侵入
テント入口に向かって、チケットを持った観客が押し寄せて列を乱している。
客がテントに吸い込まれていくと、賑わっていた広場が少しだけすいた。クオンとシオンを捜すにも、多少は見通しがよくなる。
テントの裏側に回ると、そこに佇むシオンを見つけた。
「あっ、いた! あれ? クオンは?」
シオンはテントの裏口の前で、困った顔で立ち尽くしていた。
「どうしようイチヤくん! クオンが、裏口からテントに潜っていっちゃった」
「なんだって。どうしてまた……」
「マイトさんが入っていけたんだから、自分も入ってもいいんじゃない? って。私はだめだよって止めたよ」
どうやらクオンは、非日常感溢れるこの空気に昂ってしまって、シオンの反対を押し切ってまでテントに侵入してしまったようだ。
周りを見渡してみたが、団員の姿はない。劇が始まって、整備に回っていた裏方たちも、殆どがテント中へ入ってしまったのだろう。
シオンが俺の手を握る。
「イチヤくん、連れ戻しに行こう。クオンが入ったのは、ついさっきだから、まだその辺にいるかも」
「うーん……すぐ見つけて、さっと捕まえてさっと出ていこうか」
本当は団員に相談したいところだが、仕方ない。俺はシオンとともに、テントに潜り込んだ。
中は薄暗く、準備の上で出たらしきゴミが散乱していた。目を凝らすと、クオンらしき尻尾を見つけた。大声で呼びかけようとしたが、劇の邪魔になったらまずい。俺は口を押さえて、クオンを追いかけた。
舞台の裏は、団員の荷物が乱雑に置かれていた。役者はもちろん、裏方の団員も、これから始まる劇の準備に忙しいのだろう、こんな奥まったところには誰もいない。
奥に進むに連れ、どんどん暗くなる。暗闇の中でもシオンの白い髪は浮かび上がって見えるが、反対に黒いクオンは見えづらくなる。
壁の向こうから拍手が聞こえる。公演が始まったようだ。
俺はポケットから携帯を取り出した。携帯を懐中電灯代わりにして散策を再開する。光る物体に驚いて、シオンが目を丸くしている。
舞台装置が積まれたエリアに突入した。荷物が詰め込まれたコンテナボックスの脇を抜ける。シオンが小声で言った。
「クオン、叱られちゃう?」
「そりゃあ」
俺が返すと、シオンはぺしゃっと耳を寝かせた。
「イチヤくんがロロのところへ行ってる間に……街の人に、カレンってどんな女優なのか、教えてもらったの。それを聞いたらクオン、どうしてもカレンに会いたいって言って……」
クオンを庇いたいのか、シオンがもたもたと言い訳をする。自分はテントに入らずに俺を待っていたというのに、健気なものである。とはいえ、それとこれとは話が別だ。
「どんな理由があってもいけないことをしたのは変わらないぞ」
俺がはっきりと返すと、シオンはなにも言い返さずに尻尾をしゅんとさせた。
楽器の音と歌声が聞こえてくる。男女の掛け合いが美しい歌だ。今頃舞台の上では、演者たちがこの旋律を奏でているのだ。
なるべく足音を立てず、尚且つ早歩きで、人影を捜す。クオンを見つけるのはもちろんだが、劇団の団員がいれば、その人に任せたい。俺だってテントへの侵入は認められていないのだから、立派な侵入者だ。事情を話して、クオンを団員に任せたい。だというのに、劇団員も本番中で忙しいのだろう、なかなか鉢合わせない。
大道具置き場を越えて、機材置き場を越えて、うろうろと捜し回る。テントの中は結構広くて、迷いそうだった。
歌声は徐々に近づいてきていた。傍には出演者の控え室と思しき仕切りがある。慎重に周囲を探っていると、団員がパタパタ走る足音がした。姿は見えないが近くにいる。耳をそばだてれば、内容までは聞き取れないものの小声の会話まで聞こえてくる。
仕切りの隙間から光が洩れている。薄暗い舞台裏を貫くような光の筋だ。自分が舞台袖近くまで入ってきてしまったのは想像に難くなかった。
歌声はもう、すぐ傍で聞こえる。女声のファルセットが高らかに響いている。つい、立ち止まって一秒ほど目を瞑った。なんて心地よい声だろう。伸びやかで、凛として、そして優しい声だ。
裏方の団員のこそこそ話が混じり込む。
「やっぱりうっとりしちゃいますね、カレンさんの歌声」
「そうだな、流石は看板女優だ」
この歌声の主が、例のカレン・ミスティーナなのか。俺も聞き惚れてしまって、うっかりぼうっとしていた。今はそれどころではない。お喋りしている団員に協力を仰いで、クオンを捜してもらおう。
そう思ったとき、俺はハッと、天井付近から垂れる黒い尻尾に気がついた。
クオンだ。テントの天井の骨組みの上でうつ伏せになって、舞台袖の真上から演劇を鑑賞していたのだ。あんなところ、どうやって上ったのやら。
俺はそろりと壁に近寄り、垂れ下がる尻尾の真下辺りに立った。舞台を眺めるクオンは、目をまん丸くしてまばたきひとつしない。蝋人形のように固まって、動かない。初めて観た劇に感動しているのだろうか。
俺はそっと、彼女に呼びかけた。
「クオン」
クオンがぴくっと動く。耳を立てて、こちらに顔を向けてきた。舞台の邪魔にならないように、できるだけ声の音量を絞る。
「下りてきなさい」
手招きやジェスチャーを交えて指示するも、クオンは動こうとせず、すぐに舞台に顔を向け直してしまった。らしくないほどわがままなクオンに、俺は怒りの篭った語調で捲し立てた。
「早く。いい加減に……」
「お母さん、なの」
俺が言い終える前に、クオンの口はたしかに、そう動いた。
「お母さんがいる。舞台に」
歌声に掻き消されそうな声が、俺の耳に静かに届いてくる。クオンの真剣な声、舞台に釘付けになる瞳。
俺は数秒間、凍りついた。
「……どういうこと」
双子の母親、サリアさんは、五年も前に消息を絶っている。フレイがそう話していた。
「なに言ってるんだ、クオン」
「見間違えるはずない。私たちのお母さん……」
クオンのそれを聞いて、俺の手を握っていたシオンまでもが、小さな指を解いた。さながら獣の身体能力でテントの骨組みを駆け上がり、クオンの横へと寄り添う。
サリアさんは、なんの連絡もなく忽然といなくなった。奴隷商に拉致されたのだと考えられている。
そのサリアさんがなぜ、この劇団の舞台に? 歌っているのは女優、カレン・ミスティーナではないのか?
突如、ロロの言葉が脳裏を過ぎった。
『ルミナのスカウトには気をつけてね』
額に変な汗が浮かぶ。なんだろうか、この胸のざわめきは。
行方不明の母親、拉致、スカウト。
まだひとつひとつのピースを整理できていないけれど、直感的に危険を感じる。
「シオン、こっちおいで」
俺の声色が変わったのを察知して、シオンがすっと身を捻った。骨組みの上から飛び降り、仕切りの上に着地して、そこから舞台装置へ飛び移る。ひとつ背の低い大道具に移りと、ぴょんぴょん移動して俺のところへ下りてきた。
詳しく聞いている暇はない。俺は手に持っていた携帯を操作して、カメラモードを起動する。
「これ、貸す。ここに“お母さん”を映して、それからここを触って。カシャッて音がしたら、俺に見せて」
シャッターを押すだけの状態になっている携帯を、シオンの小さな手に持たせる。シオンは見慣れない小さな箱を手にして不思議そうにしていたが、こくっと頭を縦に振った。
携帯を握りしめたシオンが、先程下りてきたのと同じルートを、今度は逆に上っていく。タンタンと上手に天井の骨組みへと上ると、相変わらず石化しているクオンの元へと歩み寄った。シオンは骨組みから腕を伸ばして、携帯を突き出す。俺はその様子をハラハラと眺めていた。
カシャッと、小さな音が聞こえた。
撮れた、と口の中で呟いた、そのときである。
「誰だ!」
縹色とグレーの縞模様のコートが、視界の隅で翻る。劇団員が俺に気づいた。びくっと身じろぎして、俺は咄嗟に言い訳をした。
「あっ……あの、すみません、迷い込んじゃって」
「こんなところまで迷い込むはずないだろ。なんのつもりだ」
体格のいい、太い声の男だ。壁から差す光が男の髭面を照らし、険しい顔をより際立たせる。
俺は目を泳がせて、後ずさりした。
「えっと、子供がいたずらで侵入したのを追いかけてて、ここまで来てしまって」
さっきまでは、団員を見つけたらクオンとシオンを任せようと思っていた。でも今はむしろ、言えなかった。
心臓が早鐘を打つ。クオンとシオンの存在を、この人たちに覚られはいけない気がする。根拠もなく、本能的にそんな信号が出ていた。
しかし、別の団員があっと指をさした。
「あそこ、ふたりも!」
目線は上空、天井の骨組みにいるクオンとシオンだ。
途端に俺は、スイッチが入ったように叫んだ。
「ごめんなさい、すぐ出ます!」
大声は観客まで届いてしまったかもしれない。だが今は気にしている心の余裕などなかった。
逃げないと。そんな焦りが無性に膨らんでいく。
「クオン、シオン! おいで!」
声をかけると、シオンはこちらを向いた。でもクオンはまだ舞台から目を離そうとしない。シオンがクオンの手を引いても、まだ目線は舞台に集中している。
澄んだ歌声が降り注ぐ。美しい声なのに、耳に入ってくると胸の奥のざわつきが増幅していく。
シオンが無理やりクオンの腕を引き、こちらに連れ戻してきた。俺はシオンから携帯を受け取ってポケットに突っ込み、双子の手を取った。
「行くぞ」
クオンはまだ、舞台の方に顔を向けていた。
「お母さん」
俺に手を引かれ、よたよたと歩みを促される。
「お母さん……お母さん、なんでこんなところにいるの?」
泣きそうな声を絞り出すクオンの手を、ぎゅっと握る。シオンが不安げに俺とクオンを見比べて、なにか言いたげに目線を迷わせた。
ふたりの手を引き、早足で立ち去る。
「待ちなさい!」
劇団員の怒声が聞こえる。
逃げる足取りがだんだん、早足から駆け足になる。駆け足からさらに速度を上げて、気づいたら俺はクオンとシオンを引きずるようにして、全速力で走っていた。
「お母さん、お母さん」
クオンがずっと後ろを向いて呼んでいる。
「お母さん!」
悲痛な声が胸に突き刺さる。俺は奥歯を噛みしめて、テントの外へと夢中で走った。
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