第519話


 まさか俺の人生にこんな時が来るとは……。


 水中にいるのに、余りに違う流れの速さから轟々という音が聞こえて来そうな程である。


 巨船が推進力としている水流。


 本来なら絶対に避けるべき水の流れに、今から飛び込まなきゃいけないという……前世でどんな業を背負えばそんなことになるのか。


 少なくとも前世の俺に身に覚えはないよ?


 良くも悪くも一社会人、数多ある歯車の一つとして機能していた筈だ。


 学生時代においてもそこそこ……つまりは普通の生活だったと自負している。


 後半はボッチがデフォルトだったけど。


 ……ボッチは悪いことじゃないでしょ?! ボッチはさあ?!!


 近年には増えていると言われた御一人様の何がいけないの? 繁栄か? 少子化か?


 そんなもん彼女が出来たら余裕でしたけどね?! いないものはしょうがないじゃないですか?! だっていないんだから!!


 とりあえず参加した同窓会で、一回も話したことない名前も不確かな元同級生に「お前、結婚しないの?」と言われた時の気持ちが分かるか? 『お前を血痕にしてやろうか』だ。


 次からは不参加の返事もなくブッチしたけど、それも仕方のないことだと今でも思える。


 しかしその代償がこれってのは……どうにも納得がいかないんだが?


 いやどんな理由であれ納得するわけないんだけど。


 水流を発生させている海水の排出口は、巨船の後部に大きいのが一つ。


 あとは……底部の左右にいくつか並んでいる。


 恐らくはここの排出で回頭するのだろう。


 後部の一つに比べると左右の排出口は随分と小さいが……それでも人が通るには充分な大きさだろう。


 未だソナーからの反応は無い。


 見つかっているかいないのか……よく分からないところだが、道が一つなのは間違いない。


 ……なら行くのが筋だ。


 船底に張り付けていた手を離し、流れに身を委ねた。


 体が排出口へと近付くと――その縁に手を伸ばし万力の強さで掴んだ。


 ズシリ、と体に重さが増える。


 さすがにこれだけの速さの水流の中にあって、ソナーもクソもないとは思うんだが……。


 見つかってないことを祈ろう。


 体を引き剥がそうとする水の圧力に抗って排出口の中へと入る。


 円形の排出口は綺麗にくり抜かれていて、船底を掴むのとは段違いに張り付きにくくなっている。


 なので仕方なく――


 人外の握力を遺憾無く発揮させて貰い、ベキッという音と共に指をめり込ませた。


 自然と水圧から逃れられる体勢で水流の中を進む。


 匍匐前進、握力バージョンだ。


 匍匐とは名ばかりで指以外の部分が浮いているのだが……俺も大概人間を辞めてるなぁ。


 体を棚引かせながら、排出口の中をゆっくりと前へ。


 さすがに水流の中とあって、いかな感覚の結界といえど俺に情報を伝えてこない。


 そもそも水の中って時点で分かりにくいのに……。


 だからこの先に何が待ち受けているのかは分からないのだが、少なくとも外の巡視船から見つかる可能性は無くなっただろう。


 つまりお嬢様が船に乗っているということもバレてない筈だ。


 …………俺がこの離岸流に流されなきゃという前提が付くけどね。


 徐々に圧力が強くなっているのは噴出口に近くなっているからだと思う。


 パーズは何て言ってたかな?


 確か、噴出口の開け締めで速さを調整するとかなんとか……。


 大まかな原理が変わらないとしたら、今は全開時であると予想出来る。


 というか、さすがにこれ以上圧力を高められたら堪らない。


 全開時であって欲しいと願っている。


 ね? たまには、ね? 神様、ね? 分かるでしょ?


 身体能力はともかく体重自体に変化はないのだ。


 こんな水流を受け続けていたら、いつかは飛ばされてしまうだろう。


 無理やり掴んでいる外装部分も、たまに『ベキッ』という音と共に取れてしまうので……両手部分でイカれたら俺も流されるしかなくなる。


 早く……! 早く終わって……!


 すると願いが叶ったのか――――


 スッ、と……。


 まるで水流なんて無かったかとでも言うように水の流れが収まった。


 突如として収まった圧力に、思わず前後を見比べる。


 流れは消えたものの海水そのものが無くなるわけじゃないので、未だ排出口は海水に浸ったままだが……。


 これは…………今のうちか?


 どうやらチャンスのようだ。


 船を回してるのか、それともある程度沖に出たのか……。


 どのみち今のうちに距離を稼ぐべきだと前へと泳ぎ始めると――後ろから重々しい音が響いた。


 ……なんだろう? 凄ぇ嫌な予感……。


 しかしまさか振り返らないわけにもいかないので、首だけで後ろを確認した。


 今し方、入ってきたばかりの排出口が――無い。


 円形に開いていた向こうの景色が見えなくなっていた。


 閉ざされている。


 これは……早く――


 考えるより先に、今度は進行方向の先から……先程聞いた音と同じような音が響いた。


 ガコン、ってやつだ。


 こちらは先を見通そうにも暗くて見えないのだが……。


 ……なんとなく分かるよ。


 己の考えを証明するように――――急速に水位が下がっていく。


 海水が抜けている。


 恐らくは排水水抜きってやつだろう。


「……閉じ込められたか?」


 海水の抜け切った後には、緩い傾斜が残る先の見通せない丸い配水管のような道だけが残った。


 …………いや、早く終わってとは思ったけども?


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