ。早鐘を打つ心臓を押さえて、森の奥へと進んでいく。カンテラを高めにかざして、野生生物の気配を探る。山賊たちといたときは落ち着いていられたのに、ひとりになるとこんなにも心細い。


 森が深まるにつれ、微かな水音が聞こえてきた。鼓膜を擽るその音を辿り、歩みを進める。やがて道がひらけ、小川に出た。カンテラの灯火が水面に反射して、きらきらと星を浮かべている。

 小川の傍の、岩穴に辿り着いた。中にカンテラを差し込むようにして、中を照らす。オレンジ色の光の中に、黒と白のふたつの影が浮かんだ。


 岩穴の中心部よりやや奥まった辺りで、ふたりの少女たちが、共に体を寄せ合って寝息を立てていた。

 俺は大きな安堵のため息をついて、その場に座り込んだ。ほっとして、体の力が全部抜けた。

 カンテラが岩にぶつかった音で、クオンの耳が動いた。


「ん……イチヤくん?」


 黒い頭がもそっと起きる。月がないせいで動けないようだが、微睡みつつも目を覚ましている。


「あれえ……私たち、寝ちゃってた?」


「うん、もう少し休んでていいよ」


 俺はクオンの頭を撫でて、背嚢の中に手を入れた。中から小瓶を取り出して、クオンの顔の前にぶら下げた。


「これ、貰ってきた。シオンも起きたら、飲んで」


「月の雫?」


「うん。ワイルドなお姉さんから貰った」


「ほあ……なにそれ」


 クオンが首を傾げて、眠たそうに隣のシオンを揺する。


「シオン、シオン。起きて、月の雫があるよ」


 ふたりの姿に安心したせいだろうか。一気に披露が襲ってきて、どっと眠たくなった。

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