第501話


 更に強化する倍率を上げる。


 身体能力強化を三倍に、肉体能力強化を三倍に。


 研ぎ澄まされていく感覚が、人の領域を越えて欲しい情報を俺の元へと運ぶ――


 何気ない仕草で徐ろに腰を持ち上げた。


 まだ話の途中とでも思っていたのか、暇潰しの材料を探していたお嬢様が訊いてくる。


「どうしたの?」


「いえ、なんでもありませんよ……。強いて言うなら花摘みです」


「あー……って、何処に行くのよ? トイレなら部屋付きのがあるけど?」


 真っ直ぐに出入口へと向かう俺に、お嬢様が首を傾げる。


「……デリカシーってやつですよ」


「あー……そうね。確かに。そういうのいるわ」


 咄嗟に出た言い訳は、ジト目が似合う幼馴染がことある毎に俺を責め立てる単語である。


 …………これで通じるの?!


 納得した風に頷くお嬢様に何処か納得がいかないながらも部屋を出た。


 パタンと閉めた扉は、そこそこの値段がする宿のせいか割としっかりした作りに思える。


 ……しかし荒事に耐えられるかと言えばどうだろう?


 この世界での荒事って、普通に銃弾を避けれる早さで、銃弾でも傷が付かないような肉体をぶつけ合うからなぉ……。


 ノックで穴が空きそうな気さえする。


 さて――――


 恐ろしく静かな足音の主を、意識に捉え続けていた。


 未だ階段を登ってこない。


 部屋までは割れていないのか、それともカウンターで足止めされているのか……。


 俺達の取った部屋は三階だ。


 近くの部屋は全て埋まっていたので、空いている部屋を取って案内でもされているんだろうか?


 ……それにしては気配が動いていないように感じるが。


 試しに三階にある共用のトイレへと入った。


 都合のいいことに無人だ。


 部屋に風呂とトイレが付いているのだから当然と言えば当然なのだろう。


 適当な個室へと入って、感覚を更に引き伸ばしていく。


 肌を押す圧力が、空気を震わせる振動が、幾重にも重なる分子が――音を、声を、動きを、臭いを、俺に伝える。


 一階だ……まだいる……動いた……登ってくる……。


 静かな足音の主は、二階で止まらず……真っ直ぐに三階へと向かってきた。


 その静かさが――まさか相手に居場所を教えているとは思わないだろう。


 ほんの僅か……本人すら気付かない足音が、トイレの前で――――止まった。


 真っ直ぐにお嬢様のいる部屋に行くかに思われた足音は、更に音を潜めてトイレへと入ってくる。


 ……なるほど、なるほど。


 どうやら相手は障害物から排除する派らしい。


 潔癖症で完璧主義者とか言ってたもんね? それもあり得るか……。


 トイレの扉を挟んで――――足音がピタリと止まった。


 この際だから先手は貰う。


 掌を扉へと当てて、息を整える。


 衝撃だけを向こうへと伝える……そんな技があったよな?


 昔、漫画で読んだことがある技だ。


 全身のバネを活かして、障害物の向こうへと衝撃を飛ばす――


 そんな画面の向こうにあった技も、今の身体能力なら可能だろう。


 向こうが動く――――一瞬早く、俺は行動を開始した。


 足を引き、踏み締める力を上半身へ、腰を回し、力を腕へと伝える――



 扉を粉々に散らした掌底が、殺し屋らしき人物の腹部に突き刺さり、壁へと叩きつけるに至った。



「ち、違う!」


 想像と違う結果に思わず漏れた言い訳が無人のトイレに虚しく響く。


 最初から最後まで台詞の無かった殺し屋(仮)さんが、半分ほど壁にめり込みながら項垂れている。


 気を失っても握り締めている短刀の柄が悲しい。


 当然だが大きな音が出た。


 俺としては正当防衛を訴えるのに充分な資格と証拠があると思う。


 なんせ得物を握った状態で気絶しているからね。


 しかし権力は向こうの方が持っているという話だった。


 まずいね? やったね? 逃げるね?


 にわかに騒がしくなり始めた音を拾いながら、自然さを装える程度の早足でトイレを出る。


 廊下には何事かと顔出している他の客も居たので愛想笑いで通り過ぎた。


 ……くそ! 見掛け倒しめ! なんかめちゃくちゃ出来る雰囲気出してるんだから一撃ぐらい耐えろよ!


 たぶんだけど、かのバーゼルさんのパーティーにいた斥候ぐらいの実力はあったと思う。


 気配の消し方っていうか、足音の静かさがあんな感じだった……と思う?


 なんせもう三年近く前だからなぁ……覚えてないにも程があるよ。


 せかせかと歩きながら、部屋の鍵になっているカードを取り出す。


 なんとカードキー仕様だ。


 便利さの行き着く先は同じってことかねえ? せめて大切な自然を無くさないで欲しいものだ……。


 まあ、めっちゃ怖い森人いるから無理な話だろうけど。


 ホワッ、とカードキーを光らせて部屋の扉を開ける。


 向こう側ではお嬢様が、今の今まで存在を知らなかった杖を握り締めて立っていた


 ……へっぴり腰で。


 あ、ダメだこの娘、直ぐ死ぬ系。


「ど、どうしたの? な、なにか……もしかして、来たの?」


 主語を省いた会話だが意味は通じた。


 ……どうしよう? 素直に言ったら腰抜かしちゃうかな?


 やっぱり貴族だけあって魔法は使えるのか、四十センチ程の真っ黒な杖を握り締めている。


 しかし戦闘経験が無いのは一目にも分かった。


 あー……。


「お嬢様、直ぐにこの宿を出ましょう」


「な、なんで? や、ややややっぱり?! 来たの? 来たのね?!」


 声が震え始めているお嬢様に、しかし首を横へと振って告げる。


「いえ。どうも整備不足なのか、トイレが逆噴射したようです。自分の隣りの個室に入っていた男が、飛び出してきて壁に叩き付けられてるのを見ました。次は我が身ですよ、さっさと出ましょう」


「……そんな宿があるの?」


「市井では割と」


「そ、そうなんだ……」


 市井について変な先入観を持たれないといいなあ。


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