第270話


 肌を濡らす薄雲も気にならないぐらいの達成感が身を包んでいた。


「ハア、ハア」


 流石に息が上がってしまっているのだが、それもしょうがないのだろう。


 たった今、登ってきた山を、その頭頂から見下ろした。


 絶景も絶景だ。


 未だ薄闇の掛かる頂上だったが、強化された視覚が僅かに残る月明かりでその輪郭を映し出す。


 海はかくやと言わんばかり雲海に、天国に尚近い岩山の頭頂部が突き出している。


 延々と連なっている山脈は、まだ高い所があると訴えてやまないがそこまで登るつもりはない。


 もう夜明けも近い筈なのに、未だ夜の残滓がこびり付く山頂は、流れる薄雲もあって神秘的な雰囲気だ。


 まさに不可侵。


 ここに辿り着いた人間がどれ程いたのだろうか?


 そう思うと不思議と自信が溢れてくるほどだった。


 ……そうだな? そうだよな……俺、結構凄いよな? もしかして強いよな? 異世界でハーレムとか作れちゃうよな?!


 高山病の気配がないのは、心肺すら強化されているからだろう。


 薄い空気を、それでも胸いっぱいに吸い込んで吐き出すと、若干呼吸も落ち着いてきた。


 落としていた腰を持ち上げて、フツフツと湧き出してくる爽快感と共に声を上げる。


「ハッハッハッハー!! どうだこのやろう?! やってやったぞおおおおおおお!!」


 なんに対する文句だよ。


 しかし条件反射的に出たツッコミすら飲み込める精神状態だった。


 細かいことなんてどうでもよくなる。


 俗人がそうであるように、山に対して絶叫を上げ続けた。


 ダンジョンの最深部に到達したことよりも嬉しいよ?! なんだこれ?! すげー楽しい!!


 ちょっと登山に目覚めてしまいそうだ。


 絶叫にカロリーを消費したせいか、グルグルという低い音が聞こえてきた。


 恐らくはエネルギーの補給を求める俺の腹の音だろう。


 音に比例するように思う。


「あ~〜〜〜……腹減ったな。……へへへ、ターニャじゃ――――」



 全身の毛穴という毛穴が開いて総毛立った。



 産毛の先まで神経が通ってしまったかのような緊張が叩きつけられる。


 変化は一瞬で、この上ないものだった。


 固唾を呑む? バカを言う――――


 僅かに動くことすら躊躇するというのに……喉を動かせる筈がない。


 しかし『微動だにしてはいけない』と考える理性と同量に『一瞬足りとも此処に居たくない』と思う本能があった。


 だ。


 暗闇を貫いて薄雲の向こう――――息の掛かる距離から、金色に光る巨大な目が、俺を見ていた。


 近い圧力を感じたことがある。


 島と見紛うばかりの大蛇から。


 しかし今になって分かった、理解した、直感した――


 あれはまだ遠慮があったのだ。


 こちらを思い遣っていたのだ。


 手加減されていたのだ。


 雲の向こうから覗く存在にはそれがない。


 別に餌と思われているわけじゃない。


 怒気があるわけじゃない。


 殺気があるわけじゃない。


 


 それだけで思い知らされる。


 敵う? 敵わない?


 そんな次元の話じゃない。


 存在として別、まさに特別、もしくは異次元。


 上位と宣うことすら烏滸がましい。


 蟻と天災ぐらいの違いがある。


 それしか分からない。


 何も分からない。


 どう動くのが正解なのか――――?


 場を満たす緊張と研ぎ澄まされた神経が、無限とも思える長さに時間を引き伸ばしていく。


 油断してはいけない、動いてはいけない、息をしてはいけない。


 呼吸を止めろ、鼓動を止めろ、血流を止めろ。


 分かってる、見られてる、気付かれてる、知られてる――


 ならどうすればいいのか?


 戦う? 馬鹿な話だ。


 奥の手が通じる通じないとかいう以前の話。


 僅かでも魔力を練り上げれば、使用すれば、魔法に換えれば。


 その瞬間に敵対が決まってしまうかもしれないというのに?


 それでも勝てるビジョンが全く見えないというのに?


 ありえない。


 興味? 興味すらない、そこにあるのは無だ……ただ騒いでいた何かに向けられたというだけの視線。


 付けてあったテレビに目が引き寄せられたというだけ。


 次の瞬間には『煩わしい』と消される可能性も大いにある……。


 だからどうしろというのか?


 ただ待つ――待つしかない。


 他に何がある?


 不可侵を侵した人間に下される裁きは無慈悲だ。


 天まで届く程に積み上げられた塔も、蝋で作った翼でも。


 抵抗は敵わなかった。


 待つしかなかった。


 気まぐれを。


 ――――見逃されるのを。


 永遠とも感じれる時間を、何もしていないのに削られる命を、ただ只管に待った。


 邂逅は一瞬だったのか数分だったのか数時間だったのか……。


 不意に瞳が雲の中に消えた。


 同時に日の出が登頂部へと差してきた。


 眩しいから目を閉じたのか、単に飽きたのか……。


 何もかも分からなかった。


 まだそこに居るのかも、もうこの山にすらいないのかも。


 ――――ともかく。


 ただ走った。


 ここしかない……! 次があるかも分からない……!


 日の光に押されるように――登ってきた方とは反対側へと、山を飛び降りた。


 着地のことや、体の心配や、慎重さなんて、もはや頭に無かった。


 むしろ登頂部から離れていく程に、心の中に安堵が広がっていく。


 落下に感じる死など何程のこともないと言わんばかりに。


 恐怖に正直な自分が大好きである。


 沸々と戻ってくる血の気が、理性が、生の実感が、薄雲の向こうに包まれていた怪物の正体へと頭を巡らせる。


 最強の生物。


 陳腐な言い方だが、他に及びつかない生物としての強さが、確かにあった。


 ワイバーンが竜種? だあ?


 本物を斯くとして捉えた後では……なんと愚かなのかと笑うしかない。


 ……………………いやまっっったく! 笑えないんだがあああああああああ?!


 雲を突き抜けて地上へと落ちていく体より速く、伸びかけていた株価自信は早々に下落した。


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