第622話


 絡ませていた腕を解いてスタスタと歩き始めるフランの手には……いつの間に取り出したのか不気味な模様が蠢く気色悪い杖が――


 って、待て待て待て!


 完全に『見つけた』クリミナルになってるから! 『気がついたら周りの景色が赤かった』になってるからあ?!


「大丈夫よ、心配しないで」


 置いてかれるまいと追い掛ける俺に、フランの声が届く。


 しかし振り返らなかったフランの表情は見えず……無機質で無味乾燥な声音だけが響いた。


 取りようによっては『平静』……もしくは『嵐の前』のどちらかだ。


 躊躇している場合ではないと練り上げた魔力は、いつでも身体強化魔法と肉体強化魔法の三倍の併用にも耐えられるものである。


 こちらの存在に気付いているのかいないのか、フランが姉と呼ぶ存在はステージに釘付けで視線を寄越すこともない。


 無防備な横顔を晒している。


 『まさに』、だ……なんと都合のいい状況なんだろうか。


 強いて問題を上げるなら目撃者が多く、どんな大義名分があろうともここで手を出せばフランに不利な証言しか集まらないことだろう。


 なんなら身分を詐称して近付いているのだから何を況んやである。


 スッと椅子の前に立つフランに先して椅子を引いてやった。


 さすがに勧められる前に座るというのは不調法なのか、給仕についている従業員さん達も『なんだこれ? どうすればいいんだ?』という気配を醸し出している。


 驚きなのは警護っぽいのがいないことだ。


 忌避されているらしいアニマノイズを連れ歩くようなことはないだろうと予想していたものの、シェーナのような騎士の数人は伴っていると思っただけに、予想外と言えば予想外か……。


 本当に『お忍びで観劇しているだけのご令嬢』にしか見えない。


 そのお嬢様に――テーブルを挟んだ対面の椅子に腰掛けたフランが言う。


「シアンお姉さま」


 ここまでされても……そのシアンお姉様とやらに驚きはなく、それどころか『困った子ね』と言わんばかりの表情でようやく歌劇から目を離したところだった。


「第二幕の終盤よ? 最もいいところで声を掛けるのは……マナーとしてはともかく心情的に良くないわ、フランシーヌ」


 その表情の弱々しさや、どこか儚い雰囲気を持つ薄幸具合からは……とてもフランから聞いた『お姉様』像と当て嵌まらない。


 女性的な曲線を描くプロポーションは、禁欲的とも言える程に肌を隠しているドレスでも隠し切れず、しかし仄見える全体像からは太さを感じることがなかった。


 整った顔立ちもフランとは別方向に綺麗で、唯一同じだと思われた瞳の色すら、その輝きはフランよりも強く映る。


 黒髪を無造作に伸ばしている様は、何処か故郷を思わせる貴人を想像するに容易かった。


 ともすれば、声を掛けることにも憚れそうな――――


「御家乗っ取りなんて企てる方がよっぽど心情に悪いわよ」


 おっとぉー……。


 しかしどこか雰囲気のある薄幸の美人の迫力を物ともせずにフランが切り返した。


 さすがに聞かせるわけにはいかないとしたのか、シアンお姉様とやらの僅かな目配せで従業員が退出していく。


 それは自信か、はたまた罠か……。


 胃が痛くなってきたからトイレタイムとは行くまいか……?


 何かあった時のためにとフランの背後に立っているのだが……正直舌戦に参加出来る気はしない。


 居残る俺のことなんて正しくアウトオブ眼中な姉ちゃんが、フランへ窘めるような口調で話す。


「御家の者でもない誰かがいる所で、御家の事情を話すのも良くないわよ? 少し見ない間にそんなことも分からなくなってしまったの……?」


 慚愧に堪えないという悲しさを表情に見せるお姉様は……なるほど、本性を知らなければ思わずハンカチの一枚でも差し伸べたくなる可愛いらしさまである。


 しかし言ってることはチクチクしているのがまた何とも……。


 上から見えるフランの手は、それが折れない杖だからいいものの……随分な力で握り締められているのが分かった。


「ふざけないで。私は真面目な話をしてるのよ? 最悪、中央に――陛下にご裁可を頂くことも考えてるわ」


「あら? 何の?」


「何って……お姉さまの所業をよ! 決まってるじゃない?!」


 話しているうちにボルテージが上がってきたのかフランの口調が荒くなる。


 気持ちは分からんでもない。


 なんというか…………この姉ちゃん、怖くない?


 一切の悪意がないというか、こちらをまるで相手にしてないというか……そういうところがある。


「私の所業……? まさか観劇していたってだけで陛下に裁可を頂くの?」


「〜〜〜〜ッ!! お父様についてよ! 御家の! 実権を! 握るために! 何か無体を働いたでしょう?! 私にだって刺客を差し向けたわ! アニマノイズなんてお国に入れて!!」


 怒り心頭と立ち上がるフランに……事ここに至っても笑みを絶やさない姉。


 ……なんだ? 何か……変じゃないか?


 思わず部屋の彼方此方に視線を飛ばすも、何か不審な気配は見つけられず。


 ゆったりとした――何処か耳に心地よく残る声だけが響く。


「何を言ってるの、フランシーヌ? お父様は既に復帰されているわ。今頃は元気に采配を振るわれていることでしょう」


 それは酷く甘く、蠱惑的に……フランを誘った。


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