本音
その夜、俺は天文台の最上階――観測室を訪れていた。階段を上って、望遠鏡の傍まで歩み寄る。散らばる書類に囲まれた望遠鏡は、ガラスの天井の向こう、痩せていく月を見上げていた。
月の雫の作り方は、俺は知らない。記憶が戻っても、きっと分からないだろう。それでも、俺が最初に現れた場所はここだ。記憶が戻るヒントがないか、調べに来た。
ガラス張りの天井に、金色の月が見える。今夜は半月だ。俺は望遠鏡の前にしゃがんで、架台についていたハンドルに触れた。小学生の頃に理科で習った知識を絞り出し、ファインダーを弄ってみる。しかし触ってみると改めて感じたが、やはり俺の知っている望遠鏡とこの望遠鏡は違う。
触れていると、急に鏡筒がじわっと熱くなった。反射的に、手を引っ込める。気のせいだろうか。もう一度触ると、やはりじわじわと、熱が伝わってくる。なんとなく、脈を打っている感じがする。望遠鏡はどう見ても無機物なのに、なぜかまるで生き物みたいに、奇妙な生命力を感じる。
望遠鏡を触ってみて、装飾の石に触れてみて、落ちている文書を見た。でも、扱い方も、月の雫の作り方も分からない
こんな自分を助けてくれたのに、クオンとシオンになにもしてやれない。泣いているクオンの背中をさすってやることしかできない、そんな自分が嫌だった。
せめて、記憶が戻れば、自分に余裕が生まれるのに。
真上を見れば、ガラスの向こうに息を呑むほどの星空が広がっている。ミルクを零したような銀河だ。重なる星々の小さな瞬きが肉眼で確認できる。その夜の空を見守るかのように、半月が静かに光の輪を放つ。
観測室に、シオンが入ってきた。
「イチヤくん、なにしてるの?」
「望遠鏡、調べてた。なにか思い出すかなって」
「どう?」
「なにも……」
苦笑いで返す。階段の下から俺を見上げていたシオンは、ゆっくりと、こちらに上ってきた。
「あんまり触らない方がいいよ。この望遠鏡は、月の神様とコミュニケーションを取る、特別な魔道具なの。勝手に触ると、神様に怒られちゃう」
「神様?」
「うん、セレーネ様がそう言ってた」
セレーネがどんな人なのか、会って話したことはないが、なんとなく俺は、彼女を科学者だと思っている。だから、神様なんて宗教的な言葉を使うのは、少し意外な感じがした。
「せめて、セレーネの書いたメモを読み解けたら、なにかできないかなと思ったんだけど……」
俺は落ちていたメモを一枚拾った。シオンはそれを覗き込み、唸る。
「えっと……この計算式、月の光をエネルギーに換算する定理……みたい、かな」
この世界の定理などちんぷんかんぷんだ。シオンは苦笑いで頷いた。
「セレーネ様、字が汚い。これじゃ解けるものも読めない。あの方は興味のあること以外、全部いい加減なの」
シオンの呆れ顔を横目に、俺は望遠鏡を観察した。きらきら光る鎖と鉱石が、微かに揺れている。
「読解できたとしても、月影読みの家系でないとできないんだっけか?」
「うん。月影読みの才能がある人の目には、光の糸みたいなものが見えるとか、触れるとか。それを頼りにエネルギーを取り込むから、やっぱり真の月影読みじゃない限りこの望遠鏡は使いこなせないんだって」
「ロロもセレーネじゃないとできないって言ってた。俺がなんとかしようと思うのは無謀なんだろうな」
やはり俺には、なにもできないようだ。現状がまずいのは分かっているのに、どうにもできない。
俺は望遠鏡の下に腰を下ろし、シオンに訊ねた。
「クオン、どうしてる?」
「寝ちゃったよ。泣き疲れたみたい。あの子、ちょっとお子様なの」
俺から見たらシオンも小さい子供だが、たしかに、シオンの方がクオンより少し落ち着いている。
シオンが階段のいちばん上で、腰を下ろした。
「あのねイチヤくん。私、『お母さんよりクオンの方が大事』って話したでしょ」
天文台から抜け出したクオンを追うとき、シオンが呟いていた言葉だ。
シオンは静かな声で、語った。
「五年前、お母さんがいなくなって。甘えん坊のクオンは、ずっとお母さんを捜して泣いていた。お父さんはひとりで、私たちの世話をした。泣き止まないクオンには手を焼いてたよ。上手に感情を出せない私は、……世話の焼けない子だったかもね」
夜闇に浮かんだ月は、空にあいた孔のように見える。
「さらに三年が経って、今度はお父さんが、事故で死んじゃった。私ね、頭の中が真っ白になって、なにも分かんなくなっちゃった。クオンはまた泣いてるし、どうすればいいのか、私も泣けばいいのか、全然……分かんなくて」
感情の篭らない声が、静かな部屋の中にしんと溶けていく。
「そしたらね、クオンが言ったの。『シオンもいなくなっちゃうの?』って。そのとき、私の中で、なにをすればいいのか決まった」
「……ん」
俺は喉を微かに鳴らすだけの相槌を打った。シオンは背中を丸め、息を吸い直す。
「私、クオンを守るためにここにいる」
シオンの白い頭が、下を向く。
「私はクオンの傍からいなくならない。それが、私がしなきゃいけないことだって、決めたの」
言葉尻は、自身なさげでありつつも、熱い覚悟のようなものが滲み出していた。
「仕事は、セレーネ様をお守りすること……だけど。それは職務であって、ここにいる意味は、クオンのため。クオンがいる場所に私も身を置く。それだけ」
俺には、家族を立て続けに失う痛みが分からない。想像するくらいはできるけれど、あくまで想像でしかない。シオンが背負ったものの重さは、俺には計り知れなかった。
それでも、シオンのクオンに対する決意はひしひしと伝わってきた。
「そっか。頑張ったな」
なんと言ってあげたらいいか、言葉を探す。
「いっぱい考えて、いっぱい我慢したんだな」
シオンの白い頭が震えている。垂れ下がったシオンの耳を、俺は階段の上から眺めていた。
「俺の考えだけど……シオンも、泣いてもよかったんじゃないかな。そうしなくちゃならないっていうんじゃなくて、泣きたかったら、泣いてもよかったんだと思う」
シオンは俯いて、顔を上げない。
「クオンのために生きようと考えるのは、シオンの出した答えなんだと思う。そうはいってもシオンはクオンとは別の人格なんだし、シオンはシオンで、シオンを基準にしていいんじゃない? クオンだって、シオンが無理してるとやりづらいと思うよ」
その途端、ぽたっと、シオンの膝に雫が零れた。
「……イチヤくん、私」
高い声が上ずる。
「お母さんに会えて、……声、聞けて、嬉しかった」
「よしよし」
俺は手を伸ばして、シオンの耳の間を撫でる。シオンが顔を上げた。こちらを振り向いて、奥歯を噛む歪んだ顔が俺を見上げる。彼女はよたよたとこちらに這ってきて、俺の胸に飛び込んできた。
表情は見えない。ただ、ワンピースの裾から伸びる白い尻尾が、しゃくり上げるたびにぴくぴく跳ねていた。
俺はやっぱり、シオンの背中をトントンと叩いてやるしかできなかった。
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