緑色の指

町田小町

第1話

「おはなやさん」の仕事がキレイなものじゃないって教えてくれたのはヒロさんだった。

目に鮮やか、鼻に香しいおとぎ話のお姫様がやりそうな職業が花屋の仕事だと思っていた。実際は花束を作るために縦長な段ボールに詰め込まれた花を半分以上切り捨てるので、足元は茎や葉っぱのゴミだらけ。メガネが汚れるほど花粉が空気中を舞うから、マスクをしても喉がイガイガする。何よりヒロさんはお姫様のような人じゃなかった。160センチほどの背丈に少し突き出たお腹、艶々の黒髪はうなじを覆うほどくしゃくしゃに伸びていたが前髪は後退していておでこが広く見える。「アルよ」とエセ中国語を話しそうな漫画のキャラクターみたいな糸目の顔。どこにでもいそうな40代のおじさんだ。

エプロンもつけずに、夏は半袖Tシャツ、冬はモコモコのフリースを着て、いかにも気ままに暮らしてますというファッションで店頭に立つヒロさんを見ると幼い頃に夢見た「おはなやさん」のイメージは容易く崩れていく。


大学入学を期に一人暮らしを始めた私に、映画サークルの先輩が「晩御飯付のバイトやらない?」と誘ってきたのがヒロさんとの出会いだった。自営業のヒロさんはサークルのOBで、ロケ地などに行くときに車を出してくれる面倒見の良い人だった。現役学生は、その恩恵を得る代わりに従業員がいない花屋でほぼタダ働きをする伝統があった。夜中でも自由に動ける学生を、とのことでその年は私を含む数名の暇そうな学生が先輩により選出されたのだ。お金は自分の本命バイトで稼ぐとして、このボランティアのような花屋のバイトに何を見出だしてモチベーションを保つことができるのだろうか。嫌々先輩に付いて行った私達新入生をヒロさんは明るく出迎えた。

「ヒロさん、今年の生け贄です。」

「やー、毎年有り難いね。無理強いはしないから、来れる時だけ来てね」

そう、ヒロさんのモットーは来るもの拒まず、去る者追わず、また来たときは快く受け入れる。だから一日だけ手伝って辞めてしまう学生がいれば、社会人になってからも仕事終わりにお店に顔を出し続けている先輩もいた。

私も繁忙期だけのつもりでいたが、話が面白く優しいヒロさんの人柄に惹かれて気付いた頃には三年生になっていた。


『今度の休み暇?この前言ってた映画のDVD借りたから、仕事終わりに一緒に観よう』

そんなメールが送られてきたのは、ゴールデンウィークを控えた4月の下旬。ヒロさんと以前、夜中まで大量の供物用の花束を作っていた時に話していた映画が円盤化されたのだ。覚えていてくれたんだ、と嬉しさを噛み締めながら速攻で了解の返信。


約束の日、20時になり店内に散らばった枝葉を箒で集めながらヒロさんに聞いた。

「お店で映画観ながらご飯食べますか?それともユキさんといっくんとご飯ですか?」

ヒロさんのバイトのご飯付きというのは、奥さんが作ってくれるご飯のことだ。息子のいっくんの世話をするのもバイトのうち。一人暮らしの寂しさをヒロさん一家にいつもかき消してもらうかのように、お世話になっていた。

「いや、今日は二人ともユキの実家に泊まりに行ってるから。ずっと楽しみにしてた映画だから今日は良い環境の所で見ようと思ってさ」

お店でもヒロさんちでもない良い環境ってどんな所なのか、私には想像がつかなかった。

店のシャッターを降ろして「じゃあ行こうか」と、言われるがままに付いて行きコンビニで好きなパスタを買ってもらい、行き着いた場所はホテルだった。ヒロさんがパネルから適当に部屋を選択し。ルームキーを受け取った姿を見て、ようやくここがビジネスではないラブホテルだということに気が付いた。今までヒロさんとそんな雰囲気になったこともなかったので、努めて冷静を装ったけれども私は処女だった。ラブホテルなんて当然初めてだった。ニコニコとご機嫌そうなヒロさんがエレベーターに乗って、部屋まで案内してくれた。

「いやー、大きな画面で映画観たくてさ。仕事終わりに時間気にしないで見られる場所って言ったらさココだとひらめいて。やっぱテレビ大きくていいね」

ヒロさんはテレビの大きさにご満悦だったが、私の目は大きなベットに釘付け。これから一晩ヒロさんとここで過ごす?ヒロさんは全くやましいことはないのだろうか。だったら私もやましいことは考えてはいけない。落ち着かなくちゃ。

「ご飯食べる前に、シャワー浴びようか。先どうぞ」

えぇーーーーっと叫びそうになる気持ちをこらえて

「そうしまーす。髪ガサガサだから花粉落としたい」

と答えた。こんな展開になるんだったらコンビニで下着も買えば良かった。いや、家から替えの下着を持ってくれば良かったのか。泊まりになることまで言ってくれないヒロさんはやっぱり何も考えていないのだろう。シャワーを出して鏡の向こうの明かりに気が付いた。驚いて振り返ると、テレビの明かりだった。半透明のガラスで浴室が仕切られていた。全部透けていなかったことに安堵しながら、シルエットだけ見えていたら逆にいやらしくないかと思った。こういう時、念入りに体の隅々まで洗うものなのだろうけど、ヒロさんに見られているかもと思うと恥ずかしくて早く済ませることで頭がいっぱいだった。


「お先にありがとうございました。」

出るときも、バスローブを着るものか最後まで悩んだが意識しないためにも来た時と同じジャージ姿で部屋に戻った。

「じゃ、俺も行ってくるわ。先ご飯食べてて」

ベットに腰かけると、背後のガラスからシャワーの音が聞こえた。絶対に振り返らない、そう決め込んでパスタを口にした。


「うんうん、いい話だった」

エンドロールが流れヒロさんは、伸びをしながら後ろに倒れこんだ。私はあれだけ楽しみにしていた映画なのに、終わりに近づくにつれてソワソワしてしまいセリフが飛び飛びに聞こえていた。ハッピーエンドだったかな、ぐらいの曖昧な記憶。

「さて、今日も仕事頑張ったし早く寝ようか」

ポンポンと自分の横を叩くヒロさん。この流れは一緒に寝るってことでいいんだよね、と確認しながら隣に寝転んだ。

ヒロさんは私の背中に手をまわした。ブラのホックを取られる、と思ったらやさしく背中を撫でてくれた。

「いつも文句も言わず手伝ってくれてありがとね。ほんと助かるよ」

ヒロさんの声は優しくて、じんわりと体が温まっていくようだった。まるで子供を寝かしつけるような態度に、やっぱりヒロさんにはそんな気はないんだと改めて確認する。その時自分でも思いがけず、ビクンと体がのけ反った。背中をスッと撫でられるとゾクゾクとするのだ。

「くすぐったかった?」

「…くすぐったい、というより気持ち良くって」

思わず正直に答えてしまった。勘違いされたのではないかと思ったけど、ヒロさんは優しい顔をしていた。

「そっか。もっとスキンシップとってあげれば良かったね」

そういうと撫でまわす範囲が広がった。肩から尾てい骨にかけてゆっくりとヒロさんの手が円を描くように滑る。

声が出ないようにフッと息を漏らすのが精一杯で、ヒロさんに甘えるように体を近づけた。

 

「じゃあ、ヒロさんまた来週」

「気をつけて帰るんだよ」

駅前の道でヒロさんと別れた。5時台の電車は人が少なかった。朝日が眩しくて、目を細める。涙が滲んだ。

何も無かった。しばらく私の背中を撫でた後、ヒロさんはそのまま寝てしまった。キスも無し、お互いの性器にふれることも無し。嘘だと思いながらホッとしている自分がいた。奥さんと子供がいる人が初めての人になったら、私は今後普通の恋愛はできなくなると思った。ヒロさんも好きだけど、私はヒロさん一家も大事だから「抱いて」なんて変なお願いしなくて良かったと思った。

じゃあ、何で涙が出そうになるのか。

情けなかった。処女ならもっと可愛らしく振る舞うのが当然だろうに、私は童貞のように焦ってばかりだった。いや二十歳を過ぎて

焦っていたのだから、もう童貞と一緒だ。

よく芸能人がスクープされると、『何もありません』って答えるけど、本当に何もしないままホテルを去る男女はどれくらいいるのだろうか。

ヒロさんの草木の汁で染まった緑色の指を思い出しながら、ヒロさんはズルいなと思った。



これが、このあとできた彼氏の前で「ホテル初めて、緊張する」って言ってのけた、私の情けなくて恥ずかしいラブホデビューの話。

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緑色の指 町田小町 @m-komachi

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