第9話 連絡
大学構内から出て、地下鉄を待っているいずみは暇つぶし程度にクジャクサボテンのことを調べてみた。
あの講義の内容自体はほとんど覚えていないのに、教授の雑談は記憶の中にしっかりと残っていたのが不思議だった。脳があの話題を記憶しておくべきと判断したのだろうか。それともいずみが無意識に消すまいとしていたのか。
画面に映し出された花の画像は、人間を別世界へと繋げる効果があるようだった。いずみは花に視線を絡め取られ、身体のどの部分も動かすことができなかった。自分の半径数メートルの辺りに膜が張られてしまったかのように、外側の世界からいずみを隔離している。周りの騒音はくぐもった音になって耳に届き、外側の人間の動きは停止しているように見えた。
「きれい」
思わず呟いた言葉は、いずみの耳には他人の呟きのように届いた。
「これが咲いたなら……きっと、良いことの前触れ」
そのサボテンはいずみの想像よりもずっとずっと、美しい花を咲かせるらしかった。鮮やかな赤の花。重力に従って俯いている、美しいその花。気高いようで、暗いようで、誰も寄せ付けないようで。それでも健気に咲いている。顔を上げようと、押しつける力に逆らおうと、咲いている。まるで――。
ブブッとスマホが振動し、いずみはハッと我に返った。息をゆっくりと吐いて、それから首を振る。数度瞬きをしてから、画面に視線を戻す。上から落ちてきた通知は、メッセージを受け取ったことを知らせていた。
『休んでごめんね』
気にしなくて良いと昨晩何度も言ったのに、彩葉のメッセージはその言葉から始まっていた。
いずみの記憶の中の彩葉は、そんなに気にするような子ではなかった。何か悪いことをしてしまったとしても、一度謝って、反省して、それから同じことは繰り返さないタイプだったはずだ。どうしてこんなにも休んだことを気にしているのだろう。それは彩葉のせいではないはずだろうに。いずみは首を傾げた。
彩葉のメッセージは続いている。
『いずみちゃんが良ければ、なんだけど……』
電車がホームに入ってきた。いずみはスマホを見ながら、列を詰める。
『今週私の家に来ない?』
前に人が入っていくのについて、いずみも車内に入る。ほとんど満員だった。扉の方を向いたいずみは、目の前の人が乗ることもはばかられ、すっと一歩引いたのを見た。
『一泊くらい、泊まりに』
ガタゴト、電車が出発すると同時に、いずみは思い切り目を開いた。驚きの声を上げそうになったが、それは免れた。もしかすると、やっぱり教授のクジャクサボテンは、数ヶ月遅れで花と一緒に良いことを持ってきたのかもしれない。いずみは思わず微笑み、快諾の返信を送った。
『いいの? ぜひ行きたい』
返ってきたメッセージを見て、また惑う。
『ありがとう』
この場合、感謝を述べるのはいずみではないのだろうか。一泊彩葉の家に泊めてもらうのだから。その分彩葉の家の設備を借りることになるのだし、勝手がわからないのだから世話になるのは当然だ。彩葉が『ありがとう』と言ったのは、どうしてなのだろう。いずみは何か引っかかるものを感じた。考えすぎ、だろうか。
目の前の扉が開き、後ろから強引に押されて、いずみは一歩外に出た。そんなにこの電車に乗っていたのかと眉をひそめたくなるほど大量の人間が降りていき、やっといずみは電車内に戻った。空いた席に落ち着くと、その頃にはもう引っかかりは忘れてしまっていた。彩葉の家に泊めてもらうのだという、歓喜の波に追いやられてしまった。
何を持っていこうか、何を着ていこうか。あぁ、このままショッピングをしてから帰宅した方が良さそうだ。まずは……紅茶やコーヒーなんかを一応買っていこう、あれば飲むだろうから。それから、二日分の素敵な服だ。最近はお洒落にも気をつけてはいるが、週末に彩葉とふたりきり彩葉の家にいるのなら……。止まらない思考にいずみは流されていく。
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