第560話


 突然変異的に生まれた只の氷塊だったりしないのは、海上に出て来たことでハッキリと分かった。


 その身が海の中から晒されたのなら、バカみたいに感度が上がった五感が生き物の気配を捉えてくれるからだ。

 

 三つ…………。


 振り返れば――他の白い鯨と違う存在であることを主張するように、津波クラスの水を己の周りへと周回させている鯨が視界へと入ってくる。


 もし海中にダメージを負った鯨が、……――


 全部で五体の鯨が、この船を包囲していることになる。


 …………これはもう。


「……この船は、どれだけ速く動けんだ?」


 気が付けば口にしていた問いに、唇を戦慄かせているフランが首を振った。


「……ダメ、とても逃げ切れないわ。いっ……一体でも、本来なら近寄ることすら難しいのに……ご、ご五体を相手にして逃げるなんて……」


「そうか。……気は変わったか?」


 この鯨がどれ程の強敵なのかは、既に身を持って知っている。


 それはこの国出身のフランなら尚の事だろう。


 ――――


 顔色を青白く、指先を細かく震わせていたフランが、俺の言葉を深く体に刻み込むように目を閉じた。


 そのまま一歩、二歩と、海に向かって歩き始める。


 フラフラとした歩みは、まるで迷子のように彷徨い……手探りで手摺りを掴み取った。


 目を開ければ、再び絶望に晒されるのだろう。


 深く、長い、深呼吸の音が聞こえてくる。


 フランの表情は見えない。


 彼女は目を開いただろうか?


 俺は既に伝えている。


 ――――逃げることを。


 出来るだけのことはした筈だ、やれるだけやった。


 ここが分水嶺損切り…………。


 別に変なことじゃない、殆どの人間がそういう風に生きている。


 老後のために貯金して、保険に入って仕事する。


 ……だから変なことじゃない、途中で――――辞めた諦めたとしても。


 これ以上はやれない、これ以上は掛けれない。


 沈みゆく船に乗り続ける人間なんていない。


 それは貴族である彼女だって同じ筈だ。


 戦闘は義務だったかもしれない、しかし事ここに至れば……生き残ることが義務だろう。


 方法はある。


 俺の手を掴めばいい。


 彼女の名誉は傷付かない。


 俺が彼女を攫うから。


 後の事を考えればそれでいい筈……充分なアフタケアーだ…………そう、『後の事』を、人間は考え続ける。


 …………そうだろ?


「……そう……そうね。気は変わったわ」


 しかし振り向いた彼女の目は――――


 彼女が手を伸ばす。


 俺の手を掴むため――じゃなく。


「杖を返して」


 死地へと戻るために。


「……この状況で魔法を使える奴が一人増えたからって……どうにもならんだろ?」


「いいえ、変わるわ。……その杖なら」


 ……これで?


 腰紐に差した杖を手に取る。


 模様が動くという……如何にも異世界っぽいエフェクトのある杖だ。


 フランは続けた。


「それは帝国が他国に誇る『数字付きナンバーズ』、『三杖』が一つ――『天へと至る痛みコントラクト・オーバー・ペイン』。効果は……使用する魔法の威力を、最大限にまで引き上げてくれるの。どんな小さな魔力でも、どんな小さな魔法でも……どれだけ魔法が下手な魔法使いの魔法でも、人が出し得る威力を越えて発揮されるわ」


「…………そんな杖が」


 ――――無条件で使えるわけがない。


 なら何故今まで使われなかったのか、疑問が残る……。


 これを握った状態で『魔法を使っちゃダメ』なのもおかしい。


 威力を強化するにも度を越している――この杖は……恐らくだが軽々に使えない理由があるんだろう。


 続きを待つような俺に、一切の躊躇なくフランが口を開く。


「使用するに当たって、起動状態にしなきゃダメなの。百を越えるが必要で……しかも使用後に、その杖を使用して魔法を放った当人も死ぬわ」


「…………そりゃまた、ご大層な杖で」


 壊しときゃ良かったな、壊れないけど。


 杖の表面で蠢く模様をジッと見ていると……優しさに満ちた声が落ちてきた。


「大丈夫、あんたを撃ったりはしないから。あんたは逃げていいわよ。ここまでしてくれるなんて思わなかったから……嬉しかったわ。……本当よ? あとは……私に任せて」


「なんで――」


 折れないものかと杖を握り締める力は、しかし先程よりもずっと弱々しいものだった。


 折れたら困るから。


 そう、人間は打算で生きている。


 これを彼女が使えば、この船の奴らは生き残れるだろう。


 縁もゆかりもない他の奴らは。


 彼女だけが死ぬ。


 ……なんでだろう?


 なんでこいつは――


「――他人のために命を掛けれんだ?」


 別に家族じゃない。


 友達でもなければ、知り合いですらない。


 幼い頃から共に育ってきた兄妹のような存在でもない。


 知らない奴だ。


 赤の他人だ。


 なんで――――?


 酷く呆れた表情のフランが言う。


「あんたって……ほんっっっとうに! 理屈っぽいわね? 理由理由って直ぐ言うじゃない?」


 だって必要だろう――――生きる理由が。


 何かをするのに理由が、何かを納得させるための言い訳が。


 己のための理由が――


 フランが告げる。



「人を助けるのに、理由って必要なの?」



 そんな、どっかの主人公みたいなことを、途轍もなく青臭い台詞を、平然とした表情で、当たり前だとばかりに――――幼い少女が言っている。


 …………本当にそんなこと言う奴が居るんだな。


「……フッ、ハハ、アハハ……」


 力の無い笑い声が漏れた。


「何よ……私なんか変なこと言ってる?」


「ハハハ……いや、全然」


「そうでしょ?」


 戯けたように言うフランと目が合うと不思議と二人して笑えた。


 一頻り笑い終えると、タイムリミットが迫っていることを知った。


 鯨同士は通じ会えるのか、輸送船を囲むように動いている。


 ある程度の距離を保っているのは、先程の一戦の結果だろう。


「納得してくれた?」


「ああ、あれだな? お前は底抜けのお人好しってのが分かった」 


 上には上って奴だ。


「なによ、失礼な奴ね。私が無事当主になれたら処刑ものだわ。……――杖を」


 表情を真剣なものに変えたフランが、今度は彼女の方から近付いてくる。


 理由、理由、理由……そんなこと言われても、何処か前世を捨て切れない俺には、未だ自分を前世の続き大人だと思っている俺には、理由ってものが必要なのだ。


 命を掛ける理由が。


 他人を救う理由が。


 こんな船の乗員を救うために命を掛ける? ――――やはり俺には、そんなことに命を掛けれる気がしない。


 だから――――


 手の内にある杖をクルリと回すと――再び腰紐の内側へと戻した。


 フランが気色ばむ。


「ふざ――」


「――大真面目だ。人を救うのに理由がいるかって? いるね。少なくとも自分の命を掛ける理由がさ。生きたいだろ? 本当なら有象無象なんかよりも自分を優先して。だから理由ってのは大事さ。金のため、家族のため、恋人のため、なんだっていい。それで『足る』って言えるなら、なんだって。それで自分を騙せんなら、なんだってな! いいや無理だね。人を救う? 船を守る? どうだっていい。どうでもいいんだ。そんな奴らどうでも。なんだって俺がやらなきゃいけねえ? 無理言うな。なんとも思えねえよ。人が倒れた? 救急車呼ぶぐらいだろ。心配? 出来るわけがない。善意? あるよ、ねえわけねえだろ。でもそれぐらいだ。それが普通だ。無茶言うなよ。――大切なのは自分だ! 自分が大切だって思ってるものが大切だ! それはこんな船の乗員を何万人載せようとひっくりかえっこねえ!!」


 箍が緩んでいたからか……。


 命を捨てようという少女に激高していた。


 怒る彼女に怒っていた。


 心の底の底、普段は見えない本音が顔を出す。


 ――――――――だからだろうか?


「でも俺……お前みたいなのに死んで欲しくねえんだよな……」


 ポツリと零れた。


 んじゃ…………それでいいかな?


 理由。


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