第2話 完璧な世界

第四章

 六月に入った途端、空模様は崩れた。

 まだ梅雨には少しばかり早いというのに、黒色と灰色をマーブルした雲が混沌として蠢いているようにどこまでも空を塞ぎ、時折雷光を孕み、雨を降らせる。

 音羽拓生は水っぽい空気の中、ぼんやりと考えている。

 三年四組の教室は今日も喧噪の中にある。しかしそれらもどこか空々しく、遠い世界のことのようだ。

 乱暴に額の汗を拭った。

 不快だった。今日は妙にむしむしとする。まるで他人の息を嗅いでいるようだ。

 あれから彩は数度、デモンと戦うために学校から姿を消した。

 実質サボりなのだが、成績について何の問題もない彼女は、「体調が悪くて、休んでいました」とか、適当な言い訳で教師の追及をかわしている。

 拓生はその後、デモンについて彼女に尋ねるようになった。

 怪訝そうな彩だったが、答えてくれる。

 予想は当たった。

 どのデモンもやはり、人間への怒りと憎しみに耐えられなくなり、自分が人間であることを忌避した者達だ。

 彩は気付いていないようだが、拓生の中で何かが一回転していた。

 ─―だとしたら、聖天使は……彼女達は……ほんとは。

 それは彩には決して相談できない、一つの仮説だ。

「何ぼけっしてるの? 何? 変なモノでも食べた」

 いきなり目の前に白く細い手が差し出され、拓生は「うわぁ」と半ば腰を上げた。

 くすくす、と笑いが起きる。

「おおげさ」

 那智遥は目を輝かせて人差し指を向けてくる。

「なっ」

 拓生の喉が詰まる。遙と普通に喋るには準備が必要なのだ。

 左右には勿論、三國・武藤のイケてる二人の観察するような眼差しもあるので、どうしても顔を伏せてしまう。

「ひさしぶり」 

 遙は彼の閉じかける心などに構わず、気安く話しかけてくる。

 当たり前だった。

 二人は幼馴染みだ。少し前まではそんな光景は普通だったのだ。

 今態度がおかしいのは、拓生の方だ。

「そ、うだね」

 音程が上下しないように苦心しながら、何とか返事を返す。

「最近なんかヘンだけど、どうかした? いつもヘンだっけ?」

 くすくすくす、少女達の笑い声が頭の中に響く。

 遙は親しげなジョークを口にしたのだ。それが判っていながらも、心が痛むような、バカにされているような悲しさが押し寄せる。

「ヘンなの」

 予想と違う反応だったのだろう、彼女は戸惑い気味に呟く。

「で、どう虹野とは? 仲良くやっている?」

「え……う、うん」

「そう」 

 前触れもなく、遙は踵を返した。

「じゃあね」と生徒達の輪に帰っていく。

 拓生は息が詰まり、その背を見送ることも出来ない。

 遙は遠ざかって行った。

 どん、と背中を叩かれる。

「なあおい」

 肝を冷やしたが、すぐに破裂しかけた心肺機能が平常に戻る。

 松居の声だと瞬間で判別出来たからだ。

「いきなり何だよ! 痛いだろ」

 ─―こいつには普通に話せるんだな。

 消沈しながらの文句に、松居がにやける。

「わからないか?」

「何が?」

「遙ちゃん、変わったろ?」

 はあ、と女子生徒達の集団に目をやる。彼女は友達に囲まれていて、ほとんど見えない。

「背中が何か女、らしくなった」

 はあ、意味不明だから、返事のバリエーションも少ない。

「あれは……もうシたな」

 松居は口元をだらしなく緩める。

「した?」

「ああもう! このガキ!」

 わしゃわしゃと髪を掻きむしり、それが朝の入念なセットを台無しにしたのだと気付いた松居は「やべっ」と櫛付き鏡を取り出し、しげしげ見つめる。

「した?」

 口の中で繰り返す。

「だから、桜井とだ!」

「……何を?」

 松居ががっくり肩を下げ大げさに息を吐く。そして、きょとんとしている拓生に、そっと囁いた。

「えっちだよ、エッチ、セックス……ロスト・バージン」

「え! まさかっ」

 さっと血が引いた。遠い存在、とか幸せなら、とか思っていたクセに、その認識は鈍い痛みを伴い、彼を深い闇に誘う。

 ─―桜井は、イイヤツだ……。

 かつて彩が怪我した時に手を貸してくれた。彼が調子悪い時も親身になってくれた。

 だが……拓生の中に桜井裕太に対する嫌悪がむくむくとわき上がった。

 何もかも、何もかも敵わない相手だが、奥歯が鳴るほど許せない。

「あーあ、俺も誰かとしてーなぁ、ヤリったいっす」

 頓着しない松居は、周囲の生徒の耳の存在を失念していて、焦った拓生は流石に話題を遮った。

「そ、それはともかく……お前、どうするんだよ!」

「何だよ、イキナリ」

 空気読めよっ、と隣席の普通女子の冷たい視線に冷や汗をかく拓生は思ったが、指摘する気力もない。

「……もう、受験だろ? 高校どうするんだ?」

 松居のテンションは明らかに下がった。地に落ちた。

「つまんねーな、お前」

 軽蔑したように非難してくるが、非難したいのは拓生だ。隣席女子の心証をどうしてくれる。

「まだ夏前だろ? どーにでもなるって」

 劣等生の良くある言い訳、ではない。

 松居吉郎の成績は悪くない。こんなんでどうして勉強が出来るか、は謎なのだが、テストではいつも上位に食い込んでいる。

「お前こそ、どうするんだ?」

 軽い調子の切り返しに、拓生は苦悩する。

「夏中は、塾に行く、それからずっと塾に行く、ずっと、行く」

「げ」

 松居は神の降臨でも見たのか、十字を切る。

「それはそれは、だなー、俺なら耐えらんねー」

 が、それは確定事項ではなかった。

 このままの成績ではヤバい。

 少し前に行った小テストの結果で切実に感じた拓生は、『塾』について考えた。

 通っている知り合いにどんな塩梅か聞いても見た。

 まだ両親と話していない。

 休日に死んだように眠る父母に切り出せない。他の日に顔を合わせることも『希』から『奇跡』にまでランクダウンしている。

 簡単に家族会議は開けなかった。

 ─―塾、費用高いのかな?

 思うのはそこだ。

 今でさえ早朝から深夜まで共働きして、何とか家庭を保っている音羽家に、これ以上の出費を強いて良い物だろうか、拓生もそこまで考えられるようになっていた。

 否、例え苦しくなっても「行っても良いよ」と返事が返ってくるのは一〇〇%だろう。マンガやアニメやの台詞、本屋に平積みになっている本の見出し『学歴なんて関係ない』は嘘だ。

 より良い学校に行けた者は、より良い暮らしを手に入れられる。楽に生きられる。

 それは中学三年生でさえ判るのに、何故オトナは作り物の世界で嘘を並べるか判らなかった。

 特に今は、欧州は移民問題、日本も相次ぐ大企業の没落と相当皆、耐えている。 

 どこの学校でもいいや、なんて鼻歌が歌える受験生など居るはずがない。

 塾に通うしかない。父母に頼るしかない。今でも目一杯働いてくれる二人に、さらなる出費を願うしかない。

 聖天使と駆けた空が、突然色を失っていく。

 同じ世界に存在していた自分なのに、別次元の物語を見ていたような気分になる。

 拓生の敵はさしあたって『デモン』という化け物ではない。


 その日、拓生は給食当番だった。

 昼に長方形のワゴンに給食や皿などを運んで教室まで運び、食べ終わったらそれを今度は給食室へと返す。

 一連が終わり、給食室から出た彼は廊下に彩の姿を見つける。

 壁際で小さく手を振っていた。

 同じ班の連中から離れた拓生は、小走りで彩に近づく。

「どうしたの? こんな所で」

 彼女はいつもと同じ、優しげな笑みを浮かべていた。

 変わらない。デモンとどんな熾烈な戦いを繰り広げても、彩は変わらずにこにこしている。

「何だかお話ししたくなって」

 恥ずかしそうに、目を伏せる。

「そっか」

 拓生は頷いて廊下を見渡した。

 二人は『友達』宣言からより仲良くなっていた。デモンとの共闘というイベントを挟んだ為に、さらに身近な存在と思えるようになったのだろう。

 ただ、まだ教室では挨拶くらいしかしない。

 用心深すぎるきらいはあるが、彼女が聖天使であることは秘密中の秘密である。

 二人は敢えて見知った者のいない二学年の廊下まで、階段を下りた。

「どう最近?」

 二年生の姿もほとんどないのを見計らい、切り出す。

「うん」

 特に何がどうとは問わなかった拓生だが、彩は自分で解釈する。

「大丈夫、上手くいっている」

 はたから聞いたら、何のことか判らないだろうが、聖天使としての戦いのことだ。

「その、相手は、どんな、奴だった?」

「そうね、虐待されていた子供、女の人に裏切られた男性、家族に捨てられたお年寄り……とかかな」

「そう」拓生は力が抜けるように、暗い気持ちになった。 

 デモンが人間と思い知ったあの時から、デモンを思うとこうなる。

 形容できないもやもやもやが、目一杯頭の中、胸の中、心の中に溜まるのだ。だがもう確かめられない。もう悪意と殺意にいきり立つデモンの前には立てなかった。

「どうしたの?」

 彩が彼の様子を心配して来るから、拓生は矛先をそらした。

「で、怪我とかはない? またスーパーボールになって」

「むー」

 彼女はふくれっ面になりながらも、すっと背筋を伸ばした。

「この通りです、私はむちゃくちゃ無傷です、残念でした」

 そうすると自然と協調される胸は、中三とは思えないサイズだ。

「うん? 何見ているの?」

「は、いや、そそそ、それは良かった」

「何だか……顔が赤いよ?」

「いやー今日は暑いね、はははは」

 手で扇いで全力で誤魔化したのが幸いしたのか、彩の探るような視線から逃げ切った。

 ふと、場に沈黙が降りる。

 こうして話しをするようになっても、まだ二人の間に透明な障害を感じる時がある。

 どうしてか判らないが、彩の笑顔の前で僅かに拓生は緊張してしまう。

 彼女とは決定的に親密にはなれないのかもしれない。互いの羞恥心や臆病さが、目の前の相手にもっと踏み込むことを躊躇させているのだ。 

 彩は拓生にとってそれほど大切な存在なのだ。

「そう言えば」

 わざとらしく彩が話題を取り出す。探していたのが見つかったのだろう。

「拓生君、進路どうするの? 高校、どこ志望?」

「ははあ」

「どっ、どうしたの? 私何か悪いこと訊いた?」

 拓生がへたり込むから、彼女は慌てる。

「一応……神北高校」とやけっぱちで答える。

「へ、へえ、それって私と同じだ」

 何とか平常心を保った彩が嬉しそうに目を細める。もう同じ学校に通学する二人が見えているのだろう。幻だ。

「ならムリだなあ」

 つるつるした床に手を突いて、拓生はいじけた。

「どうして? 私と一緒はイヤなの?」

「違うよ……ただ、君の成績で行く高校なら、僕では手も足も出ない」

 神北高校は近辺一の進学校だ。学区内の生徒達の父母が三者面談で絶対口にし、皆が必ず一応受験してみる。行けたらもうけもの扱いの、大学進学率も高く設備も充実している有名校。

 常にトップの成績の彩なら門扉は開きっぱなしだ。対し、いつも平均点以下しか取れない拓生の成績では、門の前にまず岸壁がある。

「だ、大丈夫だよ!」

 根拠のない応援に、彼の目が白い光を反射した。

「い、いえ、そ、その」

 彼女は取り繕うと、何やらもじもじしている。

「いいよー、僕なんかじゃムリだよ、塾に行こうか、とも思っていたけど、無駄かなあ」

「こらぁっ!」

 突如、物静かな筈の彩が怒声を上げた。

「ええっ」

 怯む拓生に構わず、彼女は拳を振り上げる。

「まだ何もしていないのに諦めるなんて早すぎます! 拓生君は何もしていないでしょ! なのにもう戦意を失ってへたりこむなんて……そんな、そんなのっ」

 見上げると、ぐぐぐっと彩が両拳を胸辺りで震わせている。

「ダメっっっ!」

 思わず拓生はごろんとひっくり返った。

 物理的に押されたような圧力があったのだ。

「で、もさ」

「言い訳無用!」

 ばっと何かを避けるように、彼女は手で空気を切る。

「塾に通って勉強するんでしょ? 必死に取り返しなさい! 私もこれから拓生君の勉強に手を貸すから、何が何でも一緒に神北高校へ行くのよっ! ごーごーじんぼく、ごーごーじんぼくっ!」

 迫力に声も出せない。

「今日から受験の日まで、私、拓生君の家に行く! 勉強するっ、させる、拓生君がどんなに落ちこぼれで、カスで、ダメダメでも、半年で更正させるっ、これは私の使命」

 彼女は酷く興奮している、だから拓生が傷ついた事に気付かない。

 ─―落ちこぼれ……カス……ダメダメ……。

 何だか泣きそうだ。

「問答無用!」

 ぴしゃりと封じられたが、反論していない。

「……だけど」

 しばし彩が荒れた息を整えているので、その隙を突く。

「それは、君にとって迷惑なんじゃ……それに君の家の人に怒られそうだよ」

「大丈夫」

 先程までの元気と勢いが消えた。

「私の家、お母さんだけだし、お母さんも夜まで働いているし……むしろ誰かと勉強した方がはかどるから」

「へええ」それは初耳だ。

「私ね」

 一瞬で彩はしゅんとした。笑みは崩さないが、かなり弱々しかった。

「私……お父さんに捨てられたの」

「え!」

「……私の小さい頃に、お父さんは私とお母さんを捨てて出て行ったの……それで、本当は毎月……を払わなければならないんだけど、お父さんは私にお金を払うの、イヤみたいなんだ。だから月末はお母さんと電話で大げんか」

 はっとする。拓生は自分の家だけが、自分だけが孤独だと、どこかで思いこんでいた。自分は不幸の権化、かわいそうな子供だ。

 違う。皆それぞれ家の事情、問題、心の痛みがあるのだ。

「……どうして、一度愛していた人を嫌いになれるのかなあ」

 彩がぽつりと落とした問いは、まだ拓生に答えられる類のものではない。

「私はそうならないんだ。一度好きになった人を最期まで好きでいる。そう決めたの。そう決めた」

 最後は自分に言い聞かせるような呟きだ。

 拓生は目を逸らした。泣きそうな、もう涙目の彼女から。もう笑っていない彩からだ。

 聖天使。

 現代のヒロイン。だが、現実、彼等の周りの世界は神様から与えられた力などでは立ち向かえない、混沌とした問題がある。

 将来、家族、友人、などなど、などなど。

 聖天使のグーパンチではそれらの何も解決しないのだ。

「ようしっ」

 白っぽい世界に抗するように、拓生は腰に力を入れて立ち上がった。

「勉強しよう! 神北に行ってやる、行ってやるぞっ」

 諸々の何かを粉々にする勢いで、天井に拳を突き上げる。

「行ってやる! がんばるぞっ……虹野さん」

「はい」

「今日から僕は勉強だけを生き甲斐に、勉強漬けに、勉強の漬け物になりますっ、地域の名産物誕生です」

「は、はい」

「君は僕に勉強を教えなさい。苦しゅうない、近うよれ」

「は……うん? 何でそんなに偉そうなの? 頼むときはちゃんと頼んでね、何か納得出来ません」

「……お願いします虹野様、僕を神北に導いて下さい、なむなむ」

 二人はしばし互いの顔を見つめ合い、そして同時に笑った。

 久しぶりに心に活力が戻るのを、拓生は感じていた。

 その時、不意に目に入った。

 暗い廊下の隅だ。

「うん?」

 拓生が目をこらすと、誰かが影のように蹲っていた。

 ─―げげ!

 動揺する。みんなにナイショの二人の仲が目撃されたのだ。が、すぐに思い直した。

 どうやら少女のような小さな人物は、こちらなど気にも留めず、ただ壁に向かって体育座りをしている。

「虹野さん」

 不思議なものを見た、という風に傍らの彼女に告げる。

「はい?」と彼女も視線を辿り気付く。

「なにかしら?」

 二人は黙って、ぴくりとも動かないセーラー服の背を見つめた。

 ─―具合でも悪いのかな。

 拓生はらしくなく、近寄っていた。

 ついさっき上がったテンションがあったために、大胆になっていたのだ。

「君」

 なるべく普通を装って声をかけると、びくりと座り込む少女の肩が震えた。

「どうかしたの? どうしてこんなところで……」

 一人で居るの? までは続かない。

 その前に彼女の頭だけが振り向いたのだ。

 ─―泣いている。

 拓生にはもうだめだ。女の子が泣いている、という非常事態に対処出来ない。

 思わず心強い救援、背後の彩にジェスチャーで助けを求める。

「ねえ、どうかしました?」

 心得た彼女は拓生の前に出ると、下級生らしき少女に丁寧に尋ねる。

 小さくかぶりを振るだけだ。

「ええっと」

 彩の力も及ばず、拓生は焦った。

「誰か呼んでこようか?」

「いいんです!」

 消え入りそうな声だが、断固として断られた。

「私のことはいいんです」

 良くない。少女の可愛らしい顔は酷く青ざめていて、涙は未だ途切れていない。こんな状態の下級生を放っておけるほど、拓生の心は強くない。

「いや、でも、ほら」と対処不能に陥る彼とは違い、彩は少女のすぐ横で、腰を曲げた。

「田村、麻美、さん?」どうやら名札を読んだようだ。

「何か困ったことがあったら、私たち、力になるよ」

 が、慈愛溢れる彩にも、頭を揺らすだけだ。

「あの、田村さん、私ね」

「ほうっといて下さいっ!」

 田村、という少女はやおら立ち上がると駆けだした。あっという間に姿が小さくなっていく。

「どうしたの? 彼女」

「判らない……」

 唖然と、彩は見送った。

 見送ってしまった。

 彼女、田村、田村麻美(たまらあさみ)に何が起こったのか、すぐに判明した。

 それから一時間も経たない午後の受業中、席について学習への意欲を燃やしていた拓生だったが、突如教室の扉が開いて一人の教師が入ってきた。

 現代国語教師と一言二言、何か遣り取りをする。

 すっと、国語担当教師の顔色が漂白された。

 その時にはもう、廊下が騒がしくなっていた。

「自殺だ! 誰かが屋上のフェンスを乗り越えたぞ、飛び降りる気だ!」

 教室は騒然となり、次いで鳴ったチャイムをスタートの合図として生徒達は弾かれるように校庭へと、一番見える場所へと向かった。

 国語教師の制止などみんなスルーだ。

 野次馬の波に紛れていた拓生は、皆と一緒に階段を下り、上履きのまま連日の雨でぬかるんだ土の校庭へと出る。

 見上げて、凍り付いた。

 屋上のフェンスを越え、もはや落下へのカウントダウンを開始しているのは、つい先程出会った田村という女の子と、遠目から判別できたのだ。

「な、なんで」呻く彼だが、集まっている他の学年の生徒のひそひそとしたうわさ話が、理由を解き明かしてくれる。

「彼女、二年二組の田村麻美だ」

「ああ、イジメられていた奴」

 ―─イジメ……。

 拓生が耳を澄ませていると生徒達は、こそこそと紙が擦れ合うように続ける。

「えげつない事されたらしいぜ、クラス中シカト、とか教科書を便所に捨てられるとか、着替え途中の写真まで撮られたって、それどころか……噂だけど」

「えげつねー」

「ちょっ」

 ちょっと待てよ、と拓生はその生徒達に詰め寄りかけた。

 ─―それを知っていて放置かよ!

 が、すぐに理解する、理解してしまう。

 クラス中がそれなら、口出しできないのだ。

 閉鎖空間での教室には、何か流れのような、流行のようなものがある。それに逆らうと孤立し「空気よめねー奴」と軽蔑される、一種『暗黙の了解』のようなものだ。

 それに、イジメが含まれると目も当てられない。

 何の理由もなく、特に嫌いでもないのに、皆の目の敵にされる。

 ただ空気が変わるまで、流行が収まるまでじっと耐えねばならない。

 田村麻美は耐えられなかったのだ。

 ふらり、と彼女の体は屋上の縁で揺れ、下の生徒達は悲鳴とも歓声ともつかない声を漏らす。

 拓生は探した、虹野彩の姿だ。

 聖天使の、あの白鳥のような大きな翼があれば、田村麻美を救える。

 群衆の中にない。 

 やはりどこかでオパールエンジェルへと変身しようとしている。

 少し陰鬱な世界に光が差した。

「きゃあ」と一際高い悲鳴が響いたのはその時だ。

 振り向くと、彼女はもう宙にいた。

 ふわふわとスカートが広がり、まるで何かを強く抱きしめようとしているかのように、大きく手を開いている。

 次には地に落ちていた。

 重力は無情に、空中にあった柔らかい少女の体を、地面、固いコンクリートの歩道へ叩きつけた。

 ぱっと、赤い色の液体が散る。

 その後のことを、拓生はあまり覚えていない。

 絶叫が回る中、体育会系の教師数人が飛び出してきて生徒達をその場から引きはがす。ずっと遠くから、けたたましいサイレンが聞こえてきた。

 我に返ると、校庭の隅に一人で立っていた。他の生徒達と、はぐれてしまったようだ。

 ぽつぽつと、額に降り出した雨の感触がある。

 到着した警官や救急隊が遠くで作業しているが、なんだか水の中の出来事のように音がなかった。

 濡れる髪を撫で、生徒玄関へと歩み出した。

 良く分からない、どうしたこうなったのか、どうすれば良かったのか、何がしてやれたのか。

 ただ、一人濡れていても仕方がない。それだけは麻痺する思考でも判断できた。

 立ち止まる。

 ぼー、と突っ立つ彩の姿があった。

 校庭と教師用駐車場の間、普段人の目が届かない場所だった。

 歩を早めて近づく。

 彼女は片手にセントオパールを握りしめている。

 ─―やっぱり変身しようとしたんだ、聖天使に、だけど……。

 間に合わなかった。

「虹野さん」

 掠れた声で呼ぶ、彩の双眸にはいつもの煌めきが無く、ぼんやりと虚ろだった。

「……拓生、君?」

 顔からは生気も表情も、消えていた。

「わ、たし……間に合わなかった……わたし、私の、せい」

「虹野さんっ!」

 拓生は怒鳴って肩を掴んだ。

「君のせいじゃないっ、間に合わなかったのは、君が悪いんじゃない! 君が気に病むことはないんだ」

「で、でも」

 彩は泣き笑いになって反論する。

「私、田村さんを止められなかった……さっき会っていたのに。きっと最後の助けを呼んでいたのに……」

 拓生からもざわざわと血の気が引いた。

 そうなのだ。二人は会っていた。

 昼休み、一人嘆く田村麻美。

 あるいは、あれが最後の機会だったのかもしれない。田村麻美が無意識に他人に発していたSOS。

「僕らは」

 寒さに震える体を力ずくで抑え、拓生は語気荒く囁いた。

「僕らは、出来る限りのことをした。この結果は残念だけど、これ以上はできなかったんだ! 判らなかったんだ。悔しいけど、悲しいけど……自分を責めちゃダメだ」

「でも、私、聖天使だよ」

 その言葉に目が眩む。その事実が、最も彼女を傷つけているのだろう。

「聖天使でも」

 歯を食いしばり、この所ずっと考えていた問題を口にする。

「聖天使でも助けられない人はいるんだ! 人間を全員助けられる人はいないんだ。きっと神様でも出来ない」

 ぶるり、不意に彩は身震いした。セントジュエルを胸に抱く。

「いや! 私、そのなのイヤっ。そんなの認めない。それじゃ、私が聖天使になった意味無いもん、いや、いや、いやっっ」

 駄々っ子のように彩は激しく頭を振った。二つのお下げがぶんぶん揺れる。

 目にした彼も挫けそうになった。彩と一緒に泣き喚きたい。が、耐える。 

 それでは本当に何も救えない。

「私は聖天使なのに、女神さまに任されたのに、何も出来ず、誰も救えず、何も知らなかった。私が全部……」

「違う! 聖天使が誰でも救えるなんて嘘だ」

「っ! ひどい拓生君。どうしてそんな事言うの!」

 二人は雨の中にらみ合う。泣きながらにらみ合う。

「きっと」痛感をも刺激する視線を感じつつ、拓生は息を整える。

「きっと、この世の中は僕らが考えるより、ずっと複雑で難しいんだ、神様の力があっても解決できない事なんか、たくさんあるんだよ」

 思うのは、顔さえ合わせなくなった両親のこと、自らの進路のこと、遙と桜井のことだ。

 聖なる力があっても、それらを解決は出来ない。

 あまりにも複雑でシステマチックな人間の生活と、無茶苦茶な感情についての案件だから。

 リストラされた拓生の父。離婚した彩の両親。神様ならどうかできた、と思えない。

「でも……でも、私は、人を救いたいの、助けたいの」

 彩の呟きは涙に濡れていた。


 二年生少女の飛び降り自殺。そのすぐ後、神明中学校に妙な空白時間が生まれた。

 黒板に大きく『自習』と書かれ、教師の姿も教卓にない。

 恐らく、彼等は教職員会議を行っていて、ほどなく今日は全員下校。という具合になるのだろう。

 だが決定までの時間、三年四組は当然その話題に染まった。

「二年で」、「田村が」、「自殺」、「イジメ」、「かわいそう」。単語は幾度も宙を飛び交う。

 拓生ははらはらと危ぶみながら、彩の背中を伺う。

 彼女はぴくりともしない。いつも通り自分の席で清潔な白いセーラー服の背を丸め、俯いている。

 が、彼には判る。級友達の無責任な会話が、今回の事件についての噂が、彼女を鉄やすりで削るように苦しめている。

 拓生もそうだ。

「もし、知ってたら俺が」とか出来もしない事を大仰に残念がる奴のデタラメに、苦しくなる。

 田村麻美の姿を思い出すのだ。

 一人廊下で蹲り、泣いていた。

 一人屋上に、立ちつくしていた。

 目の前にいたのに、救えなかった少女の姿。

 ─―だけどっ!

 彼には一つだけまだ希望がある。すがりつく事柄だ。

 まだ彼女は死んでいない。

 残酷で冷たいコンクリートの上にぶち当たりながら、死にきれなかった。

 今頃、救急車から病院のベッドに移って、治療を受けているだろう。

 ─―だれか……。

 拓生は祈った。田村麻美のために、自分のために、虹野彩のために、祈りを捧げた。

 ─―田村さんを助けて下さい。

 いつか想像した外人の女性。女神様を思い描く。

 がらり、と音を立て教室の扉が開き、担任の中越先生が現れる。

 騒がしかった教室が一転時が止まったかのように静まり、皆の目が集中する。

 中越先生は、苦虫を噛みつぶしたような表情で教卓の前に立った。

「もう知っていると思うが、学校で事故が起こった」

 事故ではない。イジメられていた少女が、皆の前で自殺を計ったのだ。

「今日のこの後の受業は中止となった。部活も中止だ、したがって君たちは速やかに下校しなさい」

 予想通りの展開だが、生徒達は素直に無言で聞いている。

「明日からの予定についてだが……それは今日中に連絡するから、何も心配」

「あ」

 中越先生が驚愕する。クラス中の誰もがだ。

 先生の指示を遮って、一人の生徒が声と共に席を立ったのだ。

 虹野彩。

 拓生の心臓が突然疾走し出す。日食でも起こったかのように、教室が暗く見えた。

「ど、どうした? 虹野」

 中越先生には不安感はないようだ。ただ、前触れもなく起立した彩に眉を顰めてみせた。

「まだ解散ではないぞ、何かあるのなら少し待て、これから……」

 鈍い音がどこかで閃き、衝撃に教室が揺れた。

 異常事態に対処できず、全生徒は固まった。どこからか絶叫が聞こえてきても、やはり動く者はいない。

 叫び、悲鳴、怒号、怒声、人間のかなきり声が、遠雷のように教室まで届いていた。

「なに?」

 拓生の隣の女生徒が、ぽつり、と呟く、

 がら、とつい先程、中越先生により閉められた三年四組の前側の扉が開いた。

 三年一組の担任、喜山先生が蝋細工のように突っ立っている。

「どうしました?」

 中越先生の疑問に、彼は鉛色の唇を戦慄かせる。

「……皆さん、早く学校から逃げて下さい」

 感情のぶれのない一本調子の声の後、喜山先生は顔の半分を震わせる。

「デモンが校内に現れました」

 喜山先生の何でもないような一言の後に、皆の、ごくりと息を飲み込む音が聞こえた。

 数秒の静寂が、三年四組を支配する。皆、彫像になったように動かなかった。

 自失の時間を誰が最も早く切り上げたか判らない。が、どこからか軋むような悲鳴が上がり、その瞬間、教室はパニックになった。

 突如嵐の中に叩き込まれたように、声を上げながらそれぞれ動き出した。

 早くも出入り口へと駆け出す者、混乱し鞄に荷物を詰め出す者、その場で身動きも出来ない者、近辺の友達と叫びあう者。

 もう、収拾がつかない。

「落ち着けっ、みんな、落ち着けっ」

 中越先生が怒鳴っているが、効果は全く見られなかった。

 拓生は至る方向に揺れる人並みをかき分け、なんとか教室の外に出た。

 その前に彩が出て行ったのを確認していたからだ。

 彼女は廊下をすたすたと歩いていた。全く躊躇も動揺も見られない。

「虹野さん」

 駆け寄る。

「拓生君……逃げた方が良いよ。前に言ったでしょ? デモンと関わったらダメ」

「でも」

 関わるのも何も、今回はデモンの方から彼等に関わってきたのだ。

「どこにいるの? デモン」

 彼女に追い返される気配を感じ、機先を制する。

「……二階」

 彼女はそれしか答えなかった。

 眉根を強く寄せて、また歩き出す。

 廊下も三年四組と変わらず、パニックの中にある。

 生徒や教職員達が時折、彼等の横を反対方向に駆け抜けていった。何十人もの列が走って横切ったこともある。

 いつの間にか床は散らかり、チョークや黒板消し、誰かの鞄、勉強道具が散乱している。

「……予感はね、あったんだ」

 忠告を聞かなかったことにした拓生が彩の少し後ろを歩いていると、小さな声が漏れ聞こえた。

「彼女が帰ってくる、て」

「えと、何のこと?」

 彩が振り返る。涙でぐしゃぐしゃになった顔で振り向く。

「でも、わたし、たたかうよ、聖天使だもん」

 全く事情が飲み込めない拓生に構わず、スカートからセントオパールを取り出す。

 ─―ここで変身?

 辺りに目をこらす拓生だが、その必要はないようだ。

 どうやらデモンに近いらしい。

 見慣れた学校の廊下は、廃墟のように荒れ果てていて、もはや誰もいない。 

 虹色の閃光が膨らむ。

「セントジュエル、スパーク! オパールエンジェル、ドレスアップ!」

 光を直視しないように目を庇った腕を降ろすと、オパールエンジェルが立っていた。 

 一言もなく、踵を返す。

 下に向かう廊下だ。

 一歩一歩慎重に、何かの気配を探りながら、階段を踏みしめていく。

「…………」

 無言でオパールエンジェルが拓生へと首を捻った。

 バレたらしい。

「……どうしているの?」

 少し怒っている。声色で判った。

「ええっと、何か手伝い」

「ありません」

 オパールエンジェルはにべもない。

「危険だからみんなと逃げて、田村さんは私が何とかするから」

「えっ」

 オパールエンジェルは失言に青ざめ、唇に手を重ねた。

「田村さん……」

 先程からの彼女の呟きが、頭の中で繋がる。

「た、田村さんなの? デモン」

 返事はない。

「彼女が、人を憎んで、ここまで戻ってきたの?」

 辛そうにオパールエンジェルは唇を噛んでいる。

「私の、せきにん」

 拓生は爆発した。

「まだ君はそんなことを! あれは君のせいじゃないのにっ」

「私のせい」

「この分からず屋! お下げ魔神! 委員長キャラ」

 きっ、とオパールエンジェルの目が尖る。

「なによっ、人が気にしているあだ名を! 拓生君の意地悪大臣っ、だいたい分からず屋はそっちでしょ! ……うう、お下げ魔神? 何よそれ? すっごくムカツクんだけどっ ムカツきゅ!」

 色を成して激怒するオパールエンジェルに、ようやく普段の勇敢さと噛みを取り戻した彼女に、拓生は静かに提起する。

「……田村さんのこと、君のせいじゃないよ、君が悪いんだったら僕だって同じだ、な、一緒にいたろ? あれは僕が悪いの?」

「う」

 彼女が声を詰まらせる。ややあって、熱く静かに囁く。 

「拓生君は本当に、本当に意地悪なんだよ、そうやって平気でずきっとすることを言うんだ、でも、でも、ありがとう」

 彼女は鼻を啜って、目元を拭った。

「絶対前に出ないでね、ここで拓生君にももし何かあったら……私おかしくなっちゃうよ」

「判っている、聖天使オパールエンジェルは最強だから、その後に付いていく」

「もう」

 彼女の頬に朱色が戻ってきていた。拓生にはそれだけで満足だ。

「いくよ」

 そして二人は慎重にまた階段を下がった。

 一段一段、噛みしめるように。

 が、誰の姿もないまま、二階へとたどり着く。

「うえっ」拓生は抑えられなかった。

 二階、二年生の教室がある廊下は酷かった。

 壁や天井に血が飛び散り、生徒達が数人倒れている。その中には腕や足、頭部……などを欠損している者もいた。

 当然、無くなった部分も普通に転がっている。

 いつかのように拓生の喉元まで、給食がせり上がってきた。

 全身の力を振るい、それを飲み下す。

 一方。オパールエンジェルは冷静だった。少なくとも眉を顰める程度で耐えている。 

「だめね」と浅い息をつく。

「だめ?」

 しかし、その後の質問がない。「あ」と拓生は自分で理解した。

 辺りに転がる生徒達は、もう「ダメ」なのだ。

 みんな、死んでいる。

 足の先が妙に冷たい、その冷気は一瞬で頭のてっぺん、髪の先端までじくじくと染み渡る。

 世界は妙に揺れていた。まだデモンが暴れているからだろうか、それとも突発的な地震が重なっているのだろうか。

「拓生君、大丈夫? 顔色、真っ白だよ」

「大丈夫」

 拓生は失神しそうになる己を叱咤し、オパールエンジェルに続く。

 ここでリタイヤなんて、さっき格好つけた分、恥ずかしすぎる。

 血と死体を幾度か越えて、二人はたどり着いた。

 二年二組だ。

 扉は開けっ放しになっていて、血の異臭と共に不吉な空気を排出している。

 オパールエンジェルの肩越しに中を垣間見た拓生は絶句した。

 教室は海だった、血の海。

 壁や天井、黒板すべてが血の赤で斑に染まり、べったりと床に広がる鮮血は明らかに深さがある。

 二年二組の生徒だろう沢山の遺体は、血に浮いているようだった。

 一クラスまるまる殺害されていた。

「憎んでいたのね、田村さん」

 オパールエンジェルの声も上ずっている。

 拓生は自分の頬を叩いた。

 凄惨すぎる光景を前に、とても正気ではいられない。

「それにしても、どうしてここまで」

 気が遠くなりかけている。それがはっきり理解できた。

 彼女の声が妙に遠く、耳に反響するのだ。 

 ごちごち、と拳骨で体の至る部分を殴り、ふつり、と切れてしまいそうな意識を保った。

「うん? 拓生君? ……だから逃げてって言ったのに、どこかで休んでても良いよ」

 こちらの異常に、オパールエンジェルが労ってくる。

「いやっ」拓生は抵抗した。

「僕は良いから、田村さんを人間に戻す手がかりを探して」

 もうオパールエンジェルのやり方は、心得ている。

 デモンを殺してしまうのではなく、心の傷を癒し、人に戻す。

 その為にはいろいろ『知る』必要があるのだ。

「どうしてデモンにまでなったのかしら?」

 最もな疑問だった。イジメられて自殺。悲しい事実だがこの世界において、それはそれほど特別な事情ではない。

 春くらいになると、二、三件は起きる悲劇だ。

 が、二年二組の惨状は、それら『普通』の出来事を飛び越している。

 ─―ここまで人を憎めるものなのか?

 小刻みに辺りは揺れていた、歯が噛み合わない。

「あ」

 と彼女は血だまりに屈んだ。倒れている男子生徒の死体、顔半分がないそれに何かを見出したのだ。

 ぐしゃぐしゃになり手に収まっている、スマホのようだ。

「うっ」

 一目見て呻く。

 拓生はそっと後ろから見ようとしたが、気配を察したオパールエンジェルが無言で隠した。

 くるり、と体の向きを変え、じっと見上げてくる。

「な、なに?」

「……拓生君、これから見ることは誰にも言わないで」

 頷くしかない。彼女の声が激情にうねっているのだ。

「セントオパールよ、世界の記憶を取り出したまえ」

 オパールエンジェルが写真を胸に当て唱えると、世界がいつかのように白い光に圧倒される。

 一人の少女がいた。

 ショートカットでつり目の、神明中学校のセーラー服を着ている女の子だ。

「いい、呼び出したから……みんな、興味アルんでしょ?」

『額賀真知(ぬかがまち)』胸の名札には二学年と判る青い線で囲われ、そう記されている。

 いつの間にか、周囲は夜の公園になっていた。

 見たことはあるがどこだかは判らない、学区内にあるありきたりな場所だ。

「ここで隠れていて」

 額賀が悪い猫のような唇を曲げる笑みを閃かせ、歩いていく。

 集まった男子生徒達。二年二組の全ての男達は申し訳程度の茂みに伏せ、息を潜めている。

「やあ、田村さん」

「ぬ、額賀さん……」

 現れた田村麻美は私服だった。一度家に帰っているのだろう。

「な、なんですか?」

 怯えるように、縮こまるように己を抱いている。

「私たち、少し行き違いがあったと思うの」

 嗤うように、額賀が喋りだす。

「いきちがい?」

「そ、アンタをシカトしたりって、何だか辛いのよ」

 夜目にも田村麻美が瞳を輝かせるのが判った。

「ほ、ほんと?」

「ええ、だからそこら辺、しっかり話し合いましょう」

「え、ええ、ええ!」

 拓生は悪寒を覚えた。嫌な予感がする。とても悪いことが起きるのが何となく読めた。

 額賀は田村麻美を伴って近づいてくる。

 男達の元へ。

「きゃあっ!」

 田村麻美が叫ぶ前に、飛び出した男子生徒が口を塞いだ。

 弾かれたように、獲物に飛びかかるように、二年二組の男子生徒が彼女を取り囲む。

「やめろっ!」拓生は怒鳴っていた。駆け寄ろうとした。が、それは出来ない。 

 一歩進むと、光景がその分下げる。

 これは、この映像は、あくまでも取り返しの着かない、過去なのだ。

 きゃはははは、と額賀が楽しそうに嗤う中、男子生徒達が一人一人抵抗さえも諦めた田村麻美に覆い被さっていく。

 全てが終わった後、泥だらけで裸の彼女に、容赦ないスマートフォンの電子の眼が向けられた。

 ぱぱっとフラッシュが闇夜に弾ける。

「誰かに言ったら、この映像、ネットに流すから……でも、それってアンタ、有名人になれるね」

 大爆笑、哄笑、男達の汚いモノでも見るような目。そして次の日、それら全ては教室中に広がった。

 ご丁寧に、スマホの写真をプリントアウトした者もいた。

 田村麻美は人を辞めた。 


 呼吸が激しく乱れる拓生の前に、地獄のような教室があった。

 そう、地獄。本当にここは地獄だったのだ。

 田村麻美という少女にとって、この教室にいる者達は悪魔でしかなかった。

 だから、相応しい地獄に変えた。

「ダメよ」

 非情なまでにオパールエンジェルは冷静だ。

「拓生君、デモンに感情移入しているよ」

「だけど!」

 詮無きこと、と自覚しながらも、つい喚いてしまう。

「これは自業自得だろ? こいつら……ゲスすぎる」

 彼女は何も答えない。

 眉間に皺を刻み、頬を引き締めている。

「……やっぱり、あなたに見せるべきじゃなかったね」

「なんで!」

 拓生には理解できない。ここに来てはっきりしたような気がした。ずっとひっかかっていた事実。オパールエンジェルに質したかったことだ。

「もしかして、悪いのはデモンじゃなくてっ、邪悪なのはデモンの方じゃなくて……」

「こらっ!」

 オパールエンジェルはそれ以上を許さなかった。

「今はそんなこと考えている場合じゃないの。今はさらなる犠牲者を出さないこと、考えるのは後」

 もう取り合わない、という風にオパールエンジェルは教室から出て行く。

 拓生は仕方なく続こうとして、手近な死体、それが先程の映像にも出ていた男子生徒だと気付き、ぺっ、と顔につばを吐いた。

 二年二組を後にすると、オパールエンジェルはきつく目をつぶった。

 デモンの気配を辿ろうとしているのだろう。

 無駄だった。

 直後、高い悲鳴がコンクリートを透過し拓生の耳朶も揺るがしたのだ。

「三階だっ」

 思わず叫ぶと、彼女はすでに走り出している。

 来たルートをそのまま逆走し、階段を飛び上がって越えようとした拓生だが、足に急ブレーキをかけ、つんのめる。

 階段を上り切ってすぐ、彼女は止まっていた。

 オパールエンジェルにやや遅れて、拓生はデモンを確認した。

 デモンになって戻ってきた、田村麻美だ。 

 疾走の後故に乱れていた呼吸が、混乱して停止しかけて、空咳を繰り返してしまう。

 田村麻美はもう、数時間前見た可憐な少女ではなかった。

 顔面の上半分から太い触手が何本も生え、蛸が海底を這うように、その触手により動いている。

 付属品のように垂れ下がる人の肉体は傷つき血が溢れ、細い腕や大腿部からは白い骨が覗いていた。

 思わず目を逸らしてしまう痛々しさだ。

 触手の一つに逃げ遅れた男子生徒がぶら下がってなければ、拓生は田村麻美から逃げ出してしまったかもしれない。

「その人を離しなさい」

 オパールエンジェルは身構えた。格闘戦のファイティングポーズだ。

『ドウジデワダジオ、ドウジテワダジオォォォォ』

 細い喉から出たとは思えない咆吼が、びしびしと廊下を震動させた。

「田村さん、もう辞めましょう」

『ドウジデェェェェ!』

 オパールエンジェルが床を蹴った。

 一瞬で間合いを詰め、男子生徒の首を捕らえている触手に手刀を振り下ろす。

 ぶちり、と千切れたのは生徒の首の方だった。触手も切断され落ち、その場でうねうねとのたうつが、瞬きにも満たない攻防で聖天使が遅れを取ったらしい。 

「あっ」

 と、オパールエンジェルが怯んだのを見抜いたのだろう、デモンは触手で膨らみ、バネ仕掛けのように跳び上がって、あっという間に遠ざかっていく。

 当然、オパールエンジェルも駆ける。

「拓生君っ」

 無言の彼をオパールエンジェルは振り向かずに呼ぶ。

「何?」

「……あの子、手強いわ、私が囮になるから、残っている生徒達を逃がして!」

「わかった」

 敢えて大きな声で了解する。

 少しでも彼女の負担を軽減したかったのだ。

「ひぃぃぃー」

 デモンを前にしたのだろう、数人の少女達が恐怖にしゃがむ姿が見える。

「頼むね!」

 オパールエンジェルはジャンプした。見事な跳び蹴りをデモンの背中にヒットさせ、田村麻美は廊下の果ての壁に激突する。

「今よ!」

 言われるまでもなかった。拓生は同学年だろう数人の生徒に退去を……命じられなかった。

 早くここから逃げろ、その文句まで喉元にあったのだか、霧消する。

 襲われていたのは那智遥を含むイケてる三人と、桜井裕太だったのだ。

「うううう」

 遙は泣きじゃくりながら、桜井の胸にしがみついていた。

 こんな時なのに、そんな場合ではないのに、拓生の胸に鋭い痛みが走った。

「せ、聖天使? なんで? なんで? ねえ、これなに?」

 一行の中で、まだマシな状態の三國えみりは、涙と鼻水で化粧をぐしゃぐしゃにして拓生に問うてくる。

「今は、今はそんな場合じゃない!」

 それはむしろ自分自身を叱ったのだ。

「拓生君!」

 声に視線を向けると、オパールエンジェルが触手と格闘していた。

 早く逃げろ、との意思が伝わってくる。

「は、はやく、コッチへ」

 何とか絞り出した。なるべく桜井に抱きつく遙を見ないようにする。

「で、でも、足が……」

 武藤望が弱音を吐くが、拓生は強引に彼女の腕を取って立たせた。

「逃げないと、殺されるぞ」

 声が冷たく響くように調整して囁くと、三國えみりと武藤望は階段へと駆けだした。

「遙、俺たちも」

 と桜井が厚い胸を彼女に貸しつつ、続く。

 ちらり、と窺うと、オパールエンジェルはデモン、田村麻美に必死で語りかけていた。

 一瞬躊躇したが、聖天使の戦いに加勢は出来ないので、逃げ遅れた遙達の避難を見届けようと後を追う。

 悲鳴を上げ、誰かに毒づき、泣き言を言いながら、カースト最高の三人と桜井は一応安全な、反対方向の階下に降りた。

 拓生は、肩から力を抜いた。

 まだざわざわと胸のどこかが騒ぐが、彼女達はとにかく無事だ。「よし」と頷き、再びオパールエンジェルの元へ戻ろうと決心した。だが踵を返した途端、呼び止められた。 

「た、拓生」

 遙だった。まだ桜井に寄りかかっている那智遙。

「こ、これ何? 何があったの? ねえ、教えてよ!」

「い、いや、僕もあんまり……ただ聖天使が助けてくれて、僕はその手伝いをしているんだ」

 勿論、大嘘だ。虹野彩が聖天使、という事実は誰にも教えられない。約束がある。

「ウソね」

 え、と振り返ってしまう。

 遙は一発でそれを見抜いたのだ。

「あんたのウソなんかすぐ判る。教えてよ、教えなさいよ!」

「い、いや、本当だよ」

 詰問され、数歩下がる。

「本当に、何が何だか……」

 誤魔化そうとしたが、言い訳は止まる。

 階段の裏、皆の死角になる場所に白いセーラー服が見えたのだ。

 どうやら隠れている女子生徒がいるらしい。

 遙の厳しい視線から逃れるように、拓生は数歩近づいた。

「君、そこで隠れている子、見つかるとヤバいから……」

 なるべく穏やかにと気を遣った彼だが、そこで舌が凍えた。

 見覚えのある少女だった。

 乱れてはいるがショートカットに、つり目。銀色のプラスチックの名札には『額賀真知』。

 今度こそ、世界がぐらりと傾いだ。

 こんなバカなことがあるのだ。

 こんな許せないことがあるのだ。

 こんな異常なことがあるのだ。

「額賀真知!」

 知らず、彼は怒鳴っていた。

「お前! なんでこんな所にいる?」

 てっきり教室の死体の一つだと思っていた。とその時、拓生の視界が開けた。目が開いた。

 デモンになった田村麻美が、どうして学校中を移動しているのか。

「そうか、アレはお前を捜しているのか」

 はらわたが疼いた。火を噴きそうだ。

 つかつかと近寄り、額賀の胸ぐらを乱暴に掴む。

「お、おい」とイケメンでいい奴の桜井が、下級生の女の子への暴力を制止しようとしてくるが、無視した。

「……お前、アレが誰だか判るよな?」

 ぶんぶん、と額賀が滅茶苦茶に否定する。

「なら教えてやる、アレは田村さんだ、お前達がイジメ殺した田村さんだ」

 額賀に反応はなかった。

 嫌悪に拓生の体は戦慄いた。知っているのだ、この反応で判る。額賀真知は何もかも知っている。どうして帰ってきたのか、何故デモンなのか、誰を捜しているのか。

 なのに、皆を盾にして隠れていた。

 拓生は突然、途方に暮れた。

 ─―こんなにも、こんなにも汚い物なのか? 人間て……。 

 額賀真知は目も鼻も唇も細い、理知的な容姿をしている。外見からはその残虐性、下劣さは判らない。

 不思議で仕方ない。

 ─―こんなに普通の顔で、あんな酷いことが出来るのか?

「どうして、田村さんに、あんなことをしたんだ?」

 つい尋ねてしまった。そうせざる終えなかった。 

 はっはっと短く息をしながら、額賀真知の乾いた唇が蠢く。

「わかんない……何かイラついて……ごめん」

 え、拓生も判らない。理由らしい理由の説明があっただろうか。

「わかんな、い? ……お前は田村さんに、取り返しの着かない、ことをしたんだ、ぞ、みんなで、ひどい、ことを」

 怒りが失せていく。病院で血を抜かれているように、怒りがぬめっと抜き取られた。変わりに閉園した遊園地で取り残されたみたいに、呆然としてしまう。

「止まんなかったのよ!」

 拓生の手から逃れようと彼女は気色ばんで手を振るった。

 が、襟元を離すつもりはない。余計ガッチリ力を込める。

「とまん、ない?」

「あんな事までするつもりなかったの。ほんとよ! あたしだって、かわいそうだって思った……でも、みんなが、みんなが嗾けるから、つい、あたしは本当は辞めたかったの、でも、でも本当、みんなが……きゃっ」 

 それ以上聞くつもりはない、拓生は投げ捨てるように、額賀を壁に突き飛ばしていた。 この期に及んでの自己弁護。

 さっき火が点いたはらわたが、今度は羽箒でくすぐられているようだ。

 ふふふふふ、とだから笑った。笑ってしまった。

「た、たくみ」

 桜井の隣にいる遙が心配そうに目を見開くが、それも可笑しい。

 ─―こいつを。

 爆笑の後の涙を拭いながら、彼は冷徹に判断する。

 ─―こいつを田村さんに差し出せば、デモンは人の姿に戻るんじゃないか? こいつ一人の命なんて、もういいだろ。

 額賀真知は一瞬の怒りにより燃え尽きたのか、頭を抱えて現実から逃避し、その場に伏せている。

 判断は決した。

 拓生は階段を上る。苦戦しているだろうオパールエンジェルに、提案するのだ。

 額賀真知を差し出せと。

「拓生! どこいくの? イヤっ、行かないで」

 足が止まった、遙が泣き声を背中にぶつけてきたのだ。

「桜井と一緒にいろ、遙」

 一瞥もせず、吐き捨てる。

 拓生はもう、何もかもうんざりしていた。

 ─―もうどうでもいい、どうでもいい。

 心の底から冷えた感覚がわき上がって来る。

 忙しい両親。どうでもいい。

 汚い人間。どうでもいい。

 好きだった遙、どうでもいい。

 ともかく、差し当たってオパールエンジェルと、何より田村麻美は助けたかった。 

 どうでもいい額賀真知に泥だらけに汚された彼女は、何としても救いたい。

 しかし、そんな思いは砕け散った。

 拓生がとって返して目の当たりにしたのは、デモンとオパールエンジェルとの死闘ではなかった。

 それはなかった。 

 がっくり、としゃがみ込む虹野彩がいる。

「虹野さん」

 そして、全てを理解した。

 彩は人間の半身の傍らに、力無く座り込んでいる。

 もうデモンではない、田村麻美は肩から下がない死体となっていた。デモン化が嘘だったように、その顔は安らかだ。

 彩自身も相当傷ついていて、白いセーラー服に血が滲んでいる。

 つまり……。

「たくみ、くん」

 彩が彼に涙に濡れた目を上げる。

「わ、わたし、つかっちゃった……」

 彼女の声は後悔と悔恨に掠れている。

「ジャッジメント・レインボゥ……つい、当てちゃった」

 わっと顔を両手で多い、虹野彩が泣き出す。

「……どうして?」

 拓生にも熱い感情がせり上がる。田村麻美を救えなかった。

「使うつもりは、無かったのっ! でもでも!」

 彼女の指す方向には、一人の女生徒、拓生の隣の席の少女が気絶していた。

 察する。

 恐らく、オパールエンジェルとの戦いの最中、隠れていた彼女が、デモンに見つかってしまった。

 後はそれこそ流れだ。

 襲いかかるデモン。止めようとして……。

 敵を滅ぼす光。

「咄嗟過ぎて……狙いを外せなかった……私がダメだったから……役立たずだから……あああ」

 彩は身震いしながら泣き喚いた。 

「……仕方ないよ」

 それしか思い浮かばない。

「君は助けようとした、んだ」

「ダメなのよ、ダメ、イヤァ」

 顔を覆いつつ、彼女は何度も何度もかぶりを振る。

「私は聖天使なのに、聖天使なのに、結局救えなかった、結局殺しちゃった……助けるチャンスはいくらでもあったのに、なのに」

「そんなの、違う」

 彼の声も音程が整わず、うねる。

 拓生は知っていた。いつも彩が必死だということを、いつも誰よりも懸命になって、人のために戦っている。たった一人で誰よりも頑張っている。

 彼女がムリだったのなら、その他の誰も、どの聖天使も出来なかっただろう。断言できた。

「君は、できるだけの、ことを」

「それじゃあ、ダメなの!」

 食いしばった歯の間から、悲鳴のような叫びが漏れた。

 ううう、と背中全体を細かく振るわせ、むせび泣く。 

 もう掛けるべき言葉はない。見つからない。

 拓生もついに目頭を押さえた。

 つい数分まで、誰かを犠牲にしようとしてまで助けようと考えていたのに、結局それは成らなかった。

 怒り、軽蔑し、失望した。

 だが、それも全て無力なあがきに過ぎない。

 田村麻美を救える、と思い上がった自分が滑稽だ。

 ─―なんだよ、これなんだよ?

 誰かに激しい勢いで、この救いの無さを詰問したい。悲惨なだけの結末をけなしてやりたい。

 だが結局、激情はどこにも向けられず、拓生もその場に崩れ、彩と共に泣いた。

 一人の男の子と女の子が、ただ人間として、助けたかった少女の喪失を悼んだ。

 警察隊が神明中学校に突入し、残った生徒達は強制的に帰宅させられた。

 中学校にデモンが現れ、生徒十数人を殺傷した事件は、インパクトとしてもエンターテイメントとしても格好のイベントだったらしく、拓生が彩を支えながら校門を出ると、群がっていたマスコミ関係者に何重にも囲まれた。

「何が起こったんですか?」

「何を見ました?」

「どうやって君たちは助かったんだい?」

「今の気分は?」

 最後のはシャレなのか? 正気なのか? マイクを持ったリポーターを睨み付けようとしたが、本降りになった雨が目に入り、遮られた。

 無言と無視を貫き通しそれらから脱出した拓生は、彩と別れ家路に着く。

 彼女の事は心配だったが、「送っていくよ」と申し出ると「大丈夫」とぎこちなく答えて来たから、それ以上何も出来なかった。 

 音羽拓生は一人背を丸め、誰もいない家へと歩き出した。


 数時間後、拓生が我に返ると辺りは闇に包まれていた。

 ─―ああ、そうだ。

 とぼうっとしながら思い出す。

 家に着いた後、何をもする気になれず居間の椅子に座ったままだった。

 その時は時刻が早かったために電灯が必要ではなかったが、いつの間にかテーブルの上さえ判別できないくらいの時間になっていた。

 が、それが判っても椅子から動かない。

 何故だが、酷く疲れていた。

 一日にいろんな事が起こりすぎた。

 少女の自殺、あまりにも酷い境遇、デモンとの戦い、そして失意。

 もし父か母のどちらかが居たら、長々と説明しただろう。涙ながらに、自分が何をしたかったのかを訴えただろう。そうしてガス抜きをして、精神のバランスを保てただろう。

 二人はいない。

 昨日から出張に行っていた。

 拓生は暗闇の中、一人思った。

 田村麻美を救えなかった無力さ、額賀真知の醜さ、そして自分にわき上がった矯激なる思い。

 一瞬だとしても、他人を代償に全てを終わらせようとした。

 それを実行する機会は無かったのだが、そうでなかったら……己が何を言ったのか、オパールエンジェルにどう切り出したのかを想像し、自分のことながら冷や汗をかく。

「額賀を殺してみんなを救おう……なーんて言ったら、虹野さん、怒っただろうな」

 容易に心に描ける。

 真面目すぎる彼女が、顔を赤くして叱ってくる。

 だが、しかし、拓生はその時の思い、額賀真知を犠牲にしようという判断したことに、些かも後悔がない。

 ─―僕にしては正しい判断だった。

 そう自賛し、自嘲する。

 ─―結局、僕も聖天使の考えに及ばない、酷い人間なんだなあ。

 悲しさはあったが、むしろ得心の方が大きかった。

 どうも食い違っていた彩との見解。その根を発見できたのだ。

「遙」

 つい声に出していた。

 ─―やっぱり、こんな僕よりも桜井の方が良いよな……。 

 ゆったりとした諦念が体を火照らせる。

 桜井に抱きつく彼女の姿に、もう荒れはしなかった。

 ─―さすがに、男を見る目はあるな。

 ふふ、と今一度自分を嗤う。

「さてっ」

 敢えて明るく口にして、椅子から立ち上がった。

 闇の泥沼の心地よさに浸ってはいたかったが、腹が好いていた。

「つくづく俗っぽいな」

 呆れながら私服に着替え、ちらりと時間を確認する。

 八時過ぎだった。

 コンビニで適当に見繕うと決心し、ビニール傘を手に取ると外に出る。

 軽く舌打ちした。

 雨は酷くなり、大きく細い水滴が、暗黒の空から無限に垂れ流されている。

 近くのコンビニへ赴くのもうんざりする。

 一瞬、今日の晩飯は水道水! と考えないでもなかったが、若い胃袋が途端不平を鳴らしたので、仕方なく雨中に入る。

 ざあ、と雨の音に囲まれた彼は、軋む傘を必死に立て直しつつコンビニへと急いだ。

 酷い天候故にか、人通りはほとんど無く、時折車の影がヘッドライトをギラつかせて通過していくだけだ。それもいつもより少なく感じられた。

 恐らく、そんなしけた日なのだろう。

 拓生が何となく顔を上げたのは公園の前だった。

 いつだったか彩と語り合った小さな公園。少ない遊具と小さなベンチがある。

「う?」

 立ち止まっていた。人影があったからだ。ベンチに誰かが座っている。

 ─―まさか。

 宵闇の見せた幻影だ、とすぐに否定する。

 こんなざーざー降りの中、ベンチに座っている者などいるはずがない。

 しかし、目をこらすと、明らかに小さな誰かが居る。

「まさか……」

 声を失う。嫌な予感が鎌首をもたげた。

 拓生は公園の車止めをすり抜けると、駆けだしていた。

「に、虹野さん」

 予感は当たっていた。

 虹野彩が真っ暗な公園のベンチで惚けていた。土砂降りの雨などないかのように。

「何してんだよ!」

 拓生は怒鳴っていた。怒鳴りつつ近づき、彼女を傘に入れる。

「……え? ああ、拓生君」

 人形のような顔色で、彼女がはっとした。

「虹野さん!」

 拓生の舌は混乱に絡まった。

 言うべき事がたくさんある。女の子がこんな時間、こんな状況で……だが、それらがあまりにも多すぎて、逆に言葉が失われてしまう。

「な、なにしてんの?」

 精一杯考えて訊けたのはこれだけだ。

「ああ、考えていたの……」

「何を?」

「どうすれば良かったのかな? って」

「ば、ばかっ」

 彼は後悔した。先程無理にでも家に送るべきだった。

 彼女があれから家にも戻らず、ここに居続けたのは、ぐしゃぐしゃの鞄と、すっかり濡れそぼってしまっているセーラー服から判った。

「ばかっ、て」

 彼女らしくなく、弱々しく熱のない反応だ。

「私、拓生君より成績いいんだよ」

「虹野さん」

 いつの間にか胸から消えていた熱い感覚が、目元に戻ってくる。

 何故、彼女はこんなにまで他人のことを考えるのか。

「早く帰らないと、家の人が心配しているよ」

 最大限穏やかな口調を作るが、彩はそれ以上に穏やかだ。

「大丈夫、ばかじゃない私に抜かりはないの……今日、お母さん、家に帰らないんだ……仕事で、ほら私、いろいろ考えている」

 もう拓生に選択肢はなかった。彼女を雨の中放って置くなどその中にない。

 力無く垂れる腕を、傘を持っていない方の手で掴む。

「来て!」

「なに? 拓生君」

「こんな所にいちゃだめだよ、いくら聖天使でも体を壊すよ」

 不思議そうに小首を傾げる彼女を引っ張り、家に向かって足を速めた。

 玄関に入った彼女は、ぼんやりと蛍光灯を見上げていた。

「待ってて」

 拓生はバスルームでバスタオルを数枚ひっつかむと、玄関で立ちつくしている彼女にかけ、また腕を引っ張り居間へと誘導した。

「拓生君、らんぼう」

 文句を無視し、ソファに座らせると、台所にあるコンロでお湯を沸かす。

「ええっと……紅茶でいい?」

「え? どうして? あれれ? 寒い……」

 今更、彩が両腕を抱いてぶるぶるし出す。

「当たり前だよ!」

 何時間も雨に打たれていたのだ。病気になっていないか心配だ。

「僕は、君がもう少ししっかりしていると思った」

 今はもっと温かい言葉をかけた方がいいとは判る、だが文句の一つでも言わずにいられない。

「何よ、私、しっかり者よ」

「うっかり者だ!」

「ひどいなあ」

 まだ、どこか彩の語調は熱に浮かされたように、ふわふわしている。

 拓生はバスタオルをかぶったままの彼女の額に、手を当てた。

 熱はない、が凍っているように冷たい。

「拓生君、寒い……」

「もう!」

 手の掛かる子供を相手にしているような気分で、バスタオルを使い彼女の頭や腕などをさする。

「なんでこんな事したのさ? 本当に体を壊すよ」

「ねえ拓生君。私、どうしたら良かった?」

 噛み合ってない。 

「田村さん、どうやったら助けられた? それをずっと考えていたんだけど……私、バカなのかな?」

 勢いよくバスタオルで頭を拭く。

「うんバカだねっ」

「そうだよね……聖天使失格だね」

「そうじゃなくて!」

「そうだよっ、私はダメな聖天使ね、女神様もがっかりしてらっしゃるわ……」

「そんなことない!」

「どうして? 私、たむら」

「もういい!」

 拓生は彼女の頭を抱きしめていた。

 シャツの胸は濡れたが、そうしていると、じんわり温かくなる。

「もう考えるな……忘れよう」

「そんな、こと、ムリ、だよ」

 途切れ途切れに否定する彩の吐息、体の冷たさと反比例する灼熱の呼気が拓生の顎辺りをくすぐった。

 はあ、はあ、という呼吸、虹野彩の息づかいが直に胸に当たる。

 突然、不意に、いきなり、拓生の中で何かがむくりと起きあがった。 

 嵐のように熱病のように激しい、制御不能な思いだ。

 歯を食いしばって、彩の、少女の体を抱きしめる。

 雨に濡れたセーラー服から、ブラジャーがくっきり浮かんでいた。

 女の子の甘酸っぱい香りが、密着している拓生の鼻孔を満たした。

 彼の中でいろいろな思いがスパークした。

 不在がちな親、ついに顧みて貰えなかった少女、暗い家、助けられなかった人。

 何もかもがぐちゃぐちゃに支離滅裂に、頭の中でぐるぐるとかき混ぜられていく。

 マーブル模様の感情に悲鳴を上げた彼は、どうしようもなく、どうすることも出来ず、求めてしまった。

「え?」

 小さく誰かに問うたのは彩だ。

 拓生は震える指でセーラー服を上に引っ張り、脱がしていた。

「た、たきゅみ、く」

 混乱する彩が我に返る前に、目に焼き付くほど白いブラジャーを、千切るように奪い取る。

「う、うえ?」

 露出した部分を慌てて手で押さえていたが、彼はもうスカートに手を伸ばしている。

「な、ななに?」

 拓生はもう止まらなかった。

 戸惑い混乱する彩に構わず、スカートを剥ぐと傍らに捨て、最後に残った純白の下着に触れる。

「だ、だめよっ!」

 ようやく彼女は危機を悟った。そして抵抗した。だが弱々しい腕では拓生を止められない。

 下着を脱がすと、ははっ、と彼女の小さく浅い息が聞こえた。

「た、たくみ君……ダメよ、まだ……」

 寒さとは違う意味でぶるぶる震える彩の胸部、片方の腕で必死に隠している膨らみに、彼の手が触れる。

 びく、と彼女の体が跳ねた。

「ダメだってば……お願い」

 目の前に彩の上気した顔がある。羞恥に耳たぶまで朱に染まっていた。

 懇願に答えず、彼は胸と下腹部に添えられている彼女の細腕を掴んで、力ずくで横に引っ張った。

「ううう」  

 眼鏡の奥の瞳を涙で濡らしながら、虹野彩はソファに十字に貼り付けにされたような格好になる。

「や、やめ、て」 

 拓生は何も遮る物のない彼女の裸を目に焼き付けると、強く抱きしめた。そのまま潰してしまう勢いで、全力を込めてかき抱く。

 無言で小刻みに揺れていた彩だが、しばらくそうしていると、やがて戸惑い気味に拓生の背に腕を回して来た。

「わ、たし」

 聞きたくない。拓生は唇を強引に奪った。

 何度も何度も、彼女は拓生の口腔に喘ぐ。

 唇を離すと、目の中に彩の瞳がある。夜空のように煌めく二つの輝きがあった。

「たくみ、くん」

 拓生は指はそっと、身をよじる彼女の体をなぞっていった。

 雨が降っている。外はどしゃ降りだ。

 強く重い雨音を聞きながら、拓生は男になった。

 交錯する呼気の中で、野良犬のような飢えを満たした。

 温かく柔らかな感触が、鮮烈に強烈に彼の記憶に刻まれた。

 音羽拓生と虹野彩との間にあった、大切で貴重な透明な壁は、修復不可能な程粉々に砕け散った。

 

 第五章

 それから三週間が経過し、世界はすっかり梅雨入りしていた。否、もう梅雨明けすら近い。

 前代未聞の学校へのデモン襲撃、という事態に、神明中学校の門扉は少しの間、各所に配慮して閉じられ、拓生達は少し長い休みを与えられた。

 再開されるころになると、あれだけ悲惨な事件が起こったのに、皆、何事もなかったように学校生活をも復元させていた。

 あるいは敢えて『その部分』に触れず元に戻りましょう、という不文律が出来上がっていたのかも知れない。

 事件の元凶たる額賀真知は、全滅した二年二組から隣の三組へと編入され、笑顔で登校している。

 何も変わらない。

 一人の少女を除いては、である。

「チクショー!」

 変わらない代表、松居吉郎が辺りを憚らず喚いた。

「たまらねーな」

 また女子生徒に見とれていたのだろう。

 しかし松居が見つめている対象は変わっていた。イケてる三人衆を素通りして、彩へと。

 虹野彩。

 彼女は変わった。それは誰よりも音羽拓生が知っている。

 固い三つ編みを根本をふんわりとさせた柔らかいお下げに変え、髪色も微かに明るく染めている。顔が隠れる黒縁眼鏡の代わりに、フレームのない薄い眼鏡をかけ、猫背気味だった背も今はしゃきりと伸ばすようになっていた。

 そうなると誰もが気付く。

 彼女がとびきりの美少女だった、という事実にだ。

 イケてる三人組にも引けを取っていない、むしろ化粧はしないからナチュラルで、抜群に成績が良い分、彩の方に男子達は注目し出した。 

 反応の変化にイケてる三人は、こそこそと囁きながら、遠巻きに悔しそうに見つめるしか出来ない。

 彩の変化は外見だけではない。

 教室ではむっつりと黙り俯いていた彼女は、今は女子生徒達の輪にいる。

 心境の変化も伴っていたようで、積極的に周囲と関わるようになったのだ。

 そうなると、優しく面倒見の良い彼女は、誰にも好かれた。

「いいなあ」

 松居は一ミリの進歩も無く、拓生の横で己を抱いている。

「今度は何だよ」

 聞く必要はあるのか、という葛藤を抱えつつも彼が問うと、松居は目を輝かせる。

「お前気付かないのかよ! 哀れな奴」

 何故か憐憫の先にいるようだ。

「ほれ、アレ見ろよ」

「あれ?」

「彩ちゃんの、腰だ、腰」

 転じると、彩が女子生徒の机に手を突いて、やや前屈みになり楽しそうに話している。

 腰、と指定されても、スカートが揺れている、位しか判らない。

「だろうな」

 松居は偉そうに、ふんぞり返る。

「お前はガキだからな、だがアダルトな俺には、彩ちゃんの魅力が判る!」

 もう彼女は『委員長』というあだ名で呼ばれない。拓生はそれが嬉しい。密かにかなり気にしていたのを知っていたのだ。

 そんな彼にいきなり松居が手を突き出す。大きな円を空中に描いた。

「彩ちゃんの腰の辺り、何だか艶っぽい……つーか、イヤらしくて、すげードキドキすんだよ、むらむら? いやーチチの他に俺の目を奪うとは、スゲー奴だ、ええコシやー」

 密かにどきり、とする。その部分には頻繁に触れている。

 こちらが噂をしていることに感づいたのか、彩がふと視線を向けた。

 にっこり、と柔らかく微笑んだ。

「うおおおー! 俺に笑顔を……こりゃ脈アリだ」

 松居が吠えるが、拓生は判っていた。自分に向けられたのだと。

 学校が終わってすぐ、自宅の自分の部屋のベッドで、その事を彩に告げると彼女は少し驚いた。 

「松居君? そう言えばこの所よく話しかけてくるなあ」

「君が好きなんだって」

 くすくす、耳元で軽い笑いが跳ねた。

「それってヤキモチ?」

 いたずらっ子のような目も、最近するようになったものの一つだ。

「うん、何だか君だけ学校で人気者だからなー」

「そんな」

 恥ずかしそうに身を縮ませ、赤い頬に手を当てる。

「私はただ恥ずかしくなったの」

「恥ずかしく?」

「うん、どうしてか知らないけど、あのまま拓生君の前に出たくないな、と思えて、一所懸命に自分を変えたの」

 拓生は裸の彩を真下から見上げた。

 デモンの襲来、あの雨の日から何よりも変わったのは、しかし二人の関係性だ。 

 あれから三週間、親がいる日曜日を除いて毎日、彼女は彼の家に寄る。

「勉強を教える」というのが大義名分だ。

 勿論、教わっている。

 だから拓生の成績も最近は上向きだ。だが、それだけでは終わらない。

 その後、愛を確かめ合うのだ。

 若すぎる二人にとって、その行為は何もかもが新鮮で、ぬくもりに満ち満ちていて、一度交わしてしまうと忘れられなくなってしまった。

 拓生は彼女の手に指を絡める。

 彩の変化について松居は、腰つきの柔らかさだけしか目が行っていないようだが、実はまだまだ密かに挙げる部分はたくさんある。

 間近で見て判るのだが、手足にあった薄い産毛が今は完全に消えていた。肌はよりなめらかになり、ミルクで出来ているようだ。

 唇は甘いお菓子のように香り、身体かも爽やかな香水を纏っている。 

 かつて真面目で影が薄かった彼女とは別人のようだ。

「うーん」としげしげ見つめ、拓生は尋ねた。

「大きくなっていない? 少し」

「え?」

 しばしその意味を考えた彼女は、やんわりに握った拳を上げる。

「もう! ヘンな観察しないで、大体、触られたら大きくなるって、男の子が勝手に信じているだけなんです!」

 尖る唇はとても眩しかった。だから拓生は身を起こして自分の唇を重ねた。

「愛しているわ、拓生君……」

 熱く情熱的に彩は囁く。

「ずっとずっと、この気持ちは変わらない……私、聖天使になって少しは人間が判った気がしていた、でもそんなの嘘なんだね? こうなってみないと、本当の人のあたたかさなんて判らないんだ」

 拓生は彩の体と吐息に包まれ、幸福に目をつむった。

 実際、彼女の傍らは春の日のように居心地が良かった。自然とまどろんでいく。

 夢は虹色だった。


「……くん、拓生君、ねえ、拓生君ってば」

「ううん?」

 揺り起こされて、本能的に時計を確認する。まだ午前四時前だった。

「なにさー」

 真夜中にたたき起こされた不満に眉に表すと、暗い中で首を傾げている彩の姿がぼんやり写る。眼鏡はかけていない。

「どうしたのさ、今日はウチ、帰ってこないよ、親」

 拓生の両親はまた出張中だ。

 デモン騒動があり、しばらくは心配してくれたようだが、もうすっかり忘れられていた。

 彩は母親に「友達の家に泊まる」と豪毅にも宣言し、その日は二人だけで食事をして一緒にお風呂に入って、一緒に寝たのだ。

 なのに起こされた。

「うーん」

 彼女は闇の先をじっと見つめているようだ。

「うん? 虹野さん?」

「……あのね、どうして私たちのこと、ないしょなの?」

「あう? それは……ほら、約束したじゃん」

「うん、だけど、その約束って……私が聖天使だってことを隠す、約束だよね?」

「そういえば……」

 眠りを引きずる錘のような脳が、徐々にはっきりしてくる。

「うーん」

 また考え込んでいる。どうやら彼女も少しは眠っていたようで、語っても甘いお菓子の匂いはしなくなっていた。

「みんなに言ってもいいんじゃない?」

 結論に、「え?」と拓生は聞き返す。

「だから、みんなに私たちが付き合っているって言っても、別に構わないんじゃないかって」

「それは」  

 遙の幻影がよぎるが、かき消す。もう終わったことだ。

「そうかもね……て、こんなコトしてますって?」

 彩は拓生の言葉に裸の自分に視線を落とし、驚く。

「それはダメよ! 言わないで下さい。あくまでも『付き合っている』というニュアンスで」

「なるほど、だから胸が大きくなった、というニュアンスで」

「ばかっ!」

 暗いから判らないが、彼女は真っ赤になっているはずだ。

「それは言っちゃダメっ、ええと、私たちのこんな関係はこれからも内緒です。まだ打ち開けるには早いと思うから。でも……ええと、一緒にデートしたりお食事したり、映画観たりはしているよって、うん! 告白し合って恋人だよって、こと」

 少し考えてみたが、確かにそれなら学校生活に支障はなさそうだ。囃し立てられたりされるのはイヤだが、まあ耐えられる。 

「そうだね、でもいきなりどうしたの?」

「うん……実は困っていたの」

「ん?」

「こないだ松居君に告白されて、断ったんだけど、顔を合わせるたびに『好きだ』って」

「なるほど」

 得心した。松居は彼女に本気で恋をしてしまったのだ。

 猛アタックされて、当の彩は困惑しているらしい。

「よしっ」

 拓生は彩の裸の肩に手を置いた。

「なら明日からみんなの前でも恋人だ」

 どうしてか、闇の中でも彼女の表情が輝いたのが判る。

「うん、明日から、教室でもお喋りできるね!」

「うん、明日から、教室でもお触りできるね!」

「こらぁ!」

 彼女に叱られるのは久しぶりだ。

「それはダメなんだから、学校でヘンなコトしようとしたら、私、叫びます。大声で叫びます」

「え」

「そして他人のフリです」

「……意外に酷いね」

「けじめです」


 次の日から、二人の関係は周知の物となっていった。 

 いきなり皆の前で「私たち、付き合ってます、しゃーせん」とした訳ではない。

 女子生徒に沢山友達が出来た彩が、休み時間などにそれとなく伝えて行ったのだ。

 効果は絶大で、三時限目には教室中に広まっていた。 

「お前っ」

 聞きつけた松居が歯をガチガチ鳴らして目の前に立ったのは、四時限目前の休み時間だ。

「あ、あやちゃんと付き合っているのか?」

 松居の様子は尋常ではない。いつもセットされている髪は乱れ、鼻の頭が汗で光っている。

「う、うん、一応」

 一言つけ加えたのは、彼への配慮だった。ここで正気を失って暴れられたら溜まらない。

「ふははははは」

 笑うように大きく息を吐きながら、松居は沈んでいった。

「お、おい」

 椅子から腰を浮かせ、机の下へ潜った松居を追うと、床にへたっていた。

「なんで、なんでだよ。俺がようやく見つけたエンジェル……どうして俺よりお前なんかに」

 少しどきりとする拓生だが、怨念に光る目を向けられ本格的に怯えた。

「お前! 彩ちゃんとどこまで行った?」

 松居が、バネ仕掛けのように跳び上がる。

「ええと……」

 いきつくとこまで……とは答えられない。

 見られていることが判る。人の目から時々光線が出るのだ。

 彩が息を殺して聞き耳を立てている。

 もし答えを間違えたら、いつかのようにグーパンチだろう。

「ま、まだ、手を繋いだだけ」

 グーパンチは回避できたはずだ。が、松居の視線は白かった。

「お前って……本当に詰まらない奴」

 暴言だ、とは思うが耐える。騙しているのだ。

「俺だったら、チューはしているね」

 唇をタコのように尖らせた松居がくねくねするから、三週間前にオパールエンジェルに窮地を救われた隣席の女子生徒が、ずずっと遠ざかった。

 ひやひやしたが、それ以上の追求はなかった。

 昼休み、給食のオカズの問題で拓生が消沈していると、世界が陰った。

「え?」

 机の前に、三人の女子生徒が立っていた。

 那智遥、三國えみり、武藤望の、イケてる三人組だ。

「な、なに?」

 怯む。遙の機嫌が酷く悪そうだ。否、そんなレベルではない。彼女の整えられた細い眉は逆立ち、高価なファンデーションにより陶磁器のように白かった頬が赤く染まっている。つやつやの唇から食いしばられている真珠色の歯が見える。

「ちょっとハナシ、あんだけど」

 三人分の研ぎ澄まされた目に射すくめられた拓生が、断れる道理はない。

 連れてこられたのは、廊下の隅だった。

 あまり生徒の姿がないと確認した遙は、口火を切る。

「ちょっと、酷くない? これ、どういうこと?」

「は?」

「コイツ、惚けてるよー、ムカツクねっ」

 えみりがきんきんする声で追従してくる。

「拓生、あんた忘れたの?」

「何を?」

 遙の表情が歪んだ。いつもの自信満々のそれから、昔誰よりも近くにいた、泣き虫に戻る。

「どうして虹野と付き合っているのよ! ウソツキ」

「ええ?」

「さっきから何だか適当な返事よねコイツ」

 望の非難ももっともだが、それくらい衝撃なのだ。

 ─―どうしてそんなこと、言うんだろう?

「あんた!」

 びしっと、尖る指先が拓生の鼻先に突き当てられる。

「あたしのことを好きだって言ったじゃない!」

 声もなく硬直する拓生に、えみりが追い打ちをかける。

「遙はね、あんたの為に今までいろんなヤツの告白、蹴ってきたんだよ、いつか付き合うんだって。なのに、いつの間にか虹野なんかと付き合って、ヒドくない?」

「それは……」

 話が全く読めない。言葉が通じていない気もする。いつの間にか世の中がひっくり返ったみたいだ。

「覚えていないの?」

 遙がはっと息を飲む。

 否、覚えている。ただしアレは小学校卒業するときだ。

 卒業式の終わり、卒業証書を丸めて押し込む安っぽい筒を抱えながらの帰路だった。

「ねえ、中学に上がったらさ、付き合ってよ」

「え?」

「だから、恋人になりましょう!」

 精神年齢で幾つか先を行っている遙は、楽しい夢でも語るようだった。

「わかった」

 そう答えた。拓生も先に輝く世界がある物だと信じていた。

『付き合う』とか『恋人』とかは良く分からなかったのだが、その時は遙と一緒いたいと思う気持ちが強かった。

 だが春休みの間に、父は会社をリストラされ、苦境の家計を支えるべく母も働き出した。

 迎えた中学校の入学式での那智遙には昔の無邪気な面影など無く、その美貌は男子生徒達の話題を独占し、拓生の出番はなくなった。

 なくなった、と思いこんでいた。

「ひどいよ、拓生……ウソついていたの?」

 遙が顔を覆う。

「いや、だって」

 思い出す。桜井裕太だ。

 遙と付き合っている学校一の男。

「君は、桜井君と付き合っているだろ?」

「は?」

 濡れた目を指の間からのぞかせた遙が、聞き返す。

「何よそれ? 誰から聞いたの? そんなデタラメ」

 松居、と答えようとして、己の愚かさにくらっとした。

 松居吉郎の噂話は、いつも根拠がない物だ。それは小学校から変わらない。

「桜井君からは確かに告白されたよ。でも、あたしは拓生が付き合ってくれる物だと思って、断ったんだよ」

 空虚な風が吹き拭けていく。ひどいペテンにかけられた気分だった。

 ただ、一つ思い出す。ある光景だ。

「で、でも君は、デモンに襲われたときに……」

 桜井に抱きついていた。

「え? あたし、何かした? あの時のことは、怖くて無我夢中で、覚えていないんだけど」

 拓生の周囲が暗転した。

 ─―なんだそれ……。

 と間抜けに何者かに問う自分がいる。 

 勝手に適当な噂にダマされ、勝手に振られたと思いこんでいたのだ。

 そう言われて心付くが、確かに遙は拓生との接触を拒んではいなかった。

 何かあったら、彼女は遠回しにだが気にかけてくれていた。

「……あたしはいつか拓生が告白してくるものだと信じて、待っていたのに」

「マジかわいそう、あんたの話しばっかだったんだよ遙」

 えみりは遙の肩に手を置き、さらにむち打ってくる。

「ごめん」

 拓生としては、それ以外思いつかない。

「ごめん、て、それだけで済むと思っているの?」

 泣きながら、遙が責める。

「知らなかったんだ、僕はてっきり……君にフラれた、相手にされていないもんだと思って……君が桜井君と付き合っていると聞いたから」

「付き合っていないわよ! 私はずっと拓生が好きだった」

「僕だって、遙が好きだったよ!」

 言ってしまった。常に心の奥にひた隠して、もう忘れようとしていた言葉だ。

「ならどうして虹野と付き合っているの?」

「それは、君のことを諦めたんだ。桜井君には勝てそうにないから」

「バカ!」

 罵倒されて拓生は心は沈んだ。己のふがいなさに呆れる。

 ─―ほんと、バカだな。

 拓生は頭を垂れた。何もかも手遅れで。取り返しが着かない。

 沈黙が四人を支配した。

 だが、それは簡単に、容易く壊れた。

 遙がさっと顔を上げたのだ。

「なら、いいじゃない」

 涙を払った彼女は、一転して明るい笑みになる。

「え?」

 拓生はころころと変わる遙に、着いていけない。

「あたしは拓生が好き、拓生はあたしが好き、拓生は誤解していた」

 彼女は端的に現状をまとめる。

「なら問題ないでしょ?」

 ある、大ありだ。最大の問題がある。

「拓生、虹野と別れて」

 あっさりと最大の問題に手が掛かる。

「いや……それは」

「なんでさ。あんたはあたしと付き合うのよ。虹野は忘れなさいよ」

「む、ムリだよ」

 フラッシュのように、虹野彩の姿を思い出す。

 微笑む彩、怒る彩、泣く彩、そして彩の女神のような裸身。

「だから、なんでさ? 黙ってないで教えなさいよ」

 ここではっと口に手をやったのは、武藤望だ。

「あんた……まさか……しちゃった、の?」

「え」

 遙とえみりが凍り付く。

「……うん」拓生はもう嘘は付けない。

「そうかっ」

 望が納得したように手を打った。

「だから、あのウザいだけの虹野が、あんなに変わったのね。暗いだけのヤツだったけど、男が出来てキレイになりたいと思いだした」

 拓生はそれどころではない。

 遙が拳を握りしめ、ぶるぶる震えていた。

「あ、あのう」 

 拓生は穏便に済まそうとしたが、その途端、びしり、と頬を張られる。

「このバカ! 何してんのよ拓生のクセに! 何他の女に手を出しているのよっ! コッチが我慢してたのに」

「ごめん」

 だが彼は内心息をついていた。

 勘違いのすれ違いは悲しかったが、これで完全に遙との関係は壊れる。三人の女の子に責め立てられるのは辛いが、これで終わりだ。

「全く」

 遙は頬を紅潮させて、腕を組んだ。

「メンドーじゃない」

「え?」と想定と違う展開に戸惑う彼に、えみりが口を開く。

「アタシのケイケンだけど、真面目な女って、最初の男にスッゴクコダワるんだって。アタシは最初の男、スグ忘れられたケド、虹野は後引くかも」

「関係ないよ」望が肩をすくめる。 

「どんなに拘っても、フラれたら終わり。虹野がどう考えようと、そこまでよ」

「そうね、要はサヨナラしちゃえばいいって事よね」

 三人娘の会話の意味が分からない。

 酷く残酷なそれのような気がするが、関わりたくない。

 だが、そう言うわけにはいかなかった。

「アンタ、遙をまだ好きなんでショ? ねえ?」

 えみりが問い詰めてくる。ここが分かれ道だ、と何となく判った。

 浮かぶ、虹野彩の姿が。那智遥と過ごした日々も、浮かぶ。

 父と母がいて、遙と一緒だった幸福だった時期だ。

「う、うん」頷いていた。脊椎反射よりも本能的だった。

「なら、別れなさいよ、遙のタメに」

 えみりはあっさりと結論を出すが、そんなに簡単ではない。

 え、と己に驚愕する。

 ─―僕、虹野さんと別れようと考えている、そんな……。

「どうして?」つい言葉が出た。 

「それを今考えているんでしょう?」

 遙は苛立たしげに靴先だけ足踏みしている。

 ─―そうじゃなくって……そうじゃなくって!

 彼は混乱しだした。

 違う。違うのだ。

 彩と別れるなんて一瞬も望んでいない。

 彼女とまだ一緒にいたい、まだ一緒に笑いたい、語り合いたい、喧嘩したり、仲直りしたり、勉強したり、愛し合ったり、していたい。

 別れたくなんかない。

 ─―遙は?

 強い思いが急速に萎む。

 遙、好きだった少女。ずっと憧れ、遠くから見つめていた。桜井と付き合っていると聞かされ、心が痛かった。

 だが、遙は待っていてくれたのだ。こんな冴えない男を。

 別れたくなんかない。

「あーもぅっ」

 望は面倒そうに髪を掻く。

「もういいから、今日別れたら? 虹野を呼んで音羽がバイバイすりゃあ良いんだよ」

「そうねっ、それイチバンだね」

 えみりははしゃぐ。

「うん、それしかないね」

 遙がちらりと横目で突いてくる。

「無理だ! 無理だよ……だって」

 拓生は逃げ出したかった。こんな場所から逃げたい。何も決められず、どちらかを選ぶことも出来ず、ただ追いつめられていくだけだ。

「ったく、このチキン!」

 遙はその場で床を蹴った。

「……仕方ない、あたし達も一緒にいたげるから。そしたら別れ話も楽でしょ?」

 拓生は立ちつくす。

 いつの間にか。もうそこまで話は進んでいた。

 虹野彩と別れる。

 唐突すぎる展開に、拓生の思考は追いつかない。

 ─―そんなの、虹野さんと……なんて、そんなの……。

 考えた。一所懸命に反論を、このどうしようもない事態の打開策を脳に巡らせた。

 目尻に涙が溜まっていく。こんな筈ではなかったのだ。

「……遙のコト、好きなんでショ?」

 えみりの語調は厳しい。

「……うん」

「だったら虹野とわかれなサイよ……考えても見てよ、このままだったらアイツもかわいそうでショ。本当は好きでも何でもないのに、エッチだけしているんだよ」

 違う。三國えみりは勘違いをしている。

 拓生は彩が好きだ。その筈だ。だから……したんだ。

「さあ、早く虹野を呼び出して、スマホ使いなよ」

 武藤望が強いる。

 ─―嫌だ! 虹野さんと別れたくない、別れたくないんだ! 遙も好きだけど、虹野さんも好きなんだ、好きなんだっ!

 だが、拓生はまるで操り人形のように、淡々と彩をラインで呼び出していた。

 彩はすぐやって来た。

 恋人からの誘いに、頬を赤らめて駆けてくる。

 拓生の後ろに三人の少女の姿を認めても、その後の悲劇は予想できないらしく、少し笑みが小さくなっただけだ。

「どうしたの拓生君?」

 突然の呼び出しに慌てて駆けつけたのだろう、息が弾んでいた。

「あ、あの……」

 舌は消しゴムのように、固まった。何も言い出せない。

「あのさー」

 えみりがしびれを切らしたらしく、横から割り込む。

「アンタ、コイツと別れてくんない? 音羽は遙がスキなんだって」

「え?」

「だから、アンタと付き合ったのをナシにして欲しいんだって」

「え」と彩は事態を飲み込めない様子だ。ただ顔色だけは白くなっていく。

「それじゃあ、言ったからね、今後拓生に近づかないで」 

 遙に背中を押され、歩き出す。

 世界は深海の底のように朧だった。

「あ、あの」

 背後から彩が呼びかけてくる。

「それって……あの、拓生君?」

 振り向こうとした拓生だが、素早く遙に腕を組まれ出来なかった。

 辛苦に拓生はのたうち回りそうだった。苦しくて苦しくて仕方がない。いっそのこと、殺されてしまいたかった。

 その方が何倍も楽に思えた。

 隣には、あんなに憧れ、あんなに好きだった遙がいる。

 恋人になっている。

 なのに、少しも嬉しくない。喜びなんて毫末もなかった。

 家に帰っても苦悶は続いた。

 少しでも油断すると、彩の顔、最後に見せた悲しそうな表情が蘇ってくる。

 なるべく考えまいと勤めた。

 テーブルの上に置き手紙がある。両親からのいつもの通信だ。

『遅くなります、もし夕ご飯までに帰らなければ何かをとって下さい、母』

 一人でいつもの文面を読んだ拓生は、突如に激情にかられた。

 手紙をびりびり引き裂くと床に捨て、だんだんと足音を鳴らして自分の部屋に向かう。

 目眩がする。

 ここ数日の逢瀬で、彩の匂いが充満していた。

 つい昨日まで、彼女はここにいた。ベッドに痕跡が残っている。

 二人はそこで抱き合いながら、将来について色々計画を立てた。

「うううう」

 拓生の目から苦すぎる涙がこぼれ落ちていった。

 それはどうやっても止まらず、畳に膝を付き孤独な野良犬のように吠えた。

 次の日、拓生は遙と共に学校へ行った。朝、彼女が迎えに来てくれたのだ。

 教室に入ると、当然のように彩が近づいてきた。

「あ、あの拓生君、その……昨日のって」

 しかし遙がそんな彼女を阻む。

「どいて、邪魔なんだけど」

「あ、あの、でも……拓生君」

 痛い、心が痛い、彩の姿をまともに見ることが出来ない。喉元まで「全て間違いだよ」の一言が上がってきた。   

「しつこいんだけど」

 その前に遙がぴしゃりと釘を刺した。

「あんたはもう拓生にフラれたの、今拓生と付き合っているはあたし、人の彼氏に気安く話しかけないで」

 彩の顔にゆっくりと絶望が浮かんでいった。

「う、そ……」

「ウソじゃなくて現実」

 やおら彩は拓生の腕を掴んだ。

「拓生君! そんなのウソでしょ? これ何かの冗談だよね? いつもの意地悪だよね? そんなはずないもんね? 私たち愛し合っていたでしょ、将来の約束したでしょ! こんなの間違いだよね……そう言ってよっ!」

 何も答えられない。だが、それは彩が嫌いだからではない、拓生は凍り付いていたのだ。悲しそうな彩に衝撃を受け、何も出来なくなっていた。

「ウザい! あんたしつこいよ!」

 遙が彩の腕を掴んで引き離した。

「なんで……じゃあ何で、私のこと好きって言ったの! 愛してるって、そんなウソついたのっっ!」

 絶叫だった。

 教室の皆が固唾を飲んで遣り取りを見ている。

「もう」遙は好奇な眼差しの集中に気付き、拓生の手を取り三年四組から飛び出した。

 目的もなく朝の廊下を歩きつつ、舌打ちする。

「何あの必死、引くね」

「まあね、アイツも男に捨てられるなんて初めてだろうからね」

 いつの間にか望が背後にいた。

「全くみっともない、朝からぎゃーぎゃーと、これだからモテないヤツは」

 望は嗤うが違う。みっともないのは拓生自身だ。

 何も出来ない、何も意思を伝えられない。そもそも自分の意思が良く分からない。

「そんなことより」

 遙が拓生に肩を寄せる。

「あんた、相当なことを虹野にしたんでしょ? 私にもしなさいよ、私の彼氏なんだから」

「え」拓生の頬が熱くなる。

「確かあんたの所、今日親いないんでしょ、あたし泊まるから」

 躊躇する。あの場所は彼と彩との場所だったのだ。

「えみりも望もさっさと処女捨てちゃって、私だけっての何だか気まずかったんだ、あんたはいくら待っても告白しないし」

 耳の奥に、くすくすくすと笑い声が響いた。 

「虹野にしたことより、スッゴいことしてね」

 那智遥は艶々の唇を嘗めた。


 スマートフォンが鳴っていた。

 暗い部屋の中でちかちかと輝きながら、ヴーンと呻っている。

 拓生は手を伸ばしてそれを取る。

『虹野彩』

 液晶にはそう表示されていた。 

 無言で耳に当てる。

「……拓生君」

 彩のすがるような声に耳が貫かれる。

「ウソだよね、こんなのウソだよね? 拓生君、本当のこと言って、私をからかっているんでしょ? そんなことないよね……お父さんみたいに私を捨てるなんて、ないよね?」

 答えようと持ち直すが、首に手が絡む。

「誰から?」

 ベッドから半身を起こした遙が、裸のまま体をすり寄せる。

「あの……」

 どうして良いか判らずにいると、彼女は察して拓生から電話を奪った。

「……やっぱりあんたか」

 ふー、呆れたような吐息。

「いい加減にしてよ、空気読みなさい、私たち……今エッチしているんだから!」

 遙は肩をすくめる。

「切れちゃった」

 耳を塞ぎたかった。何もかもが悪い方向に進むのをどうにかして押しとどめたい。

 が、彼の懊悩に気付かない遙が、強く抱きつく。

「ずっと好きだったんだよ、拓生。えみり達が彼氏の話をするたび、悔しかった、どうして私の拓生は近くにいてくれないんだろうって、でもこれからはずっと一緒だからね」

 熱量の高い囁きの後、彼女の唇と唇が重なる。

 翌日から、再び虹野彩には変化が訪れていた。

 外見こそ華やかなそれから変わらなかったが、一日中ずっと一人席で背中を丸めて沈んでいる。態度がずっと前の彼女に戻ったのだ。

 俄に出来ていた友達も、一言も発さない彼女からすぐに離れていった。

 また虹野彩は一人になった。

 拓生はなるべく彼女を刺激しないように、視界に入らないように苦慮した。

 しかし、遙は遠慮などしない。

「拓生ったら、もう」

 明らかに彼女に聞こえる声で、はしゃぐ。

 皆に見せつけているようだった。

 教室で、廊下で、休み時間、登下校、ずっと一緒で、べったりと傍らから離れない。

「ねえ拓生、今度の日曜、街に行かない?」

「う、うん」

「デートしようっ」

 教室の他の生徒になど構わず、その後彼女はデートプランを興奮気味に喋った。

 スマートフォンが鳴る。

 拓生は暗い気持ちで、机の中でちかちか点滅する携帯を見つめた。  

「おそーい!」

 気分を害したらしい遙が、拓生の謝罪にそっぽを向く。

「女の子を待たせるなんて、拓生、サイテーなんだぞ」

 梅雨の晴れ間となった日曜の、じりじりとした太陽が拓生の後頭部を焼いた。

「いや、どんな格好をすればいいか判らなくて」

 デートなど生まれて初めてだ。遙と二人だけで遊んだ過去はあるが、それはカウントしないだろう。

 故に、朝起きた拓生は途端に困り果てた。

 誰の目も引く那智遙の傍らにいても許される服装など、思いつかない。

 昔の雑誌を引っ張り出し、それを参考になんとかコーディネートする。

 時間に遅れたのは、彼がどんなに苦労したかの証しだった。

 対し、遙は流石だった。

 シンプルながらシルエットが綺麗な白いシャツと、チェック柄のフレアスカート、すらりとした足を協調する黒いタイツと、オシャレ女子として隙がなかった。

「うふふふふ」

 感心していると見抜いた彼女は、一瞬で機嫌を好転させ、拓生の腕を取る。

「いいわ、許したげる、いきましょっ」

 彼の腿でスマホが震えた。気にしないようにする。 

「ねえ、どこに行く?」

 と問うくせに、もう目的地は決まっているのだろう、迷い無い足取りで彼女は進む。

「うわっ」

 怯んだ。

 お洒落女子御用達、と大きく看板でも出ているような、ファションビルに連れてこられたのだ。

「い、いや、ここはー」

「何よ、入る前から挫けないの。拓生はまず女の子の耐性をつけなければならないの……まあ、私の服選び、付き合って欲しいんだけど」

 無体な話しだ。

 自分の服さえも判らないのに、どうやって他人の、しかも遙のような時代の最先端にいる女の子の服装が判断できるだろうか。出来なかった。

「これとこれ、どっちがいい?」

 猫科肉食動物のような目でショップに突撃していく彼女の、そのありきたりな問いに鼻白む。

「もう」遙の眉間に皺が寄る。

「そんなに深く考えなくて良いんだよ、あたしに着せたいって方」

 一歩近づき、耳元に唇を寄せる。

「……もしくは、あたしから脱がせたい、って方」

 くすくすと彼女は可笑しそうに笑った。

 どうやら買い物を心底楽しんでいるようなので、安心する。

 震動が腿に伝わる。

 きらびやかに飾り付けられているショップが、その瞬間から無味な灰色の風景に変わった。

 彼には心の底から楽しめない訳があった。誰にも打ち明けられない。

 ギラつく太陽が頭のてっぺんを焦がす頃、二人は昼食にした。

 予約制の豪華のレストラン、ではなく何て事のない安いことが売りのファミレスだ。 

「ここねっ」

 新しい服を手に入れご満悦の遙が、テーブルに肘をついて説明する。

「ハンバーグ系が美味しいんだよっ、煮込みハンバーグとか、安いし」

「うん」

 汗が流れた。また腿に感触があった。

「ねえ」

 すうっと彼女の目が細められる。

「さっきから気にしているけど、何かあった?」

「い、いや、別に……特に」

「拓生」

 遙はもう笑っていない。じっと目をのぞき込んで来る。

「あたし、あんたの事、よく知っているんだよ、あんたの様子がおかしいと気付いている、教えなさい」

「ええっと」

 尚も誤魔化そうとする、知られたくない。

 が、やはり遙の方が一枚上手だ。

「スマホ、見せて」

「へ?」

「ズボンのポケット、さっきから時々震えているよ、スマホでしょ? 見せて」

「でも……」

「みせて」

 迫力に負け、拓生は自分のスマートフオンを抜き出し、遙に渡す。

 息を飲んだのがわかる。

「なに、何よこれ!」

 予想通りの反応だった。

「いや、きっと……気持ちの整理をしているんだよ」

「ばかっ、これ、そんな生やさしいもんじゃないよ!」

 遙が携帯画面を拓生の目前に近づける。自分の物だからしげしげ見ない。

「目を逸らすな!」

「う」

 液晶部分に名前が出ている。着信履歴だ。

『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』『虹野彩』×200。 

 あれから、彩はこうして数分置きに彼のスマホに連絡を入れて来るようになった。

 出ても無言で切れるが、受話器の先で喘ぐような、泣いているような気配がある。

 とても辛くて、出れなくなった。

 そうなると履歴だけが山のように積み重なっていく。

「これ、毎日掛かってくんの?」

「う、ん」

「どうして言わなかったの? これって立派にイヤがらせよ」

 はっとする。

「ち、違うんだよ、虹野さん、きっと何か話しがあるんだよ。ただそれが上手く伝えられないだけなんだ」

 しかし遙は己の肩を抱いて戦慄く。

「あいつ異常よ」

 ─―違うんだよ。

 と拓生は彩の行動の正当性を説明しようと試みた。

「きっと……その、あの」

「今にデモンになっちゃうかも」

 吐き捨てるような遙だが、それは無い。

 虹野彩は聖天使なのだから。

 それだけはまだ誰にもバラしていない。寝物語としても遙に語っていない。

 唯一残された『絆』のように思われた。

 彩とまだ繋がっている、細い細い糸だ。

「全くもうっ」

 ばん、と遙はファミレスのテーブルを叩き、ソフトドリンクを揺らした。

「私が明日言うからっ、こんなこともうさせない。拓生、だから安心して良いよ」

 頬に朱を差して赫怒する彼女に、拓生はどもるだけだった。


 第六章

 虹野彩は一人きりだ。

 三年四組でまた孤立している。

 少しの間出来た友達も、今やむしろ彼女を悪い形で噂にしている。

 皆、事情を知っている。

 音羽拓生にフラれた、虹野彩。

 それだけでは同情も集まっただろう、しかし、教室での修羅場、そして拓生に行っているストーカー的に行動も、遙達によりバラされ、完全に腫れ物扱いの的となっていた。

 那智遙はそれでは済まさない。

「ちょっとあんた」

 席で俯いている彩に、拓生のスマホを示す。

「こんな事やって貰ったら困るんだけど、常識でしょ? これ異常だよ」

「え」

 彩は怯えたように遙を見上げた。

「あんた頭がおかしいんじゃないの?」

 静まりかえる教室に、くすくすとえみりの笑い声だけが響いた。

「わ、わたし、わたしはただ、わたしはただ、その」

 ぼそぼそと言葉を紡ぐ彩に、遙は鷹揚に腕を組む。

「何よ、はっきり言いなさいよ」

「私は、拓生君と仲直りしようと思って、だけど上手く伝えられなくて」

「仲直り?」はあ、遙は呆れた。

「だから、あんたと拓生はもう別れたの。仲直りも何も、もう元通りにはならないの」

「違うわ!」

 彩の声は割れていて、遙も怯む。

「今はただ少し心がすれ違っているだけ。そうよ、でもすぐに元に戻るもん、戻れるんだもん、だって……だって拓生君、私にいろいろ合図くれるんだから」

「は?」

「昨日だってそうだった。拓生君はあなたと一緒にいたけど、時々私に色々メッセージを送ってくれたのよ。知らないのはあなたよ」

「それって……あんた、昨日の私たちデート、着けてたの?」

 教室にざわざわと囁きが湧き、流石の遙も後ずさりする。

「拓生君は、ずっと私に好きだよって合図してくれた。だから私は電話でそれを受け取ったことを知らせているの、私たちは繋がっているの、今もよ」

「何あの子、キモーい」

 そこかしこで彩への悪意の花が咲く。

 拓生は戸惑うしかない。

 ここまで彼女を追いつめてしまったのだ。

 遙が顔をしかめながら戻ってくる。

「あいつ、もう完全におかしくなってる。マジ怖いわ」

 ぎりぎりと拓生の心に鉄の鑢がかかる。精神が削られていく。凄まじい痛みだ。

 全部、彼の罪なのだ。

 彩はきっと現実を認める勇気がないのだろう。だから夢のような世界に入ってしまった。

「ったく、ムカツクなあ」

 遙は苛立って爪を噛んでいる。

 拓生はぼんやりと思った。

 ─―遙、こんなに怖い顔だったんだ。

 憧憬の先にいた那智遙はいつも笑顔の優しい女の子だ。

 だが、今の彼女は眉間にクレバスのような深い縦皺を刻み、目は釣り上がり、唇は微震している。

 あまり近づきたくない、ヒステリックな面持ちである。

 ベッドの中の彼女も、いつまでも羞恥に耐えられず身体を隠していた彩と違って、がつがつと食らいつくようだった。

 ─―遙って、こんな子だったんだ。 

 冷たいしこりのような失望感が、心のどこかにぼこっとあった。

 ただ、それ以上は何も判らない。判らないし聞かない。もう何もかもから目を逸らすのだ。

 拓生は周囲の声を全てをシャットアウトした。

 ただ目をつむり、暗黒の中にいる。

 心付くと、瞬く間に時間は進んでいて昼食前になっていた。

 給食の班がぺらぺらの白い割烹着姿で、作業を始めている。

 ぼんやりと窓を覗き見る。

 外は暗かった。梅雨だから、なのかもしれないが、空は真っ黒な雲に埋め尽くされ、地上には光の欠片も無く、早くも街灯がぼうっと灯されている。

「これで、あいつも少しはマトモになるでしょ」

 何も聞かない拓生の耳に、遙の声だけが飛び込んできた。

 呪われているかのような響きに振り返ると、にやにや笑うえみりもいる。

 鈍くなった胸にもさっと不安の陰が差す。

 二人の表情は、いつか聖天使の過去映像で見た、額賀真知とそっくりだ。

 首を巡らせる。

 いない、虹野彩がどこにもいない。

 直後に給食だ、なのに席に着いていないのはおかしかった。

「は、はるか」

 悪い予感が稲光のように閃き、遙ににじり寄っていた。

「……虹野さんは? どこ?」

 彼女は答えない。鉛のように青い唇を噛みしめるだけだ。

「あんたのタメだよ」

 代わりに答えたのは三國えみりだった。

「あいつ、異常だから、早いウチに手を打ったんだ。これ以上、あんた達に関わらないように」

「何、したの?」

 呼吸が辛い。目がちかちかする。もういい、忘れたい。だが聞かずには居られない。

「アイツが異常なのは男がいないからなんだよ。だからテキトウにあたしたちが見繕ってヤったの、次の相手をさ」

「それって……」

 えみりは片目をつぶった。そんな所作だけは可愛らしい女の子だ。

「松居が、アイツの事スキって言ってたから、助言してやったの」

 雷鳴が轟音と共に落ちた。

 教室中を探しても彩がいない、松居もいない。 

 くすくすくす、えみりは体を折って嘲る。

「松居ってホント、バカ。女の子が無理矢理を求めているって、ヘンなマンガ読み過ぎだよー、そんなヤツいねーてのっ」

 拓生は駆け出そうとした。教室の出入り口だ。

 その前に遙が立ちふさがる。

「何よ、今更同情? あんたがはっきりしないから、ここまでになったのよ」

 そう。その通りであった。元は拓生が悪いのだ。

「虹野はおかしくなっちゃったのよ。ストーカーみたいなことして、松居と付き合ったら少し治るんじゃないの?」

 遙が人差し指をこめかみに向ける。

「違うんだ!」

 叫んでいた。そんな事はないって、今自分たちで嗤ったのに、それを実行している悪意に慄然とする。

 そして、もう一つ違うのだ。

「は?」  

 遙は眉を曇らすが、もう説明している時間はない。

 拓生は背中の声を振り払い、廊下に飛び出した。

 虹野彩は聖天使である。

 人間が軍隊を動員しても滅ぼせないデモンを倒す、恐るべき戦闘力を持っている。

 松居がもし何かしたなら、彼女なら、聖天使ならば……。

 拓生は走った。洞窟のように冷たく暗い廊下を、滅茶苦茶に手足を振って走った。

 探した。松居と何よりも彩の姿を、探す。

 息が切れ止まり、今更盲目的にうろつき回っても詮無いと気付く。

 シャーベットのようになっている脳をフル回転させた。

「あ」と声が出る。

 いつかから一周ししていて、今日は彩と松居が日直だった。 

 前の時間は地理。地理の箱田先生は巨大な地図帳を黒板に広げて受業していた。

 拓生は疾走を再開させた。

 恐らく二人で地図帳を戻しに行ったはずだ。

 場所は社会科準備室。昼に訪れる者などいない、学校の隙だ。

 予感は的中した。

 社会科準備室の開いた扉の前で、松居が呻いていた。

 床に転がり、体をくの字にして、手で首もとを抑えている。

「松居!」

 拓生は近づいたが、一歩前で足が止まる。

 松居吉郎の首に、深緑の棒が見えていた。

 えんぴつだ。えんぴつが松居の首に深々と刺さり、そこから赤い液体がちろちろと流れ出している。 

 苦悶の表情の松居は、何とかそれを抜こうとしているらしい。

「辞めろ!」

 拓生の制止は間に合わなかった。

 松居はぬるぬる滑るえんぴつを引き抜き、次にはそこから間歇泉のように血を吹き出した。

「くえ」

 涸れた妙な声を出して、松居の時は止まった。

「あ、ああああ」

 剥き出された松居の目玉、つるつるとした眼球に拓生は写っている。

 視界がきゅっと狭まり、意識が遠のいた、背筋は強ばり氷塊のような戦慄が滑り落ちていった。腰辺りにあった力も消え、その場にへたりこみかける。

 ゆっくりと、開けっ放しだった社会科準備室の扉から、虹野彩が姿を現す。

 白い清潔なセーラー服は少し乱れていた。彼女の呼吸も荒い。

「あ、拓生君」

 と、彩は髪と衣服をさっと直した。

 いつもと変わらない、楚々たる聖天使だ。

「私、守ったよ、こいつが」

 白い上履きで松居の亡骸を差す。

「こいつが襲いかかってきたけど、私守ったよ。拓生君のタメに」

 頬を上気させ、まるで手柄の自慢でもしているようだ。  

「何してんのよ!」

 遙とえみりが駆けつけたのが、背中を向けていても判る。

 駆けつけて、松居を見つけ、二人とも青ざめる。

「きゃぁぁーーー」

 が、悲鳴は二人ではなかった。

 がらっと背後の扉、社会科資料室のもう一つの出入り口が開き、デジカメを手にした武藤望が喚く。

「あいつ、刺した! えんぴつで……松居に襲われたら、躊躇無くえんぴつで」

 声を失う。松居の死体があるのだ。

「ひ、人殺し」

 遙が呟いた。

 全く気にしていない彩の瞳に、突如現れた望と、彼女が手にしているデジカメが写り込んだ。

「……そ、そう」

 こくり、と一つ彩が頷いた。

 彼女の中で何かの図式が出来ていっているのだろう。

 松居と二人だけのはずだったのに、社会課資料室に隠れていたデジカメを持った同級生。

 襲われると知っていた望の姿。

「そうなんだ」

 夜空のように煌めいていた彩の瞳が、曇った。

 闇に塗りつぶされたように濁り、まさにオパールのように白々しい光を乱反射させている。

「私を苦しめるために、こんなこと、したんだね」

「人殺し、人殺しぃー!」

 望が耳が痛いほどの高音で叫び出す。

 だが、彩は静かに、怖いほど沈静していた。

「拓生君」

 彼の名を口にする彩には、もう人形のように人の感情が表れていない。

「私、わかっちゃった……本当に邪悪なのは、人間なんだね? デモンなんかよりもよっぽど邪悪で、醜くて、酷い……いつか拓生君言いかけたよね、デモンが悪いんじゃないって……私、あの時どきっとした、だって、それってずっと私が考えていたことなんだもん。でも、でも私は人間が正しい生き物だ、と信じて戦ってきた、デモンに変わった人も救おうとしてきた」

 鮮やかに、皆が目を見張る程に美しい微笑を、彩が浮かべた。

「でも、違うんだね、デモンよりも人間の方が邪悪、ううん、邪悪な人間によってデモンが生まれるの……女神様がおっしゃっていた『人間がおかしくなった』て、デモンの事じゃなかったんだ」

「何よ、コイツ、ぐ、人殺し! ぐ」

 えみりは口を抑え空咳を繰り返す。給食後だったら盛大に吐いたのだろう。

「誰か、誰かっ、来て! この子人を殺した! 早く捕まえて」

 遙が大声で救援を呼び、辺りは収拾がつかぬほどの混乱状態に陥いる。

 ただ、拓生は落ち着いていた。彩の紡ぐ言葉に耳を傾ける。

「デモンは被害者なんだ、きっと私も普通の人間だったら、今頃デモンだよ。でも、私は聖天使、聖天使オパール、私はやらなくてはならない、使命を果たさなくてはならない……」

 一拍の間。一瞬の停止。

「汚くて、邪悪で、狡い人間を、人間の世界を、消すの!」

 彩の手には、白く輝くセントオパールがあった。

「セントジュエル、スパーク! オパールエンジェル、ドレスアップ!」

 虹色の光が散った。

 廊下に燻る闇を閃光が駆逐していく。

 反射的に目を覆った拓生が、気配を察して瞼を開くと一人の少女が立っていた。 

 胸に虹色のリボンを閃かせる白い半袖の上着、ひだの細かいプリーツスカートに、細かくウェーヴしているロングヘア。

 オパールエンジェル。

「麗しき夢と未来への虹、セントエンジェル、オパール!」 

 言葉自体はいつか聞いた物と全く同じだった。

 しかし快活で溌剌としてたあの時とは違い、深淵のそこから響く呪詛のようだ。

「な、なによ、これ?」

 遙の声が上ずっている。他の二人はただ突っ立ち、口を開け閉めするだけだ。

「逃げるんだ!」

 拓生ははっきりと感じた。オパールエンジェルからの殺気だ。

 だが、その前に聖天使は一人仕留めていた。

 ころころと黒いボールが拓生の足元に転がってくる。

 数秒遅れて、何か重い物が床に落ちる音が鳴った。

 絶句する。

 足元に武藤望の顔があった。

 何が起こったのか理解出来ず、きょとんとしている。

 首を失った体から、手刀で切断された首の跡からスプレーのように鮮血が吹き出した。

「きゃぁぁぁっ」

 どちらが叫んだのか判らない、拓生はただ夢中で遙とえみりの手を掴んで逃げた。

 二人は状況も把握できず、ただ混乱している。

 だから逃げ足は必然的に遅い。

「ジャッジメント・レインボゥ」

 声と虹色の光線が重なった。

 じゅっと嫌な音と共に、拓生が連れている片方の女の子がよろめいた。

 振り向くと三國えみりだった。

「うああ?」

 判っていない。自分がどうしたのか。それは幸いなことだった。

 首から下、胸の部分の半分がごっそりと消えていた。

 肉の焦げる匂いが立ちこめ、えぐり取られたような傷はまだぷすぷす燃えている。

「う」

 拓生はその場に両膝を着いた。

 胃に何もない故に、吐こうとして酷く胸が痛む。

 ジャッジメント・レインボゥ。

 かつて、かつてのオパールエンジェルが、虹野彩が、デモンにすら使用を躊躇った、絶対なる破壊の光。

 それが当然のように使われていた。

「う、うう、う」

 胸から腹にかけての半分を失ったというのに、三國えみりは生きていた。

 ただ、もう息も出来ないようで、ぴかぴかの床で呻くだけだ。

「痛い?」

 オパールエンジェルはもう追いついていた。

 腰を折り、足元のえみりを見おろす。

「う、う、う」

 えみりの顔は歪み、つけまつげが取れかけた目から、涙が流れている。

「かわいそう……でもね、私、私の心はもっと痛かったんだよ、もっと苦しかったんだよ、もっともっともっともっと」

 オパールエンジェルは、明るいテンポの曲でも歌っているようだった。

「拓生!」

 動揺と自失からいち早く立ち直った遙が、身動き一つ出来ない彼の腕を引っ張った。

「何してんの! 逃げるのよ!」

「ああ」

 遙に引かれ、拓生はオパールエンジェルともう動かないえみりから離れた。

 少しずつ二人から遠ざかっていく。

「拓生君っ、がんばって」

 オパールエンジェルが応援してくる。胸で両拳を握りしめて。

「簡単には殺してあげない。そんな簡単じゃないんだよ、楽じゃないんだよ。だから逃げて、一所懸命逃げて……でも、すぐ追いつくからね」

 彼女は恋人と少しだけ離れるのを惜しむかのように、穏和な笑みを浮かべて、手を顔の横で振った。

「何よあいつ、何なのよ!」

 永遠に続くかのような灰色の廊下を走りながら、遙が叫んだ。

「彼女は……聖天使、なんだ」

「え?」

「虹野さんは、聖天使なんだよ」

「聖天使、ですって?」

 乱れた息を吐きながら、遙の顔がひきつる。

「あれ、が? あの人殺しが? 望もえみりも簡単に殺しちゃうのが、聖天使?」

「かのじ、彼女は、滅多に人を、例えデモンだとしても、殺さなかったんだ」

 思い出すのはデモンを人間に戻そうとする、オパールエンジェルの勇姿だ。

 デモンもまだ人間に戻れると希望を持ち、常に人のために陰で戦っていた少女。

 賞賛の言葉もなければ栄誉もなく、正義感だけで戦い、傷つき、それでも人々の幸福だけで満足していた、聖天使オパール。

 救えなかったデモンのために嘆き喚き、自分の弱さを一人責めていた虹野彩。

 壊してしまったのだ。

 拓生は、一人それを理解していた。

 壊してしまった、彼女の世界を。

 彼女が信じて守ろうとしていた世界。

 真に悪い人はおらず、どんな罪を背負った人間にも必ず救いがある、そう考えていた世界。

 ぐちゃぐちゃに破壊されたのだ。

 踏みにじった。

 拓生と遙、えみりと望、そして松居が、だ。

 否、と彼は静かに否定する。

 虹野彩を壊したのは、音羽拓生、一人なのだ。

「ぐえっ」

 悲鳴が聞こえ、拓生は背後を気にした。

 オパールエンジェルが、偶然通りかかった関係のない男子生徒の胸に手を突き入れていた。

 貫通して、彼女の白い華奢な指先が背中から出ている。  

 給食が終わり昼休みになっていた。

 早く食べ終わった者から廊下に出る。待ち受けている運命など誰も知らない。

 始まった。

 オパールエンジェルは、もう手加減などしなかった。

 片っ端から神明中学校の生徒を殺戮する。

 聖天使無双。 

 男子生徒の頭を割り、女子生徒の体を真っ二つにしに、心臓をえぐり、首を折り……まるでつむじ風のようにくるくると周りながら、殺していく。

 血しぶきが、真っ赤な朱が彼女の白い服を染めていく。

 ぞくり、と拓生の心臓が凍った。

 血をシャワーのように浴びる彼女、数多くの死体を量産させるオパールエンジェルは、しかし凄絶に美しかった。

 にっと唇の口角が上がる。

 徐々に小さくなる彼女に、拓生は魂を奪われていた。

「こっちよ!」

 遙は鋭く命じ、二人はよろめきながら階段を駆け上る。 

 上階には生徒達が溢れていた。

 昼休みに皆、くつろいでいる。

「どいて! どいてよっ」

 遙は力ずくでかきわけ、連れられている拓生はただ従う。

 走る、駆ける、疾走する、逃げる、退く、逃走する。

 今や死の天使となったオパールエンジェルからだ。

 中程まで進んだところで、誰かの金切り声が響いた。

 振り向かなくても判る、オパールエンジェルが追ってきているのだ。

 ゆっくりとゆっくりと、二人を追いつめようとしている。

 その間に挟まれた生徒達を無惨に砕いて。

 程なく、学校はパニックになった。

 生徒達が、血の飛沫を吹きながら歩む聖天使の到来を知る。

 だがそれを目にした者は、次の瞬間には死んでいる。

 オパールエンジェルの力は絶大だった。

 まるで紙でも引き裂くように、無造作に残酷に人間を破壊して進む。

「何なのよ!」

 傍らの遙の声は高音と低音の間を上下していた。

 今度は階段を下りる。

 鈍い音と断末魔の叫びは遠のいたが、遙は止まらなかった。

 拓生の腕をぎゅっと掴みながら更に廊下を下り、一階の渡り廊下を横断して違う校舎に移る。

 外に出て、と考えてはいないのだろう。

 遙はこの学校から出ない方が隠れやすいと考えているのだ。

 もしくは、外になど出ても無駄だと知っているのか。

聖天使は気配を探れるし、超速で空を飛ぶ翼を持っている。

 どこまで逃げても、オパールエンジェルは諦めず追跡してくるだろう。

 夢の中を歩いている心地の拓生だが、周りの風景から三年の教室が並ぶ廊下へとたどり着いたと悟った。

 まだそこは静かだ。

 生徒達は平和な午後の一時を享受している。

 すぐに地獄に変わるだろう。

「うん? どうした遙」

 肩で息をしている二人に、横合いから声が掛かる。 

 桜井裕太だ。

 いつも通り爽やかに、口元緩やかに尋ねてきた。

「桜井君!」

 遙は咄嗟に彼にしがみついていた。

 廊下中の視線が集中する。奇異なものを見る、興味を一杯に溜めた瞳だ。

 だが、遙は一切構っていない。

「お願いがあるの……、桜井君、助けて」

「あ、ああ」

 狼狽していた彼だが、遙の涙ながらの訴えに頷いた。

 ちらり、桜井の目玉が拓生に向かう。

 ─―ああそうか……。

 拓生はバカバカしくて声も出ない。

 桜井は遙が好きなのだ。だが、今彼女が拓生と付き合っているは周知の事実だ。

 消沈のあまり感情の起伏が鈍った拓生を、萎びたような無様な姿をさらす彼を、ここで引き離そうという魂胆だ。

 何も判っていないのだ。

 迫ってきているのは、中学生の力ではどうにもならない現実だ。「ぎゃあ」と誰かの呻きが届く。

 オパールエンジェルは確実に近づいてきている。

「なんだ?」

 桜井が細く整えた眉を上げ、休み時間にいた三年生達の動きが止まる。

「うぁああ」

 また誰かがオパールエンジェルに遭遇し、殺されたのだろう。

「桜井君」

 遙は熱っぽい口調で、彼の手を取った。

「やばいヤツなんだよ、私たちを殺そうとしている、だから助けて」

「こ、ころ、そう?」

 流石の桜井もやや怯むが、すぐに額を拭い体勢を立て直す。

「またデモンか? 仕方ないな」

 ここで逃げないのが桜井の魅力であり、愚かなところだ。

 彼は壁の隅にある消化器を手に取ると、注意書きに目を走らせる。

「デモンなら俺もどうしようもない。コイツを喰らわせるから、その間に逃げてくれ」

 そして付け足す。

「きっとまた聖天使が来てくれる」

 拓生の手に遙の青白い指が食い込む。

 その聖天使が敵なのだ。

 聖天使オパールはすぐに現れた。

 三年生、見知った者達をカマで刈り取るようにざっくざっくと倒しながら、にこにこ近づいてくる。

 遙と拓生は足早に桜井から離れた。

 彼は完全に囮役だ。

 そんなことも知らずに桜井は消化器を構え、相手がいつかの聖天使であることに驚くも、一挙に噴射させた。

 白い粉がもうもうと何もかもを包んだ。

「行くよ!」

 遙の荷物状態の拓生に異論など無い。

 走り出しかけ、よろめく。

 その真横を何かが凄まじい勢いで通過していった。 

 ばん、と廊下の果てにある非常扉に激突し、ガラスを粉々何する。

「っっっっっ!」

 もう遙も声にならない。

 桜井の上半身だけが壁に飾られているように張り付いていた。

 ─―オパールエンジェル。  

 水に水銀を垂らしたような速度で、拓生は考えた。

 数週間前、神明中学校がデモンに襲われた時に、彼女はその身を呈してえみりや望、桜井を助けた。

 だが、そうして助けた者達を今度は容赦なく殺している。

 運命の皮肉はどこか喜劇じみていた。


 遠くで誰かの悲鳴が響いている。

 オパールエンジェルの虐殺は続いている。

 拓生は周囲があまりにも暗いことをようやく認識した。

 彼等は、拓生と遙は今隠れていた。 

 どこかの階段の裏にある光の届かない狭い場所だ。

 桜井の命をかけた時間稼ぎは功を奏していた。

 二人を一時的にオパールエンジェルの超感覚の外まで逃がした。

 ─―そんなことがあるのか?

 拓生は薄れる視界の中、考える。

 聖天使がたかが人間を感知できない。

 ─―ありえない。

 そう、そんな筈がない。だとすると……オパールエンジェルの考えが読めた。

 動きを止めた彼等などいつでも捕らえられる。だが、その前にやるべき事がある。

「汚くて、邪悪で、狡い人間を、消すの!」

 虹野彩の最後の台詞だ。

 実行しているのだろう。

 神明中学校の生徒達が手始めなのだ。

 ─―あるいは……。

 拓生は今更思い当たった。

 あの日、雨の中一人ベンチに居た彼女は、ずぶ濡れになりながら怒りを、憎しみを抑えていたのかも知れない。

 田村麻美を救えなかった無力さに憤ったとき、どうしてもその先に届いてしまう。

「なぜ、こんなことに」

 だ。

 あまりに幼稚で浅はかで、欲望に忠実なだけの音羽拓生だったが、冷静に彼女の思考を追ってみると、すでに解答は出ていたのだ、と分かる。

 オパールエンジェルは、自分の理想に限界を感じ出していた。

 田村麻美を救えなかった頃から? ずっと前からだ。

 聖天使となり、デモンの正体を知り、彼等を浄化するためにその素性を探る。

 自然とデモンの悲しさと、彼等をそこまで追いつめた人間の醜さに思いが及ぶ。

 田村麻美の事件は、彼女の心を決定的に傷つけていた。

 ひび、が入っていたのだ。

 なのに拓生はそんな彩の心情も知らず、ただ欲望に負けて彼女を犯してしまった。

 その行為はひびを修復するものではなく、より深く深刻なものとした。

 で、身勝手に一方的に捨てた。

 そこに関して、一切の言い訳など出来ないことを拓生は知っていた。

 彼自身は何も答えなかった、遙達の流された……嘘だ。

 いつだって彩を選び、彼女の心を癒せたのだ。

 彼は彩を選ばなかった。

 ずっと前から憧れていた、那智遥を選んだ。

 だが卑怯にも、まるで自分が被害者のように振るまい、言うべき言葉を口にせず、彩のひびを決定的で致命的にした。

 ─―虹野さん……敵は後ろにいたんだね? 君が信じて、愛してくれた僕が、君の最大の敵なんだね?

 また誰かが悲鳴を上げた。

 音羽拓生は目を上げた。

 灰黒い階段があった。

 重たいコンクリートに形ばかりの塗装を施してあるだけの、無味乾燥な塊。

 遙は両手で挟むように耳を塞いで、唇を微震させている。

「うん?」

 拓生は気付く。階段へ曲がる角に誰かの足が見える。

 上靴と白い靴下だけが、爪先を上にして突き出されていた。

「た、たくみ」

 怯えた遙に制止されるが、数歩歩いてその主を確かめた。

 女子生徒が倒れていた。

 傷を負いながらここを目指し、遂に力尽きたのだろう。 

 聖天使にグーパンチで殴られたような衝撃が突き上げる。

 丸い血の中に仰向けに転がっているのは、額賀真知だった。

 ─―今度は逃げ切らなかったんだ。

 彼女は、自分がこんな目に遭うのが信じられない、という表情を浮かべたままだ。

 ─―田村さんにあんなことしたのにね。

 が、拓生は額賀真知の無惨な姿を見つけて、ようやく決心した。

 彼が壊してしまった聖天使を、彼女にこれ以上の罪を重ねさせてはならない。

『それ』が、せめての償いだ。

 恐ろしくなどない、拓生にとってこの世界は未練溢れる物ではなかった。

「遙」

 不思議と声が落ち着いている。

「な、なに? 来たの?」

 あわあわとパニくる彼女に首を振る。

「学校から、離れてくれないか?」

「え……そ、それって」

「彼女、オパールエンジェル、虹野さんの狙いは、目的は僕だ。だからそうすれば君は助かる」

 遙は何を言われたのか、しばし理解しなかった。

 拓生がそれほど穏やかだったのだ。

「な、何言ってのよ! あんたバカじゃないの?」  

 案の定、遙は燃え上がった。

「諦めないでよ! あたしも諦めないから。あんな、あんな化け物にあんたを奪われるなんて……」

「聞いてくれ」

 拓生はもう感情がぶれることなど無かった。凍えるほど落ち着いている。

 パノラマのように起こった出来事が、それについての全ての要因が、罪が己に帰すことを飲み込んだとき、彼は諦念した。

 額賀の死体を指す。

「僕は、かつてこいつを憎んだ、憎んで嗤って、こいつの卑怯を許せなかった、自分が全ての責任なのに、他人を盾にして、何もかもから目をそむけて逃げていたこいつは最低だ、と思った」

 ふ、と頬が緩む。

「……だけど、今そうやっているのは、僕だ」

 額賀真知。

 過日、彼女の命をデモンに与えて事態の終息を考えた自分を思い出す。田村麻美を欲望のまま辱めた男子生徒に唾棄もした。

 それもまた、思い上がりだった。少なくとも、拓生にはその資格など無かった。同じ事を彩にした。

「結局、僕は誰のことも考えてやることが出来なかった、いつも自分が不幸だって考えて、野良犬、とかヘンに自虐的になって、他人が同等の存在だって認めなかったんだ、僕は不幸な特別、とでも思っていたんだろうね、そんな奴はね、自分しか愛せないんだよ」

「何? 何言っているのかわからない。拓生、どうしたの?」

「遙、最低な僕よりも、君ならもっといい奴が現れるよ。桜井のような、だから、君だけでも逃げて」

 拓生は歩き出す。もう、後悔も怯えもないしっかりした足取りだ。

「待って! イヤよ! 拓生、私あんたのことを本当に……行かないで!」 

 遙が泣き叫ぶ、振り返ることはなかった。


 拓生が重い扉を押し開けたとき、彼の体は突風に傾いだ。

 季節由縁だろうか、屋上には凄まじい気流が生まれている。

 体勢を立て直し、灰色のコンクリートを踏みしめながら進む。

 空は真っ暗だった。

 まだ日が陰る時間ではない。

 しかしそこに光はない。

 罪人が頭を垂れているようなぼこぼことした雲が連なり、全てが黒く濁り、運命を暗示しているようだ。 

 重くも軽くもない普通の足取りで屋上の縁まで歩くと、鉄柵に寄りかかり下を見た。

 広がる校庭にも何人かの生徒が倒れ、血に縁取られている。

 外に逃げようとしてオパールエンジェルにより阻止されたのだろう。

 ぎゅっと柵を持つ指に力を込める。

「虹野さんっ!」

 オパールエンジェル、とは呼ばない。

「虹野さん! 僕はここだ、屋上にいる……いつか君と約束を交わした場所だ! 話しがある、来てくれ!」

 痛む喉を無視し、声の限りに叫んだ。

 何も起こらず、誰も来ない。

 今一度繰り返そうと身を乗り出すと、ばさり、と背後で軽い羽音がした。

 白鳥の翼を広げるオパールエンジェルがふんわりと降り立つ。

 聖天使の純白の衣装を、神明中学校の生徒達の血で赤く染め上げ、顔や髪にも赤黒い塊がこびりついている。

「どうしたの? 拓生君、かくれんぼはお終い?」

 彼女は本当に遊びの途中だったかのように、どこか朗らかだ。

「ああ、終わりだ」

「そう」

 すっとオパールエンジェルの唇が引き締まり、目が鋭く尖る。

「なら……死んで」

「うん、でもその前に一つ、お願いがあるんだ」

「いやよ」

 とりつく島もないオパールエンジェルに、必死に食い下がる。

「頼む、頼みがあるんだよ、聞いてよ」

「いや」

 拓生は鉄の棒のように固い言葉を受け、その場に両膝を着いて頭を下げた。

 土下座だ。

「この通りだから、虹野さん」

「もうっ、拓生君、今の私はオパールエンジェルなんだよ。虹野さん、て呼んじゃダメ」

 彼女は拳を振り上げた。

「……仕方ないなあ、言ってみて、でもっ! 誤解しないで、聞くだけかもしれないよ」

「ありがとう」

 拓生は今一度額をコンクリートに打ち付け、立ち上がる。 

「僕は……君に話さなければならないことがある、それは決して命乞いだと思わないで欲しい、それでどう思おうと、君はちゃんと僕を殺してくれ」

「ええ、そのつもり、私は拓生君を殺す……ぶっ殺す」

「ああ、……僕は君を裏切った、それも一言もなく裏切った、卑怯だと思うよ、自分でもどうしようもなく狡いと思う、でも、僕が裏切ったのは君だけじゃないんだ……遥、那智遥さんも裏切っていたんだ」

「……拓生君、那智さんに何したの? 全くあなたは意地悪ね」

「好きだ、と嘘を吐いた」

 ぴくり、とオパールエンジェルの眉が動く。

「僕は……寂しかったんだ、と思う……僕の父さんは僕が小学校を卒業する頃に勤めていた会社からリストラされて、でも僕にちゃんとした教育をさせたいって母さんも働きだして、家に帰っても誰もいない、学校で何かあっても誰にも相談できない、部活でどんなに褒められても自慢する人がいない、とても寂しかった」

「拓生君、それはあなただけじゃないわ、私だってそうよ、寂しいわ」

「判っている、だけど僕はどこかで自分は『特別』に寂しいと思い上がっていた。そしてそんな自分に酔っていた。野良犬とか、気取ってた。取り柄のない僕は、それで皆の関心を引こうとしてたんだね、だから君の手助けもしたんだ、ほら、『普通は一人だけど、実は陰で』って、何か格好いいだろ? 君が聖天使だっと知った時から狙っていたんだよ、君の手伝いをすることを」

「……でも、あの時は私の腕が、それにそれから何も……」

 考え込むオパールエンジェルに、拓生は自嘲した。

「そうだ、君の腕の怪我は言い訳なんだよ。僕はただ聖天使の仲間、という立場が欲しかったんだ。しかも、その時本物のデモンに出会ってビビってしまって、二度と出来なくなった、最低だろ?」

「……ええ、それは最低ね、とってもムカツクわ」

「うん、君を好きだって言ったのも、遙に言ったのも、ただ寂しさを埋めたかっただけなんだ。だから僕は本当は君たちのどちらも愛していない、どっちでもいいんだ。ただの性欲なんだよ、松居と同じだ」

 ぎり、と彼女が一歩踏み出した。

 小さな身体から発っせられる怒りの波動に、くらくらする。

「ただ、ここで君は勘違いをしている。僕はそれだけは何としても正したいんだ」

「何かしゅら、最低の、拓生きゅん」

 思わず微笑してしまう。感情の高ぶりにより、彼女がいつも通り噛んだ。

「ねえ、君はデモンについて被害者だ、と言ったね、邪悪なのは人間だって」

「ええ、今まさにその考えの正しさを確認しました」

「そうだろうか?」

「え?」

「僕には答えられない、だけど君には答えられる、僕は邪悪だったけど、僕の全ては邪悪かな?」

「え?」

「僕と君が知り合って二ヶ月ちょっと、僕は悪魔のような人間だった?」

「それは……時々、違った」

「ありがとう、僕も時々は普通の人間だった……僕は悪人というのはもっと四六時中悪くて、誰もみんな傷つけて、盗んで、どうしようもない奴を想像していた、でも違う、額賀真知、今となっては判らないけど、あいつはもしかして田村さん以外には優しい子だったかもしれない」

「でも!」

 拓生は掌を向け、オパールエンジェルの否定を止めた。

「違う、あいつが悪い奴じゃなかった、と言いたいんじゃない。聞いて欲しい、例えば、佐野さん、覚えているかい? 足を事故で怪我したあの人、あの人の前に出てきた加害者と弁護士は吐き気がするような奴らだ。しかし、もしかしたら彼等にも家族がいて、その人達のために罪を誤魔化そうとしたのかも知れない」

「何が言いたいの? 拓生君、良く分からないわ」

「つまり、人間に絶対悪はいないんじゃないか? ということだよ」

「何言っているのよっ!」オパールエンジェルは激する。

「あなたが私にしたこと思い出して! 弄んで、心も体も弄んで、私をおもちゃにして、冷たく捨てたのよ! あなたは絶対悪じゃないの!」

 拓生はじっと痛みに似た辛さに耐える。

「ああ、そうだ、僕は絶対悪かもしれない、でも、僕がこうなるのには、こうなるだけの理由があるんだ」

「言い訳ね!」

「そうなんだろう、僕は邪悪で狡いからね。でも他の人は違う、そこを混同しないでほしい」

「だから、何が言いたいのよ!」

「君は学校の関係のない生徒を殺した、何でだい?」

「それはっ……人間は元だから、デモンを生む人間を減らしたの」

「違う、君は本当は憎いんだ、でも人間が憎いんじゃない。僕だ、僕が憎いんだ。君は僕への憎しみが強すぎて、全ての人にそれを当てはめたんだ。それだけは、きっとそれだけは違う、そう思うんだ」

「どういうこと? 拓生君は何が言いたいの? 私に何を訴えているの?」

「僕は許さないでくれ、だけど他の人々を許してくれ」

「え?」

「僕は自分が醜い存在だ、と思い知った。君も遙も騙した卑劣な人間だ、だから聖天使として殺してくれ。でもその後は、君に、いつもの聖天使オパールに戻って欲しい。デモンを殺せない君に、人間を信じている君に戻ってくれ、人間の世界に絶望するなんて、悲しすぎるから」

 ぐぐ、彼女は奥歯を噛みしめている。

「な、何て勝手な言い分、なんて自分勝手な解釈、思い上がりも甚だしいわ。私の世界への認識があなたへの私怨からだと思っているの?」

「そうだよ」

「な!」

「考えて! 思い出してくれ、君はどんなあたたかい目で世の中を見ていたか。田村さんの自殺を止められなかった自分をとても責めていた。僕がデモンになる切っ掛けを作った人たちを責める事も許さなかった。額賀さんにだった何もしなかった。優しく慈悲深い虹野彩に戻って欲しい、そして女神様のために、この世の正義を守ってくれ」

「せいぎ……?」

 オパールエンジェルは口の中で静かに反芻する。

「無理ね、正義なんて赤ちゃんが使う言葉よ、そして」

 彼女は自らの肩から胸までを、そっとなぞった。

「私を赤ちゃんじゃなくしたのは、あなたよ」

 悄然とする。屋上のコンクリートには黒い染みが浮いていた。

「そうだね、その罪は、僕の命で」

「それが思い上がりなのよ」

 はあ、とため息の後、彼女は額に手をやる。

「拓生君、あなたは本当に身勝手な人ね、私のことを最後までバカにしたのよ。私がただ失恋のショックでこんなことをし出した、なんて、いくらなんでもひどいわよ」

「じゃ、じゃあ」

「これはね、私がずっと考えて出した『答え』なの。あなたと那智さん達の行動は結論に至るきっかけに過ぎないの……私が聖天使になった時、女神様から力を頂いた後、私はそれなりに充実していたわ、だって私が世界を守るのよ、こんなに有意義な行動はないわ。でも、デモンの正体が実は傷つけられた人間だって知ってから、ずっと悩んでいた。女神様の望みはこれだったのか? こんなんで人を救えるのか? って、それでも私は自分が正しいと信じて、ただ盲目的に戦った、あなたと会うまで」

「ぼ、く?」

 狼狽える拓生の前で、オパールエンジェルは遠い空の彼方に視線を移す。

「あなたと会って、私も自分を知った、限界も、そして醜さも……拓生君、あなたがどう思おうと、私はあなたを愛しているの、もうどうしようもなく。だから私、那智さんを殺そうとずっと追いかけていた」

「え」

「あなた達が仲良くしている間に入り込んで、彼女をずたずたにしたら、拓生君も気が変わる、そう思った……はっとしたわ……それらが人間の醜さ、私自身にもあった、嫌悪すべき穢れ、私の敵」

「で、でも、それは」

「ええ、それは誰にでもある物、人が根っから邪悪じゃないなんて、あなたに指摘されるまでもないの。佐野さんや田村さんを苦しめた人々は普通の人間。誰かには優しい人、問題は心なの、だけど、今までそれを断つ術が判らなかった、だって人に必ずあるんだもん、どうも出来ないでしょ? ……でも、那智さん達が私に決意させてくれた」

「遙が?」

「うん、他人を徹底的に打ち据え、叩きのめし、這い蹲らせる、それが大好きな人間、そういう人間を作ったのは『世界』なの。勝者ばかりを讃えて、弱肉強食を自由競争なんて言い換える。この世界のシステムが癌だったのよ。私が守ろうとしていた世界は、実は私が打倒しなければならないものだったの……デモンなんて弱い被害者を何人倒しても無駄、そして人をデモンに変えた人間を裁いても無駄、だって拓生君がさっき言った通りなんだもん。人間のちょっとした悪意や競争倫理が集合すると巨大な邪悪になってデモンを生じさせる。これは人間が悪いんじゃない、世の中が狂っているの。だから私はそんな世界と戦うことにしたのよ。だからね、拓生君、私は別に人間を憎んで何ていないの、人間を間違わせた世界が許せない」

 唖然としてしまう。オパールエンジェルの極論にだ。人の叡智や文明を完全否定する結論である。

「ほら、拓生君は寂しいんでしょ? でもそれを生んだのは間違った人類が作った間違ったシステムに拘るからよ。それらを全て私の聖なる力で粉砕して、綺麗ですっきりとしてものに置き換えれば、拓生君のお父様もお母様も帰って来て下さるわ。法律も宗教も至る規律も価値観も何もかも私は破壊する、それに染まった人間ごと。そうすれば、狂った世界が変われば、邪悪な人間は生まれない。狂った競争を止めて、狂った優越感を捨てれば、みんな仲良しになれるの」

「そ、んな」

「だから」

 オパールエンジェルは学校の屋上からぐるりと街を見回した。

「今から私はまずこの街を変えるわ。世界に関わる人を殺して、新しい規律、もっと人々の事を思ったシステムを考えるわ、そうすればデモンは生まれないし、悪い人もいなくなる」

 拓生の足が一歩、後退する。

 オパールエンジェルはここまで歪んでいたのだ。

「ああ、大丈夫、最初は実験するから、ここら辺で。学校の生徒達もみんな殺していないわ、三分の一くらいにしたの、そのくらいなら管理できるから、私はまず神明中学校に理想の世界を作ってみようと思うの」

 夢を語るように彼女の頬はバラ色に染まる。

「デモン、あれは野放しにする。思えばデモン達の存在はつまり世界の歪みのバロメーターなのよ。デモンがいる世界は欠陥なの……女神様はつまり、私にデモンの出てこない世界を作れ、とおっしゃったのよ」

「そんな……バカな」

「だから拓生君、私がこうなったこと、あなたのせいじゃないのよ。ずっと考えていたことなの、悪の完全なる消滅、私の管理する無垢な世界……でも」

 つかつかと彼女は歩き出す。拓生の元へ。

「やっぱり、あなたは許せない」

 がき、と次の瞬間オパールエンジェルの肩に鈍色の棒が叩き落とされた。

 遙だ。彼女がどこかから調達して来た鉄パイプで、彼女を殴りつけている。

「拓生を傷つけるな! この化け物」

 頭、肩、腕、腰、足、遙の攻撃は続く。

 しかしオパールエンジェルはダメージどころか、眉一つ動かさない。

「このっ、このっ、このっ、このー!」

 鉄パイプは何度も持ち上がり、何度も振り下ろされる。

「遙、逃げるんだ!」

「イヤよ! あんたのいない世界なんてイヤ!」

 鬼気迫る形相で鉄パイプを振り回す遙に、オパールエンジェルは特に何もしなかった。

 一瞬、髪が靡いただけだ。

 それだけで那智遥の体は、凄まじい勢いで後方へ吹っ飛んでいく。

「遙!」

 彼女は屋上の床で二、三度バウンドし、反対側の鉄柵にもたれる形で止まった。

 拓生は駆け寄ろうとした。遙が無事なのかを確かめようとした。

 だが目の前まで迫ったオパールエンジェルが彼の学生服の襟を両手で掴んで、高く持ち上げる。

 自然に首は絞まり、つり上げられた状態で拓生は喘ぐ。

 ─―このまま、死ぬ……。

 観念する。

 仕方のないことだった。あんなにまで愛してくれた遙も、彩も騙していたのだから。

「ねえ」

 間近にあるオパールエンジェルの瞳が、微かに煌めいた。

「さっき、私と那智さん、どちらでもよかった、て言ったよね? だったら何で私……虹野彩じゃなかったの? どこがダメだったの?」

 朦朧とした意識で、拓生は正直に答えた。

「遙を忘れられなかった……違うな、遙と過ごした日々には、いつも父さんと母さんがいた、僕は、その、思い出、がどうして、も、忘れ、られ、な、なか、た」

 足が固い物を踏む感触に、彼は驚愕する。

 高く上げられていた体が、何の前触れもなく降ろされたのだ。

 それだけではない、オパールエンジェルは首の戒めも解き、子供にするように、乱れた襟を指で直してくれた。

「なんだっ」

 彼女は無邪気に、はしゃぐように笑った。

「たったそれだけなんだ。なんだっ、簡単じゃないっ」

 むせる拓生の目に飛び込んだのは、虹色のテープが巻かれた黒い金属の金槌だ。

 いつの間にかオパールエンジェルは、聖ぴっこんを手にしていた。

 音羽拓生は一部始終を目にする。

 聖ぴっこんを構えた彼女は、大きく伸びるように、仰け反るように振りかぶり、彼の頭めがけてそれを振り下ろして来た。


 エピローグ

 音羽拓生は幸福の中にいた。

 ゆったりとした時間の中、心地よく暖かい場所にいる。

 薄茶色の壁紙が張られた大きなリビングで、ふかふかのソファに座っていた。

 広い、二人で暮らすには広すぎる部屋は最新式のエアコンにより室温を調整されており、季節の変わり目でも体に負担がかかることはない。

 その部屋は人工的に作られた天国だ。

 拓生はぼんやり天井で整列しているLEDの証明を見上げながら待った。

 彼女を。

 程なくして、白いセーラー服姿の少女がやってくる。

「ごめん、遅くなった」

「ほんとだよ」むくれてみせる。

「お腹ぺこぺこ」

「むー」

 少女も頬を膨らませた。

「なによなによ、最初は二人で一緒にお食事作ろうって約束だったのに、いつの間にか私一人になって……お掃除だって……大体、拓生君はね」

「お腹空いたー」

「わかりましたぁ」

 少し気分を害した風なので、気にする。

「あのさー」声をかけてみる。

「うん? なーに?」

 リビングと繋がっているシステムキッチンから、すぐに返事が届き、安心する。いつもの彼女だ。

「どうだった? 神北高校」

「うん」

 声がくぐもっているように聞こえた。

 そこは二人が受験して、二人とも合格し、この春から通うことになっている学校だ。

 シンクに水が流れ、彼女は一心不乱に手を洗い出す。

 水の色はきっと赤いのだろう。

「今日、数を減らしてきた、入学式の後からすぐまた私が管理出来るように」

 彼女、虹野彩はにっこり微笑む。

「神明中学校は? 君がいなくなるよ」

 そこは世界で一番平和な中学校だ。イジメもなく校内暴力もなく、皆が規律を守って正しく学んでいる。

「時々OBとして顔を出します。それで良いと思う」

「ふーん」

 生返事をしながら、ぴかぴかのガラステーブルに置いてあるリモコンを取る。

 壁掛けテレビは映画館のように大きかった。

 つけて眉を顰める。

 デモンが暴れているのだ。

「ねえ、このデモン、また現れたよ」

 それはデモンと分類するには美しい、人間に限りなく近い形をしている怪物だ。

 どこかで見覚えがある気がする。

『半年前に突如現れたこのデモンが、現在も街を荒らしております、多数の死傷者が出て、政府も対策に苦慮しています』

 そこでデモンの顔が大写しにされる。

 半分は美しい少女の顔、もう半分は醜い化け物のそれになっているデモン。ただ人の顔の方は、どこかで見たことがある。

「はて」拓生は首を捻った。

『ダグミヲガエゼ、ダグミヲガエゼ』

 デモンは何か吠えているが、さっぱり内容は判らない。

 ぷつり、とテレビが消される。

 彩がリモコンを手に隣に立っていた。

「デモンが現れるのは、世界が悪いの、まだ理想の世界には遠いのね」

「うん、君が管理している区域を増やしていくんだろ? でも、それまで放っておくの? アイツ」

「そうね、今度街で出会ったら消しておく。何か不快だから、もしかして違う聖天使に倒されちゃうかも知れないけど」

 拓生は彼女をしげしげと見つめた。

「な、なに?」

「大きくなったね、僕の努力のたまものだ」

「え?」

 しばらくきょとんとしていたが、意味を悟り、お下げを少し跳ね上げて赤面した。

「む、胸が少し大きくなったの、成長期だからです! 決して触られているからではなく、それは都市伝説で、そんなデマを信じるなんて……偶然かも、才能? ポテンシャル? 開花……」

 ごにょごにょと口の中で呟いているが、聞こえないフリをする。

「ふふーん、感謝してねー」

「こらぁ」

 叱る彩はポストのように赤い。

「そっちこそ、神北高校へ進学できたのは、私のお陰なんですからね、感謝して下さい」

 その通りだ。半年前までの拓生ならとても手が届かなかった高校だ。

 だがあの日、聖天使の彩が彼の両親と交渉し、ずっと一緒に勉強を見る約束をしてくれた。

 誰かの涙と叫びがあった気がしたが、もう思い出せない。虹色がひらひらと蘇るだけだ。

 そして、一緒に食事をして、眠って、勉強をして、拓生の学力を伸ばしてくれたのだ。

「お風呂の時が辛かった」

 彼女は入浴しているときも、傍らで身体を洗いながら問題を出して来た。

 もう洗脳の域だ。

「役に立ったでしょ?」

 確かに感謝している。

 聖天使の彼女はデモンという人類の脅威のいない世界を作るために、近辺の街を管理し出しているというのに、その上拓生に勉強も教えてくれた。

「そう言えば、今日から二丁目の商店街が管理区域になったから、私が責任を持って正しく導くわ」

「それは安心だね」

 聖天使オパールの管理する区域は正しくて清潔で、犯罪も起こらない。

 少々人が少ないが。

「本当に一番大変なのは、拓生君の世話なんだからね」

 唇を強く結ぶ彼女だが、本気で怒っている訳ではないようだ。

 眼鏡の下の瞳を閉じ、顔を近づけてきた。

 迷わず拓生は唇を重ねた。

 何か重大な記憶を失った。そんな気がするが、彼女とこんなに幸福なら、それで良い。

 ここは孤独も不安も、何もかも忘れられる完璧な楽園だ。

 そんな楽園は聖天使オパールによって、徐々に広がっていっている。

 甘く香る唇を味わう音羽拓生に、遠いどこかから、女神の声が聞こえた。

『困ったわ、困ったわ、人間がおかしくなってしまったの、困ったわ』

                 了

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正義天使は正義の夢を見る……ヤりたい盛りの男は仕方ないのです! ええ、最低ですけど何か? インキャだけど眼鏡っ子魔法少女と恋愛します イチカ @0611428

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