第406話
息もしなくていい――――なんなら心臓の鼓動すら煩わしい。
ただ体が動けばいい。
なんだ、気にする必要なかったよ、全然大したことない、前は四倍強化するだけで体が爆発しそうだった、溢れるエネルギーになんとか命令を与えていた、しかし今はどうだ? 素晴らしい気分だ、そうか、わかった、きっと強化魔法も成長したんだ、もしくは俺の体が耐えられる年齢に達したんだ、噴き上がる血の一雫すらコントロールできる、万能感? あんなの初めて玩具を与えられた子供の興奮だ、今の冷静さに勝るものはない、わかってる、こいつは敵だ、これは生存競争だ、ここで殺す、問題ない、俺には出来る、俺なら叶う――――
刹那の思考すら次の瞬間には遠く。
互いの命を取らんとする遣り取りに没頭した。
霧のように空間を席巻する血飛沫すら気にならない。
繰り出される必死の連撃を、当然だと言わんばかりに躱し続ける。
隙を突いて放り込んだ一撃は、いなされる度に大気が削れた。
拳と刃がぶつかっているとは思えない程に鈍い音が、絶え間なく生まれては消える――
打ち合いをどれぐらい続けているのか――――固まったように動かない血飛沫が、未だ一瞬だと教えてくれる。
しかし感じられる時間は長く…………。
永劫見たとばかりに固定される相手の表情にも飽きた。
相手の顔に去来しているのは『喜悦』。
こちらにはもう愉しさなどない。
何故なら――――
綻びは突然やってきた。
明確な差があったのだ――――それは相手も分かっていた筈。
なんの気のない、只の一撃。
刀の側面を叩く、只の振り払い。
受けるなり拮抗するなりが出来ていた遣り取り――今までなら、だ。
単純に技術の差だろう。
人の技だけで、このレベルの力の鬩ぎ合いに着いてこれていたという不思議。
それが崩れた。
軽く押された刀に、アテナの腕が泳ぐ――――
ボキボキという鈍い音が、今度は確実に相手の腕から聞こえた。
俺は何も感じない。
しかし僅かな動揺も躊躇もなく、軌道を変化させた刀の一撃が俺の首を狙う。
淡々と――大幅に機能が落ちたアテナの腕を、俺の手刀が切り落とす。
クルクルと宙を舞う腕にも動じず、この一撃を完遂せんと、アテナは放り出された刀を残る片手で掴み取った。
逆手に握られた刀が、勢いもそのままに振り切られる。
なんで笑ってんだ?
不思議に思いながらも相手から勝ち取った有利――二本ある手の片方でアテナの腹に一撃を入れた。
まるでやり返すかのような掌底だったのは偶然だ。
吹き飛んでいくアテナに決着を感じる。
だって――――己の意志に反して飛んで行くなんてあり得ないだろ?
負けたのだ、折ったのだ、屈服させたのだ。
則ち『死』だ。
ちゃんと――……ちゃんと殺さなくては。
歩みはゆっくりしたものだった。
もうすでに結果は出ているから。
随分と遠くまで飛ばした。
コツコツと足音を響かせて更に闇の奥へと進む。
この分岐の奥の奥、端の端。
最奥とも思える場所に、神殿のようなものがあった。
ああ……面倒だな、この中まで飛んだのか……。
殴り飛ばしたアテナの血の跡が、真っ直ぐ神殿の中まで続いている。
神殿にはなんの感慨も湧かなかった。
ギリシャとかに有りそうな形の神殿だ。
扉をぶちぬいて、玉座と呼ばれそうな椅子――その階段下までアテナは飛んでいた。
寝転がっているかと思いきや、上半身だけ体を起こしてふてぶてしい笑みを浮かべている。
「…………たの、しかった……わ」
「そうか」
生きてたか……じゃあちゃんとしよう。
ザッザッ、と床が鳴らす音を変えたが、進む速度は変えずにアテナへと近付いた。
顔を上げるのも億劫だろうに、焼き付けてやまないとばかりに見つめてくる。
己の運命から瞳を逸らさないと言っている。
別に近付く必要なかったな。
立ち上がることも出来ないのだろう。
なら壁片を投げるなり何なりと殺り方はあった。
――――――――……! ……れ!
精神が淀みを見せている、俺も早く休憩しないと……。
見下した賊の女が、二十歳にも満たない見た目なのだと初めて気が付いた。
だからなんなのか。
再び握り締めた拳には、必要以上の力が籠もった。
? まあいいか、念の為だ。
木っ端微塵だろうと死は死だ。
構えて――――
「――――レン!!」
――――解いた。
今の今まで感じなかった幼馴染の気配に、驚いて強化魔法を解いてしまった。
だって――危ないから。
振り返った先には、アンと言わず姫様とテッドに白服まで居て――――
そこは暗闇に包まれた分岐の奥じゃなくなっていた。
いつの間にか真っ白な空間に、全員が投げ出されていた。
あ。
急激に下がる生物としての性能に、体が抵抗を示す。
血管という血管が破れたんじゃないかというほど――体中が裂けた。
「レ――――ッ?!!」
直ぐに聞こえなくなった。
見えなくなった。
感じなくなった。
でも良かった。
良かった……アンとテッドが無事で良かった。
ああ、帰れる…………これで帰れるな。
なら問題なく帰れる。
悔いは無い。
『来たな? 簒奪者ども。――――捕えたぞ』
既に閉じ掛かる思考に、聞こえる筈のない声が響いた――――
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