槍
食事のあと、俺は洞穴の外で風に当たっていた。岩壁に背中を預けて、座り込んでいる。乾いた背嚢をクッション代わりに抱きしめる。洞穴の前では、焚き火がパチパチと燃えていた。
涼しい風が頬を撫でる。木々がさわさわと鳴って、薄い雲が流れた。今夜は月がない。新月のようだ。どうりでマイトがぐっすり爆睡のわけである。
本当は、山賊らに別れを告げて、一刻も早くガザへ発つつもりだった。しかし夜になってしまい、ボスから「日が昇るまで大人しくしていた方がいい」と咎められたのだった。
洞穴の入口には、毛皮のカーテンがかけられていた。山賊たちには、交代で洞穴の外で見張りをする決まりがあるらしい。外で休む俺の横には、無言で薬草をすり潰す女性がいる。会話はなく、ただすり鉢とすりこぎ棒がぶつかる音だけが耐えず鳴り続けていた。
俺は抱えていた背嚢を開けた。中に忍ばせていた飴玉をひとつ、口に放り込む。
今の俺は、山賊に囲まれている状況である。気さくに向き合ってもらえたものの、恐ろしい相手であることには変わりない。
少し心を落ち着けたくて、甘いものを口にしたかった。アルカディアナで暮らすようになってから、飴を見たことがない。記憶を失う前から持っていたものだが、俺はこれをどこから持ってきたのだろう。なにも思い出せないが、なんだか、慣れ親しんだ味がする。
ふいに、カーテンが開いてボスが顔を覗かせた。
「交代の時間だよ」
ボスが呼びかけると、薬草をすり潰す女が無言で頷き、すり鉢を抱えて洞穴へ入っていった。代わりに俺の隣には、ボスがお手製の槍を肩に傾けてやって来る。
「なに食べてんの?」
彼女はそう問いながら、地べたに腰を下ろした。
ボスの髪の赤い紐が、焚き火の光を受けてきらっと光る。結び目のあたりに丸い金色のモチーフがついている。よく見たら、この紐はチョーカーだ。本来ならば首につけて、金のモチーフが首の前に垂れるデザインなのだろう。それを、髪に結んでいるのだ。
俺はもうひとつ残っていた飴を、ボスに差し出した。
「お口に合うか分かりませんが」
「毒じゃないだろうな?」
冗談めかして言い、ボスが飴を受け取る。不慣れな手付きで包みを剥くと、ボスの手のひらにコロンと、黄色い飴玉が転がり出た。それを口に放るなり、彼女は目を丸くした。
「なんだこれ、甘っ!」
「飴です。そういうお菓子です。噛まないでくださいね、ゆっくり溶かす食べ物です」
「飴? 甘い、甘すぎる。なんだこれ」
俺も初めの頃は、アルカディアナの食生活に慣れなかった。まるで異界のもののように感じた。ボスも飴を食べて不思議そうにしているし、もしかしたら、俺は本当に異世界から、飴を持ってやって来たのかもしれない。
ボスは口の中で飴を転がした。
「飴というのか。初めて食べたよ。これはあんたの故郷の食べ物?」
「そんなところです」
するとボスは、俺の頬にツンと人差し指を突き刺した。
「緊張してる? あんた、喋り方が硬いよね。もっと気楽に話してほしいな。調子狂うだろ」
「すみませ……えっと、うん。分かった」
言葉遣いを崩して、俺は膝小僧に顎を置く。ボスはそんな俺を眺めて、満足げににまーっと口角を上げた。
「私の故郷ではゲラゲラ鳥のスープがソウルフードだったんだ。シャリシャリしてて粘り気があって、ピリッと辛口でちょっと酸味があるの。あんたにも食べさせてやりたいな」
ボスが懐かしそうに語る。聞いただけでも不味そうで、俺は苦笑いして口の中の甘い飴を味わった。
ボスが長い脚を折り曲げて、腕に抱く。
「あんたの連れ、うちの仲間になるってさ」
マイトのことである。彼は持ち前の人懐っこさで、山賊にすっかり溶け込んでいた。警戒心を解くのが早いというか、単純なのだ。惚れ込みぶりがなんだかルミナに取り憑かれていたときに似ていて、ため息が出る。
「あいつ、今度こそちゃんと考えたのかな。自分も逃亡中の身だから、ここの皆も同じで、安心したのかも」
ボスの瞳が、俺を見つめた。
「あんたも、私たちと一緒に来る?」
「え……俺は……」
風が静かに、木の葉を揺らす。雲が過ぎ去り、星が見え隠れする。焚き火の光が当たって、ボスの白っぽい髪と黒っぽい瞳は、共にオレンジ色に煌めいていた。
「あんたもどこかへ向かってるんでしょ。或いはなにかを探してるんだよね。私たちと一緒に、行けるところまで行ってみない?」
涼やかな声が、森の闇に消える。胸がどきどきした。
「……どこへ向かってるんですか?」
「そうだなあ、人によってバラバラだけど……向かってる方向は西。当面の目的地は、コルエ村だよ」
コルエ村。聞いたことがある。月の都のすぐ西隣の村だ。そちらに向かうのなら、月の都から逃げてきた俺たちとは、逆方向だ。
戻るのは危険だ。でも、この人たちがいてくれたらなんとかなる気がする……なんて、心のどこかで思ってしまう。
葛藤する俺の顔を、ボスが可笑しそうに覗き込む。
「どっから来た誰なのか、言わなくてもいいし、自ら明らかにしてもいい。例えばジャムは家族に売られた奴隷。でも今はそんなの関係なく、『何者でもない寄せ集め』になった。強いて言うならうちの狩り担当。パッチにくっついてる見習いだけどね」
長い髪が、彼女の背中のラインに沿って流れている。
「そんな感じでいいんだ。なにになってもいいし、なににもならなくていい。私や皆がいれば、ひとりじゃできないことができる。ここにいる人たちは皆そうだよ。はぐれた兄弟を捜してたりとか、故郷に帰ろうとしてたりとか、目的のために、ただこの集団を利用してるだけ」
この人たちは、それぞれ素性を隠して、人によっては目的もはっきりさせず、ただその場その場で力を貸し合い生きている。そんな割り切った関係だからこそ、バランスが取れる。
そして俺と双子も、暗殺容疑をかけられた逃亡者だ。素性を明かせないという点では、彼らと同じ。
俺はここまでの旅路で、自分の力に限界を感じていた。野生生物と出会っても、逃げるしかできない。自分だけでもいっぱいいっぱいで、双子の月の雫が足りていないのにも気付けなかった。
だけれど、彼らと共にいればどうだろう。今横にいる女は槍で狩りをしてくるような強さを持ち、仲間には料理ができる人がいたり、薬を作る人がいたりする。野営地を設営することにも手慣れている様子だ。月の雫だって、少しかもしれないが、共有してくれる。
彼らについて一緒に世界じゅうを回れば、セレーネを見つけ出すことだってできるかもしれない。
焚き火がめらめらと、ボスの色白な頬に反射している。揺らいでいる俺を横目に、ボスは膝の上に頬杖をついた。
「共に行くのはいいが、この集団は素性を明かせないような輩の集まりだ。ルールなんてあっても守らない奴が殆どだから、危険はつきものだよ」
彼女の発言を受けて、俺はボスの顔を振り向いた。ボスは強かに笑う。
「実際、以前入ってたメンバーで、突然離脱して私たちの潜伏先の情報を近くの村に流して、金を受け取ってた奴がいた」
「えっ、大丈夫だったのか?」
「警備団が捜しに来たさ。それでも私らの方が強いし、名前伏せてたおかげで全員正体まではバレずに済んだし。それに逃げ切ればこっちのもんよ」
一見仲がよさそうに見えても、お互い、腹の中ではなに考えてるのか、分かったものではない。
かくいう俺も、月影読み暗殺の容疑がかかっている。世間的には、殺人者だ。
「怖くないの?」
かなり直球な質問をしてしまった。ボスはハハッと笑う。
「ムカつくことはあるけど、怖くはないかな。見えてるところは信頼してるし、見えてないところは見ないことにしてるからね」
そして、見抜けなかった自分が悪い、と。
そう話すボスだって、正体が分からない。頼りがいのある雰囲気につい呑まれそうになるけれど、極端にいえばボスだって人を殺している可能性すらある。この人は一体、何者なのだろう。
「ボスはどうしてそんなに強いの?」
またもや、率直に訊ねる。ボスはうーんと首を捻った。
「これでも子供の頃は、どこにでもいるようなか弱い女の子だったんだよ。でもいつだったか、腹立つこと言われてカチンときちゃってさ。それを言った男を思い切りぶん殴ったら爽快で。それからだね、私がこうなったのは」
「暴力に魅入ってる」
「結局私も“こっち側”だってこと」
ボスはそう言って、折り曲げた膝に頬をつけた。
「私たちはそういう人間の集まり。社会の掟を破り、他人に同情もせず、我が道を行く。それでもあんたも、一緒に来る?」
ボスの声がやけにクリアに聞こえる。
「ついてくるなら、あんたに名前をつけてやる。『飴ちゃん』なんてどう?」
「あ、飴ちゃん?」
「あんたの連れは『燻し銀』にした。あの毛色だし、燻し銀俳優だから、ぴったりだろ?」
そっとボスの顔を窺う。
炎の灯りに当てられた瞳と長い髪が、きらきらと光っていた。
ここで俺の判断ひとつで、これから先の生活も、クオンとシオンの運命も、分岐点を迎える。
「俺は……」
語尾を濁して、下を向く。決断できなくて、話の軌道を変える。
「俺の目的地は、今のところ、ウィルヘルムなんだ」
「なんだ、行く宛があるのか」
「でもどうしてもウィルヘルムじゃなきゃいけないんじゃなくて、そこにいる知り合いを頼ろうとしてる状況で……他に居場所があるなら、ウィルヘルムへ行かなくてもいい」
俺と双子だけでは限界がある。だけれど、この人たちの中に入っていくのが正しいのかといえば、そうとは言いきれない。ボスは肩に載せた槍に手首を絡め、俺を眺めている。
しかし俺が決心する前に、彼女は槍を握りしめ、すっと腰を上げた。
「お客さんだ」
「え……?」
目線を上げると、すぐ傍にボスの脚があった。
程よく筋肉質なふくらはぎと、露になった膝の裏の窪みが見え、そしてふっくらした太腿へと続いていく。その滑らかな脚が、僅かに膝を曲げて、構える。
その直後、俺の耳にも「お客さん」が近づいてくる音が聞こえた。ザザザ、と木の葉が掻き分けられていく音がみるみる大きく膨らんでいく。ボスがニヤリと笑い、槍を両手で握った。
「来るよ、でっかいのが!」
俺には立ち上がる余裕すらなかった。
風を煽ぐ羽音と、ギャアアと空を裂くような巨大な咆哮。爆風で焚き火が消し飛び、周囲は真っ暗になった。星の灯りを背に浮かぶ真っ黒な影は、広げた翼は三メートルはある。木々を薙ぎ倒して姿を見せたのは、黒い翼の巨大な鳥だった。
唖然として見上げる俺は、間抜けな声が出ただけだった。
「なにこれ……」
「こりゃ大物だわ。こいつら、鳴き声で仲間を呼ぶんだ」
ボスが余裕げにニヤつく。俺はずるっと立ち上がった。抱えていた背嚢が、地べたに落っこちる。
俺が絶句する一方、ボスは目をきらきらさせていた。
「ほら見えるだろ? 滴る肉汁、ジューシーで肉厚な焼き鳥が! ううん、煮物もいいな」
「食べることしか考えてない」
「鳥肉は最高だよ。焼いても煮ても燻してもおいしい」
そう言うと彼女は、槍を構えて駆け出した。襲い来る鳥の嘴が、ボスのいた辺りに向かって突き刺さる。真横にいた俺は、スレスレのところで当たらなかった。
「なにしてんの飴ちゃん、避けないと逆に食われるぞ」
ボスは水を得た魚のようにイキイキと鳥に向かって駆け抜ける。
「こいつが仲間を呼んでくれたら、毎日鳥肉バイキングになるんだけどな。流石にそんなに持ち運べないから、こいつだけ仕留めたら引き上げる。この大物一匹捕れば数日はもつね」
はしゃぐボスの声を聞きつけて、洞穴からモジャが這い出てきた。
「なんだなんだ。チビが寝たところなんだから静かにし……おお、すげえのがおいでなすったな」
ジャムとパッチも出てきて、感嘆する。
「まあこの森に怪鳥いるのは分かってたからね。早晩襲われることも承知の上だったよね」
「どっちにしろ朝にはここを発つつもりだった。それが多少、早まっただけだ」
彼らの声が、鳥の咆哮に掻き消される。ボスは鳥の翼から槍を引き抜き、後ろへ飛び退く。くわっと開いた鳥の嘴が、ジャムに向かってくる。狩り担当のはずのジャムは、腰を抜かした。
「うわーっ! 助けてボス!」
見かねたパッチがジャムに駆け寄り、彼を抱きかかえて鳥の攻撃を避けた。見ていたボスがケラケラ笑う。
「ジャムは口先だけ一人前の癖に、これだもんなあ」
「うっせー! 俺だってな、本気出せばこんな鳥公ひとりで……!」
一連の流れを眺めて、モジャは楽しそうに大笑いしていた。この状況でも余裕たっぷりで、俺にはついていけない。
ボスが彼らに、声を張り上げた。
「ジャム、モジャ、ここは私ひとりで事足りる。撤退準備をして。こいつ捕ったらここ出るからね。パッチは子供と年寄りたちの安全を確保して」
ボスのひと声で、ジャムとモジャとパッチはさっと切り替えて洞穴に入った。
鳥がぶんと頭を振る。鋭い嘴がボスに突っ込んできた。しかしボスは鮮やかに槍を振りかぶり、鳥の頭を弾く。
「やめてくれ、かわいい鳥さん。やたら痛めつけたくないんだ。早めに仕留めてやるのが、せめてもの優しさなんだから」
ボスは槍の穂先を、鳥の足にブスリと突き刺した。鳥が頭を振り上げて、ギャアアと雄叫びを上げる。足に傷を負った鳥は動きが固くなるかと思いきや、怒り狂って一層暴れ出す。
ボスの凛とした声が夜の闇に響き渡る。
「飴ちゃん、離れてな」
槍の柄を自分に引き寄せて、彼女は勢いをつけて、鳥の額へと突き立てた。
鳥の絶叫が耳を劈く。俺の頬にピシャッと液体が降り注いできた。生温かい体液が頬を伝い、乾いたワイシャツにぽたぽたと落ちる。
鳥が槍の刺さった頭を振り上げる。槍を握っていたボスまで、足が宙に浮いた。
暗闇に慣れてきた目に、彼女の白っぽいポニーテールがやけにはっきり浮かんで見えた。ボスが鳥の頭を蹴飛ばし、槍を引き抜いて飛び上がる。バネになる脚は長くて華奢で、それでいて力強い。
長い髪が、彼女の動きに合わせて踊る。高く跳ねて降下してくれば、ポニーテールが遅れてついてくる。槍を真下に向けて天から下りてくる姿はまるで、流星がひとつ、夜の闇を切り裂いているみたいだった。
槍の先が鳥の脳天を直撃する。白金の髪がひらっと靡いて、暗闇の中でそこだけ光って見える。
鳥の頭がぐらっと崩れ落ちる。槍を掴むボスも引きずり下ろされるように沈む。地に叩きつけられる前に槍を抜いて、彼女は座り込む俺の真ん前に着地した。目と鼻の先に引き締まったふくらはぎが降り立ち、後からついてくるように、髪がふわりと舞い降りる。
鳥は地面に伏せて、動かなくなった。ボスが俺に背中を向けたまま、顔をこちらに傾ける。
「怪我はない?」
甘く可憐な小顔には、暗闇でも分かるほど鳥の体液を浴びている。俺は腰に力が入らなくて、立てなかった。
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