第20話 なかなおり

 数日前と同じように、ふたりは小さな丸テーブルを挟んで向かい合って座っていた。その表情はふたりとも硬く、ぎこちない空気が流れていく。まるで知らない人と知らない場所に閉じ込められているようで、いずみは何度も居住まいを正した。

「この前は、本当にごめんね」

 先に口を開いたのは彩葉いろはだった。正座したその膝の上に乗せている組まれた手を、その瞳は見つめていた。

「いや、こっちこそ。こんな大切なことずっと黙ってて、ごめん」

「ううん。私だってあの人のこと言えてなかったし、言いたくないことだってあっても良いと思う。仕方ないことだよ。秘密はなし、なんて難しいんだからね」

 彩葉は顔を上げた。浮かんでいる笑みは無理に作ったものだろうか、いずみには判断がつかなかった。

 いずみには、何だか、彩葉のことがわからなくなっていた。ずっと一緒にいたはずなのに、ずっと心を開いて笑って顔を合わせていたはずなのに、それが仮面なのか本物の感情なのか、見当がつかなくなってしまっていた。まだ自分の心の中に広がった波が、おさまっていないからだろうか。

「いずみちゃんはね、綺麗だよ」

 いつも通りの顔を見せる彩葉。穏やかに、美しく口角を上げて見せている。

「綺麗だし、かわいいし、とっても素敵な女の子だよ」

 いずみには彩葉の言いたいことが理解できなかった。あの手帳に書かれていることを読んだはずなのに、言われて嬉しいとは思わないことばかり並べる彩葉が、わからなかった。

「いろ――」

「でもね、それだけじゃないんだ。いずみちゃんは優しくて、男前な一面もあって、本当にかっこいいの」

 そこで初めて、ふたりの目が合った。

「一日中ずっと考えて、やっとわかった。私は、そんないずみちゃんが好きなんだよ」

 彩葉は気付いていただろうか、そう言っている自分の瞳の変化に。

「大好きなんだよ」

 以前は輝きを失うことなく、いずみに「好き」と言ってのけたのに、今ではそれが変わってしまっていた。目は口ほどにものを言うというが、いずみはそれを体感した気分だった。彩葉の瞳には、少し前まであった慈悲深い光が消えていたのだ。まるでいずみのことを受け容れないとでも言うような、冷たい瞳を向けていた。

 それは些細ささいな変化だった。他の誰でも気付けないような、彩葉自身ですら気付けていないような変化。長い間彩葉のことを想い、支えようとしてきたいずみにはそんな小さな変質すら、大きな打撃だった。

「うん……」

 いずみは視線を落としながら、呟くように返した。

 テーブルの向こう側から、彩葉の腕が伸びてくる。それを払うべきか、受けるべきか。

「だからね、ずっと一緒にいよう?」

 両肩を掴んだ彩葉の身体が、泥のように溶けていく。逃げなくちゃ、頭でそう考えることはできても立ち上がることができない。恐怖……? いずみは身体をこわばらせる。この溶液に浸されて、浸透して、自分も泥になるかもしれない。テーブルの上に黒が広がっていって、下を見ればここは底なし沼で――。

「死にたいなんて、もう言わないで?」

 彩葉の声にハッとして現実に戻ってくる。気付けばいずみは彩葉の腕の中にいた。温かくて心地良いのに、心の芯だけは凍えたままで、震えている。救いの手を差し伸べてくれているはずなのに、実際救われているのはいずみではなく、彩葉の方なのではないか。いずみは肩に乗った彩葉の頭を横目で見た。自分を救うために、この言葉を、その心を作っているのではないか、と――。

「……うん」

 いずみは弱々しく彩葉の背に手を回す。触れ方すら、前と違うように感じられた。言葉にして説明できるような明らかな違いがある訳ではない。ほんの小さなものであって、感覚的なものだ。勘違い、だといいけど。いずみは止めていた息を少しだけ吐いた。吸った空気と一緒に入ってきたのは、嫌な予感。あと少しでこの関係が終わってしまうという、暗い推測。

 半ば放心状態で、窓の外に視線を移す。そこに広がるのは小さな銀の箱庭。外の世界を雪がうっすらと覆って、全てを隠している。雪は降っていない、快晴。

 ――それなのに、いずみの耳には雨の降る音が響いていた。バタバタと窓を叩く雨の音だけが、聞こえていた。

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