第十一章 変身
あれから一カ月が過ぎた。
瀬川の会社は以前と変わらず喧噪に包まれていた。
女は久しぶりの出社に幾分緊張気味にオフィスの扉を開けた。
島田がいるかどうかが気になっていたが、幸い席にはいなかった。
一方的に別れの手紙を出して置いて自分勝手な話であったが、そうする事しか女には本当の自由は得られないと思ったのだ。
瀬川は顔を上げると女に気づき、思わず叫んでいた。
やつれた顔をしている。
「ど、何処へ行ってたんだ。か、勝手に辞めるなんて、ゆ、許さんぞ」
大きな声に、社内中の者が振り向いて驚いている。
女はもうメガネをかけていず、高いヒールを履いている。
背筋をシャンと伸ばし、流行の服に包まれた姿はモデルのようである。
「今日は、最後のご挨拶にまいりました」
女は自信に満ちあふれた顔つきで瀬川を見下ろしている。
男は真っ赤な顔でどなった。
頭に白い物が交じっている。
「な、何日待ったと思ってるんだ」
机の下で握り締めたこぶしが震えている。
礼子は刺す様な視線を男に投げている。
「私は・・・3年、待ったわ」
そう言うと女は髪を束ねていたスカーフをスルリと解き放った。
ブロー気味のタップリした髪がブルーのスーツの肩にこぼれ落ちた。
女はしなやかな指で髪をかきあげると、顔をふって片方の肩に寄せた。
その美しさに、社内中が息を飲んで見守っている。
吸い込まれるように、男が立ち上がった。
ピンク色に妖しく濡れた口びるを歪ませて微笑むと女は踵を返し、リンとした表情で部屋を出ていった。
瀬川はワナワナと肩を震わせて立っていたが、やがてガックリと首を落とし崩れるように椅子に座った。
※※※※※※※※
会社のビルを出た後も、女は背筋を伸ばして歩いていた。
振り向きもせず、真っ直ぐ前を見ている。
まるで違う世界にはばたいていく鳥のように、晴れ晴れと。
しばらく歩いると、公園にさしかかった。
パラパラと小雨が降ってきた。
カツカツと小気味よい音をたてていたヒールが、力無く止まっていった。
ベンチのそばに立ち止まると、ため息と共に座りこんでしまった。
涙が、あふれてきた。
これで全てが終わったのだ。
自由にはなれたけど、再び孤独という寒い季節に立ち向かわなければいけない。
島田に、会いたかった。
本当に愛せたのは彼しかいなかった。
女の涙に合わせる様に雨足が強くなってきた。
このまま濡れていたかった。
結局、自分には何も残らなかった。
自由と引き換えに愛も失ってしまった。
身も心もずぶ濡れにならないと、気が狂いそうだった。
(もう一度だけ・・・せめて・・・)
女の髪を濡らしていた雨が止んだ。
顔を上げると、男が微笑んで傘をさしていた。
島田であった。
「ど、どうして・・・?」
女は顔をクシャクシャにして見上げている。
「僕は・・・待つのは慣れているんだ」
男はハンカチを取り出すと、やさしく髪の雫を拭いてあげている。
「手紙をもらった後、僕も会社を辞めたんだ、一週間前に。そして会社の前でずっと待っていたんだ。不器用な話だけど・・・」
女は男の手を両手で握り締めると、自分の頬にあてて泣きじゃくっている。
男は、女の涙の温もりを心地よく感じた。
「もし、良かったら・・・。もう一度、僕の傘に雨やどり・・・してくれないかい。この間より大きいの・・・買ったんだ」
女は男のハンカチで涙を拭うと、ゆっくりと顔を上げた。
二人は見つめあったまま、頬をゆるめた。
雨が二人の傘の上で小刻みなステップを、踏んでいる。
長い雨の季節が終わろうとしている。
西の空の雲が切れて、少し明るい色を見せていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます