第625話


「使うなよ」


 ボソリ呟いた言葉は、体を寄せてきたフランに向けて放ったものだ。


 ギュッと握り締められたフランの手の中には、何故か気持ち悪さを感じさせる紋様が不気味に蠢く黒い杖があった。


「……敵の首魁がそこにいるのよ? 私の命を使うぐらいの価値が――」


「無いね」


 姉がいると知れた時から、その覚悟があったのだろう。


 ともすればタイミングを図っていたのは姉ばかりではない。


 妹の方もそうだ。


 近くに俺さえいなかったのなら、あの巨大な白鯨さえどうにか出来るという杖の威力をお披露目していたかもしれない。


 攻撃の範囲を絞れるというのならその限りではないが……本人も使用したことのない杖ということもあって、その自信が湧いて来なかったのだろう。


 ましてや魔法を放てたこともないという話だし。


 それでも言葉に出るぐらいには、今の状況に惜しさを感じているようだ。


 ……まあねぇ? フランの言葉じゃないけれど、クリア条件さんが目の前にいるもんなぁ。


 ここにジト目の幼馴染が居れば、何か妙案というか奇策を授けてくれた可能性もあるが……残念ながら欲しい時に居ないのが俺の幼馴染達である。


 役に立たねえな、あのジト目。


「お別れの挨拶は済んだかしら?」


「全然途中だわ。見て分かんねえのか? あと八十年ぐらい待ってろ」


「……」


 無言のまま、それでも微笑みを絶やさないフランの姉が、新雪を思わせる真っ白な杖を手に立ち上がった。


 まるで指揮棒のように、ゆっくりと杖が持ち上がる。


 その動きに合わせるかのように……出入口を固める騎士の皆様方が今にも飛び掛からんばかりに体を沈めた。


 どうやら時間をくれる気は無いらしい。


 霧を吐くか? いやシェーナの魔法は風だ、無効化される、なら両強化を三倍に? 頼り過ぎは危険だ、発動しなかった場合を考えろ、魔力だけはある、これで出来ることを――


 引き延ばされる感覚の中で、シアンとかいう酷薄美人が持ち上げていた杖がピタリと止まる。


 僅かに掻いた汗が頬を伝った。


 今更ながらに気付いたのだが……あの姉野郎が常に浮かべている微笑は、儚げではあるが勝ち誇っているようにも感じられる。


 常に人を哀れんでいるような、常に上から地上を見下ろしているような……そんな相手を下に見ているような笑顔にも見える。


 ――拳が焼け焦げようともあの面に一発ぶち込むか?


 どちらにしろ逃げ出す方が困難だ。


 なんせ後ろにはあの高スペック獣人共が控えているんだから……。


 よし決めた。


「おい、フラン。突っ込む」


 呼び掛けも短く――どういう手順を踏むかも既にツーカーなせいか、ただ真摯にコクコクと頷くフランが更に体を寄せてくる。


 引っ掴んで運んでいいとの合図だろう。


「さようなら――」


 痛ましさすら感じさせる……ともすれば本当に妹を思っているような姉の面で、逃れられない断頭を思わせるギロチンの刃のように、一切の躊躇などなく――シアンは掲げていた真っ白な杖を振り下ろした。


 途端に目の前が真っ暗に染まる。


 しかしそれは一瞬にして命を奪われたというわけではなく……。


 物理的に暗いのだ。


 どういうことなのか、一瞬前までシアンの体を這うように覆っていた紫電すら……その姿と共に消えている。


 これが相手の意図してない現象なのだと気付いたのは――飛び込んできた声を耳にしたからだ。


「こっちだ! 走れ!」


 焦りと戸惑いに襲われていた体は、しかしその声に即応して見せる。


 暗くなると同時に引き寄せていたフランの体を、まるで荷物のように小脇へ抱げ、一切の躊躇なく声のした方向へと駆け出した。


 姿勢は低く、一直線に。


 暗闇の中を何かが疾った。


 奇妙なことに――この『闇』の中では強化された感覚すら通用しないのか、その何かがハッキリとはしなかった。


 それでも疾ったのだと分かった理由は、その何かが首の後ろを撫で付けていったからだ。


 剣か魔法か……。


 僅かに遅れていたら首が落ちでいたであろう鋭さも、声のした方へと走り始めたことで傷程度に留まった。


 パク、っと新しく開いた口から鮮血が滲む。


 しかし治療は後回しである。


 この『闇』のお陰で……どうやら敵さんはこちらを見失っているようなのだ。


 ここで回復魔法の光は良い目印になってしまうだろう。


 幸いにして太い血管は傷ついていないようだから、短時間なら……!


 流れ落ちる血が服に染み込むのを感じながら、「走れ走れ走れ!」という声に引かれるように暗闇の中を駆け抜けた。

 

 この声で居場所がバレんじゃないか? あんた助ける気があるならもう少し静かにしろよ?!


 敵か味方か分からない第三者の声に心の中で文句を唱えつつも走っていると――唐突に闇が終わった。


 それは前兆のない終わり方だった。


 光が見えるとか闇が薄れるとかではなく。


 急に、パッと、唐突に――――景色が戻ってきたのだ。


「よしよしよしよし! いいぞ! よく来た! さあ飛び込め!」


「……お――ッ?!」


「やあフラン。元気かい? リトルレディ。毎度のことで悪いんだが、挨拶は後回しにしよう。あれは落ち着いた状況で暇だから出来る遊びだ。それで、あー……君々きみきみ。非常事態だから許すが、本当なら女性の扱い方について二、三ある。時間があればエスコートのエの字からレクチャーするところだぞ?」


 ……知り合いか?


 フランの反応からどうやら味方だと判断出来るが……。


 外で遭ったら目を合わせない類の相手である。


 急に形を取り戻した景色には、大きな窓から後光を轟かせる誰かの影があった。


 本来なら引かれている分厚いカーテンが捲くられ、ここがゴールだとでも言うように窓の外へと手を振っている。


 ……「飛び込め」とか言ってたな?


 細部は影でハッキリとしないのだが、胸元の開いたシャツに派手なバンダナ、編み上げのブーツにジャラジャラとしたアクセサリー……極めつけは、長い髪を所々で編み込んだり丸めたりした変な髪型だろうか。


 まんま輩である。


 これにカトラスでも握らせて、中折れ帽でも被らせたら、何処ぞの海賊船の船長のようではないか。


 しかし紳士然とした面には髭がなく、どことなく所作の端々に気品を感じられる気がしなくもない。


 つまり姿形も立場にしては文字通り『得体が知れない』奴である。


 ……何だコイツ?


 答えは驚愕していたフランから返ってきた。


「……おじさま」


 バカ言うな。


 こんなん俺の知ってる『叔父様』と違うっちゅーねん。


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