第16話 月の影

 それから二日経った。それでもいずみの心を支配するのは無だ。彩葉いろはに会いたい、彩葉の声を聞きたい。思っても立ち上がることはできない。どうしてだろう。いずみはベッドの中、ただ何もせずにいた。

『大学休んでるって聞いたよ。返信もないし、心配で……』

 スマホから聞こえてくる彩葉の言葉は、心を落ち着かせてくれる。

『やっぱり、その……あの人に、怪我させられたんじゃ――』

「大丈夫だよ、何もない。ただ、体調崩しちゃっただけだから」

 嘘をつくのは得意だった。口から出ていく単語たちに、ただ感情を載せなければ良いだけだから。そうして幾度となくやり過ごしてきたのだから。それでも相手が彩葉となると、少し痛い。

『そっか、なら良かった……いや、良くないか。ちゃんと休んでね』

 ありがとう、いずみが言おうとした言葉は途中でさえぎられた。

『わっ、なに? いやっ――』

 ツーツー、と通話が切れた音が鳴る。

 嫌な予感がする。冷や汗が止まらない。だめだ、どうして自分の役割を捨てて自分から逃げていたのだろう。思い切り両手で頬を叩き、いずみは家を飛び出した。心当たりがある。彩葉が転んだのではなく、誰かに襲われたのだとしたらあの場所だろうと、何となく目星がついていた。

 いずみは息を切らしながら電車に乗った。

 ――あの電話、後ろの方で雑音が鳴っているのが聞こえていた。あれは放課後の運動部や吹奏楽部の練習の音だったはずだ。それに少年たちの声も聞こえた気がする。彩葉の家に泊まった次の日に訪れたあの公園だろう、いずみはほとんど確信していた。

 電車から出ると全力で走った。一刻も早く彩葉の元に駆けつけなければ。その思いが疲れ切った足を動かし続けていた。

 通話が切れてから十分も経っていない。まだ間に合うはずだ。まだ、彩葉は――。

 公園に辿り着くが、そこには誰もいなかった。音もない。誰の声も聞こえることはなかった。世界の全てから忘れ去られてしまった場所のように思えて、それが何だか不気味で、いずみの足は震え始めた。

 と、うっすらどこからか声が発せられた気がした。見回しても人がいる様子はないし、公園の外にだってひとけはほとんどない。どこかに隠れているのかもしれない。耳を澄ませる――悲鳴にも似た嫌がる声、バタバタと足で土を蹴る音、それを制する荒い息。聞こえてくるのは小さな家型遊具の方からだった。いずみはゆっくり動き出した。

 最初に、家からはみ出ている足が見えた。土や草で汚れてしまったスカートから覗く、白くて細い足。片方靴が脱げているらしい。彩葉がお気に入りだと言っていた、見覚えのある厚底のローファーだった。

「やめて!」

 声が弾けた。

 いずみは覚悟を決めて一歩踏み出す。馬乗りになって彩葉の顔を殴っている男が見えた。そいつはあろうことか、彩葉に顔を近づけていき……。耐えられない。いずみはそいつの背中を軽く蹴ってやった。こちらを向け、ここにいるぞ、とばかりに。

「誰だ、あんた?」

 影島かげしまと思しきそいつは遊具から出てきて、いずみと対峙する。全身を黒で覆った、醜悪しゅうあくな見た目の男だった。陽の光を十分に浴びることなく生きてきたのだろうと、見ただけでわかる。

 そいつはいずみを鋭く睨み、馬鹿でもわかる大ぶりで殴りかかってきた。ゆらりとかわして、肩口を捕まえ地面に押しつける。背中を思い切り踏みつけた状態で、掴んだ腕を反対側へ軽く倒す。

「あぁ、何だ。こんなもんか」

 ため息交じりに言ってから、いずみは低い声で続ける。

「彩葉は俺の女だ、手出すな」

 捕まえていた手をパッと離してやれば、影島はいつかも見たように、ひぃっと声を上げて急いで立ち上がった。それから逃げようとするものだから、いずみは軽く足をかけてみる。見事に引っかかった影島は愉快に転んでから、怯えた目でいずみを見やった。しゃがんで影島と目線を合わせると、いずみは丁寧に言った。

「もう二度と、顔も見せんなよ」

 影島の背中が見えなくなるまでずっと睨んでいた。痛い目を見たのだからしばらくは来ないだろうが……本当にもう二度と顔を見せなくなるかどうかは定かではない。もしかしたらりずにまた彩葉を奪いに来るかもしれない。

 いずみは身体の中にたまっていたものも一緒に出すようにため息を吐いた。気付けば、手が震えていた。怒りにまかせて動いたは良いが、あれが失敗していたらどうなっていただろう。あのまま彩葉も守れず、自分自身も。考えないようにするため、大きく首を振る。

 それよりもまず、彩葉だ。彩葉が心配だ。

「彩葉」

 駆け寄ったいずみはその顔を見て、衝撃を受けた。

「かわいそうに……」

 唇は数箇所切れていて、そこから血がにじんでいる。頬は赤く腫れ、左目はしっかり開けられないようだ。首にもうっすらと痕が見える。もしかすると首を手で……。

 彩葉の瞳はどこも見ていなかった。恋人が目の前にいるというのに、いずみのことなど見てはいなかった。ただ放心状態で、現状を理解できているかどうかもわからない。いつの間にか降り始めていた雨が、彩葉の血を洗い流していく。

 身体が冷める。激しく動いていたいずみでも寒さを感じ始めているのだ、薄着のままされるがままだった彩葉は、凍えてしまうのではないだろうか。いずみは着ていた上着を彩葉に掛けた。両手を包んで、立ち上がらせようとしたとき、彩葉は口を開いた。

「……こわ、かった……わたし」

「喋らなくて良い、大丈夫」

 どうしたら彩葉の安心を得られるだろう。いずみは考える。考えて――。

「わ、私が、いるよ。ここにいる」

 しかし何も浮かばなかった。

「うでをにぎられて……こわくて……ここまでつれてこられて……なぐられて、らんぼうに……」

「大丈夫、もういない」

 いずみの手の中で弱々しく彩葉が動いたのがわかった。何かしたいことがあるのかもしれない、両手を緩めて彩葉の反応を待った。と、存外強く両頬を掴まれ、引かれた。それは、血の味がした。

 離れてから、弱いながらも光を帯びた彩葉の瞳が見ていたのは、本当にいずみだったろうか。

「ぬりかえて、ぜんぶ」

 彩葉の全てが崩れてしまいそうで怖くなったいずみは、固唾かたずを飲んだ。うろたえながら、何度も瞬きをしながら、彩葉と手を繋いだ。立ち上がった彩葉の手を強く引いて、彩葉の家まで歩いた。足に力が入らないらしい彩葉を支えながら、ゆっくりゆっくり歩き続けた。それは長い長い旅のようにも思えた。

 ふたりに雨が降り注ぐ。痛いくらいに強い雨。

 玄関に入るなりふたりは熱のこもったキスをした。それから全てをかき消すように抱擁ほうようを交わす。

「もういやなの……ぜんぶ、けして……」

 そのまま足元に落ちた彩葉の言葉は、外の世界に降り続く強すぎる雨に消えた。

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