第516話


 お嬢様と二人、恐らくは荷物に被せる様の布を頭に被って小舟に伏せたのだが……。


「だから! もうちょっと離れてって言ってるの! 横が無理なら後ろとか上とかあるでしょ?」


 後ろはともかく上って何やねん、飛べってか?


 元々一人用の船なのか、先日乗せて貰ったガンテツさんやパーズの所有する小舟よりも更に小さな小舟だ。


 こんなギチギチな小舟に三人も乗れば、荷物役二人がくっ付くのはしょうがないことなのだが……。


 それがお嬢様には気に食わないようで、伏せて早々に文句を言われている。


 誰? こいつを船に乗せたの……。


 至近距離から発せられるキンキン声は、この世界に生まれてからというもの、経験したことのないダメージを俺に与えてくる。


 これがモモぐらいの年齢ならまた違った印象なんだなぁ、って……おじさんには勉強になったよ。


 なにせ前世では既に中学生の頃には異性と没交渉で、家庭を持つどころか彼女すらいなかった社会人だったからを思えば、ってうるせえな。


「出すぞ」


 早く出せよ。


 些か精神が荒んでしまっていて申し訳ない。


 たぶん無実の罪で追われている影響なんだと思う……怖いよね? 無実。


 呟いた逆さ顔は布の向こうなので顔は見えない。


 しかしゆっくりとした振動が船が進み始めたことを教えてくれている。


 この段階に至り、お嬢様も文句を止めて、より体積を減らそうというのか……もしくは接触している面積を減らしたいのか体を縮こまらせた。


 『これは見つからないための工夫だから』という言い訳でメンタルケア。


 しかしお嬢様に接触しないようにと、俺も船の端の方へと体重を寄せた。


 何故だか分からないけど「お父さんの服と一緒に洗わないで!」と言われた時のお父さんの気持ちは唐突に理解出来たよ……。


 し、思春期…………思春期なんだな、きっと。


 隙間から急に差し込んできた明かりに、トンネルを抜けたのだと把握。


 逆さ顔が船を動かし始めた秒数とトンネルの距離とで小舟の速さを自然と逆算する。


 たぶんだが、パーズの船の方が速い。


 これは…………大丈夫なのか?


 目的の船とやらは沖合いだと――――


 心配もそこそこに、強化した聴覚が「止まれ!」と叫ぶ声を拾った。


 恐らくは湾岸警備といったところだろう。


 聞こえてくる舌打ちの音に、逆さ顔が渋面を浮かべているであろうことは容易く予想出来た。


「想定より早ぇ。テメェら一体なにやらかしたんだあ? 厄介な仕事持ち込みやがって……」


「その分の支払いはしてるぞ?」


 なんせ金針十本以上だからな。


「おう、そうだな。じゃなきゃテメェらなんて海に落として俺だけ帰ってるぜ」


 憎まれ口を叩きつつも、逆さ顔がガサゴソと動く。


「ねえ、近付いてるみたいなんだけど?」


 遠くにあった停船勧告の声だが、風の音よりも大きくなったお陰か、お嬢様の耳でも拾えたようだ。


 その分、近付いて来ているのも在々と分かったが……。


「しっかり捕まってろよ」


 説明もなく――――小舟が、突如として猛りを上げた。


 持ち上がった船首に船から落とされまいと足を踏ん張り、お嬢様を掴む。


 ビリビリとした振動は先程までと比べるべくもなく上がっている。


 自ずと知れた増速に思わずと声が漏れた。


「ニ、『ニトロ』か?」


「あ? なんだって? ニェ……なんだ?」


 いや、そんなわけないじゃん……。


 僅かばかりに過ぎった映画のワンシーンのような情景に、加速の原因について言及したが……ここは違う世界で、そもそも『車でなく船だが?』と俺に残る冷静な部分がツッコミを入れた。


 原理が違うのだが、モーターやらダイバースーツやらと……海にあって近代的に思える装備に触れていたせいか、少々毒され過ぎていたようだ。


 …………それにしても、急加速に「ニトロ」発言は無い。


「いや……他の地域の言葉で、凄い加速することをそう言うんだ」


 思わずといった誤魔化しも口を衝く。


 うん、ほんとほんと、俺の周りじゃ皆そうだったから、嘘じゃないよ?


「へえ? ……やっぱり俺以外にもいるんだな、これが出来る奴」


 驚きをもって答えてくる逆さ顔の言葉に、固有の能力なのだと当たりをつける。


 直ぐに思い浮かんだのは、海流を操作出来るっぽい日焼け娘である。


 ……めちゃくちゃ珍しい能力なんじゃなかったっけ? それこそ国を上げて探してもおかしくはないぐらいの……。


 それが密航屋の下部構成員にもいるのか……異世界って不思議。


「お前も海流を操れるんだな」


「はあ? ……ああ、そういうことかよ。違ぇよ。俺がやってんのは魔晶石のってやつだ」


 確証に近い問い掛けだったのだが、返ってきたのは予想にもない答えだった。


 ……暴走? 暴走って言った? え? 魔晶石って暴走するの?


 初めて聞く単語である。


 生活の一部としてある魔晶石文化だが、件の暴走を経験したことはない。


 当然、毎日のようにトイレでは『土』の魔晶石にお世話になっているのだが……まさか暴走する危険があるとは夢にも思わない。


 もしかしてトイレに行くだけで常々危機一髪なの?


「魔晶石って……暴走するのか?」


 それどころではないのだろうけど、ついつい疑問が口に出る。


「普通はしねえな。だが俺には出来る。暴走って言うか……出力を上げてる感覚だ。その分、石が溶けるのも早ぇし、途中で止めることも出来ねえから『暴走』って言ってんだけどな」


 そんな特殊能力持ってんのかよ……。


 そんな奴が早々に喧嘩売ってきてんじゃねえよ――と思うのはいけないことだろうか?


 どうりで逆さ顔が案内人になるわけだ。


 他の奴に出来ないのなら、この人選にも納得である。


「あ、ああああんた達! こんな時によく話せるわね?!」


 速度が上がったことで時折強く跳ねる小舟に振り落とされまいとするお嬢様が、揺れに打ち勝ちながらも叫ばれた。


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