埼玉県秩父市-②

良い大学に行けば、すべてが変わると思っていた。


「私はお前たちとは違う」。高校時代の私の根幹は、これであった。私は、こんな田舎に住んでいるから頭の悪い高校に入らざるを得なかったのだ。東京に住んでいたら、私はきっと、もっと頭が良かったし、人間的に素晴らしくなっていた。高校時代の私は、そう考えていた。


埼玉県秩父市。この場所に進学校は、ない。


だからこそ、私が良い大学に入れば、私は世間からも、自分からも、評価が上がると思っていた。

そう思って、私は親に頭を下げ、浪人したのだ。

嗚呼人間の欲というものは、なんとも愚かしくて汚れたものなのだろう。私は今となってはそう思う。

与えられた環境や待遇に満足することなく、現状を破壊しようと試み、そしてどうにもならないのが人間であるのだ。どうにもならないなら、何もしなければいい。ただ、平穏に生きればいい。

なぜ私がこんなに捻くれた女になったかは私でもわかる。


浪人した末に行った大学は、現役生の時にも受かった大学であったから。


__________________________________________________________________


国道299号線。秩父の山々をぶち抜くトンネルをくぐれば、すぐに秩父市街へと入れる。しかし、それではあまりにも味気ない。

真の旅人は、移動をも愛する。「点」ではなく、「線」の旅行を愛するのだ。


街灯はもはや頼りなく、バイクのライトのみを頼って前へと進む。前にも後ろにも車もバイクもいない。段々と道幅が狭くなる。つづら折れの道が多くなる。

坂もキツイ。四速だとスピードが落ちてしまう。


ガン……


シフトペダルの後ろの部分を踏む。スロットルの動きがエンジンと切り離される。所謂「クラッチを切る」状態。

そのままスピードの表示を確認して――

ペダルを離す。


コン!!!


ガクン、と前のめりになる反動を押し殺し、ギアを下げた。この感覚はやはり苦手だ。首の骨を悪くするんじゃないか?

180°旋回するような道も、ハンターカブなら30km/hくらいですいすい渡れる。車なら三輪車のほうが早いようなスピードで曲がらなければならないつづら折れの、いろは坂のような道だって、私のカブならなんのその。

どんどん寒くなってくる。肌に当たる風がだんだんと刺すような寒さへと変わっていく。

耳はおかしくなる。耳の中に圧縮された空気を詰め込まれたような感覚。

あたり一面は真っ暗。バイクのライトも頼りない。

野生のシカと目が合う。ライトに照らされ、草むらへと駆け込む。

三速のカブのエンジンが唸る。四速にすると遅くなる。三速。また唸る。

真っ暗闇の中、山道の隅に佇む小さな神社の鳥居が、薄気味悪くカブのライトに照らされる。「こっちに来い」。そう手招きをされているように見え、私はつばを飲む。止まらず進む。


身体は縮こまり、耳はイカれ、口内は乾燥し、精神は恐怖する。




心地よい。


生命の限界を感じるようなこの瞬間に於いて、私は生を実感しているのだ。マゾだ何だ、そんなものは私の世界をわからぬ愚か者の発する僻み。

私は今、この瞬間に、私自身の存在意義を感じているのだから。





「山伏峠」。そう書かれた看板を見つけたなら、もう下り坂。

ただひたすらに下っていくと、埼玉県横瀬町。もう少し進むと、秩父市。

私はなぜ秩父に来たのか。答えは簡単だ。私は蛾であるからだ。

「秩父ミューズパーク」そう書かれた方向へと突っ走る。休日ならカップルや子連れという、性欲に負けて要らぬものを増やしてしまった癖に我々に偉そうに減らず口を叩く愚か者がシロアリの如く大量にいるのだが、平日は誰もいない。


公園橋を渡り、少々の山道を登ると、「それ」はある。


卒業式に「旅立ちの日に」を歌った日本人は多いと思うが、実は「旅立ちの日に」の発祥は秩父市なのである。

そんな「旅立ちの日に」がBGMとして延々と流れている、不気味な展望台が秩父ミューズパークにある。

展望台の真下にある駐車場にバイクを止め、近くの自販機で温かいコーンスープを買う。

缶を振りながら、足早に展望デッキを登り、ゆっくりとその景色を眺めた。


光り輝く秩父盆地の夜景だ。

街灯と民家の光に照らされ、真っ暗な山々がほんの少しだけ黄色に色づく。

俗物共が欲を追い求めるその姿が、光となって私の目に反射する。


美しい。


人間の営みに誘われ、汐留波瑠華しおどめはるかという名の蛾は、よくここへ行く。


「…愚かなもんだ」


私は、出たくて出たくて仕方がなかったこの街の夜景が、世界中のどんな夜景よりも、それは東京スカイツリーや大阪の通天閣からみるそれよりも、

美しいと感じているのだ。


缶を開ける。甘いコーンの香り。冷たい風。

ゆっくりとスープをすする。


「缶のスープも俗物、か」


なんだかおかしくて、笑う。

こうして俗物たる人間を蔑んでおきながら、私もその俗物の一員であるのだ。

現状を変えようと努力して、そしてどうにもならずに絶望する。この旅も、次の旅も、きっと同じことを思い、そしてこの「旅」自体も、無益なものであったと絶望するだろう。


それでも私は、旅がやめられない。

白いジグソーパズルを組み立て、ひっくり返し、また組み立てる。

私は、きっと死ぬまでこの大きくて真っ白なジグソーパズルを組み立て、そしてひっくり返し続ける。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る