第552話


 いや、なんで?


 顔に疑問を浮かべて硬直する俺に、決然とした意志を瞳に宿す少女の視線が刺さる。


「お嬢――」


「少なくない犠牲が出るわ」


 説得しようとする俺の言葉に被せてフランが言い切る。


 それは…………そうだろう。


 しかしそれは、なのだ。


 この世界における魔物との戦いに、命が掛かってないことなんて無い。


 俺だって別に目の前で誰かが危なくなっている時に「手を伸ばすな」なんて言うつもりはない。


 己の命をどう使おうと、そいつの勝手だろう。


 本当に不本意だが……俺にも覚えがないこともない。


 しかし、だ。


 追って来ている――自分を追い込まんとする誰かに手を伸ばしてやろうなんて思ったことはない。


 それはお人好しを越えてイカレてるだろ?


 ……確かに、追われる立場になってはいるが、追って来ている兵士軍人共に、そもそも恨みなんてない――


 けど。


 それが奴らの仕事なのだ。


 俺達を追うことも、鯨と対して命を掛けることも。


 鮮烈な意志を宿した瞳から目を逸らすように、眉間を揉み込むながら言う。


「……それが彼等の仕事ですよ。戦うのが仕事――」


「それは、この船に乗っている帝国臣民もそうなのかしら?」


 ……ああ、そっちか…………そっちかぁ。


 忘れてた。


 ……そういやいたなぁ。


 耳に痛い声が響く。


「無辜の民を犠牲にして得られる勝利なら、私は要らない。……大した才能も無い、碌な魔法も使えない、自分の妹を手に掛けようとする姉に家を乗っ取られ掛けている私だけど、これでも帝国における海の守り神を唱える貴族家の一員なの。ここで逃げるような教育はされてないわ」


「……じゃあ、習ってなかったってだけですよ。誰が責めるんです? 誰だって逃げますよ。逃げましょう……」


 ……逃げることの何が悪い?


 いいだろ? 逃げたって。


 逃げて逃げて逃げて逃げて…………だって見たくないのだ。


 気付きたくないのだ。


 逃げて――――


「私が私を責めるわ」


 傲慢で、不遜で、――逃げ場を塞ぐような実直さを伴った声が、不思議と耳の奥に届く。


 気持ちがそうであるように、視線を更に下へと落とした逸らした


 箱入りの貴族のお嬢様の足が震えていた。


 震えるまいとした手が杖を握り締めていた。


 ――でも声だけは震えていなかった。


 ああ…………嫌だなぁ、こいつ……ほんとやだ。


 なんでこんな奴と関わっちゃったんだろ? こんな……。


 ――――貴族っぽい貴族と。


 もう正面から顔を見れなくて目を逸らし続ける俺に、フランの声が落ちてくる。


「立場や力には責任が伴うわ。は違ったの?」


「…………没落したもので」


 混ぜっ返すつもりで答えた言葉に力は無かった。


 静かだが、確かな響きを伴った声が返る。


「そう。……そうね。貴方違うわね。じゃあ、ここまででいいわ。ここからは、私だけでいい」


「…………そうですか」


「ありがとう」


 まるで『ご苦労さま』とでも言うような傲慢さを伴った上から目線の冷然とした態度で、もう興味がないとばかりにフランが振り返り駆け出していく。


 ――――一度でも振り返ったら……。


 そんな言い訳は意味を為さなかった。


 それが自分の生き方であると、フランは……あの虚勢にしがみつくお嬢さんは振り返ることなく駆けて行った。


 ……ハリボテだ。


 僅かな時間で特に親しくもない俺に透けるぐらい、あのお嬢様の態度はペラッペラの薄いものだった。


 下手な傲慢貴族っぷりである。


 あのお嬢様の本当は…………本当?


 あの娘の本当なんて知らない……これから知ることもない。


 ちゃんと代金分の働きをした。


 仕事は終わりだ。


 ここからはアフターファイブってやつだ。


 フラリと振り返る。


 誰もいない荒れた海が見えた。


 ……揺れるなぁ…………そりゃそうか。


 もう交わらない。


 彼女はあっちで、俺はこっちってだけだ。


 さっさと逃げよう、もう関係ない。


 踏み出した足が揺れる――随分と鯨が暴れているらしい。


 ……幸い、護衛船が一隻残ってる……あれで逃げよう。


 一歩、二歩と踏み出して――――よろめいた。


 咄嗟に手摺りにしがみつく。


 …………なんだ……知らねえよ……何言ってんだ。


 そこまでの契約じゃない、よく考えなくても他国の人間で、しかも帝国、知り合ったのだって昨日今日だ、ふざけんな、あんなの自殺だ、ちゃんと止めたぞ、逃げる約束だったじゃねえか、仕事の範疇外だ、責任ってなんだ責任って、だからって背負う必要はない、痛いのもキツいのも自分なのに、出来るからやるで回る世の中じゃない、そんな慈善家だらけなら世界はもっとずっと平和だ、俺は……俺は…………。


「……俺だって無辜の民だわ」


 呟いて顔を上げる。


 この水平線のずっと先に……村があるんだろうな。


「…………遠いなあ」


 成人した……成人して、本当なら今頃親父と酒なんて飲んで、モテないって嘆いて、畑を耕して、泥のように眠る――



 そしたら気付かないでいられる。



 深く長い息を吐き出した。


 吐き出して……振り返った。


 彼女の道へ。


「俺って……もしかして本気でお人好しなのか?」


 「ありがとう」ってなんだよ……「ご苦労さま」とでも言っとけよ……そういうところでもうボロが出てるわ。


 足がふらつくことは、もう無かった。


 魔力が気勢に応えて唸りを上げた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る