第13話 トモガラ

 事務所を出た四方田は町を独りで歩いていた。平日のお昼時、サラリーマンと多くすれ違う。真面目に働いている人間を見ると、自分のことが酷く惨めに思えてくる。

 四方田は次第に早歩きになった。周りを見ながら挙動不審な態度でポケットに手を突っ込み、フードを被った。

 行き交う人々が皆、自分のことを馬鹿にしているように見える。笑っているように見える。妬みや嫉みではない。過去の自分に対する怒りがそんな幻想を見せていた。普通に働き、普通に生きていれば、この雑踏と同じ人生だった。だが自ら普通を投げ捨て、転落していった。

 今もこうして、顔を隠し、取り立て屋が怖くてびくびくしながら歩いている。

感情の起伏は体に現れ、さらに早歩きになった。奥歯を噛み締め、顔を俯かせながら、篠月のことを考える。


 目の前で見せられた契約書。本当にそのようなものがあれば、喉から手が出るほど欲しい。

 気が付いた時にはテーブルに置いてあったペンを握っていた。反射的だった。自分でもペンを持って、その契約書にサインしようとしていることを気が付いていなかった。

 だがふと我に返り、そのペンを投げ捨てる。


「まだ踏み切れないか」


 篠月が低い声でそう言った。目線を逸らし、小さく頷くことしかできなかった。


「それならいい。だが私はいつでも待っている」


 手に持っていた契約書は消えていた。投げ捨てたペンもすでにテーブルの上にはなかった。

 何の当てもなかったが、「まだ逃げちゃだめだ」四方田の脳内にはただこの言葉だけが浮かんでいた。何をしていいのかすら分からないが、やらなければならないことがある。そう思って、事務所を飛び出した。


 横断歩道を渡り切り、牛丼屋の前を通りかかったとき、何者かに肩を叩かれる。四方田は俯きながら歩いていたため、前をあまり見ていなかった。何者が肩を叩いのか、俯いていた四方田の目にはスーツの裾と革靴だけが目に入る。

 その瞬間、咄嗟に逃げ出そうとしていた。次の一歩を切り返し、走り出す。

 直感で取り立て屋だと思ったのだ。

 背筋が凍り付き、冷汗が体中から溢れだした。あいつらは恐ろしい、金を取り立てるためなら何でもやる。白昼堂々、金属バットで頭を殴りつけるし、四方田が金を借りに行ったときはパーテーションの向こう側から人とは思えない悲鳴が聞こえてきた。捕まったら終わる。拷問され、死ぬ事も許されず、涙さえ凍るオホーツク海の漁船に閉じ込められる。

 勢いでフードがはだけ、必死の形相でその場から走り去ろうとした。相手の顔を見ずに、とにかく逃走経路だけを考えた。だが今度は腕を掴まれる。かなり強く、逃がしまいと。

 四方田は泣きそうになった。終わった……そう確信した。

 だが次の瞬間、思いもよらぬ一言を駆けられた。


「麻ちゃん……だよね」


 四方田の足が止まった。やたらと懐かしい響き、その名で呼ぶ者は一人しかなかった。

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