第565話 *フラン視点
バカ! バカ! バカ! バカ!
目の内側から込みあげてくる何かを押し込んで、全力で船の中を駆けた。
落ちるように駆け降りていた階段の途中で、船が本格的に揺れ始めせいか足を滑らす。
強かに打ち付けられた体が、痛みに足を止めるように言ってきたが無視して立ち上がった。
擦った膝から滲み出た血を拭う暇すら惜しんで走る。
絶えず上がり続ける絶叫や神への祈りを背景に客室の廊下を通り抜け、持ち上がる船底の傾斜に耐えて前へと進んだ。
連絡橋に繋がる接舷室が見えてきた。
船……! 残ってて!
祈るように願いつつも角を曲がると、そこには――――
「や。船が必要なのかな?」
爽やかな笑顔を浮かべる……微妙な色合いの茶色い髪をした貴人っぽい誰かがいた。
僅かも気にならずに――視線は連絡橋の先へと走った。
船――――ある! 残ってるじゃない!!
しかし危険だ。
連絡橋は高波の影響を受けてグネグネと捻れている。
今にも橋は外れ、頼りを失った護衛船が沈むかもしれない。
もはや猶予は残されていない。
目の前の相手が邪魔だ。
何をしているのか、なんで此処にいるのかも分からないけど……倒れている兵士に気を取られている様子がないのだ。
明らかにおかしい。
咄嗟に杖へと伸ばした腕は、しかし空を切る。
そう――杖は無い。
あいつが持っていってしまったから……。
緊張に唇を噛む私に……しかし敵対者と思われる成人そこそこにしか見えない男は、肩を竦めると連絡橋への道を空けてくれた。
…………なんなの、こいつ?
訝しむ私に、男は……淡く、人を魅了しなれた笑みを浮かべて言ってきた。
「なんか勘違いしてるみたいだけど、別に敵じゃないよ。逃げるんだろ? 必要かな、って思ってさ」
肩を竦めて事も無げに言う。
――――まるで自分の手柄のように。
でもこいつの言うことが本当なら……この波の中で、船を維持してたってことになるわ。
…………そんなことって、あるの?
警戒する私に男が続けた。
「逃げないの?」
……時間が無いわ!
何かの罠かもと思う心を叱咤して足を踏み出す。
この死地の中で、しかし平然とする男に奇妙な違和感のようなものを感じるも……『これだけは』という矜持が、擦れ違う時に口を開かせた。
「私、逃げたことないわ」
驚いたように目をパチパチとさせる男に続ける。
「立ち向かってる最中よ」
毅然と告げて駆け出した。
橋を通り抜ける時に……男の声が微かに届く。
「――――俺もだよ……」
振り返っている余裕は無い。
転倒しないのが不思議な程に波はめちゃくちゃに荒れ狂っていた。
駆け抜けた連絡橋が限界だったと波に呑まれて壊され消える。
構っている暇は無く、目もくれずにエンジンルームへと急いだ。
操舵を離れても船を直ぐに動かせる方法が……実は一つだけある。
ナイショだと叔父様が教えてくれた方法――
加工された魔晶石は、エンジンに嵌め込まれた時点で効果を発揮しているわけじゃない。
加減速の度に、適宜刺激を与えられて魔道具を動かしている。
あの失礼な密航屋のような真似は出来ないけど……!
エンジンルームへ駆け込むと、手早く魔晶石が嵌め込まれている動力部を開けて――思いっ切り殴り付けた。
叩き付けるように蓋を閉めて操舵室へと走る。
本当なら暖気運転と行き足を付けるという過程が必要なのだが、すっ飛ばして船が加速し始める。
猛りを上げる護衛船の操舵室へと駆け込むと、舵を握った。
あいつは――――!
その時、唐突に海が割れた。
驚くことも無く――即座に舵を回して船を回頭させる。
――――海が割れた場所へと。
直感は事も無げにあいつを見つけた。
割れた海から飛び出した影――――血みどろでボロボロで、生きているのかも分からない影……。
でもまだ生きてる!
操舵室を飛び出して甲板へと駆けた。
あいつを呼ぶ。
「チャノス!」
険しい顔をしている。
痛いのかしら? 苦しいのかしら?
涙がボロボロと零れた。
「チャノス!!」
あらん限りの声で叫ぶ。
風が行く手を阻み、波が船を揺らす。
邪魔――しないでよ!
「――――レライッ、ト!!!」
――――気付いた!
こっちを見た。
険しい表情は消えて……でも何処か泣きそうな、不安そうな――
――――寂しそうな顔に、見えた。
思わず手を伸ばす。
グラリと傾いた体は止まることなく――まるで人は空を飛べないと気付いたように落ちてくる。
――届かないわよ?! そこじゃ遠いの!
船の舳先から身を乗り出して手を伸ばした。
それでもあいつに届かない。
あっちから、手を、伸ばしてくれれば……!
一人だ。
一人で落ちていく。
絶対に助からない。
それは荒れた海に落ちることと関係なくあいつを襲う。
一人で……――
手を! 伸ばして?!
視線が交錯する一瞬で、あいつの呟きが聞こえた。
「な、くな…………テトラ……」
テトラって誰よ?!
気が付いた時には甲板を蹴ってあいつにしがみついていた。
たぶん、一人は寂しいのよ……こんな強い奴でも。
だからいい。
これでいい。
付いてきてくれたから。
だから……私もこいつに付いていってあげよう。
叩き付けられるような水の感触に、私の意識は遠ざかっていった。
それでも…………――――悪くない気分だった。
波の音と月の光に目を覚ました。
「…………私……死んだのかしら?」
ぼんやりとした意識のまま体を起こす。
これが死ぬということなら……そんなに怖くないわね……。
月明かりが優しく照らしてくれる静かで暗い海を、行く宛も無くなった船で漂流している。
呆然とした気分のまま、未だしがみついている誰かに気付いた。
「…………あぁ……」
……私も死んだんなら、何も目を覚まさないあいつの幻を見せなくてもいいじゃない。
動かない冷たい体に、せめて温もりを与えられないかと抱き着いた。
ドクン、ドクン、という音が…………。
驚きに伏せた顔を上げると、今度はより確実に聞こえるようにとレライトの胸へと耳を押し当てた。
正確で……しかし弱々しい鼓動の音が聞こえる。
呆けたような呟きが漏れる。
「………………生きて、る……?」
視界の端で――――月明かりに黒く輝く杖の、紫色した紋様が不気味に蠢いていた。
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