第17話 歯車

 彩葉いろはがソファの上で目を覚ます頃には、もうすでに夕方になっていた。キッチンからふわりと漂ってきた良い香りの先には、いずみがいる。

「あ、起きた?」

 いずみは彩葉の方をちらりと見ると、柔らかな微笑みを浮かべて手元の作業に戻った。

「ごめんね、勝手にキッチン借りて」

「えっと……いずみちゃん?」

 彩葉は今の状況を理解できていないらしかった。数時間前に影島かげしまに酷いことをされて、それからほとんどずっと呆然としていたのだから、記憶が曖昧あいまいでも仕方ないだろう。

 いずみはマグカップふたつを丁寧に持ってきて、片方を彩葉に渡した。中身は温かいココアらしい。受け取った彩葉は小さくひとくちすすって、それから全部思い出したのか、顔を赤くさせてきゅっと口を結んだ。

「落ち着いた?」

「う、うん。だいぶ……」

 彩葉は肩に掛けていた毛布の端を掴み、自分の身体へ引き寄せた。一瞬だけ戻っていた笑顔は、波が引くように消えていった。

「本当にいずみちゃんと一緒にいてよかった。あんな男と違って、こうやって優しく柔らかく包み込んでくれる」

 立ったままだったいずみはマグカップをテーブルに置くと、彩葉のすぐ隣に腰を下ろした。少しだけ彩葉に体重をかけて、視線を落とす。何となく、いずみの心には暗い渦が生じていた。原因は、はっきりとしている訳ではないが、うっすらとわかっていた。

「あ、でもでも、あれはいただけないなぁ」

 彩葉はパッと切り替えて、楽しい話を続けるように明るい声を出した。

「『俺の女に手ぇ出すな』ってやつ! 確かにいずみちゃんはかっこいいし、男の子のふりしたってバレないだろうけどさ」

 彩葉は人差し指を立てて、冷静な風に話していた。しかしそれは、まっすぐでもなければ、力強くもなく、ただ震えていた。

「――でもさ」

 いずみの声は、閉じきってしまった扉に染みこむような、そんな音色だった。

「その通りでしょ?」

「……そう、かもね」

 時間の流れが遅くなったようだった。ふたりを中心に回っていた世界が、少しだけ、回るのを止めたようにも思われた。寄り添っているだけで、ふたりの心は繋がっているようで、その温度が何もかもを溶かしてくれた。もうこれ以上ふたりの前に壁が立ちはだかることなど、考えることすらできなかった。もう二度と、ふたりを引き剥がそうとするものは存在しないように感じられた。

「ね、やっぱりさ」

「ん?」

 しばらく静かな時を過ごしていたふたりだったが、ココアを飲み終えようというところで彩葉が口を開いた。

「――いずみちゃん、スカート履いてみない?」

 いずみは驚いて彩葉の顔を覗き込んだ。いつもより表情が薄いようだ。もしかすると、彼女の心の中のほとんどを占めているのは、まだ恐怖という敵なのかもしれなかった。一緒にいるだけで簡単に消せるものではない、それは以前から感じていたことだ。どうすることが一番の治療法なのだろうか、考えながら現状から逃げる方法にも思考を巡らせる。

 いずみはスカートが嫌いだった――。

「い、いや。いい、良いよ。スカートなんて、別に」

 首を振りながら彩葉から目を逸らす。あの大きくて黒い瞳に見つめられたら、断ることなどできなくなるから。

「だってね、絶対似合うんだよ。この前だってかわいかったんだし」

 自分はかわいい女の子になりたい訳じゃない。脳内に言葉を浮かべるのは簡単でも、恋人に伝えるのが酷く難しい。これ以上隠しておく訳にもいかないが、どこかで誰かが、今ではない、と叫んでいる。逃げる道なんてないのかもしれない。

「ね、私のためと思って……着てみない?」

 何かに取り憑かれてしまったかのようなその瞳には、逃避の色が見え隠れしていた。いずみはそれを見つけて無視はできなかった。

「……うん、わかった」

「ありがと」

 何か、どこかの歯車が、ずれてしまっている。気付いてしまったが、いずみにそれを戻す力などなかった。きっと時間が解決してくれる。そう思うことにして、今は彩葉の言うままに動く。早く全部が正常に流れるようになればいいと、願いながら。

 窓の外に降っているそれは、寒さに白く輝いていた。

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