第6話 ウラオモテ

 クリップを外し、名刺を握り締める。拳の中でくしゃくしゃに折れ曲がった。

 クローゼットの中から一番地味な洋服に袖を通し、丸まった名刺をポケットに突っ込む。カバンも持たず、化粧もしていない。早く篠月に会いたい。この存在を消し去ってほしい。この時間が早く終わり、あの子が生活する日常に戻ってほしい。

 慌てながら靴を履き、つま先を地面に打ちける。片足はかかとを踏んだ状態でアパートの部屋から飛び出した。一段飛ばしで階段を駆け下り、そこでやっとかかとに指を入れ、靴を履き直すと、降りた前髪の先に人影を感じた。

 ゆっくりと顔を上げ、前髪の隙間からスプリングコートのひらめきた目に入る。


「なんでここに?」


 驚きの表情で篠月を見つめたが、すぐ顔の筋肉を引き締めた。


「早く消してよ、あたしのことを」


 すがるように篠月の双肩を揺すり、切迫した血相を近づける。


「ああ、今日はそのつもりで来た」


 篠月は優しい声でなだめながら、どこからともなく契約書を取り出した。それを見た田宮の生唾を飲み込んだ音が聞こえる。


「あまり野暮なことは言わないつもりだが……」


 篠月はそこまで喋ったが、息を止め、口を噤んだ。


「分かっているわよ。あの子は私のことを大事に思っている。だから消える必要なんてないってことは。でも私が居るおかげで時間を奪っている事実に変わりない。もしも私が居なければ、この二十年間はすべてあの子のものだ。もう私は時間を奪いたくないの」


「覚悟はできているんだな」


「ええ、そんなものはずっと――」


 その言葉を聞き、小さな溜息を洩らした。

 篠月は胸ポケットから木箱を取り出す。その中から一本の万年筆を取り出し、渡した。先から真っ黒いインクが滲んでいる。

 この契約書にサインすれば、この存在は元からなかったことになる。関連したものも同時に消え去り、何も残らない。そうなればお互いの存在を共有し合ったあの日記帳もこの世から消え去るのだろう。この肉体は元から一人の人格で、生まれてからずっと一人だ。

 友達と遊び、アルバイトをして、安いアパートに暮らす、ごく普通の女子大生。それが本来の姿だった。

 万年筆を握り、契約書にインクをつけた。その瞬間、手が震えた。足が震えた。だが大きく息を吐き、晴れやかな笑顔を見せた。

 篠月はその笑顔を上から見収める。屈託のない造り笑顔だ。

 確かな字で名前を綴った。

 これで全てが終わる。あの苦悩も、苦痛も、窮愁も、綺麗に消え去り無に帰す。ただ一つの小さな罪悪感も失われ、そして大きな罪悪感と共に。

 サインが完了した契約書を受け取った篠月はじっと見つめた。


「不備はない。これで君はこの世にいなかったことになる」


 そう言うと、指を鳴らした。その音が響き渡り、遠くに消え去ると同時に気を失った。篠月はその体は抱え、鍵すらも閉まっていないアパートの部屋に担ぎ込んだ。再び目覚めた時、その人格は一つになる。ずっと昔からそうだった。そして篠月と会った記憶もきれいさっぱり無くなるのだ。

 篠月は布団に寝転がる寝顔を見つめて、言った。


「悪く思うなよ」


 アパートの扉を静かに閉め、その場からそっと立ち去った。



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