キズナ食堂

FUKUSUKE

キズナのスペアリブカレー

 まだ早いわね。ごはん食べて帰ろうかな。


 金曜日の仕事帰り、私は自宅近くの駅前を歩きながら店を探すことにした。


 新型コロナが流行する前は、日常的に一時間から二時間ほど残業して帰っていた。片道一時間以上かけて電車に揺られ、帰宅すると二十一時。大抵は駅前のファストフード店でテイクアウトしたり、コンビニで弁当やサラダを買って済ませていた。


 仕事が休みの日は都心まで出かけるか、駅とは反対側の方向にあるショッピングモールに行った。映画館に書店、衣類にアクセサリー……何を買うにも困らないし、様々な飲食店が入っていて何を食べるのにも困らなかった。


 こんな事情もあって、私は駅前にある食堂や居酒屋に入ったことがほとんどなかった。


「ん?」


 看板が出ていないけれど、中の電気はついていて、「営業中」の札が掛かった店があった。

 間口まぐちは一間半ほどで、こじんまりとしているが雰囲気は悪くない。


 この店にしようかな、と私は思った。直感的に美味しいものが食べられるような気がしたからだ。


 でも、自宅近所の店に入ったことがほとんどない私には結構勇気が必要だった。

 他の店も見ようかとあたりを見渡すと、居酒屋やファストフードチェーン。明らかにカウンターしかない寿司屋、家族連れで入るような焼肉屋が目に入る。


 新型コロナウィルスが蔓延したせいで私が勤める会社もテレワークを導入した。それでも部署の代表電話には電話がかかってくるわけで、誰かが出勤しないといけない。私の部署では交代で出勤することになっていた。

 出勤しないといけないのは面倒だけど、通勤電車は往復共に座ることができたし、十八時までの定時退社。いつもこんな感じだったりいいのにと思った。


 せっかく早めに帰って来たんだから冒険しなくちゃ、と思った私は思い切って看板のない店の扉を開けた。


 ドアベルが小さく音を立て、奥から女性がひとり現れた。


「いらっしゃいませ、おひとりさまですか?」


 私は何も言わず首を縦に振った。


 扉を開ける勢いはあったけれど、私は緊張で声がでなかった。それでも平静を装いつつ入口に置かれた消毒液を手にすり込み、目線を動かして店内を見た。


 幸か不幸か、私のほかに客はいなかった。


 店の奥にカウンター席が四つ、四人掛けのテーブルが四つほど並ぶ小さな店だ。淡いアイボリーの漆喰塗りの壁に、板張りの床。テーブルはその床と同じ色をした無垢の天板を使っている。余計な装飾品がないせいか、店内は清潔感があり、モダンだけどカジュアルな雰囲気が漂っていた。


「よろしければカウンター席へどうぞ」


 私の様子を見ていた店員が笑顔で言った。


 店員の女性の案内に従い、私は少し緊張した面持ちでカウンター席へと向かい、用意された籠の中に荷物を入れて席についた。


「今日も寒いですね」


 カウンターテーブルの向こう側に立つと、店員が言った。


 雪が降らないせいもあって、今朝はかなり冷え込んだ。しかし、逆に昼間は曇ってきたせいで気温が上がらない一日だった。


「え、ええ。そうですね」と、私は言った。


 同時に、今日はじめて仕事以外で声を出したということに気が付いた。

 普通に生きて来たつもりなのに、なんだか自分がすごいコミュ障な気がしてきた。


 店員は湯気が立つほど熱いおしぼりを広げ、寒さで少し赤くなった私の手に優しく被せてくれた。


 その温かさにホッとすると共に、緊張が少しほぐれたような気がした。


 続けて店員は丁寧に手書きされたメニューを私の正面に置いた。


「ありがとう」


 私は店員に向けて言った。仕事で使う「ありがとうございました」という儀礼的な言葉ではなく、心が反応した。


 自然に礼を言うなんてことが久しぶりだと思うほど人と接してなかったのかな、と私は自分自身を訝しく思いながらメニューを広げて眺めた。


 そこに書かれているのは定食メニューばかり。アジフライ定食、赤魚の煮つけ定食、カレイの煮つけ定食、ロースとんかつの定食に、生姜焼き定食、焼肉定食。


 かなりガッツリ系の料理が多いな、と私は思った。


「新型コロナでお酒を出せないから、そのままお弁当にできるようなメニューが多くなっているんです。女性には少しボリュームが多く見えるかも知れませんね」


 流すようにメニューを見ている私を見て、湯気がでるほど暖かいお茶を差し出しつつ、店員が言った。


 私はその湯飲みを両手で包み込むようにして持ち、息を吹きかけて冷まし、小さく音を立てて啜った。


 あったかい、心地よい、ほっとする――そんな感覚が身体を包み込んでいった。


 コロナ禍ということもあり、テレワークだと食事はデリバリーやコンビニ弁当で済ます日が続いていた。今日の昼食も出勤途中に立ち寄ったコンビニのおにぎりとサラダだった。


 外でごはんを食べるなんて何日ぶりだろう、と私は思った。


「今日のおすすめ、みたいなメニューはありますか?」と、私は店員にたずねた。


「おすすめは上の黒板に」と、店員が右手で上に掲げられた黒板を指した。


 私は空を仰ぐように頭上の黒板を見た。


 そこには「ホントだよ!」と吹き出しがついたピンクの豚の顔が描かれていて、太い文字で「寝るまでポカポカ――キズナのスペアリブカレー」と書いてあった。値段は千円だ。


「えっと、カレーだけですか?」と、私はたずねた。


 店員は予想外の質問だったのか少し驚いたような顔をしたが、落ち着いて返事をした。


「サラダはないけど、野菜を使った付け合わせが三品ついていますよ」


「そうなんですね。カレーは辛いですか?」


「スパイスカレーなんですよ。唐辛子は控えめに作りましょうか?」


 私の会社の女子の間で話題になっていた料理だった。今度食べに行こうと誘われていたのに、新型コロナのせいで行けなくなったのを私は思いだした。


「はい、それでお願いします」と、私は言った。


「かしこまりました」と、言って厨房へと入っていく店員を見て、もしかすると今の店員が独りで店を切り盛りしているのでは、と私は思った。


 再び店内をぐるりと見渡すと、やはりカウンター四席とテーブル四席で合計二十席。とてもじゃないが、独りで回せる客席数ではなかった。一人で応対しているのを見ると、ここにも新型コロナの影響が出ているのかな、と私は思った。


 電車の中で読みかけていたネット小説を開く前に、私は「スパイスカレーとは」とブラウザに入力して検索した。

 新型コロナが流行って二年も経っている。その前に会社の同僚から受けた説明なんて覚えていなかった。


 ――大阪で生まれた、ルウを使わずにスパイスを調合して作るごはんに合うカレー。


「ふうん」と、私は呟いた。


 検索結果にはいろいろと説明が書いてあるし、いろんな店のカラフルなカレーが写真入りで紹介されていた。見た目には実に美味しそうだと思ったのだが、この店で出てくるカレーがどのように盛り付けられているかなど私は知らない。


「結局、食べてみるしかないよね」と、私は呟き、ネット小説を読みながら料理が出てくるのを待つことにした。


 更新されたネット小説を三話ほど読みすすめると、客席にまで良い香りが漂ってきた。


 スパイスやハーブの香りにあまり詳しくない私には何の香りなのか全然わからなかった。


 会社の近くにあるカレースタンドのような濃厚な香りではないし、カレールウで作るおうちカレーの匂いでもない。でも、食欲を刺激するカレーの匂いだ、と私は思った。


 私は立ち上がって、カウンターの奥に見える厨房の様子を眺めた。でも、残念なことにカレーを盛り付けている店員の背中しか見えなかった。


 でもなんだろう、なんだかドキドキする。


 まだ見ぬ食べ物が、香りという手段で存在を主張しているせいか、私の中で期待値が驚くほどあがっているのがわかった。


 店員が皿をトレイに載せてこちらに向かってくる。


 漂う香りがどんどん強くなってきた。


 カウンターの中にまで進んだ店員がそっとトレイを差し出した。


「お待たせしました。『キズナのスペアリブカレー』です」


 ともすれば武骨な印象を与える無垢の板の上が、一瞬にして彩り豊かな花畑のように変わった。


「わあっ♪」


 スマホで観た写真にあるスパイスカレーの数々に負けない彩りと、写真からは伝わらない、強烈だけど食欲を刺激する香りに私は思わず声をあげた。


 白く大きなお皿、そこに盛り付けられた黄色いごはん。そこにカレーがたっぷりと掛かっていて、乾燥した緑の葉が散らされていた。


 ごはんを背に横たわるのは三本の大ぶりの骨付きスペアリブ。そこに揚げたタマネギがふわりと積み上げられていて、更に刻んだ白ゴマが散らされている。


 皿には付け合わせが三種。とてもカラフルで、黄色と茶色に染まりがちなカレーに華やかさを与えていた。


「好きなように食べていいですよ」


 完全に料理に目を奪われている私に向かい、店員が優しく声を掛けてきた。


「え、あ、好きなように?」


「食べ方は自由です。カレーの箸休めに付け合わせを食べる方もいらっしゃいますし、付け合わせとごはん、カレーを混ぜ合わせて食べる方もいます。ホント、自由なんですよ」


 店員が笑顔で説明した。

 だが、はじめてスパイスカレーを食べる私からすると、知らないことばかりだ。つい、いろいろと質問してしまう。


「ごはんが黄色いのは?」


「ターメリックというスパイスと共に炊いたお米です。漢方ではウコンと言って、体を温めてくれる効果があるんですよ」


「へえ、そうなんだ。この緑の葉っぱは食べても大丈夫なの?」


 私はカレーに散らされた乾燥した緑の葉を指さしてたずねた。

 焦げた砂糖のように甘ったるいが、しかし香草らしい爽やかさも含んだ香りがあった。


「フェネグリークという香草の葉です。もちろん食べられますよ。こちらの付け合わせはキャベツとレッドキャベツのアチャール――インド風の漬物です。ニンジンのサンボルはスリランカ風の和え物。最後はインド風のサラダでカチュンバルといいます」


 店員は気をつかったのか、先に料理の説明をしてくれた。


 とはいえ、料理名を聞いたところで味は食べてみなければわからない。


 私は両手を合わせ、「いただきます」と言うとスプーンを手にカレーをライスと混ぜ合わせ、掬って口へと運んだ。


 口に入れると同時、カレースタンドやおうちカレーとは違う、でもカレーだと確信できる複雑な香りが口いっぱいに広がった。


 同時に私の口には骨付きスペアリブから溶けだした旨味、タマネギの甘味やトマトの酸味、旨味などが一気に広がる。


(うわっ、美味しい!)


 私はカツカツとスプーンでライツとカレーを混ぜ合わせ、また口に運んだ。今度は店員がキャベツの漬物と言っていたアチャールを少し混ぜた。


 漬物にもスパイスが使われているせいで、風味が少し変わったが、シャキシャキとした食感が加わった。


 辛味はあとから押し寄せてきた。だが、唐辛子を控えめにしてくれたせいか、少しヒリヒリとする程度。


「どうですか?」と、店員がたずねた。


「すっごく美味しいです!! なんかこう、いろんな香りがして、お肉や野菜の甘味があって、心地よい辛さがあって」


 私は必死で感想を伝えようとしたが、語彙力が足りない。もっとたくさん言葉にできると思ったのに、思うように表現できない自分のことがすごくもどかしい。


「お肉は手で掴んで齧り付いてくださいね。こっちに新しいおしぼりを置いておくので」


 店員はまた湯気の出る暖かいおしぼりを置いて、厨房へと戻っていった。


 確かにスプーン一本でこの骨付き肉と戦うのは厳しい。かと言って、フォークとナイフを使っても上手に身をほぐす自信は私にはまったくない。


 私はおもむろにスペアリブの骨の部分を摘まみ、肉に齧り付いた。肉は思っていた以上に柔らかく、簡単に噛み切れた。


 下味をつけたのだろう、カレーとはまた違う風味が肉に良い香りをつけ、獣肉臭さを消している。そこにカレーの複雑に絡み合った様々なスパイスの香りが加わって、なんだかもう「美味い」の塊になってる。更に適度な弾力があって、溢れ出す肉汁に肉を食べているという実感が加わって……。


「ああっ、至福……」


 私は呟いた。いや、たぶん普通に声を出していたと思う。でもそんなの気にしなくていい。客は私ひとりだから。


 骨を左手で摘まんで、右手のスプーンで肉を剥がす。剥がれた肉をスプーンの縁で崩してカレーと混ぜる。今度はサンバルと共に口へと放り込む。


 濃厚なスペアリブの旨味にレモンの爽やかな香り、タマネギとニンジンのシャクシャクとした食感が加わって、また味わいが変った。レモンの酸味が肉の脂っぽさを少し和らげてくれている気がした。


 また肉とカレー、今度はトマトとキュウリが入った、なんだっけ。カチュ……いいや、とにかく混ぜて食べた。水気の多い野菜が二種類入っているので、とてもあっさりとした味に変わった。


「うはあ」と、思わず声が出た。


 指先が真っ黄色だ。幸いにも服についたりはしていないのでよかった。とりあえず、小まめにおしぼりで指先を拭くよりも、先に肉を骨から外すことにした。


 食べ終える頃には唐辛子や各種のスパイスのせいで私はうっすらと額に汗をかいていた。それに、胃袋のあたりがポカポカと温かい。


「ごちそうさまでした。美味しかったあ」


 私は両手を合わせ、食材たちと美味しい出会いに感謝を述べた。


「そういっていただけると、作った甲斐があります」


 知らないあいだにカウンターの近くにまで来ていた店員さんが嬉しそうに話しかけて来た。


「スパイスカレーって初めてだったんだけど、美味しかったです。ほんと、いろいろと試しながら食べたけれど、私のしょぼい語彙力では言葉にできない香りと美味しさです!」


 最近は、ほとんど会話らしい会話なんてしていなかったせいだろうか。突然、何かから解放されたかのような勢いで話してしまった。少しひいてないだろうかと、心配になった私はおずおずと店員さんの方へと目を向けた。


「ありがとうございます」


 店員さんは丁寧にお辞儀をすると、嬉しそうな笑顔を私に向けた。人が本当に喜んでいるときの笑顔って癒される……つくづくそう思った。


「お腹の具合はどうですか?」

「お腹いっぱいです。なんだか、ポカポカと暖かいですね」

「生姜とターメリックのせいですよ。ごはんにもターメリックが入っていますし、カレーにも入っていますからね。たぶん三時間くらいはポカポカと温かいと思いますよ」


 カレーってあったまるんだなあ、と私は心底感心した。そして、また食べに来たいと思った。


「あの、お店の名前はなんて言うんですか?」と、代金を支払いながら私はたずねた。


「あら、いけない、看板を出し忘れていたなんて」


 店員さんは舌を出して、照れ臭そうな表情をしてみせた。


 確かに入口の横に折り畳んだイーゼルが置いたままになっていた。どうやら本当に忘れていたようだ。


 その後も続いた店員さんの話では、コロナの影響で営業時間は二十時までにするよう指導されているそうだ。今日はこのまま店としての営業を終える、二十二時までは弁当のデリバリー注文があるらしい。


「あ、店は『キズナ食堂』という名前です。私、八角キズナっていう名前なんです。そこからとりました。漢字では、『結ぶ』という字に『愛』と書いて『結愛きずな』って読むんですよ。キラキラネーム世代っていうやつですよね」と、いって結愛さんはまた笑った。


「わ、私は右近うこん 玖美くみといいます」


 私も自分の名前を明かした。正直なところ、自分の名字は嫌いだ。よく名字の文字順を変えた名で呼ばれたから。


「ええっ、ターメリックのことを中国では鬱金うこんって呼ぶんですよ。あと、カレーには絶対必要なスパイスがあって、それはクミンっていうの。そう考えると、すごくカレーに愛されそうな、素敵なお名前ですね」

「わ、私の名前はカレーなのね」

「ふふっ、私の名字も八角ですから。大茴香だいういきょうとかスターアニスって呼ばれるスパイスと同じなんです。案外、私たちは似た者同士かも知れませんね。是非、仲良くしてくださいね」


 また自然な笑みを湛え、結愛さんが私を見つめた。そんな表情を向けられると、私には嫌だなんて言えない。


「はい、よ、よろしくおねがいします」


 互いにお辞儀をしたところで、店の電話が鳴った。弁当の注文だろう。


 明るく元気のいい声で電話応対する結愛さんに手を振り、店を出た。


 とてもいい店だ。今度また電話番で出勤する日が来たら、帰りにここでごはんを食べよう。


 私はそう誓って家路についた。


 久々に人とちゃんと話をしたせいもあって、なんだか心がほぐれ、温かい気持ちになれる店だった。


「結愛さんが言ったとおり、まだ暖かい」


 帰宅してから、寝るまでの間もずっと胃のあたりがポカポカと温かかった。



【後記】

意図的に続きを書けるような終わり方にしています。

続きを書くかどうかは評価の状況により決めたいと思います。


サポーター限定の近況ノートに「寝るまでポカポカ――スペアリブカレー」のレシピを公開しました。

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