第10話 彩葉の家

 泊まりに来ない? と、少し前に誘われてから、彩葉いろはからのメッセージはほとんどなかった。

『金曜日でも土曜日でも、好きなときに来てくれたら良いよ』

『わかった。じゃあ、土曜の午前中に行く』

 この下に続く吹き出しはひとつもない。それがいずみには不安でたまらなかった。いつもならこの後スタンプか何か返してくれるだろうし、いつもなら「じゃあ何して遊ぼう」とか言い始めるだろうに、今回はそれがなかったのだ。彩葉が既読をつけずに放置することも、ほとんどないはずなのに。

 今から向かう。いずみは今朝打ったその言葉をそのままに、送るボタンを押せずにいた。もうだいぶ前に家を出たし、電車に乗ってから数分経っている。あと少しで彩葉の最寄り駅に着く。駅から家までの距離も、教わった限りではそんなに長くないはずだった。それなら、と打っておいた文字を全て消し、もうすぐ着く、と書き換える。

 窓の外に目を移してみると、朝出てきたときには小降りだった雨が何本もの線を作っていた。強くあたってバタバタと大きな音を鳴らしている。予報はずれの、強い雨。あぁ、また何かが起きるんだ。きっとこれは、あまり良くないことが起きる。いずみは雨の中、そう予感していた。

 徐々に電車の速度が落ち始める。いずみは立ち上がり、さほど小さくない荷物を持ち上げ、それからメッセージを送った。完全に止まった車両の扉が開くまでの間、待ってて、と追加して送る。もちろん、既読はつかない。

 降りる人はほとんどいなかった。改札までの階段がガタガタで、重い荷物を持っているいずみは何度か転げ落ちそうになった。慌ててポケットから取り出した切符を入れ、改札を抜ける。窓口には本当に人がいるのか疑問だ。

 狭い扉から外へ出ると、電車の中で感じていたような大雨でもなかった。しかし、ゆったり歩いて目的地に向かうには少し嫌に濡れなくてはならないことは明確だ。走ろうか、それとも――。その荷物の中に、傘はなかった。

 雨に打たれながら、全速力で走る。雨に濡れすぎないために、それもあるが、一番は早く彩葉に会いたい、会わなくてはならない、という思いからだった。せっかくの新品の服が、という気はひとつもなかった。水たまりなど少しも気にせず踏んで行く。赤信号など無視して渡って行く。早く行かなくちゃ、それだけがいずみの頭の中を支配し、いずみの身体を突き動かしていた。

 辿り着いたのは、小さなアパートの一室。インターホンを押せば、ピン、と鳴って、離すと、ポーンと鳴る。古くさいチャイムだ。それに、こいつはこんなときでものんきな音を発する。早く家の主を出せ、と言わんばかりにいずみは再びそのボタンに手を伸ばす。と、玄関が開いた。

「いろは――」

 中から出てきたのは、部屋着の姿の彩葉だった。髪の毛は乱れたままで、ほとんど眠っていないのか目の下にはくっきりとクマができている。何より、その瞳は赤く腫れ上がっていた。きっと一晩中、いやそれ以上、泣き続けていたのではないだろうか。

「い、いずみ、ちゃん……」

 名を呼ばれるよりも先に、いずみはさっと玄関の中に入り、彩葉を思い切り抱き締めた。力いっぱい、どこにも消えてしまわないように。潰してしまいそうになりながらも、力いっぱい強く抱き締めた。それと同時に栓が外れてしまったのか、彩葉は思い切り声を上げて涙を流し始めた。いずみの背中に回された腕は弱々しく、冷たくて、震えていた。

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