第353話


 人間である以上、知的好奇心を抑えることなんて出来やしない。


 そんなもん原初の人が楽園で林檎を掻っ払った時から決まっている。


「蛇に騙されるのは人の業というもの……」


 これは仕方がないことなんだ!


「誰が蛇か」


 要望を聞き入れているというのに、まるで困った奴を見るような目の姫様が、溜め息を吐き出して言った。


 腕を組んで書架を前に仁王立ちする王族の方は、まるで難解な問題に挑戦する哲学者のような表情をしている。


 …………何をモタモタしているのかな?


 約束は一冊、しかも触りだけというもの。


 もしかしなくても吟味中だろうか?


「それじゃあ余計に時間が掛かるんですが?」


「戯け。罠がある可能性があるであろ?」


 ……それは気付きませんで。


 でもそれは空が落ちてくると心配する故人のようではないか。


 これだけの本があるのに、全てに罠を掛けるだなんて……。


 そんな面倒なことある?


「……一冊毎に罠があると思うておるわけではないぞ? その一冊を引き抜くことで発動する罠を警戒しておるのだ」


「…………勿論、私もそう思っていましたとも」


 疑問が表情に出ていたのか、丁寧な説明をしてくれた姫様にしたり顔で頷いた。


 あ~、はいはい……パターンブルーね? わかります。


 しかしそんなことを言われると……ふと思い浮かぶのが『自壊機能ヴァルス』。


 その手の自爆物が流行ったのは一昔前の世代(つまり俺)なのだが、『もはやこれまで!』精神は日本人に根強く残っていると信じてやまない前世持ちだ。


 こと日本人が関わってそうなだけに、ジョーンズっちゃう可能性が無きにしもあらず……。


 どうしよう? なんか、どの本を本棚から引き抜いても『ゴゴゴ……!』とか鳴り出しそうで怖い。


 しかも迷った挙げ句にハズレを引いてしまうのはよくある話。


 …………しまった! 沼だ?! もうこの思考から抜け出せない!!


 理系女子面をキメる姫様の隣りで、視界をグニャらせるわたくし


 誰が悪いんだ?


 全部メイドさんが悪い。


 異世界でメイドとか……人を狂わせる凶器だもの。


 善良で健全な小心者すらこの通り。


 やっぱりやめとこうかなぁ……ほら? よく言うでしょ?


 冒険よりも命が大事ってね。


「姫……今更なのですが――」


「うむ。やはり既に取り出してある物を読むか」


 ビビる俺を放っておいて、姫様が休憩所よろしく区切られたパーテーションへと目を向けた。


 テーブルとイスがあることは分かっていたが、姫様の視線の先を追うと――――テーブルの上に積まれた本が見えた。


 開いたままの書籍に、書きかけのような紙束まである。


「うん? 今、何か申したか?」


「いえ、俺もそれがいいかと提案するところでした」


「……」


 フッ、今更ジト目に動じたりしないがね?


 よく鍛えられているので。


 一応は警戒しているが、静謐な雰囲気が漂う図書館では何が起こるということも無さそうである。


 足音を響かせながら居心地の良さそうな一角へと、光球で床を照らしながら進んだ。


 ――――だから気付けたのだが。


「……紙が結構落ちてますね」


「うむ。丸まった物もあるところから察するが、ここで書き物をする習慣でもあったのじゃろう」


 パーテーションで区切られた一角は、特に閉塞感を感じさせるものじゃない、衝立を並べただけのよくある場所だった……が。


 その向こうに視線を通せば、私的な空間なのが見てとれた。


 書き物をしていた、という姫様の言葉は的確で……。


 近付くにつれて分かったのだが、捨てるつもりだったのか単にテーブルから滑り落ちただけなのか分からない紙切れが、床に結構な量で散らばっていた。


 その一つを見て、姫様の足がピタリと止まる。


 姫様が凝視する紙切れは…………他の物と比べると一行、しかも半分も行かないうちにグシャグシャと線を引かれていた物で、恐らくは綴りでも失敗したのだろうと予想させる代物だった。


 この聡明な姫君が足を止めてまで見る価値があるようには思えない。


「これ、気になるんですか?」


 確かに知らない文字で書かれてるけど……。


 日本語でも、この国の言葉でもない。


「…………これは王家の紋章じゃ」


「……はい?」


 姫様が指差す先にある書き損じの紙切れは、とても紋章が押してあるようには見えない。


 …………おかしくなっちゃったかな?


「……言うておくが、妾は別におかしくなったわけではないからの? 白い紙の上に白い判を押してあるのじゃ。……隅の方に注目せい」


 言葉のまま注意深く紙切れの四隅を探ると…………確かに紋章のようなものが見えた。


 ……見つけにくっ?!


「特殊なインクに作用して浮き上がる仕組みじゃ。今では余り使われておらぬが……密書などに使われる手法ではある。が、しかし……」


「……え? あれ?」


 なんで王家の紋章が――


 


 それではまるで……。


「我が国が生まれた後……つまりこの辺りの領地を統一した後の歴史というのは、それほど長いものではない。四百年程じゃ。しかし……それでも色々と疑問が残るの?」


 姫君の言葉を聞きながら、王家の紋章がある紙切れを見つめた。


 殆ど横線が入っていて読めないが、辛うじて冒頭の言葉だけは拾える。


 そこには日本語じゃなく、かといってこの世界の言葉でもない文字で――――こう記してあった。



 『εὕρηκα!』



 ……なんて書いてあるんだろう?


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