3歳になる本

六野みさお

第1話 さよなら世界

「さーて、年末だし、整理するか〜」


と言いながら、彼女は部屋に入ってきた。俺たち本一同は揃って固まる。彼女の視線に全精神力を集中する。


 ……よし、まずは向こうからだ。


 彼女は俺とは反対側の本棚の前に立つ。おもむろに一冊の本を取り出した。取り出された本は、彼女が手に持っている袋に投げ込まれる。

 ところが、驚いたことに、彼女はその横の本を続けて取り出した。そのままその段の本は全滅させるようである。

 あいつらの題は何と言ったっけ。確か『エンドロールは突然に』だったはずだ。全30巻、この部屋では最長のシリーズだ。

 最大勢力を誇り、幅を利かせていたエンドロールたちが処分されるとは。今回は荒れそうだぞ。

 彼らの悲惨な運命の原因はすぐに判明した。彼女が新しい袋を持ち込んできたのである。


「てめぇ、新しいシリーズのために俺たちを処分するのか! 『大戦記』だと!? そんな重そうなタイトルの本を読めるのか?」


と、エンドロールの7巻がわめいている。


「『大戦記』は今年一番の名作ね。それに、最近は私も戦記ものをよく読むし。エンドロールは場所も取るし、ここでお別れかなぁ」


 エンドロールの7巻の叫びが彼女に届いているわけがないが、彼女は親切にも俺たちの疑問を解消する。

 と、彼女は首をかしげた。


「あれぇ、一冊分スペースが足りないな……あ、そうだ」


 彼女はこっちに振り向き、迷わず俺を手に取り……袋に放り込んだ!

 俺は頭から袋の中に突っ込む。文字通り目の前が真っ暗になった。


「ふふ、残念でした、『神楽坂殺人事件』くん。別に君を選ぶつもりはなかったんだけどね。ただ、今日のニュースで、君の作者が脱税で炎上したっていうのを聞いたのでね」


 何やってんだ作者。


「ほら、これがそのニュース……ん? あの馬鹿作者、ついに逮捕までされたようね。これはますます処分しないといけないわね。あいつの他の作品はどこにあったかしら」

「何やってんだよ作者!」


 声に出してしまった。といっても、俺たち本の声が人間に届くことはない。


「うーん……でも、もう袋がいっぱいね。一回捨てに行くとしますか」

「待て! 待つんだ! 考え直せ!」


 俺はとっさに叫ぶが、彼女は袋を持ち上げ、玄関に向かい始めた。


「ママ、どこいくの?」

「なんでもないわ……ゴミ出しよ。すぐ帰ってくるから、いい子にしといてね」


 袋の裂け目から、まだ三つになるかどうかという歳の女の子がちらりと見えた。俺たちが捨てられそうになっていることには、何の感情も持っていないようだった。どうか君は優しい人に育ってくれーー俺のような不運な本が少しでも減るように。


⭐︎


 俺は本である。題名は『神楽坂殺人事件』という。店に並べられていたときは仲間に個人番号で呼ばれていたが、買われてからはそれも忘れてしまった。

 書いてもらった分際だけれど、俺は作者をーー今となっては彼の名前も言いたくないーー憎まざるをえない。炎上した罪人の本になるなんて、本として最悪の屈辱だ。もし俺に手足があれば、迷わず自殺するだろう。だが、俺の運命は、せいぜいゴミ収集車に乗せられて、焼却炉にぶち込まれるだけだ。

 いやーー今はリサイクルというものがあるのだったか。どちらにしろ同じことだ。俺の五体は完膚なきまでに破壊されるだろう。

 まあいいさ。俺の本生は、それなりに楽しかった。3年も生きられたんだ、消費社会の現代じゃ長い方だろう。それとも、これもリサイクルの影響だろうか。なんにせよ、俺はなるべく早く、この屈辱から解放されたい。

 俺の心は決まっている。横で往生際悪く騒いでいるまだ印刷一年にも届かないエンドロールたちとは違う。これだから若い者は。

 ーーそのとき、俺の視界がまたも暗転した。どういうことだ。どこにもゴミ収集車は見えなかったぞ。

 と、上から声がした。


「おっと……これはもしかして、本とかいうものかな。あんまり踏んづけたらいけないか」


 ぜひ踏んづけてください、俺は早く逝きたいんですーーと思いながら、俺は再び視界が開けるのを感じた。見れば、そこには小さな

男の子が座っていた。いつもの女の子よりは年上だけど、まだ大人にはほど遠い、というところだろうか。だが、二人には大きく異なる点がある。ぷくぷくと健康的に太っている女の子と比べて、この少年はあまりにも痩せている。その腕は今にも折れそうなほど細い。

 彼は俺の上に手を置いた。彼の手はハードカバーの俺には小さすぎたので、俺の視界は少し狭くなったが、俺はまだ彼をよく見ることができた。


「はあ……僕の人生も、ここらで終わりのようだよ。ーー君は本なんだろ。何でも知ってるんだよね。僕の話を聞いてくれるかい」


 彼は僕のそばに横たわって、少し目を細めて、ゆっくりと話し始めた。


⭐︎⭐︎⭐︎


 僕は父さんの顔を覚えていない。父さんは僕が物心つく前に家を出た。母さんは僕を養うために、毎日働いていた。でも、赤ちゃんをみごもったことがわかって、ご破産になったみたいだ。母さんは泣いていたよ。望んだ子じゃないのに、とか、そんなことを言っていたように思う。

 母さんは公園の水道で赤ちゃんを産んだ。母さんは二人を食べさせないといけなかった。苦しい日々だったよ。一日食べるものが手に入らないときもたくさんあった。でも、母さんは赤ちゃんを死なせちゃいけないって言ってたから、食べ物があっても、僕はなかなか食べられなかった。望んだ子じゃないはずなのに、おかしいな。

 そうそう、母さんが何より好きだったのが本だった。本が道に落ちていれば、絶対に手に取って読んでいた。ときどき新聞のこともあった。気が向けば、僕に文字を教えてくれた。ひらがなくらいは読めるようになったよ。君の表紙には、漢字しか書かれていないみたいだけど。

 決して楽な生活じゃなかったけれど、母さんと妹の隣で眠るのは好きだった。でも、いつものように眠って、起きたら二人はいなくなっていた。僕はパニックになった。あちこち二人を探した。でもどこにも二人はいなかった。

 一日中泣きながら走り回って、僕は疲れ切って元の場所に帰ってきた。僕はそこにメモが置かれているのに気づいた。メモにはひらがなでこう書かれていた。


『おかあさんはかけにでます。まけたらかえってきます。それまでここでまっていてください』


 僕は待った。何日も待ち続けた。でも母さんたちは帰ってこなかった。母さんはかけに勝ったのかもしれない。それか、負けて帰ってきたけれど、僕がそこにいなかったから、僕がいなくなったと思ったのかもしれない。

 僕は一人で生きないといけなくなった。食べる回数はどんどん減っていった。まともに文字の読めない僕には、母さんよりも働き口がなかった。

 母さんを恨んでいるかって? まさか、感謝しかないよ。僕を育ててくれたんだもの。笑顔のすてきな人だった。今でも母さんの笑顔を思い浮かべるだけで、僕は笑うことができる。

 そして僕はここにいる。やれるだけ頑張ったけれど、どうやらそろそろ運の尽きみたいだ。思い残すことなんかない。そうだな、ひとつだけあるとすれば、妹の顔を一目見てから死にたいな。


⭐︎⭐︎⭐︎


 少年は話を終えて、そっと目を閉じた。最後の力を使い果たしたかのようだった。本である俺も時間を忘れて聞き入っていた。

 世界にはいろんな人がいるものだ。俺を捨てた誰かのように毎日腹いっぱい食べられる人もいれば、彼のようにその日の食事にもなかなかありつけない人もいる。本だって、俺の何十倍も生きるのもいれば、数日で処分される売れ残りもいる。それと同じことだろう。

 いつしか雨が降り出していた。冬の冷たい雨は、俺と彼を静かに濡らしていく。俺たちの死期は少し早まるだろう。雨は本を破れさせ、人から体温を奪う。

 雨はどんどん激しくなる。俺の意識も朦朧としてきた。彼が俺をひときわ強く掴む。力尽きそうになりながら、何回も掴み直す。本には関係ないけれど、少し暖かい。

 俺は最後の力を振り絞って、彼を見ようとした。彼もまた必死に目を閉じまいとしていた。そして俺は見た。

 彼の後ろに、よく知った人の顔が見えた。いつもの女の子だった。今から出かけるのだろう、よそ行きの服を着ている。


「ほら、行くわよーー」


という声が聞こえた。俺のマスターだった人だ。俺はなんて運がいいんだろうーー最期にマスターの声を聞けるなんて。

 俺はなんとなく横の彼を見た。……彼はまっすぐ前を見つめていた。その視線の先には、いつもの女の子がいた。一瞬二人の目が合って、またすぐ離れた。

 俺は一年前、自分が古本屋から買われたときのことを思い出していた。そのときのマスターは、今よりもかなり粗末な服を着ていた。彼女は嬉しそうに俺を手に取って、そして何か言っていた気がする。そうーー賭けに勝ったとかなんとか。

 俺は少年の手からゆっくりと力が抜けるのを感じた。俺が最後に見た彼は、どこか満足したような顔をしていた。でも俺はそこまでしか見ることができなかった。俺の視界も閉じられようとしていた。彼のまだ少し温かい体が俺の上に覆いかぶさって、そこで俺の意識は途切れた。

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3歳になる本 六野みさお @rikunomisao

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