第105話 赤壁の戦い Ⅱ

 「霧がでてきたぞ」


 揚子江上空にたちこめる霧はぼんやりと視界を白く埋めた。

まるで白煙の中にいるようである。


 「荀攸、時は来たか」


 「丞相様、時は来たか、と」


 曹操は荀攸に確認し、次いで荀彧に尋ねる。


 「黄蓋などに合図を送るべきか」


 それに荀彧は首を振った。


 「黄蓋らは間違いなく偽の内通です。彼らに合図を送れば、即ち敵に我々の襲来を知らせることになります」


 「うむ。わかった」


 「于禁!于禁はおるか」


 「はは、ここに」


 「船団に水兵と陸兵もありったけ入れろ。船を固定している縄を解き、そして風に乗って孫呉陣営を急襲する!」


 「かしこまりました!」


 「者ども!いざ、決戦じゃぁっ」


 こうして、曹操軍が動く。

大小様々な船に兵をこれでもかと詰め込んで、大船団は水塞を発った。


 高く張り上げた帆は北風を受けて喜び勇み、乗員は船の甲板に集って霧の先を想い、胸を昂らせる。


 船が隊列を成して進む姿は龍が大空を並進するが如く。


 船が大河の荒波を砕いて進む姿は虎が敵をなぎ倒すが如く。


 これで曹操軍の勝利は間違いない・・・はずだった。




 「んー、霧が出てて向こうが見えないなぁ」


 濃霧の先を不安視するのは一応、呉軍の総大将である風魯だ。


 「呂蒙殿、川に向かって火矢を放ってよ」


 「え?なぜですか」


 「理由はいいから」


 風魯は呂蒙に命じてその配下に火矢を放たせた。

理由は、


 (火のついた物を飛ばせば、それでちょっとは明るくなって見えるんじゃないかな)


 という、なんとも馬鹿らしいものであった。


 当然、霧が晴れるはずもなく、むしろ白煙のような霧がさらに濃くなったようにも見えた。


 (んー、やっぱり駄目か)


 風魯は落胆したが、そこへやってきた孔明が開口一番・・・


 「やったぞ、我が軍、勝利を得たり!」


 と軍兵の前で叫びだす。


 黄蓋や韓当らは依然として同士討ちを続けており、陣所内も陣幕が破れるなど滅茶苦茶な状況であったが、なぜ孔明は勝利を確信したのか。


 実は、先程まで彼らの体温を奪っていた北風は鳴りを潜めて、代わりに温暖な南風が冷えた空気を押し流すように吹き始めていた。


 そして、その風は次第に強まり、揚子江上空を覆っていた濃霧もどこかへと消え去った。


 すると、目の前に広がる大河には激しく燃え盛る曹操軍の船団があった。


 曹操軍前衛の船が中衛の船に炎上したまま激突し、大破。

さらに引火した中衛の船が炎上したまま遠くに見える本営の船に激突し、その船にも引火する、まるでドミノ倒しのような現象が起こっているではないか。


 この時、曹操軍で起こっていたことはこうだ。


 船の縄を解いて前衛船から出立した船団は北風を利用するため帆を張り上げて進軍していた。

 しかし、次第に風向きが南風へと変わっていき船の進みが遅くなったところへ、風魯の命令で放たれた火矢が前衛船を直撃。


 「ややっ、火矢だ!」


 「火を消せ!火を!」


 しかし、于禁率いる前衛船の甲板に引火した炎は南風に乗せられて船の後方にまで燃え広がり、また帆を張り上げたままの船体は風向きが変わったことにより逆走し、北岸へと進む。

 一方の曹仁率いる中衛船はというと前衛船の状況を把握できず、ただ南風でも進めるようにと帆を畳んだところであり、船を漕いで進軍していた。


 「曹仁様、前方で喊声が上がっています!」


 「そうか!前衛が戦闘に突入したに違いない。我々も急ぐぞ!」


 響き渡る喊声が孫呉の同士討ちによるものとは露知らず、進軍する中衛。


 「曹仁様!大変です!」


 「どうした!?」


 「炎上した前衛船が、、こちらに迫ってきております!」


 「な、何!?」


 曹仁は慌てて帆を張りなおすように命じた。

そうでもしなければ帆を張ったままの前衛船に追いつかれてしまうからだ。


 こうして、曹仁の命令で中衛に位置する多くの船が帆を張り上げようとしたが・・・


 「あ、あれ?どうやって帆を張り上げるんだっけ??」


 船戦にまったく慣れていない曹操軍の兵士は帆を張るのに悪戦苦闘。

さらに方法を覚えていたはずの兵士も焦るあまりに手段を間違える始末。


 そうこうしている間に炎上中の前衛船が中衛船に激突。


 「曹仁様!帆を張り終えました!」


 「遅いわっ!!」


 中衛船が帆を張り終えたところで引火し、同じく帆を畳んでいた本営船に接近。


 「夏候惇様!大変です!」


 本営は夏候惇が率いていたが、迫りくる炎上船にこれまた慌てて帆を張りなおすように命令。

 だが、中衛と同じように帆を張りなおすのに時間を要し、中衛船と同じ末路を辿った。


 船団の外周にいた船は前方の炎上船を避けようと旋回したが、不慣れなために旋回に時間を費やして、結局間に合わずに激突された船もあったりした。



 「な、何が起こっているのだ!?」


 揚子江を臨む河原に陣取っていた曹操は慌てて状況を確認するように命じたが、


 「お味方の船団、炎上にて悉く戦闘不能!」


 という報告を受けて曹操は茫然自失。

さらに・・・


 「申し上げます!炎上船が河原に漂着し、枯草に引火した模様!」


 炎上した本営船が河原の枯草広がるところに漂流し、それらに引火。

その炎は南風に焚きつけられて大火となり、曹操のいる陣所に迫る。


 「丞相様!」


 茫然と目の前の大火を見つめている曹操に荀彧が声を掛ける。


 「我々は敗れました!ですが、丞相様が健在なら立て直しも容易!」


 「ここは逸早く、襄陽に撤退なされませ!」


 「・・・・・・」


 曹操はなおも黙っていたが、そこへ賈詡や荀攸らも現れて、


 「丞相様のお命さえあれば、十分なのでございます!」


 と力強く言った。


 「・・・うむ、皆の者、、撤退じゃ!」


 こうして、曹操は迫りくる大火から逃げるように荊州襄陽へと敗走。

また、于禁や曹仁、夏候惇なども命からがら炎上船を脱出し、曹操軍に合流。


 ただ、幸いにも道中に追手や伏兵などはおらず、無事襄陽に帰還した。


 

 

 「本当だ・・・、勝った・・・!」


 「か、勝ったぞー!!」


 「わけが分からないが、勝ったんだ!」


 目の前に広がっていた曹操軍の惨状を見て黄蓋らの手は止まり、呉軍はじわじわと沸き立った。


 (ああ、なんかよくわからないけど、良かったぁ)


 その本営にあって、風魯はほっと胸を撫で下ろした。


 「さすがは風魯大将軍!風の変わり目を読んで、あの大船団を葬り去るとは」


 隣にいる孔明がそう言うと、周りの孫呉の重臣らもそうだったのか、と驚き、


 「風魯大将軍!これまで大変無礼な態度を取ってしまい、すいませんでした!」


 「風魯大将軍、万歳っ!」


 と風魯を囲んで騒ぎ立てたものである。


 (んー、なんか名声が上がったのかな?ま、どうでもいいけど)


 風魯は勝因を理解できていなかったが、そんなことはどうでもいいと棚に上げて喜んだ。


 歴史に刻まれし大戦、赤壁の戦い。孫呉の、そして孔明の窮地を救ったのは風魯だったのである!

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