第35話
「あなたの症状は起立性調節障害だと思います。」
病院の診察室で僕は医師からそう告げられた。
「それはどういう病気なんですか?」
母は心配そうに医師に尋ねた。
僕も母もこの病名は初めて聞くものだったので皆目見当もつかなかった。
「自律神経の働きが悪くなり起立時に身体や脳への血流が低下する病気です。」
専門用語の多い医師の説明に母はいまいち理解できていない様子だった。
「そうですね。端的に説明するなら朝起きて学校に行くという日常生活を送るのが困難になることです。」
「それって…」
母は医師からそう説明され、最近の僕の生活の異変に気がついたようだった。
「夏川さん、先生から少し症状について質問してもよろしいですか?」
医師は僕にそう問いかけた。
「はい」
「最近朝ベットから起き上がるのがしんどくなかったかい?」
「はい。ただなんで起き上がれないのか上手く言葉にできなくて…」
「立っているとめまいや吐き気、それに意識が朦朧としなかったかい?」
「はい。今朝はそれが特にひどくて、倒れてしまいました。」
「だけどそれは椅子に座ったり、ベットに横になると治らないかい?」
「はい。治ります。」
「最後に1ついいかな。最近運動をするとすぐに息切れを起こして疲れやすくなってないかい?」
「!?」
医師は僕の反応を見て察したようだ。
「検査の結果からして間違いないと思います。夏川さんは起立性調節障害で間違いないです。」
医師は母の顔を見ながらそう言った。
「あの先生…それはちゃんと治りますか?
聡太は大丈夫なんですか?」
母は少し取り乱しながら医師に問いかける。
「はい。この病気になった人は薬を服用しながら日常生活を送っています。ただ風邪のように薬を飲んですぐに治るものではありません。根気強く付き合っていくしかありません。」
医師がそう言われて、僕も質問をした。
「あの…、この病気は一生ものなんですか?」
「いえ、この病気はなる方は大体中学生に多いです。そして成長していくにつれ徐々になくなっていきます。ですが今すぐに治るわけではありません。何よりこの病気で1番辛いのは他者から理解を得るのが難しいことです。」
医師の言っていることは理解できる。
朝起きるなんて当たり前のことができないなんて普通は理解してもらえない。
サボりだと思われてそこでおしまいだ。
「今日のところはお薬を処方します。一週間後にまた来てください。」
「分かりました。」
僕はそう答え、母と一緒に診察室を出て、会計を済ませ車で家に帰っていた。
車内で母は運転をしながら僕に話しかけてきた。
「聡太…今までごめんなさい…。お母さん、何も気づかなかった。」
母はやるせない様子で僕にそう言って謝罪をした。こんな母を見るのは初めてだった。
「そんな大袈裟だよ!お母さん!大丈夫だよ!」
僕は明るく振る舞った。
だけど内心は明るいものではなかった。
正直これからどうなるか不安だった。
そして何より僕は母にそんなことを言わせたくなかった。
家に着くと母は今日は休んでゆっくりしなさいと言ってくれた。
正直遅れてでも行きたかったが1人で考えて気持ちを整理する時間が欲しかったので休むことにした。
部屋に戻って教科書を開いて適当に勉強したり、久しぶりに小説を読んだり、ベットに横になってボーッとしていた。
すると玄関のチャイムが鳴る音が聞こえた。
誰か来客があったようだ。
時計を見ると時刻は17時30分だった。
僕はベットから起き上がろうとするとドアをノックする音が聞こえた。
「聡太、香恋ちゃんがお見舞いに来てくれたわよ。部屋に入れてもいいかしら?」
どうやら家を訪れていたのは香恋だったようだ。
「大丈夫だよ。ありがとう」
僕がそういうと母はドアを開けた。そして香恋が部屋に入ってくる。
「思ったより元気そうね」
香恋は来て開口一番にそう言った。
「そこは体調は大丈夫って聞くところでしょ」
「思ったことをそのまま言っただけよ」
香恋はいつもと変わらない感じだ。
「倒れたって聞いたから心配してきたけどどうやら大丈夫そうね」
「うん。今はもう大丈夫だよ。だけど明日の朝になったらまた体調は悪くなるかもしれないよ。」
「それはどういう意味かしら?」
香恋は今の僕の発言に疑問を感じたようだ。
僕は今日病院で医師に診断された病気を香恋に説明した。
だけど実際にこの病気のキツさを経験してない香恋からしたら口頭での説明ではやや腑に落ちない様子だった。
「正直完全に理解したわけではないけどこれまでの日常生活を送るのが困難になってしまったということね」
「うん。まぁ…そんなところかな」
「そう…、私はその病気になっていないから聡太の辛さは分からないわ。」
「ハハ…、確かにそうだよね」
僕がそういうと香恋は真剣な眼差しで話し始めた。
「聡太…、あなたはこれからその状況でどうするつもりなの?」
「え!?」
「病気になってしまった今のあなたは少なくとも今までのような満足のいく生活を送るのは困難よ。学校を休む回数が増えたら学業にも支障をきたすわ。まぁ…、聡太なら独学でも全然問題ないと思うわ。けど他の人にはないハンデを背負うことになるのは明らかよ。」
香恋は淡々と話を続けた。
「この際だから聞かせてもらうわ。聡太、あなたも撫子学院高校に行くつもりよね?」
香恋にしては珍しく踏み込んだことを聞いてきた。
香恋が撫子学院高校を目指してずっと勉強を頑張っているのは知っている。
そして僕は父から撫子学院高校に入学するように言われていた。
僕は部活動をしながら勉強もおろそかにしないようにしていた。現時点の成績は学年1位だ。この学力をずっとキープしていたら撫子学院高校には問題なく受かるラインにいる。
だけど香恋はまだそのラインには到達できてない。
純粋な勉学量なら明らかに香恋の方がこなしている。だけど香恋は昔からどこか努力が空回りしている。
今のままの成績では受かるのは難しいかもしれない。
だから…香恋とは志望校についての話はしたくなかった。
正直僕はできれば高校も香恋と一緒のところに行きたい。だけど僕にとって父の言いつけは絶対だ。
頭の中でずっとよぎっていた。
香恋とは高校では別々になるかもしれないと…。
「うん。父さんからそこに進学しなさいってずっと言われていたから…。」
「それなら今よりもさらに勉強を頑張らないといけないわ。」
「そうだね。このままいったらあっという間に三年生になって受験だもんね。」
香恋は少し悲しそうな表情をしていたが本心を話してくれた。
「聡太、今の状況なら仕方がないわ。野球をやめるべきよ。」
「え…?」
香恋のその言葉は予想だにしないものだった。
「いや…なんで?」
僕は香恋に聞き返す。
「病気になってただでさえ体調が不安定で学校に行くのですら危ういのにましてや体力消費の激しい野球部に居続けるのはどう考えてもマイナスにしかならないわ。」
「いや…、ちょっと待ってよ!一日中ずっと体調が悪いわけじゃないよ。朝起きるのが辛いだけだよ。何も野球をやめる必要はないよ!」
「それでも病気に加えて部活動をしていたら勉強をする時間も削られるわ。私も…聡太の野球をしているところが見れなくなるのは悲しいわ。だけどここで———」
ドン!
僕は机を強く叩き、香恋の話を遮った。
部屋の空気は一瞬凍った。
「香恋にそんなこと言われる筋合いはないよ!!」
僕は声を荒げながらそう言った。
「聡太……」
香恋は僕の取った行動に驚いている様子だった。
当たり前だ。
僕がこんな大きな声で怒鳴ることなんて今までなかった。
「部活動をしながらでも僕は香恋よりも高い成績をとっているよ!そんな押し付けがましく言われたくないよ!」
「それは…今までの話でしょ。これからもそれを続けられるかは分からないわ!」
「関係ないよ!!僕は絶対に野球をやめないし部活動を両立して撫子学院高校に受かってみせるよ!」
香恋は黙ってこちらを見ている。
「もう帰ってよ!香恋がなんて言おうと僕は絶対に気持ちを変えないから!」
「分かったわ……。」
香恋はそう言って鞄を持って部屋から出ていった。
僕は黙って香恋が部屋から出ていくのを見た。
小さい頃からずっと香恋と一緒にいて喧嘩をすることもあった。
だけど今回みたいに香恋に苛立ちをぶつけるようなことをしたことはなかった。
僕は言葉にできないこの気持ちを飲み込むしかなかった。
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