Ⅶ.眠りの病
料理
俺が天文台で目を覚まして、九日。セレーネが失踪してから、もうすぐ二週間になる。
天文台を訪ねてきたフレイは、腕にバスケットをたくさんぶら下げていた。
「まさかエプロンしてお料理してるとは……」
キッチンでシチューを作っている俺を見て、彼は呆然と目を見開いている。俺は鍋の中をかき混ぜて、フレイの間抜け顔を一瞥した。
「料理くらいするよ」
記憶が戻っていない俺だが、この頃、自分には料理のスキルがあるのだと気づいた。自分がどこから来たのかは未だに分からないけれど、どうやらそこで食べていたらしい料理の作り方は、しっかり頭に記録されている。
俺がこの料理を作っていた背景を思い出そうとすると、今いるアルカディアナとは全く違う風景が思い浮かぶ。そこには、携帯を始めとする便利なものがたくさんあって、食材を長く保存する手段もあり、多分、アルカディアナよりも文化が発達していたのだろうと推測できる。
一方アルカディアナには、そういった機械こそないが、月の光による独自のエネルギー技術がある。料理や水浴びに必要な熱を作ったり、宙に浮かぶ照明器具があったり、これらと同じ技術で動くシチューポットもある。
調理器具の使い方は、双子が教えてくれた。それだけでなく、作りたい味に近づける食材、香辛料なども説明してくれる。
自分の記憶にある世界と、今いるこの場所では、存在する物が違う。けれど、類似する物はなにかと見つかる。それらを駆使すれば、見知った料理に近いものが作れる。
「このコケケ鳥ってやつなんか、まんまニワトリだもんなあ。でもハーブだと思って買おうとしたものが毒草だったりもするから、まだまだ気を抜けない。それと、この世界のフルーツ、大抵が焼くと美味いのな」
自分の世界にあったものに似せるのもいいが、この世界独自のものを味わうのもまた乙である。
それに今日はパンを焼いた。天文台はすごい。普通の民家にはないパン窯がある。しかもこれも、月のエネルギーで動いている。
「フレイも食べてくか? 今日のお昼はチキンのクリームシチュー、デザートにフルーツのプリン」
シチューの味をのんびり整えていると、フレイがため息とともに床に座り込んだ。
「お前……エンジョイしてんな。記憶喪失だとか言ってたくせに、焦りを感じない」
「焦ってはいる。でも思い出せないんだから、とりあえず順応するしかない」
俺はフレイの持ってきたバスケットに目をやった。
「今日はなんの用? そんなに荷物持って。双子なら寝てるぞ」
時刻はもうお昼だが、クオンとシオンが起きてこない。フレイはのそっと起き上がり、俺をじっと観察した。
「体調は?」
「クオンもシオンも元気だよ。ルミナの一件で傷ついただろうけど、もういつもどおり」
「それもだけど、お前の体調は?」
「俺? 良好だけど」
きょとんとしているとフレイはさらに問い詰めてきた。
「発熱、眩暈、吐き気、倦怠感、体の節々に走る痛み、それと強烈な眠気は?」
「ない。なんの診療だよ」
フレイはまた、ため息をついた。
「てめえこの野郎……元気じゃねえかよ」
「だから元気だって。なにを勝手に心配してんだよ」
呆れながらシチューを混ぜていたら、フレイはバスケットをドカッと調理台に置いて喝破した。
「眠りの病! って言ってたから! 心配しねえわけにはいかねえだろ!」
「はあ? 眠りの病?」
なんの話か、思い出すのに時間を要した。レードルを止めて少し考え、ハッとする。
「あっ、サリアさんが言ってたやつか!」
ルミナの馬車が月の都を発つ直前、団長から俺を離すために発言した病名である。
「嘘だったんだと思うぞ? 病気だって言えば、団長は俺を連れてくのをやめるからさ。俺の体調はなんにも変わってない」
「はあ、ならいいけど……」
フレイが壁にもたれ掛かる。こいつは口が悪いし喧嘩っ早いが、面倒見のよさだけはピカイチである。
「眠りの病ってどんな病気なんだ? そんな危ない病気なのか」
「大地の民が月の都に流れてきたばかりの時代に、流行った病だ」
フレイの持ってきたバスケットの中が見える。病人でも食べやすそうなフルーツや栄養価の高そうな彩りのいい野菜が詰め込まれていた。
「眠りの病は、大地の民の子供が罹る病気だ。普通ならお前よりもう少し幼い子供が罹るんだが、お前もギリギリあり得る歳ではある。なんか、年齢の割に体が小さいし……」
「大地の民の子供が……。ふうん、そんな病気あるんだ」
バスケットの中をゴソゴソ探る。美味しそうなフルーツと野菜の差し入れは、純粋に嬉しい。早とちりしていたフレイは、気まずそうに目を背けた。
「そうでなくても、ルミナの出来事のせいで気に病んでるかもとか……無駄に考えたけど、会ってみたら元気そうにアホヅラ下げてやがってなによりだ」
「気にならないわけじゃないよ。でも、サリアさんが手紙にああ書いてる以上、俺にはなにもできない」
シチューの香りが鼻腔を擽る。脳裏に何度も、あの少年の笑顔が浮かんでは消えた。
「なあフレイ。あれから、ルミナに変化はあったのか?」
俺はまだ、マイトが気がかりで仕方なかった。目線を外したまま、フレイは吐き捨てるように答えた。
「なんかあったら、とっくにニュースになってる」
あの日からずっと、俺はもやもやが晴れずにいた。
もう一度マイトと話したい。サリアさんとも、もう一度ちゃんとやりとりしたい。クオンとシオンは天文台に残して、自分ひとりでルミナを追って、次の開催地ウィルヘルムへ向かいたいくらいだ。
サリアさんが手紙で伝えてきたようなオークションが行われる前に、マイトや他の攫われた人たちに、あの手紙について伝えられないか。現地、大地の国の首都ウィルヘルムは、王国議会が抱える傭兵団がいるとも聞いている。ルミナのしていることが違法なのならば、サリアさんの手紙が証拠になって、きちんと裁かれるはずだ。
しかし、サリアさんは手紙の中で、「この劇団のことは私に任せてください」と書いていた。言い換えれば、「余計な手出しはするな」ということだ。
サリアさんは機転の利く人だ。聡明な人だから、あの劇団で生き残り、時間をかけて抜け出すチャンスを窺っているのだ。ここで俺が余計な動きをすれば、サリアさんの足を引っ張るだけである。
今俺にできることは、彼女と、その夫だったラグネルさんの代わりに、クオンとシオンの安全を確保するくらいだ。サリアさんが常に危険であり、連れ去られた人が乗せられていて、それを分かっているのに、自分にはここで大人しくしているしかない。己の無力さにやきもきする。
自分の不甲斐なさを痛感しながら、シチューを混ぜる。フレイがぽつり、言った。
「一昨日、役場にリリナという娘が来たよ。薄い茶色っぽい耳の子」
俺はぴたりと、レードルを止めた。リリナといえば、サリアさんが俺に向かって呼んでいたルミナの新人の名前だ。テントへ連れてこられていた、あの女の子である。
「その子、ルミナについていったんじゃなかったのか?」
「一度は話に乗せられたようだが、撤収が始まった頃にカレン……サリアに呼び出されて、片付けで人がバラけてるうちに抜け出すように言われたんだと。はっきりとした理由までは、聞かなかったみたいだがな」
驚いた。俺が来た頃にはすでに、サリアさんはリリナを劇団から逃がしていたのだ。
「劇団から逃げ出す際、リリナはサリアから手紙を持たされたが、どこかに落としたと言っていた。多分、お前が受け取ったあの手紙だな。サリア自身が回収できたからよかったものの、他の団員が拾ってたらサリアはどうなってたことやら」
フレイがのっそりと立ち上がる。
「リリナがサリアから説得を受けたときには、もうひとり、マイトという男もいたらしい。リリナはサリアの助言を聞いて、別の劇団でもいいと思ったようですぐ降りたんだがな。そのマイトって奴は、頑なに残りたがっていたんだと」
マイトの名前を聞くと、胸がずきっとする。
「そっか……。でも、少なくともひとり無事だったのは救いだな」
実際にスカウトされた当事者であるリリナが、サリアさんのおかげで助かったのだ。サリアさんのことだ、他にもきっとこうして、上手く新入りを逃がしているのだろう。
シチューに入れる調味料を吟味する。同じ色の小瓶が三つ並ぶ中、俺はラベルを見て真ん中のものを選んだ。フレイがえっと目を丸くする。
「お前、それの見分けがつくのか。もしかしてラベルの字を読める?」
「文字を記号の組み合わせだと考えたら、だんだん覚えられてきた」
俺は俺なりに、この世界の文字を勉強していた。フレイは驚きのような感心のような、はあ、と空気の抜けるような声を出した。
「諦めたのかと思ってた。お前、やたらと真面目だよなあ」
「だって、俺が文字を読めたら、サリアさんのメッセージにも気づけた。それができなかったのは、俺がちゃんと勉強しなかったせいだ」
調味料を加えたシチューの味を見る。少し物足りなくて、さらに味を足した。
助けてもらうばかりでは生き残れないと、やっと気づけた。
「我ながら気づくのが遅くて情けない。今からでも、できることから初めて、自分を成長させようと思ったよ。ここで生活するにも、セレーネを捜すにも、記憶を戻すにも……人任せにしてはいられない。だからまず、自分のしたいことを自分で選ぶために、字を覚える必要があった」
そう思ったら、一気に捗ったのだ。
「今はわりと、単語ごとに字の組み合わせを覚えたよ。文法は分からないけど、知ってる単語が並んでいれば、漠然と意味が分かるんだ」
天文台に閉じこもって学習本と向かい合った成果だ。フレイは持ってきた紙袋のうちのひとつに、徐ろに手を突っ込んだ。
「ふーん。じゃ、これももう読めるようになったかもな」
紙袋から出てきたのは、一冊の本。紺色の装丁に、白い文字で題字を彫り込まれている。表紙の真ん中には、満ち欠けする月の絵が並んでいた。俺はシチューをかき混ぜる手を止めて、本を受け取る。見慣れない文字を、ひとつずつ読み解こうとする。しかし日常で覚えた文字の組み合わせではない。
フレイが肩を竦める。
「本があれば勉強にやる気出すかと考えて持ってきたが、余計なお世話だったようだな」
「一部の単語が読めるようになっただけだから、こういう知らない言葉はまだ……」
首を傾げていると、鍋がグツグツと煮立ってきた。慌てて本をフレイに返し、シチューポットの下の火を消す。
「ありがとう、後で読んでみる」
シチューがいい具合に煮えてきた。レードルで味見をすると、程よい甘味と塩気が調和して、溶け込んだ野菜の旨みが舌の上で溶けた。
予め置いてあった木皿に、シチューを盛り付ける。
「フレイ、クオンとシオン呼んできてくれるか? ふたりともまだ寝てるんだよ」
「俺に指図すんな。おい、クオン、シオン! 飯だぞ」
文句を言ってから、フレイが上の階へと双子を呼びに行く。
俺は窓の外に目を向けた。昼間の明るい日差しが差し込んでくる。空は透き通るような淡い青で、目を凝らすとうっすらと、白い影のような月が見えた。
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