第44話


「……これは」


「わたしにも臭う」


 北から吹く風に運ばれてきた臭いに足を止めた。


 ターニャからの肯定が、俺の勘違いという考えを排除する。


「…………血の臭い、だよな?」


「そう」


 珍しい断定口調がターニャの焦りを教えてくれる。


 臭いの元へと足を進める。


 相変わらず鉄の臭いは匂ってくるというのに、他の反応が乏しくて混乱する。


 動物の反応も人間の反応も、無いのだ。


 …………ということは、あれだ? なんだ?


 どれだ?


 混乱に焦りが拍車を掛ける。


 冷静さを保とうとする理性が塗り潰されていく。


「まだ『わからない』」


 ターニャの言葉に、熱を持った頭が冷やされる。


 ……遥か年下の女の子に気を使われるなんて情けねぇ中年だな。


 抱きかかえたターニャだって角材を握り潰さんばかりだというのに。


「そうだな……まだ」


 しかし希望は裏切られる。


 視界を遮っていた木立の向こう。


 ドス黒く変色した地面の上で――――血溜まりの中に見知った顔が沈んでいた。


「……あ」


「……ドゥブル爺」


 咄嗟に魔法を解いてしまった。


 感度を上げた目が、耳が、鼻が、そこで倒れているのは知り合いだと告げるのを否定したくて。


 しかし急激に重さを増した腕の中の確かな感触に、これが現実だと教えられる。


 呆けてしまう俺を余所に、ターニャが飛び出していく。


 …………あ……そうだよ……何を、やってんだ、俺は!


 膝が血で汚れることも厭わずにドゥブル爺さんの安否を確かめるターニャ。


 少し遅れて俺も追い付く。


「……! 息がある!」


「よ、よし!」


 まずは血を止めなければ!


 一度として使ったことのない魔法を使用する。


 ……頼む! 他の何より、これだけは使えてくれ……!


 願いが届いたのかどうかは分からないが、体の中の魔力を消費して、イメージした魔法が励起する。


 ドゥブル爺さんの傷口を押さえていた手から、淡い緑色の光が立ち昇る。


「よっ……し! 傷口が……」


 みるみると傷口が盛り上がり白かった顔色が元の肌色へと変化する。


 増血効果もあるのだろうか?


 しかし傷口の治りが理想イメージと違う。


 傷跡さえ残らないぐらい綺麗に治るものだと思っていたのだが……。


 倒れているドゥブル爺さんの背中には、体の真ん中を通すような刺し傷と、肩口から脇腹へと斜めに引いたような斬り傷があった。


 ピッタリとくっ付く訳ではないのか、今は引き攣れたような傷跡が残り、痛々しさを感じる。


 これではまで治っているのかどうかが分からない。


「……呼吸が細い」


「ぐっ、体力は……回復しないのか?」


 しかもドゥブル爺さんが目を覚ます様子はないときた、ハハッ。


 ……なんだよこれ…………なんなんだよ、全然役に立たねぇな?!


 俺も! 魔法こいつも!


「……これで、どうだ?!」


 込める魔力量を上げてみた。


 しかしどうしたことか。


 を感じれない。


 ハッキリと分かる――――これ以上は無理なのだ。


 魔力は魔法へと入っていかず、魔法はドゥブル爺さんへと入っていかない。


 無駄に無駄を重ねるような徒労感ばかりが募る。


 魔法の痕跡である紫のオーロラばかりがドゥブル爺さんに纏わりつく。


「くそ! くそ!」


 無駄だと分かりつつも回復魔法を連発する。


 頼むよ?


 昔からの知り合いなんだ。


 ……昨日、会ったばかりの。


 …………ああ、そうだ、思い出した。


 赤ん坊の頃、両親が俺を抱かせにと連れられて遊びに行ったことがあったじゃないか。


 あれが初めてだ。


 あの頃はやさぐれてて、随分な塩対応をした覚えがある。


 抱かれている時を狙って粗相したんだ。


 やけっぱちもいいとこ。


 でもひたすら頭を下げる両親を、ドゥブル爺さんは笑って許してくれて……。


 昨日と同じ笑顔だったじゃないか。


 ドゥブル爺さんは、初めて会った時から笑顔だったじゃないか?


 ああ……ちくしょう。


 どこかで油断があったのだ。


 どこかで甘く見積っていたのだ。


 どこかで見誤ってしまったのだ。


 どこかで…………俺が! 呑気だったから!!


 テッドやチャノスを笑えねぇ…………ほんと、笑えない。


 いつしか魔法を止めていた。


 耳を近づけなければ聞こえない程の小さな呼吸音に集中するために。


 消えないでくれ、消えないでくれ、と。


 歳も三十を越えると、色々な覚悟だって出来てくる。


 幸いなことに、前の体じゃ身近な人の死を感じることなんてなかった。


 それは自分も含めて。


 ここに来て、どこか現実感のようなものが薄れてしまったんだと思う。


 『死』への。


 神様は痛烈だ。


 目を覚ませとばかりに横っ面を叩いてきた。


 分かったよ、分かったから…………こんなやり方はやめてくれ。


 この人は関係ないだろう?


 いくら祈っても、今度ばかりは届かないのか、呼吸音に変化はない。


 むしろ小さくなったようにすら感じる。


 何か助かる要素はないのかと、あちこちに視線を飛ばしていると、ドゥブル爺さんを死へと誘う傷口が目に止まる。


 ――――刺し傷に、斬り傷。


 ……刺し傷に、斬り傷。


 刺した跡と! 斬った、跡だ!


 落ち込んでいた感情の波が一気に沸点まで達した。


 まるでマグマのように噴出した何かが抑えきれなかった。


 視界が紅く染まる。


 ――――――――いや、


「……やっ、ろう」


 怒りのままに立ち上がった。


 出来る力がある――――なら。


 それなら――


 感情のまま魔法を使用する――――その、前に。


 小さな手に、手首を掴まれた。


 そんなこと出来るのは、この場に一人だけ。


「ター……」


「――――できる?」


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