第15話 作戦決行
「じゃあ、これ……本当に大丈夫そう?」
「
いずみは言いながら、受け取った紙袋と共に個室トイレに入っていく。きちんと鍵を閉めて、それから紙袋の中身を確認する。黒のニットに秋らしい色味のチェックのスカートだった。中に入っていたそれらは、彩葉の洋服だ。いずみは着ていた服を脱ぐと、ためらいながらもそれらに腕を通していく。
少しして、恥じらいながらもいずみは個室から出てきた。
「うん、やっぱりかわいい」
彩葉は満足そうに頷いて、自分のリュックから大きなポーチを取り出す。
「でもこれ……本当に大丈夫かな」
「いずみちゃん、心配しすぎだよ」
これこそが
いずみが彩葉らしい服装を身にまとい、彩葉らしい化粧を施し、彩葉になりきる。そうしたら影島はいずみのことを元カノだと勘違いするはずだ。そうしてある程度目立ちにくいところまで引きつけてから、いずみが思いきり影島を叩く。それを警察に突き出してやれば一件落着。あの日いずみが彩葉に語ったのは、この危険極まりない作戦だったのだ。
慣れた手つきで化粧の準備をしている彩葉に気付いて、いずみは少し身構える。
「じゃあ、目つむって」
いずみにとってはあまり慣れない化粧。見知らぬ色つきの粉が、これまた見知らぬ道具によって自分の
「よし、良いよ!」
しばらくしてから彩葉の合図で全てが完了したことを知った。いずみはゆっくりと瞼を開く。目の前に映った彩葉が幸せそうな笑みを見せる。
「本当にかわいい! いずみちゃんはお顔が整ってるから、どんな格好しても似合っちゃうんだなぁ」
「あ、ありがと……」
素直に喜べないのは、鏡に映るそれを見ることができないのは、どうしてだろう。いずみはぎこちない笑みを浮かべていると自覚していた。緊張しているからだと考えてくれればいい、そうだったら都合が良い。落とした視線の先に自分の
いずみは、彩葉の被っていた帽子を勝手にとって、自分の頭に乗せた。「じゃあ、行こうか」
そのまま外に出てみると、視界に入ってくる景色はいつもと違っているように感じられた。彩葉が見ている世界を、そのまま体験しているように思えた。本当に、彩葉になってしまったようだった。
いずみは歩き出す。大学の建物から出て振り返ると、木の陰に彩葉を発見した。周りからは見つかりにくいところで、隠れていずみの様子を見守っているのだ。見つかりにくい場所にいるとは言え、いずみは彩葉が心配でたまらなかった。大学の中で待っていてくれたら良い、何度もそう言ったのに彼女はそれを聞いてくれなかったのだ。恋人に無理をさせたくないのはふたりとも同じらしい。
周辺をさりげなく気にしながら、徐々に
と、スマホがメッセージを受信した。彩葉からであることを確認したところで、膝の裏に痛みが走る。バランスを崩したいずみはその場に倒れた。どうやら影島が来たらしい。彼は何やら良くわからない単語を並べ立てながら、いずみに馬乗りになろうとしている。
「いずみちゃんっ!」
少し遠いところから彩葉の声が聞こえてくる。それでも影島はいずみの上から動かない。我を忘れて、いずみのことを彩葉だと思い込み、殴りかかろうとしている。どうして、お前、俺は。聞き取れたのはこの三つの言葉のみだった。
いずみは舌打ちをして、思い切り影島の顔面に一発パンチを食らわせた。小さく呻いた影島の腹に蹴りを入れて転ばせると、立ち上がったいずみは冷たく彼を睨む。
駆け寄ってきた彩葉が鞄の中から何かを取り出そうとしている。影島は顔を青白くさせながら後ずさる。口を小さく動かしながら、何かを呟いているようだ。それを追うようにいずみは距離を詰めていく。恐れをなしたのか、影島はひぃっと小さく声を上げて、どこにそんな力が残っていたのか、立ち上がって素早く逃げていった。
やっとガムテープと縄を取り出した彩葉は呆然としながら、小さくなっていく彼の背中を見つめていた。
「……勝った、のかな」
「うん」
「これで、安心?」
「たぶんね」
無意識にふたりは手を繋いでいた。そうしていれば、何も怖くなかった。あの瞬間、いずみはとっさに殴ったり蹴ったりすることで影島を黙らせることはできたが、今考えると相当無茶なことをしたとわかる。肝が冷えた。干上がった口内のつばを飲み込む。右手にある彩葉の温度を感じる。
「いずみちゃん、強いんだね。かっこよかったよ」
「自分も、こんなことできるなんて知らなかった」
「一緒にいれば安心、大丈夫、だね。もう、怖くないね」
彩葉のその言葉は、自分に言い聞かせているようでもあった――。
家に帰ってきたいずみは、土汚れのついたまま脱衣所へ向かう。
手を洗って、うがいをして、それから視界に入った鏡を見つめる。それが自分だとは、信じられない。けれど彩葉でもない。知らない女だと思いたいが、それが自分であることを知っている。いずみは急に苦しさが増していくのを感じた。
あぁ、今日はだめな日だ。気付いてももう遅い。ふと足元に視線を落とすと、スカートから誰かの足が覗いているのが見える。
この服たちが首を絞めているのだ。いずみはおかしくなりそうになりながらも、急いで服を脱いだ。これで解放された――いや、そんなことはなかった。
目の前の鏡に現れたのは、自身の裸体。丸みを帯びた全体像に、見当たらない喉仏、膨らんだ胸。ずんと心が沈むのを感じる。あの日見た彩葉の身体と変わりないじゃないか。可憐な白い肌に、美しさを併せ持つ華奢な身体。気をつけて触れなければ折れてしまいそうな、そんな印象が、鏡の向こうにもある。
いずみはガクンとその場に崩れた。
涙も怒りもない。そこにあるのは、虚無だけ――。
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