clay.

平山芙蓉

Envy

 自分の作品が一般生徒と同じ列に並んでいて、彼女の作品が教壇に飾られていると気付いたのは、美術室に入った瞬間だった。染み付いた絵具の臭いで、吐き気がする。何かの見間違い。あるいは、誰かの悪戯。そんな可能性が頭に過ったけど、文字通りただ通り過ぎて行くだけだつた。それでも、人間……、というより心は不思議なもので、有り得ない可能性を何度も咀嚼しては、吐き捨てていた。


 これは夢。

 何かの夢。

 そう思いたかった。


「やば、恵理のやつ金賞じゃん」


 仲間内の誰かの声で、教室の入り口で佇む私はようやく我に返る。誰が言ったのか分からなかった。だけど、その言葉が私の願った可能性を捻り潰したことだけは事実だ。


 冷静でいるよう努めながら、自然と彼女たちの輪に入っていく。目の前で恵理を称える声は止まなかった。お世辞にも広いとは言えない教室の中で、彼女たちの黄色い声が響き渡る。何人かの生徒は、うるさい、という冷かな視線を浴びせていた。


「まあ、なんかの偶然、ってやつ?」


 恵理が恥ずかしそうに口にした途端、自分の歯が軋む音を聞いた。奥歯が歯茎に埋まってしまいそうなくらい痛い。でも、みんなに合わせて何か言わなきゃ。そう言い聞かせる度に、私は笑顔を浮かべたまま内側から筋肉を強ばらせてしまう。まるで、自分の顔が一枚の仮面へと変わっていくみたいだった。


「ねえ、あたしのはもういいからさ、みんなの見に行こうよ」恵理がそう提案すると、またもや、茶化す言葉が上がる。そんなみんなを宥めて、賞も評価もない、一般人の列へと背中を押した。


「ほら、紗世も」


 声をかけられる。私は息を飲んでから、うん、と頷く。そして、できるだけ視界に入らないよう、少し前を意識しながら歩いた。自分の今の表情が醜いと自覚している分、見せたくはない。嫌な風に捉えられたら尚更だ。恵理はグループの中でも気遣いの出来る性格の人間だから、変化に気付いて心配してくれるだろう。普段なら気にも留めないけど、今されると、平常心を保てなくなるのは目に見えている。だからこそ、彼女からも目に入らない位置にいたい。


 他生徒の作品を眺めながらも、視線は方位磁針みたく、教室の前方へと向いてしまう。正直、他人の作品モノも、自分の作品モノもどうでも良くなっていた。何故、恵理が選ばれて、私が選ばれなかったのか。そんな疑問だけがさっきから循環していた。

 私が仲間内でトップに立つ。粘土を練っている時は、そんな志が確かにあったし、グループの中で誰よりも一番だったはずだ。だって、みんな授業の一環とは言え、粘土をこねくり回すことに気怠そうな態度を示していたから。恵理も例外に漏れない。粘土で作品を創ろうなんて「小学生がやることじゃん」という声に「確かに」と頷いていた。

 彼女は私たちの中では確かに真面目な部類には入る。それでも、成績や友人の多さなんかも、私より劣っていることに変わりない。そんな恵理や、今も一緒に歩く彼女らと友人となったのは、所謂、猿山の大将になりたかったから。カーストトップでも、ワーストでもなく、中流のグループでなら王様になれると自負していたから。それに、トップに立つことはいつだって気持ちいい。そんな自尊心を保つためだけの人間たちだと、見下していることも認める。実際、私は仲間内で成績も良いし、センスもあるはずだ。今回だってそう。その力量の差を見せつけたくて、この発表会も、張り切って取り組んだのに。

 なのに、どうして彼女が選ばれたのだろう。あの何の捻りもない、素人が見ても分かるくらい面白味もない作品が賞を取れたのか、分からない。下らないし、理解ができない。恵理の作品や、彼女自身に対する感想が浮かぶ度、自分を形作っていた自尊心という骨組みが、針金のように細いことを思い知らされるみたいで、気分が悪くなってきた。

 吐きそうな気持ちを抱えながら、他人の作品を流し見していくと、遂に私の作品の前にやってきた。


「紗世のやつも気合入ってんね」

「凄いじゃん。これ、賞とっても良かったんじゃない?」


「いや……、そんなことないでしょ」口々に出てくる褒め言葉を、私はどうしても素直に受け止められなかった。頭の片隅には、上手く笑えているのか、という不安だけがあり、今すぐにでもこの場を離れたくて仕方がない。

「へえ、やっぱり紗世は凄いね」と、背後から恵理が声をかけてきた。私は悟られないよう、すぐ自分の作品に目を落とす。何か答えた気もするけど、どう答えたのかすぐに忘れてしまった。険悪な雰囲気にはなっていなかったし、彼女もニコニコと、私からすれば嫌な笑みを浮かべていたから、当たり障りのない言葉を吐いたのだろう。


「実はね、紗世が頑張ってるみたいだったからさ、あたしも頑張ったんだよ」


 ――は?


 そう漏らしてしまいそうになるのを、必死に堪えた。奥歯を噛み締め、息を止め、生唾を飲んで必死に。暖房の暑さのせいではない汗が、全身から噴き出す。


「紗世はいつも頑張ってるからさ、あたしも頑張ろう、って思って」


 嫌な汗と共に背中をなぞる嫌な言葉で、私は発狂しそうだった。息を止めてほしい。喋らないでほしい。口の中には鉄の味が漂っていた。それが嫌悪の味だと、すぐに理解した。だから、取り繕う言葉を声にしても、水に溶けていく綿飴みたく、すぐに頭の中から消えてしまう。粘土をこねくり回して、作品を創っている時よりも、酷く苦労を感じられる。

 胃が痛い。この女は、私を貶めるために、こんなことをしているのではないか? 本当は私のことが嫌いで、いつか蹴落とそうとしていのではないか? そんな疑念がドロドロと私の中を巡っていく。

 私は恵理じゃないから、真意は分からない。でも、私が彼女の立場だったらどうだろう。私がこの女なら……。きっと同じことをするだろう。何でもないようなフリで、ナイフを突き刺すような真似をするだろう。


 授業が終わるまで、みんなの会話は耳に入ってこなかった。どんな作品を目にしても、恵理が私をどう思っていて、私はどうすればこの気持ちを整理できるのか、考えるだけだった。もちろん、この感情という粘土で創られた粘土細工に、名前を付けることなんて、最後までできなかったのだけれど。


           ◆


 その後、私は一日中、意識して恵理たちを避けながら、過ごした。授業は午後からだったお陰で、お昼をどうするかまで悩まなくて良かったのは幸いだ。

 半日にも満たない時間で、今日が人生最悪の日に変わった。それがまた私の中で練られる感情を、複雑な形へと変えていく。

 ホームルームが終わった。いつもならここで、恵理や他の友達へ一緒に帰ろうと声をかけるのだけれど、今日はしない。一日の終わりで浮足立ったり、部活に愚痴を溢したりするクラスメイトたちの合間を縫いながら、廊下へと出る。窓の外で西へと傾いた陽は、オレンジ色に染まっていた。反対に、グレイの分厚い雲が空には浮かんでいて、太陽が沈むのを今か今か、と待ち望んでいるみたいだ。


 他クラスからも人が出てきてごった返す前に、私は美術室へと急ぐ。自分のローファーの踵がリノリウムの床を叩く音が、異様に聞こえてきた。他人の声さえ、どこか遠くのものだった。


「紗世! 紗世ってば!」


 背後から『聞こえないのなら耳鼻科へ行け』と言われそうなくらい大きな声で、名前を呼ばれた。仕方なく振り返ると、そこには声の主である恵理がいる。

「ねえ、どうしたの? 一緒に帰ろ?」息を切らしながら彼女が聞いてきた。私は冷めきった焦燥感を押し殺して、言い訳を考える。

「あー、ごめん。なんかさっき家からメール来ててさ。親戚が入院したとかで早く帰って来いって」

 それに、良くしてもらってたからさ、と彼女の鼻の辺りを見つめながら続ける。我ながら、嘘っぱちにも程がある杜撰ずさんな言い分だと思った。だけど、これなら自分の顔を上手く作れていなくとも、問題ないだろう。

 ごめんね、と両手を合わせると、恵理は「分かった」と納得してくれた。校門まで一緒についてくる、なんて言われたらどうしようか、と心配になったけど、彼女はまた明日、とだけ言い残して廊下を戻って行く。友だちを待たせているのだろう。そのお陰で、不安は一気に霧散した。


 息を吸い込む。意外と鼓動が速くなっていることに気が付いた。そして、私は誰よりも速く、しかしながら溶け込むよう自然に、目的の場所へと向かうため、歩み始める。そうだ。さっきのあれを彼女との最後の会話にしよう。きっと、動悸の原因は自分がこれからすることの悪意を、ハッキリと理解しているからだ。ならば今後、恵理と話をする時は、こんな気分がずっと付き纏うに違いない。だとしたら、わざわざずっとそんな想いをするのは愚かしいだろう。唐突な思い付きだったけど、しっくりきた。


 階段を下って、美術室を目指す。作品展示は明日まで行われるらしく、その関係で美術部は休みだと耳にしていた。二階の廊下は人がおらず、夜の病院を彷彿させる静けさに包まれている。

 不用心なことに鍵はかかっていなかった。先生がいることを考えていなかったけど、どうやら外しているらしい。何にしても、都合が良い。授業の時とは違い、美術室に並んだ粘土細工の群れは、少し気味が悪かった。全部ただのモノに過ぎないのに、何だか見られているような気がしてしまう。そんな在りもしない視線を跳ね除けながら、私は目的のモノを手に取った。


 それは、恵理の作品。


 シンプルな筒状の表面には、花の模様が象られていて、触れると形が良く分かった。タイトルには『花のペン立て』と、何の捻りのないものだ。そんなものが賞を取ったなんて、未だに信じたくない。私は彼女の作品を鞄の中へと入れる。何だか頭が痛い。血管が切れそうな痛み。そんな痛みを我慢しながら、美術室を後にする。


 人に見つからないよう気を付けながら、急いで校舎裏へと向かった。外に吹く冷たい風は、容赦なく肌を撫でる。寒い季節だというのに、額には汗が浮かんでいた。

 辺りに人がいないことを確認してから、鞄の中から恵理の作品を取り出す。建物の陰になったここで見ると、彼女の作品はより味気ないものに思えた。


――本当にやるの?


 手にしたペン立てを見つめながら、僅かに残った良心が問いかけてくる。今ならまだ、後戻りはできるだろう。人には見られていないし、すぐに引き返せば元の位置に戻せるはずだ。だけど……。そんなまともな考えを受け入れられるくらいに、私は落ち着けていない。

 私は静かに彼女の作品を持ち上げる。


 そう。


 そんな簡単に自分の傷を受け入れられるほど、私は綺麗じゃない。気付いてしまったから。気付いてしまったなら、汚すしかない。穢れたものを綺麗にするより、穢し続けた方が楽なのだ。築き上げたものが崩れたのなら、跡形もなくなるまで壊し続ける方が良いのだ。

 全部、同じこと。


 決断した私は、思いっきり恵理の作品を地面に叩きつけた。ボスン、という柔らかくて情けない音がする。湿っぽくて柔らかい土がクッションになったのか、完全には壊れてくれない。だけど、彼女が象った花の模様の溝には、確かに土の汚れが付いていた。


 やった。

 やってしまった。

 これでもう、後戻りはできない。


 だから私は、足で踏みつけた。土粘土の作品は意外と硬く、一度や二度では、完全に割れてくれない。だけど、確実に罅は確実に入って、段々と壊れていく。その感触が、靴の裏を伝ってきた。気持ちいい。膝が痛くなるような衝撃がそう教えてくれる。自分のやっていることの酷さなんて、もうそっちのけだった。快楽。悦楽。それ以外に言い表しようのないものが、脳の中で溢れていて、髪が口に入っても、鞄が肩からずり落ちようとも、なりふり構わず踏みつけ続ける。


 そんな中で、不意にバランスを崩してしまい、私は地面に倒れてしまった。しかも運悪く、散らばった破片の一つが太腿の裏にあたる位置にあり、突き刺さった感触が奔る。


「――っう」


 息を漏らしてその破片を取り除いた。立ち上がると、ツウっと血が筋となって流れていく。最後の最後になっても、彼女に傷付けられた気がして、ちょっと情けない。


 足元を見下ろすと、砕けた恵理の作品が散らばっていた。ペン立てとしての原形も、彼女の作品という事実も、もうない。あるのはただのゴミだ。


 このまま帰っても良かったけど、私は砕けた破片を集めることにした。傍から見れば、息を切らしながら四つん這いで何かを集める、関わりたくないタイプの人間に見えているだろう。でも、脳内麻薬でも出ているせいか、そんなことは気にならない。私を傷付けたあの女のものを、徹底的に貶めて、辱めてやる。そんな意思だけが、神経を動かしていた。


 ある程度集めると、その辺にあった植木鉢の土にそれをばら撒いた。花は咲いていない。恐らく、予備かもう使用されなくなった備品が、放置されているのだろう。


「見つかるといいね、あんたの作品」


 もっとも、そこから花が咲くことなんてないのだろうけど。空を仰ぎながら、呟いた。小さな呟きは辺りに響くことも、鼓膜に残ることなく消えてしまう。天蓋はすっかり雲に覆われている。今夜は雨が降るらしい。だけど、今の私は、そんなことがどうでも良く思えるくらい、清々した気持ちでいっぱいだった。


 恵理の顔を想像する。明日、学校へ行った時、自信作を失った彼女はどんな顔をしているのだろうか。泣き顔、困惑、力のない笑顔。どれでも良い。想像だけで心が満たされる。人の不幸は蜜の味と言うけど、本当にその通りだ。しかも、自分の手でやってしまえば、達成感が違う。


 晴れ晴れとした気持ちが冷めやらぬうちに、私は帰宅することにした。地面に落ちた鞄を拾い、表へと歩き始める。まだ興奮しているのか、息と鼓動は荒いままだ。だけど、腿の傷はようやく痛みを訴えていた。帰ったらちゃんと手当をしよう。


 フラフラと歩いていると、前方で誰かが砂を踏む音がした。

 驚いて顔を上げて視線を遣ると、そこには恵理がいた。顔は差し込んだ夕闇のせいで、思い詰めているように見える。実際のところは、無表情に近しい、初めて見る顔だった。


「なんでここにいるの?」


 私がそう聞いても、彼女は黙ったままだ。だから、すぐに全て理解した。多分、彼女は全部見ていたのだ。私の醜い部分の発露の全てを。

 もしもこれが映画なら。悪事がバレた動揺で言い訳をしたり、高笑いをして本音を吐露したりするのだろう。でも、今流れている時間は映画ではない。夢でも妄想でもない。恵理はそこにいて、私はここにいる。それだけで、お互いに内心を吐き出す必要なんてなかったし、確認をする必要もなかった。


 何でもないのだ。

 これが望んだ日常だから。

 隠れて他人を見下げて、馬鹿にする必要もなくなった。

 なんだ。

 今日は人生最悪の一日ではなかったのか。

 新たな誕生の日。

『私』という本性を咲かせる花が、土から目を出した日。

 そんな日を最悪の日なんて、称していいはずがない。

 口角が上がっていくのを止められなかった。

「あたしは」

 すれ違い様に、恵理が口を開いた。私は彼女の背後で脚を止める。もちろん、振り返りはしない。恵理もまた、こちらを見ていないのだろう、と私は何となく思ったからだ。

「あたしは紗世のこと、カッコイイと思ってたんだよ」そう言うと、息を深く吸い込んで恵理は続ける。「でも、流石にここまでされたら、ちょっと引くね」

 ああ、なるほど。この女はこの期に及んで、私を傷付けようとしているのか。私という人間を、私という存在を、出し抜こうとしているのか。私よりも成績も、対人能力も下のクセに、自分の方が上で、心も広いなんて妄想を口にするのか。

 馬鹿馬鹿しい。

 馬鹿馬鹿しくて、思わず吹き出した。

「それはあんたが壊したんだよ」

 私は後ろを見ないまま、口にする。校舎の方からは、恵理を呼び出す放送が聞こえてきた。

「あんたがそんなんだから、壊れちゃったんだ」

 そう。

 この女が身の程さえ弁えていれば、あの粘土細工は壊れずに済んだ。だけど、そんなことはもう後の祭り。ここまで壊れたものを修復するなんて、無理に等しい。

「あっそう」

 恵理は素っ気なくそう返すと、校舎裏へと歩んでいった。もしかして、散り散りになった自分の作品の破片を集めて、直すつもりだろうか。絶対にプライドが傷つくと理解しながらも、恐る恐る、背中越しに後ろを見遣った。彼女は植木鉢の破片を集めてから、地面に散らばる破片を、探している。その顔には、悲しみも怒りも浮かべていない。日課の一環だと言わんばかりに、飽き飽きした態度で、しかし傍目には惨めな恰好で拾っていた。

 やっぱり、最低の女だ。

 次第に苛立ってしまい、私は脚を怪我していることも忘れて、その場を離れる。

 夕陽はほとんど沈んでいて、西の空だけが薄っすらと赤らんでいた。雨模様の空は、もうすぐにでも降り出してきそうだ。

 彼女の顔を思い出す。

 泣きも怒りもしない、あの無表情。

 私のことなんて、眼中にないと訴えるような視線。

 気に食わない。

 でも……。

 でも、何が気に食わないのだろう。

 頭の中で思考が粘土みたいに形を変えていく。

 感情に付ける名前が分からない。

 分からない?

 いや……、本当は分かっている。

 この感情さくひんに付けるべき名前を。

 ただ認めたくないだけ。

 ただ受け入れたくないだけ。

 だってそれは……。


「嫉妬」


 そう。

 嫉妬。

 そんな名前の、馬鹿げたモノだから。

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clay. 平山芙蓉 @huyou_hirayama

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