第403話


 ――――悪あがきしてッ?!


 噛み付かれたというより丸呑みにされたような状態が、それを物語っていた。


 殴り続けて――手応えは肉を潰す音から骨を折る音にまで変化していた。


 さすがに倒せたと思うんだけど……?


 獣臭に満ちるケルベロスの口内は暗いままだ。


 倒したらお金を残して消えるのが幻のこれまでのパターンである。


 実体のある――つまりは本物の魔物だったということだろうか?


 外の状況が気になり、僅かな光でも拾えやしないかと周りを見渡す。


 上下はともかくとして左右が分からない……腹の肉ごとシェイクされた口内は、とにかく臭くて距離に惑った。


 力押しで手当たり次第に押してみるものの、それが正解の方向なのかも分からない。


 とにかく真っ直ぐ進もう――――


 苛立ちと怪我に判断力が鈍る中、パチパチという音が直ぐ近くを流れた。


 なのだ。


 流れ出る血のせいなのか、理解に乏しく頭の回転が遅れる。


 ケルベロスは――


 どこか間の抜けたこちらの思考を追い抜いて、視界の先で球状に形成された紫電が膨らむ。


 とっさに頑丈さでは群を抜いているケルベロスの毛皮を盾にした。


 特に考えがあったわけじゃなく、反射的な防衛行動だった。



 ――――それが生死を分けた。



 遮った視界を透かすかのような光の爆発。


 傷口から入った電流が体の内部を焼く。


 ただただ早く終われと念じながら体が勝手に丸まりを見せる。


 炭として引っ掛かった衣服が焼けた肌に貼り付いて痛みを訴えてきた。


 ――――ローブだけが無事なのはお約束かなぁ…………?


 飛び掛ける意識に逆らって、出てくるのはとぼけた感想だった。


 ゴロゴロと……どこか柔らかさを感じる肉の地面じゃない場所を転がる。


 ……………………出られた、ぞ……。


 今は良い知らせしか欲しくなかった。


 薄闇が掛かる視界に、どうやら目にもダメージが入ったようだとは無意識に伏せて――


 痙攣を起こして……いや起こし掛けている体を叱咤して顔を上げるべく努力する。


 プルプルと震える腕で、くっついて離れようとしない床を押した。


 ……………………あー、くそったれ……。


 最悪というのは畳み掛けるのが世の常なのだ。


 それは何も特別なことじゃなく、当たり前に溢れている……というのが持論である。


 ――でも何も異世界に来てまで感じさせなくてもさぁ…………?


 視界を満たしたのは――――血溜まりに沈む金髪の知り合いと、禍々しい黒髪だった。


 光の檻は影も形もなく、ポニーテールも羽根を伸ばしたかの如く解かれている。


 ツッコミは、声を上げるのも億劫な俺からじゃなく……赤い髪の相方から上がった。


「……先輩? 聞こえてますか先輩? アテナせんぱ〜い? あ、これダメっすね」


「……聞こえてるわよ。ただ……無視してただけ。『十年解放』……何故かしら? 今になって届いたわ」


「先輩、五年に到達するのも生きてるうちじゃ無理、って言ってませんでしたっけ?」


「そうね。駄目元だったわ。強敵との遭遇…………それがもしかしたら、あの黒い奴との一戦で越えられてたのかもね」


「七剣との戦いって言わないあたり固執してますね〜……まあ、唯一の敗戦なんで仕方ないっすけど〜」


「それはあなたもそうでしょ? ……それだけにちょっと惜しいとか思っちゃうわ。今、この場に居てくれたら……ってね」


「餞とか言ってませんでしたかね〜? それに……その、剣? ですか? 形変わっちゃってますけど? 使いにくいとかないんすか〜?」


「むしろしっくり来るわ。元の形に納まったというか……まあ、それがなくともな気がするんだけど」


「うわ〜……ヤバいっすね〜。


「そう?」


「ヤバヤバっす〜。痛くないんすか〜? その腕とか……目とか〜」


 そう注意喚起するローツインの指摘通り、アテナの腕や目は染まっていた。


 血…………なのか? それにしては黒さが混じらない……まるで――


 考えられる時間は少ない。


 息は整った、体力も回復した、痙攣も治まった、怪我も我慢できる、絶好調だ。


 ボロクズのような俺に、あいつらは注目していない。


 これはチャンスだ、誰がなんと言おうとチャンスなのだ。


 ガツン、という音が響いた。


 アンが塞がれた出口を開けるべく金属っぽい蓋を叩いた音だった。


 注目がアンに逸れる――――


「うおおおおおお!」


 気勢を上げたのはシュトレーゼンだ。


 注意が逸れた一瞬で、黒髪を広げたアテナへと斬り掛かったようだ。


 ――――ここだ。


 他にもう無い――――


 いけ、いけ、いけ――――ッ!


 動こうとしない体を叱咤して、地面を蹴った。


 最大最速。


 瞬時――――という言葉でもまだ足りない速さだったが、ケルベロスとアテナは着いてこれていた。


 しかし不意を突いた。


 意識の外、視界の外、思考の外。


 完全な不意打ち。


 赤髪ローツインは身体能力じゃ相手じゃない。


 止められる筈が――――


「――――も、もしかしたらこんな気分だったのかしら――――」


 声など届かぬ領域で、声を発せるという理不尽。


 完璧に後ろを捉えた俺の視界へ――――黒髪の少女がと振り向いてきた。


 それは俺より速く――


 痛みが脳天を衝いた。


 逆手の――下手投げのような掌底が、俺の腹を打ち抜いている。


 剣でもなく……本気でもない。


 何気ない掌底に隔絶された実力を感じとれてしまった。


 叩き付けられた壁は、随分と距離があったにも関わらず、


 こっちは壊すのにも苦労していたというのに。


 痛みで気絶と覚醒を繰り返す。


 死んだと言われても頷けそうだった。


 何処が折れたのか……………………全部折れたと言われても


 もういいよ……よくやったじゃん。


 痛えよ、くそ……なんでこん、な…………。


 立ち上がれないのは気力からか、それとも足が変な方向を向いているからか。


 体の感覚も遠いというのに、意識があるところでルーレットが止まった。


 考えられる限りの罵詈雑言が生まれては消える。


 耳……というか聴覚は無事なのか、アテナとローツインの会話だけが聞こえてくる。


「今の奴が一番強かったんじゃないんすか〜?」


「ほんとね……ちょっと加減が難しくて。でも楽しむんなら、今のぐらい受けて貰わなきゃ」


「うへ〜。あ、そういえば言ってなかったんすけど〜? この遺跡、ヤバいっぽいっす。だからあんまり先輩の遊びに付き合ってられないんすよ〜。なのであたしはお先に失礼させて貰いますね〜?」


「別にいいわよ? 仕事も終わりだから……じゃあ、ここからは個人の時間ね?」


「……なんか含みますね〜? 隠し事っすか? そういうのよくないと思いまーす」


「そんなんじゃないわ。ほら、偽七剣じゃなくて……ね?」


「…………あ〜、居ましたね〜? ……あたしも借りがあるんすけど?」


「譲ってよ。私のこれは半日と続かないんだから」


「……まあ、いいっす。もしかしすると先輩に会えるのも最後かもしれないんで〜」


「まだ残ってると思うけどね。それじゃ、さよなら」


「う〜っす」


 ……シュトレーゼン……生きてるかな?


 この後に及んで他人の心配をしている自分に笑う。


 俺の攻撃の方が早く、またこうなるのも俺の方が早かった筈だ。


 それでも刀で斬られていたら存命は難しく、だからと言って殴られているとしても否定出来る要素は無い。


 ……どれぐらい経った?


 少しなのか、ずっとなのか。


 時間感覚も曖昧で……アテナ達の会話からどれだけの時間が経ったのか分からなかった。


 しかし大した時間は経ってなかったようだ。


「――――ねえ、あなた。助かりたい?」


 再び聞こえてきた声に『まだ居るよ……』と思うのも仕方なかった。


 助かりたい? ――――いや…………


 矛盾する本能がアテナの問い掛けに答えを出せないでいる。


 ――――しかし問い掛けは壁の奥に居る俺に対してではなかった。



「助か……? 助けてくれるんですか?」



 聞き覚えのある――散々聞き慣れてもはや見なくても分かる声に体が反応した。


 しかし動かなかった。


「もう相手がいないじゃない? だからあなたに相手をして貰いたいんだけど……じゃつまらないから、そこに落ちてる聖剣を拾って貰える?」


「……」


「タダとは言わないわ。だから言ってるでしょ? 『助かりたい』かって。あなた、まだ伸び代に期待できるから生かしておいてあげる。……本当ならこんな交換条件みたいなことしなくても、あなただけ見逃してあげるんだけど……あの一撃を、どうしても受けてみたいのよね」


「もし……もし本当に助けてくれるんなら……その条件で助けてくれるんなら――」


 ああ……いいよ、逃げていい……それで――




「――――あたし以外の全員を助けてください」




 ……。


「……」


「じゃなきゃ、戦いません」


 あの…………アホは、ほんとにアホだ。


 本物のアホだ。


「――……いいわ」


 それでこの世界はクソだ。


 本来なら終わりだろう?


 動けないんだよ、折れてんだよ、負けたんだよ。


 それなのにまだ出来る。


 意識があれば……


 使


 異なる法則に縛られる世界だから。


 本当なら負けていて折れていて動けないのに。


 ここからまだ出来ることがある。


 ああ、本当に。


 こっちに来てからというもの、俺は異世界が嫌いになりそうだ。


 スローライフは何処いった?


 文句を原動力に腕を動かし――――生ける屍はフードを握った。


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