1-5.紙とペン
『なまえおしえて』
人間が他者に言葉を伝える手段として一番使い勝手が良いのは、声を発することだ。
声色を調整しさえすれば感情表現も簡単にできるし、何よりも思ったことを秒速で伝えることができる。
けれども、その手段を選べない人間もいるということを、俺はこの歳になってようやく知った。
声を発することのできない人間はほとんどの場合、文字を使う。声で伝えられなければ、文字を使えば良いのだ。
ただ、“書く”という行為は“発声”に比べると、極めて効率が悪い。
頭で考えてから相手に伝わるまでの間に、一定のロスタイムが生じる。
現に俺は、学校までの道のりでメモをしながら隣を歩く彼女を見て、その不自由さを痛感している。
――ツンツンッ……
隣から腕を突かれて我に返る。どうやら俺は、歩きながら意識がどっかに行ってたらしい。顔の前にわざとらしくメモ帳を差し出される。
『なまえ、おしえて』
メモ帳に記された綺麗な文字列を眺めながら、俺はなんだか変な気分を味わっていた。
「……ん?あぁ、ごめん。
彼女は俺の名前を聞くと、なぜか少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
……なんだ、その変なリアクション。
白沢は再びゆっくりとメモ帳にペンを走らせ、書き終えると控えめにそれを見せてくる。
『なんか親近感』
一瞬、目が合う。
頬をピンクに染めてハニかむその姿に……胸の奥でぽっと何かが点火された。
「親近感って……。あぁ、苗字?」
胸の灯火を誤魔化すように聞く。
桜木とさくら。まぁ確かに、なかなかの組み合わせか?
もし結婚したら……なんて。俺はアホか。
恥ずかしそうにしたまま頷く白沢。こいつも中身は意外と、乙女なのかもしれない。
「つーかさ、歩きながら文字書くのって難しくね?」
純粋に大変そうだと思った。歩きながら書いてるわりに、見せられる文字が綺麗なもんで驚く。
チラッと俺を見たかと思えば、急に白沢が立ち止まった。俺も慌てて足を止める。彼女の視線は、俺の頭上に……
「なんだよ。この前、阿部にやられただけ」
いかにも黒染めしましたって色した俺の髪。似合ってないって笑われんのかと思って、一応先に牽制しておく。
白沢は、またニコッと効果音が聞こえそうなくらい上手に口角をあげて笑うと、すぅっと俺の髪に手を伸ばした。ほんの少しだけ髪に触れた指先は、すぐに離れていく。
「……あ」
彼女の指先には、桜の花びら。
……なるほど。いつの間にそんなものを貼り付けて歩いていたのだろう?
白沢は、俺の髪から取った桜の花びらをメモ帳の一番後ろに挟むと、先程のページを開いてまた何かを書き始める。
『髪、似合ってないね』
メモ帳を俺に見せ、揶揄うような目で見てくる。
ほらな……?やっぱり。
まったく褒められてなんかない。むしろ貶されているのに……彼女は何となくそう言う気がしてたから、予想が当たって俺は心がくすぐったかった。
要は、嬉しかった。
会話って口でしなくても意外とちゃんと成り立つんだな。なんて考えながら再び歩き出す。
白沢は一言も声を発していないけど、表情や仕草からいろいろなことが読み取れる。今きっと、こう思っているんだろうな……だとか。
たとえその予想が外れていたとしても、別に構わないと思った。俺の好きなように彼女を解釈していけば良い気がした。
そうやって少しずつ彼女を知っていければ……って、俺は何でこれからもこいつと関わって行く気満々なんだろう?
とりあえず、紙とペンがある限り彼女の言葉もちゃんと聞ける。本当に答えを聞きたいときだけ、確かめよう。
「……あったけぇな~」
春の日差しで温まった風が、隣を歩く彼女の髪をふわっと揺らす。
高校……行きたくねーな。
これまでとは別の理由で、そう思った。
高校なんか行かず、心地良いこの時間が一生続けば良いと……そんな乙女じみたことを、俺は不思議と考えてしまっていた――
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