第18話 すれ違い

 長かった後期もあと少しで終わろうとしている。今日から二週間の冬休みを過ごし、それからあと一ヶ月もしないで全ての講義が最終回を迎える。もう大学一年生を終えようとしているのだった。

「びっくりだね、もうすぐで二年生だよ。信じられる?」

 いずみの部屋には彩葉いろはが来ていた。紅茶の入ったカップふたつとクッキーが並んだお皿が乗っている小さな丸テーブルを挟んで、ふたりは向かい合って座っている。

「本当だよね。全然そんな感じしない。まだまだ先のことは考えたくない」

「そうだよねぇ、やってられないよ」

 午後三時過ぎの小規模なお茶会。何てことない、どうでもいい話ばかりして、暇を潰していた。未来を見ようともせず、今まであったことをさほど振り返ろうともしない。さかのぼってもせいぜい「昨日のあの番組見た?」とか、そんな程度だった。それがなぜか、いずみには居心地が悪かった。

 あの日から、影島かげしまは姿を見せることもなかったし、話に上がってくることもなかった。完全に気配は消え去っていた。彩葉に安全が戻ってきたのならそれでいいと思おうとしていたいずみだったが、何か違和感が残っていた。

 彩葉は、過去に囚われているのだろうか。消せたと思っていた影島の存在は、彩葉の心を深く傷付けたばかりでなく、その色をまだ濃く残しているのだろうか。そうだとしたら、自分はどうするべきなのだろうか。いずみは何もできずにいた。何も言えずにいた。

 下の階から母親の呼ぶ声が聞こえてくる。

「あぁ、ごめん。お母さんだ、ちょっと待ってて」

 彩葉に言ってから部屋を出る。このお菓子も持って行けだの、彩葉ちゃんはこれは好きかなだの、どうせそんなことで呼び出したのだろう。いずみは面倒くさがりながら階段を降りていく。部屋にはまだ紅茶も残っているし、クッキーだってひとつも食べずに残っているのに。

 案の定、母に手渡されたトレーの上には追加のティーポットと焼き菓子の箱があった。いずみは要らないと何度も言ったが、彩葉ちゃんには良くしてもらってるんだから、と母は強く押しつけてきた。結局、部屋に戻ってきたいずみの手にはそのお盆が持たれていた。

 母とのどうでもいいやりとりのせいで、意外と時間を取られてしまった。彩葉は退屈していないだろうか、思いながらドアを開ける。

 ――思わず、お盆を取り落としそうになった。

「なに、してるの?」

 心臓がうるさいくらいに鳴っている。身体中にその重低音が響いている。息が荒くなる。手が、足が、震える。彩葉はどうして、そんなことを、しているのだ。

 こちらに振り向いた彩葉が見せる表情は、怒り、だった。

「ねぇ、いずみちゃん、どうして?」

 その手には、黒い、手帳。

「どうしてこんなに大切なこと黙ってたの? どうして教えてくれなかったの?」

 初めて見る顔だった。彩葉が怒っているところなど見たこともなかった。いつだって温厚で、何か悪いことをした人にだって優しくそれを指摘するような人だったから。彼女の心に怒りが表れることなど、いずみは知らなかった。

「どうして? どうして……?」

 彩葉の言っている意味はわかるのに飲み込めない。単語は耳に入ってくるのに、脳は通らずに出て行く。いずみはぐっと奥歯をかんだ。

 どうして、なんて訊いてくるけど、こっちだって同じ気持ちだ。どうして人の大切なものを、見せるつもりもない手帳を、勝手に見ているのだ。

 いずみは持っていたそれをテーブルに荒々しく置き、彩葉に詰め寄る。

「彩葉だって、どうしてそんなの持ってるの。おかしいよね」

「そんなことどうだっていいでしょ、今はいずみちゃんのことが問題なんだよ」

「どうでもよくない。勝手に日記を見られて、良い気持ちになんてならない」

「でも――」

「でもじゃない!」

 突然の大きな声に、彩葉はビクッと身体をこわばらせた。それを見てか、ハッとして、いずみは両手で顔を覆いながらしゃがみ込んだ。

「見ないで。そんなの、見ないでよ……」

 目の前の彩葉から小さく、ごめん、と聞こえてきた。それから、部屋を出て行く足音も。

 引き留めたかった。しかし、今のいずみにはそれができなかった。

 最近距離が離れているような気はしていた。触れ合うときの温度の差を感じていた。求めているものの違いに気付き始めていた。すれ違い始めていることを知っていた。彩葉が求める理想の恋人が自分ではないだろうことにも、勘づいていた。

 ふたりで手を繋いで、別れというゴールに向かって歩いているのだと、悟っていた。

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