正義天使は正義の夢を見る……ヤりたい盛りの男は仕方ないのです! ええ、最低ですけど何か? インキャだけど眼鏡っ子魔法少女と恋愛します

イチカ

第1話 暗い世界


 プロローグ

「麗しき夢と未来への虹、セントエンジェル、オパール!」

 黎明の光のように鮮烈に、その声は闇を引き裂いた。

 七色の閃光は、西の果てにとうに落ちた太陽よりも強烈に暗い世界を照らし出し、一度は宵闇に陰った周囲のビル群が、顔色を取り戻したかのように再び現れた。

 輝きの中心、光源たる一人の少女は油断なく身構え、周囲に視線を配っている。   

 不意に獣が発したような、言葉にならないうなり声が上がった。

 光の少女がぱっと身を翻す。

 ずざ、と寸前まで彼女が立っていたコンクリートの床に何か、黒い生きモノが降り立った。

 黒く、てかてかとした表面、人間の形をベースにしてはいるが、四肢はねじくれ、顔面は溢れる憎しみを隠しきれず、おぞましく歪んでいる。 

 端的に言うと、それは『化け物』だ。

 息を殺して見入っている少年は、その『化け物』の名前を知っていた。

 ―─『デモン』だ……。 

 彼は少女と黒い怪物の双方に気付かれまいと、手近にある給水タンクの陰に蹲る。

 少女と『デモン』の戦いは始まった。

 黒い怪物に、拳が蹴りが何発も炸裂する。

 その度に耳を塞ぎたくなる叫びがこだまし、少年の呼吸は細くなった。

 二人の戦いは、いつ果てるかも判らず続いている。あるいは永遠に終わらないのか。 

 が、突然にあっけなくそれは終了した。

『化け物』が打撃により弱ったのを見極めた少女が、何か語りかけた。

『デモン』は今までとは異なる、超音波のように高い悲鳴を上げ、灰黒いコンクリートに潰れたように伏せる。

 今までの獰猛さ、凶暴さが嘘だったかのように『デモン』は、這い蹲りがたがたと怯えていた。

「ピュアリファイ!」

 少女はそんな『デモン』に指を差す。

 神々しい七色の光が彼女の小柄な体からほとばしり、『デモン』の黒艶の身を包み込んだ。

 突如、辺りに静寂が戻ってきた。

 鈍い殴り合いの音も、『化け物』のうなり声もない、静かな夜が帰ってきたのだ。

 光の少女・聖天使(セントエンジェル)は安堵したかのように肩を下げると、再び目も眩む閃光を発した。

 彼が目眩に耐えながら瞼を開くと、そこには聖天使はいなかった。

 ただ、一人のセーラー服の女の子が立っている。

 その純白のセーラー服に見覚えがある、と思ったとき、少年は「あっ」と声を上げていた。

 びくり、と少女、変身を解いた聖天使は振り向く。

 大きく見開かれた目があった。

「はわっ」

 と、どちらが最初に口にしたかは判らない。

 だが二人はほぼ同時に、「うにゃぁぁぁぁ」と叫んでいた。


 第一章

 朝の教室は新鮮だ。

 前日ぐっすりと寝た生徒達が、たっぷりと力を蓄え、若い活力を熾烈に発散しているからだ。

 その日は、五月にしてはじめじめしている曇り空だが、すくなくとも歓声と笑い声の弾ける教室は活き活きとしていた。

 音羽拓生(おとわたくみ)は自分の席に着席し、内心の動揺を隠して三年四組を見回した。

 高校受験の年だと言うのに、みんな頬を紅潮させて談笑し合っている。手近に人生最初の不安が迫るというのに、気にしていないようだ。

 あるいは、敢えて受験生であることを忘れようとしているのかも知れない。少なくとも朝だけは、だ。

 しかし、拓生はそれこそ今、それどころではなかった。

 落ち着かず、机の上に出したカンペンケースやら筆記具やらを、細い指で弄ぶ。

 昨夜の出来事が、今日どう転ぶか判らないのだ。

 一際高い笑い声が上がり、拓生はびくりと肩を震わせた。

 視線を向けると、三人の少女、同級生がいる。

 心臓が微かに急ぎ出す。

 薄くらい教室の中にいるのに、妙に華やいでいる彼女達は、この神明中学校の有名人集団だ。

 イケてるカースト最高位女子。

 とワープロソフトなら変換される。

 那智遥(なちはるか)、三國えみり(みくに)、武藤望(むとうのぞみ)。

 皆、有名な集団アイドル群ならばどセンターへ立てるほどの容姿をしている、美しい娘達だ。

 彼女達は実は皆クラスが違う。遥だけが拓生と同じ四組であるが、イケてる三人は自らの容姿と評判をよく知っているので、いつも徒党を組むようにつるんでいた。オシャレや流行や男の品定め、を三人で声高に語り合う。

 全生徒達はそれに戦々恐々としている。

 男子生徒は品定めで酷評されると地の底まで落ち、女子生徒は彼女らに対抗できないから、ご機嫌取りのためのワードを密かに耳で拾っている。  

 三人はこの中学校の中心と言っても良かった。

 拓生はぼんやりとその一人、三人の中でもさらにその中心である那智遥を見つめた。

 ぱっちりとした大きな瞳に、高い鼻、やや細めの珊瑚色の唇。ロングヘアの髪は教師が見て見ぬフリをする風潮故に茶色に染め、遥の容姿は女の子達誰もが幼い頃に夢中になるリカちゃん人形のように異国人めいて、可愛らしかった。

 だから沢山のファンがいる。

 男女問わず、この学校以外、高校生、大学生からも誘われると聞く。

 我が身と比較すると、あまりにも差がある。

 拓生は呼吸困難にでもなったかのように、浅く息継ぎをした。

 かつては最も近くにいた彼女だったのだ。

「……て、また遥ちゃんを視姦しているのか?」

 不意に肩に手を置かれ、拓生は飛び上がりかけた。

 が、すぐにその主はわざわざ机の前、拓生の正面まで来て中腰になる。

「無理だって、高望みしすぎだよ」

 自身が一番判っていることを簡単に言葉にし、拓生をイラっとさせたのは松居吉郎(まついよしろう)だ。

 思い起こせばこのゲス野郎は、今とんでもない言葉を口走ったような気もする。

 それほど仲良くした記憶はないが、松居とは同じ幼稚園、小学校、そして中学という、学区故のからくりが見え見えの縁だった。

 中学一年生まではチビとかチマ、と呼ばれていた松居だったが、急激な成長期があったらしく、三年の今現在は、拓生より背が高い。

 話すときにいちいち高身長を誇示するように見おろしてくるところも、イラっとする。

「遥ちゃんは無理だよ、一応このガッコーの№1だぜ、それに……」

 松居の口を塞いでやりたい。彼は小学校の頃から噂好きで、その部分には成長期が無かったらしく、いつもあることないこと吹き込んでくる。

 拓生にとって、嫌な情報をだ。

「遥ちゃんは、桜井と付き合っているらしいぜ」

 ニキビ面に探るような表情を浮かべ、人差し指を天井に立てた。

「……お前の出る幕はねーなぁ」

 拓生は内心舌打ちした。そんなことは判っているのだ。

 那智遥と拓生は幼馴染みだ。

 小学低学年までは彼女はいつも隣にいた。バレンタインに歪な手作りチョコをくれたのは遥だけだったし、お泊まり会の時、深夜まで起きていて『けっこんのちかい』まで交わした。

 だが全て、昔の話だった。

 今、遥と付き合っている、という桜井裕太(さくらいゆうた)は神明中学の男子部門の№1だ。

 バスケ部のキャプテンでエース、学校の成績も上位、王子様系の甘いマスクと三拍子揃い、彼が廊下を歩くだけで女子生徒から小さな吐息が漏れる。 

 まあつまり『イヤーな奴』なのだが、拓生には敵に立ち向かうコマが全くない、ライバルとすら呼べない完璧超人だ。悪魔超人?

「羨ましいなぁ、桜井の奴」

 中三になって色気づきだした松居は、指定学生服に身を固めた己をかき抱く。

「俺も遥ちゃんみたいなイケてる女の子とイロイロしてーなぁ……て、もう女なら誰でもいいよ」

 拓生は目の前で気持ち悪く腰をくねらせる松居から、目を逸らした。

 ちら、と今一度遥達の方に視線を走らせるが、彼女達はこちらを見ながらくすくす笑っている。

 一瞬でテンションが下がった。

 神経が剥き出されたような感覚を覚え、消え入るかのように身を縮める。

「……あ、あの」

 そんな拓生に、背後から控えめな声がこわごわかけられた。

 心の芯が不意に固まったかのように硬直する。

『彼女』だった。……つまり、時が来たのだ。

 骨を軋ませて振り向くと、俯き気味の女子生徒が立っていた。

 虹野彩(にじのあや)は、相変わらず漆黒の髪を二つの固い三つ編みにしている。太い黒縁の眼鏡を何かから身を守るかのように装備しているから表情は判らないが、拓生は用件に心当たりがあった。

「は、はい?」

 緊張に震えながら返事をすると、彩はしばらく躊躇し、「こ、これ」と何かを突き出した。

 反射的に避けようとした拓生だが、その前に彼女の手にあるモノが包丁とかカッターナイフとか、そう言うキレている凶器ではなく、手紙であると判別できた。

「こ、これ……」彩が消え入りそうな声で今一度言い、拓生は慌てて手紙を受け取る。

「じゃ、あ」

 逃げるように自分の席へ戻って行く。

「何だあれ?」

 松居は呆気にとられたように、彩の背中と拓生の手にある手紙を、何度か見比べた。

「委員長……ラブレター?」

『委員長』というのは虹野彩のあだ名だ。好意的な物ではないし、実は『委員長』でもない。

 三つ編みと眼鏡、という外観で、いつの間にかそう呼ばれるようになったのだ。

 委員長キャラ、という事だ。

 当人の彩は、内気故に委員会に立候補など出来るわけもなく、推薦人たる友達もおらず、委員長でも何でもない。

 無冠の帝王ならぬ、無冠の委員長なのだ。

「ラブレターじゃないよ……」

 拓生が平淡な口調で答えると、途端に松居は手紙への興味を失う。

「しっかし委員長、相変わらずいいチチだよなー? もったいねー」

 軽口に拓生は彩の背中を探した。 

 崩壊しかけている校則故に、密かに制服を改造する輩が多い、無改造の清潔な白いセーラー服は、だからすぐに見つかった。

 彩は前の席にいる女子生徒の背を拝んでいるように、背を丸めていた。

「もう少し明るくなれば、委員長も少しは人気が出るだろうに」

 その松居の意見には賛成だ。

 彩は学年の中でも身長が高い方であり、女子としての成長にも恵まれている。

 運動は壊滅的にダメらしいが、勉強は全国でトップを争うレベルで、影のように目立たないのが不思議な存在だった。

 拓生はだが、そんな彼女について重大な秘密を知ってしまった。

 今まで口も利いたことがなかった彼に接触したのは、それについての事だろう。

 受け取った手紙を開いてみると、『放課後、屋上で待っています』と、定規でも使ったような固い字で書かれていた。 

 拓生はその日ずっと、不安に苛まれた。


 放課後、音羽拓生は屋上に至る階段を上っていた。

 約束の履行のためだ。

 一方的なものであり、破棄するという選択肢もなくはなかったが、後のことを思うと不可能だった。

 時間帯故に影の中のような階段を、重い足取りで一歩一歩と進む。

 体を支えているかのように掴んでいる手すりは冷え切っていて、指先はびりびりと痺れた。

 ─―目撃者って、消されるのかな?

 拓生はテレビでやっていた映画の『目撃者』というキャラに思いを馳せる。

 大抵最初に殺されるか、主役だった場合、世界の果てまで追いかけ回される。見られたら消せ、の単純公式だ。

 どうなるんだろう? と黒い靄がかかったような世界を前に、拓生の心は震えた。

 ─―遥に告白しておけば良かったかなあ……。

 などと考えて、慌てて首を振る。

 それは出来ないだろう。例え明日が地球最後の日でもだ。

 松居の言うとおり分不相応な願いを持ち、次の日彼女達の笑い話の種になるなんて考えられない。

 それこそ死んだ方がマシだ。

 自分で『死』という単語を思い浮かべた拓生は、ぶるりと肩が揺れた。

 ─―まさか、まさかそこまでは……。

 切実な願いだった。

 ─―だって彼女は……虹野さんは……。

 気付くと、屋上へ続く扉の前にたどり着いていた。

 数秒のフル停止の後、なけなしの勇気を総動員して拓生は鉄扉のノブを回す。

 最初に目に入ったのは、血のような色の空だ。

 何て事のない夕焼けだが、彼の目には不吉な物と写る。

 そして屋上特有のコンクリートの平面と、黒い鉄柵。それに手を置きじっと校庭の方向を見ている少女。

 虹野彩。

 どくどくと、ここに来て拓生の鼓動が大きくなった。

 何が起こるか判らない、というのはどんな時でも不安だ。

 しかし、すでに意を決している拓生は迷わず、屋上へと踏み入る。

 夕暮れのゆったりとした空気が流れていた。運動部のかけ声、吹奏楽部の楽器、合唱部の歌、すべてがずっと遠くに聞こえる。

 虹野彩は彼の接近に気付くと、セーラー服をはためかせて振り向いた。 

「来てくれたんだ……ありがとう」

「う、うん」

 互いに、探り合うかのような緊張した挨拶から始まる。

 しかし、その後は容易に続かなかった。

 彩は口を開けるとややあって閉じ、目を逸らす。拓生も声をかけようと勇気を振り絞るが、口を開き外気を舌に感じると、勇気も収縮してしまう。

 二人はしばし向かい合ったまま、無言の時を過ごした。

 松居などが目撃したら、それこそ『恋』だの『愛』だのと勝手に関連づけるだろう。

 が、拓生はそれどころではない。

 命に関わること、であるかもしれない。

「…………あの」

 莫大な時間をかけ、ついに彩がぼそぼそと語り出した。

「……見たよね?」

 上目遣いに、確認してくる。

 拓生には惚けるとか嘘を付く、とかいう手段はなかった。

 向こうもこちらを確認しているのだから。

 昨夜遅く、闇を打ち払った光。

「う、うん」

 七色の閃光を脳裏に再生しながら、頷いた。

「そ、そう」

 再び沈黙。二人の間を抜けていく冷えた風。

 だが拓生の心境はここで劇的に変化した。

 彩のもじもじした姿、風に靡く三つ編みを見ていると思い描いていた『最悪』というのがなさそうだ、と感じたのだ。

「あ、あの」とだから今度は彼から口を開く。

「は、はい」

「君、聖天使なんだね?」

 明らかに彩は狼狽した。

 眼鏡の奥の瞳が見開かれ、息でも苦しいのか、はうっと空気を飲み込む。

「そそそそそ」彩は珍しく大きな声になる。

「それ誰かに言いましゅた?」

 台詞を噛みながらあわあわ問う彩に、静かに首を振ってみせる。

「何だか、いけないような気がしたから……誰にも……」

 すとん、と彩の肩が落ち、愁眉が開く。

 張りつめていた表情も幾分和らいだ。

「よかった……」

 頬を赤く染めながら、彼女はついと俯く。

 拓生もその姿に安堵していた。

 どうやら『目撃者』キャラが辿る不吉な運命は無いらしい。 

 が、だとすると、むくむく持ち上がる好奇心を止められなかった。

「あ、あのさっ」

「……はい?」

「本当に、聖天使なんだね?」

 彩ははっと緊張を取り戻し、辺りを見回して彼等以外の人影がないと確認すると、小さく頷く。

「ええ、そうです……実は私……聖天使です」

 ぽわっと拓生の中で光が広がった。

 先程までとは違う理由で、鼓動が早まる。

『聖天使』……この世界を裏で守る、神様に選ばれた少女。

 松居ではないが、学校の噂でここら近辺に一人いる、とは聞いていた。それが虹野彩だと知ると、喜びに似た感情がせり上がってくる。

「すごいっ!」

 拓生が思わず感嘆すると、彩は半歩下がって頬に手をやる。

「そ、そんなことないでしゅよ……そ、そ、そんな」

 何だかまた噛んだが、拓生は恥ずかしがる彼女を眩しく感じる。

「だって! 君のことはテレビやら週刊誌にも出ているよ! 現代の聖女、とか、麗しいのヒロインとか」

 新聞社発行の堅めの雑誌にさえ、『聖天使』の特集があるほど、彼女達は有名だった。

「違うます、そんな偉くないです! ただ私は……えとえと」

 彩はゆで上がったように上気しながら、両手を軽く握って言葉を探している。

「虹野さん、聖天使なんだー」

 拓生が今一度感心すると、一転彼女の眼差しが真剣になる。

「音羽君」

「え……?」

「そのこと、誰にも言わないで下さい」

「でも」

 拓生は首を捻る。確かに『聖天使』達は正体を誰にも知られていないが、それに何の意味があるか判らない。

 彼女達は世界のために『化け物』と戦っているのだから、日本国は国民栄誉賞でもあげて良いと思う。

 逃げ隠れする必要など感じない。

「あのね」拓生の内心を看破した彩は、口調を改める。

「私たちは、有名になろうとか、誰かに感謝されようとか思って戦っていないの、ただ世の中の正義のために戦っているの、他の聖天使達もそうだから正体を明かさないし、私一人だけ有名人になると困るの、大体、それも契約の一つだし」

「契約?」

「女神様との」

 事も無げに彩は神という恐れ多い単語を出す。

「私を聖天使の資格あり、と認めて下さった方よ」

「ふーん、でもさ」

 拓生が唇を尖らせるのは、だとしても学校での彼女の扱いだ。

 人のために戦っている聖天使なのに、『委員長』なんてあだ名で呼ばれ、真面目すぎる性格を密かに揶揄されている。

「少なくても、みんなもっと君を尊敬すべきだよ、だって昨日スゴかったもん、『委員長』だなんて失礼だよ」

 拓生は昨夜、散歩の途中で聖天使たる彼女と、デモンの戦いに遭遇したのだ。そして、正体を知った。

「あうああああ」

 彩は頭を抱えた。

「なんでっ? どうして音羽君、あんな所にいたの? 誰にもいない場所におびき出したつもりだったのに」

「散歩してた」

「深夜にビルの屋上でっ?」

 彩が少し身を乗り出すから、拓生はその分反る。

「う、うん、僕は夜景が好きで、あの場所は穴場だったんだ、そしたらいきなり君がひょいひょいと……」

「待って」

 彩がてのひらを向ける。

「もう判ったから、それ以上はいい、でも、約束してねっ、誰にも私のこと言わないで下さい、そうじゃないと……」

「でもさ、君はもっと」

「いいんです! 私は『委員長』というあだ名、気にしていないもん、気にしていないもんっ 気にしていないんだからっ! それにさっき言ったとおり、正義のために戦っているから、ちやほやされなくてもいいの!」

「うーむ」

 拓生は不満だった。三回繰り返すところであだ名を気にしていることは明白だが、それよりも昨夜、閃光の中にいた彼女は格好良く、自分一人の秘密にするには勿体ない。

「……やくそく、してくれないの?」

 彩の冷静な問いに、拓生はびくりとした。

 すっかり忘れていたが、彼女と直に話すまではとても不安だったのだ。生命の危機か、と半分くらい思っていた。

「……も、もし誰かに言ったら……僕って殺されるの? 目撃者キャラとして、こんな冒頭で」

 冗談めかしているが、それは重要な部分だ。

「はえっ?」

 彩は首を傾げて、しばし考える。

 が、「ああっ」とびっくりしたように声を上げた。

「ひ、ひどい! 音羽君は私をそんな目で見ていたの? 私があなたを殺す? ひどいです!」

「い、いやだって」

「ち、が、い、ま、す! 聖天使は人殺しはしません、ただ」

 彩はどこからか、虹色ひらひら布の巻かれた金槌を出した。

「これで叩けば、記憶がぱこん、と飛ぶんです、それだけ」

「え」和んでいた拓生が一瞬でしゃっきりした。

 その金槌は聖天使の魔法グッズらしいのだが、どう見てもひらひら意外は日曜大工に使う金槌と変わらない。

 彼女の持ち方からそれなりの重さがあると判るし、何よりも色も黒い鋼色だ。

 肝を冷やす。

 もし拓生が松居並の噂人間だったら、今頃彼女はあれを振り回して学校中の生徒を、ぱこん、したのだろう。

 神聖な聖天使が学校で無双ゲームのような事をやらかす。とてもシュールな図であり、つまり、換言すると、誰にも言わなくて良かった。グッジョブ拓生、である。

「……本当は覚悟していたの。今日いきなり『聖ぴっこん』を使わなければならないかもって」

 聖ぴっこんとは、またイタい名前だ。実物を侮りすぎた命名である。

「あはは、誰にも言わなかったよ、親にも」

 拓生は空虚に笑ってみせながら、家族への嫌疑を晴らす。

「そうみたいね。朝、何も言われませんでした」

 ─―先回りしてんのかよ!

 ちょっと引く拓生の前で、彩は聖ぴっこんをしまった。否、それは彼女の手の中で掠れるように消えた。

「今後も言わないで下さいね、はい」

 彩は小指を立てると、一歩拓生に近づいた。

 意味が分からず、出された指を見ている彼に、彩が補足する。

「ゆびきりです」

「ああっ」

 拓生は慌てて自分の小指を彼女のそれに絡めた。

「ゆーびーきーりげーんまーん」何だか子供みたいだなあ、と思わないではないが、拓生は彩と一連の儀式を執り行った。

 その時、ふと至近にある彩の顔をしげしげと見て、驚いた。 

『委員長』とか『堅物』とか『真面目っ子』と言われている虹野彩だが、その素顔はかなり可愛かった。

 美少女。と言っても良いレベル……もしかしたら、イケてる三人衆と肩を並べているかも知れない。

 固く左右に編み込まれている髪は清潔で艶々と輝き、黒縁眼鏡で隠されている切れ長の目は黒目がちで大きく、唇はやや肉厚で血色が良い。

 メチャ可愛い、ではなく超美人、というタイプだ。

 伸びすぎの前髪、猫背の姿勢、眼鏡、の三つを何とかすれば、実は薄化粧しているイケてる三人よりも男子にウケるだろう。

 拓生はほあーと彩を見つめた。

「やだっ」

 視線に気付いた彼女は、小指を離すと一歩下がる。

「な、なによう? 何かヘン?」

 ぺたぺたと自分の顔を触る彩に、拓生は「ううん」としか言えなかった。


 音羽拓生の家は団地の一角である。

 昭和四〇年代に設計された公団住宅の規程デザインから一ミリもはみ出さない外観をした、面白みの欠片もない真四角のコンクリートの建物の、三〇二号室である。

 与えられた畳敷きの自分の部屋で、拓生はじっと小指を見つめていた。 

 数時間経過してしまったが、まだ温もりが残っている気がする。

 聖天使として選ばれた『彼女』の感触、女の子のちんみりとした、しかし柔らかい指の感覚がはっきりと思い出された。

「虹野さんか……」

 思わず声に出し、自ら気付いて赤面する。

 女の子と接点のない拓生にとって、それは小学校低学年以来の出来事だった。大事件と言い換えられる。

 ─―虹野さん、もっと目立ってもいいのにな。

 自分の部屋の白々しい蛍光灯を見上げて、そう嘆息する。

 資格はどの方向からもある。

 聖天使、という特殊な部分を覗いても、今日微かに触れあった彼女は可愛らしく、魅力に溢れていた。

 何故、あんなに教室で目立たないのか、狩人のような目で女子生徒を観察している色気づいた男共は、どうして彼女の魅力を写し出せないのか、全く謎だ。

 それこそ半分狼のような松居が、その胸部にしか興味を示さないなど無知も甚だしい。

 ―─みんな目が節穴だな。

 だとすれば、彼女が宝石の原石だ、と知った自分が誇らしかった。

 級友達の一歩先を行った気分だ。

 ふと、拓生は我に返る。

 腹の一部分が冷えて、内臓が重苦しく感じられている。

「腹へったなあ」

 端的に現在の己の状況を表し、部屋の襖を開けてみる。

 闇が出現した。

 そこから見渡せる音羽家の居間は、黒く陰っていた。

 食事に使うテーブルも、テレビも、隣接するリビングも、その前のソファも、息を潜めているかのように、死んでしまったかのように蹲っている。

 ただ、それは見慣れた光景だった。

 彼は無言で足を踏み出すと、まず居間の電灯を付けた。

 氷のような色の光が、一瞬で全ての家具を浮き立たせた。

 構わず台所のテーブルに近寄る。

 いつも通り、ぺらぺらの紙が置かれていた。 

『もし夕ご飯までに帰らなければ何かをとって下さい、母』

 文面さえも昨日と、毎日同じだ。

 拓生は親からの伝言用紙をすくい上げ、もう一度読み込むと、くしゃくしゃにしてゴミ箱に投げた。

 出前メニュー表が重ねてある電話台へと向かって、それらを手に取る。

 ─―もし……か。

 ふと皮肉な気分になった。

「もし、という言葉は、そうじゃない場合があるときに使うもんだよ、母さん」

 しかし拓生は、文句を父母の前では決して口にしない。

 二人とも一所懸命に働いて、暮らしを良くしようとしている。

 何よりも彼のために。

 それは了解しているのだ。

 だが、どうしても、どうしても一人の時には、心ない言葉を口にしてしまう。

 ─―僕は子供だな。

 少し前のシニカルな己を嗤うように口角を上げ、何枚ものメニューに目を通した。

「うーん、ヒレカツ……は昨日食べた。ピザ……は割高だなあ、ラーメンは何か足りないし」

 頭の中で行えばいい選別を敢えて口にする。全く無意味だが、それが恒例だ。

 一人でいる時は諸々を声に出す。

 カツカレーに決め、その旨を近くの蕎麦屋に電話した拓生は、無表情にテレビに近づき、乱暴な手つきでリモコンを取った。

 液晶テレビの中で、著名なお笑い芸人が何か懸命に喋っている。

 ボリュームは29。非常に高めに設定しているのだが、拓生の耳は楽しい何をも拾わなかった。

 ―─そう言えば、父さんとはもう何日も会っていないなあ。

 父とは一緒に暮らしている。仲も悪くない。透明人間でもない。

 ただ時間が合わないのだ。

 拓生が起きた頃には仕事に出ていて、眠った後に帰ってくる。

 それだけであり、手品の種にもなりはしない。

 いつの間にか、あまりに劇的だった聖天使の女の子との会話の記憶が、色あせていた。

 どうしようもなく、周りの何もかもが色あせていた。

 何故そうなったかは、理解できない。

 激しく頭を振る。

 しょぼくれてても仕方ない、楽しいことを考えるのだ。

 ―─遥……。

 自然とその名を描く。脳の中に刻み込まれているようだった。

 実際、那智遥との思い出は鮮やかな色彩と共に、記憶層に焼き付けられている。

 まだイケてるグループに入る前の彼女。まだ普通に挨拶出来た頃、まだ傍らにずっと居てくれた時の暖かさ。

 父も今とは待遇が違う大企業に席を置き、休日は、専業主婦でいられた母と遥とその家族とで山や海に出かけたりした。

 夏の海の輝き、秋の山の彩り、それらはずっと拓生の中から消えていかない、美しい光景だった。

 すっと思い出に影が差す。

 今は違う。

 父も母も休日は一週間の疲労に耐えかねて布団から出てこないから、行楽地など何年も行っていない。

 イケてるグループに属する遥は無論、遊びに来ることもない。

 それどころか、学校で折角同じクラスになったと言うのに、挨拶も出来なくなってしまった。

 遥は輝いている。

 聖天使の光とは異なるが、きらきらと誰よりも輝いている。

 拓生などが足元に及ばない男子達に囲まれているのは、当たり前だった。

 ―─ああ、フラれたんだ。

 拓生がそう気付いたのは三年に上がってすぐだ。

 自分の思いに気付く前に、告白する前に、『なんとなく』フラれてしまった。

 こんな惨めな話はない。

 初恋は叶わない物、とテレビで恋愛遍歴を自慢する女優が語り合っていたが、確かにその通りのようだ。

 もう彼女が拓生に微笑みかけることも、大人に言えないナイショ話をフってくることもない。

 それらは桜井としているのだろう。 

 ―─だけど……。

 拓生は大きく頷いた。

 ―─それでもいいんだ。

 最近そう考える。那智遥が、彼女は幸福になってくれればいい、と。

 例え自分とは違う誰かを見つめていても、その微笑を遠巻きに眺めるしかできなくても、拓生は彼女が幸福そうだと、自分もそんな気になれた……気がした。

 ―─だから、僕はいい。

 併せたかのように、遠くから笑い声が聞こえた。

 遥の家からだ。実は彼女は拓生の隣に住んでいる。

 家族団らんの時分、こうやって気配を感じることがある。

 ―─よかった、遥、幸せそうだな。

 背中にむずむずとした不快な痺れが這いのぼろうとしている。

 拓生はそれを振り払おうと、慌ててテーブルの上にたたまれている新聞を取った。

 冷や汗をかきながら適当に捲ると、『聖天使』という見出しがあり指を止めた。

『聖天使、桐朋デパートに出現したデモンを退治』

 顔を近づけると、昨夜見た聖天使、彩の後ろ姿が白黒写真に入っている。

「すごいな……虹野さん」

 ただし事件も凄かった。

『桐朋デパートに突如出現したデモンは、店員を含めた五人を殺害し、六人を負傷させ逃走した。十一人もの死傷者を出した大惨事に、警察は捜査員を増員して包囲網を作ったが、デモンはそれを突破。結局現れた聖天使により消されて、事件は終息した』

 簡素な文字の羅列だったが、その現場は想像以上に酷い物だったろう。

『聖天使オパール、現代のヒロイン』

 そんな記者の憧憬がにじみ出たあおり文を、拓生の指はなぞっていた。

「虹野さん……大変だろうな」 

 拓生は大事件に、おぞましい化け物に一人立ち向かう彩の姿を夢想した。

 聖ぴっこん、の脅威が無くても彼女の秘密を誰にも喋るつもりはない。先程の約束は堅守するつもりだ。

 しかし……。

 ─―でも、もしかしたら僕も何か手伝えるかも……。

 拓生は無意識に聖天使を賞賛する記事を追っていた。

 ―ボアそうしたら、少しでもデモン退治に手を貸すことが出来たら……。

 周りの何かが変わる。

 そんなあやふやな予感と、何故か高揚する気分を、その夜拓生は持てあました。


 第二章

「それでね音羽君、この公式はね……」

「ボクはダレ? ココはドコ? コウシキ? それは喰えるのか?」

「現実逃避しちゃだめよっ! ここは学校、今あなたが苦手な数学の復習をしています」

 虹野彩は両拳を上下に振って、拓生を異次元から連れ戻した。

 昼休みの教室はゆったりしていて、数十分前に食べた給食は、もう胃の中でとろりとした睡眠薬に変わりかけている。

 そんな中拓生は、前の時間散々だった数学を、彩に教わっていた。

「数学はね、公式さえ覚えれば簡単なんだから」

「しかし、数字は、いつも、違う」

「そりゃあ……」

「なら、ムズカシイ、ボク、デキナイ」

「どうしてカタコトになるの? そうやって誤魔化すのやめてね、折角教えているのに」

 彩はぷりぷり怒って、赤ペンで数学の教科書にアンダーラインを引く。

「とにかく、これっ、覚えて、そうしたら先生に当てられても大丈夫だから」

 彼女がナチュラルに古傷をえぐってくる。

 一時間程前の数学で、拓生は先生に指名されたが、もじもじと立ちつくす醜態をさらしたのだ。

 教室はくすくす笑いに包まれ、彼の自尊心は酷く傷ついた。

 その様子に心を痛めたのか、給食を挟んだ昼休み、彩が数学の臨時講師をかって出てくれた。

 しかし拓生は消耗していた。

 大嫌いな数学は、誰に教わっても印象が変わらない。禿げたオッサンから隠れ美少女に代わって勤勉に目覚める程、心はヤワではない。

 ―─カチカチ劣等生を嘗めるなよ。

 密かに胸を張る拓生は、ふと視線を感じた。感じた、気がした。

 目を上げると、遥がイケてる連中と楽しそうに話している。いつものように弾けるように笑い合っている。なら彼女が彼等を気にすることがあるはずがない。

 気のせいだろう。

「それで、音羽君、応用問題だけど……」

 彩が聖天使に選ばれるほどの世話好きを発揮し、次の予習にまで突入したが、拓生の目は死んでいた。

 あの日、聖天使の彩と秘密の約束をした時から、拓生と彼女の距離は縮まった。

 今まで挨拶さえしなかった仲だったのに、休み時間に取り留めのない会話をするほど近しくなった。

 松居辺りは勘違いしているだろう。拓生は勘違いしない。

「そうだ! 次の受業の古文だけど、音羽君、宿題で難しい所あったよね?」

「しゅくだい?」舌足らずの子供のように、きょとんと拓生は問い返す。

「え」と彩が連結した机の先で停止した。

「まさか……やってないの?」

「虹野さん! さては君は名探偵だね……ふふふ流石だよ虹野君、また会おう」

「こらっ!」

 ジョークを交えると、彩は一喝し、眼鏡のズレを人差し指でくいっと直した。

「どうやら私は音羽君について、少し考え違いをしていたようね」

「僕を侮ったな」

「もっと真面目な人かと思っていました」

 彩の眉間に皺が入り、唇が尖る。

「宿題は、家で予習復習出来ない人のために、敢えて先生が下さる物なの、つまり、強制的に勉強をさせるものなの、やらないという選択肢はないの」

「人間は常にフリーダムな存在なんだよ、キリスト様が言っていた」

「こらっ」と再び怒られ「もうっ」と横を向かれてしまった。

「……でも、じゃあどうするの?」

 聖天使の慈愛は深い。ここまでのダメっぷりを眼前にしても、見捨てられることはない。

「何が?」感心しながら問うと、彩の眼鏡の奥で長い睫が陰る。

「だって、今日は確か音羽君の列でしょ? 指されるの」

「あ」拓生は今更思い出し、青ざめた。

 古文の受業では、毎日当てられる列が変わる。その点についての古文教師・松浦先生の記憶力は確かで、前回は確かに拓生の横の列が当てられた。

「あわわわ」

 さすがに慌てる。一日に二度も授業中に恥をかきたくない。劣等生のプライドさえも痛む。

「はあ」

 彩は離れていても熱量が判る程の、盛大なため息をついた。

「わかりました。今からやろう、何とか間に合うと思うの」

 彼女は振り返り、何代か前のOB寄贈の簡素な時計で、時刻を確認した。

「古文の教科書、出して」

 言われたとおり出すと、彼女は綺麗な字で『古文』と書かれた大学ノートを取り出していた。

 パラパラ捲る。

 拓生は身を乗り出し、それを覗こうとしたが、はっと彩がノートを立てて内容を隠した。

「……何?」

「音羽君……今、私のノートを写そうとか、良からぬ事を考えたよね?」

「え! 今からそうするんじゃないの?」

「こら!」いたずらした子供のように、また叱られる。

「宿題は自力でする物なの! ガチたいまん、私はただお手伝いをするだけ」 

『真面目っ子』とか『堅物』とか『お下げ魔神』等の神経を逆撫でするだろう単語を舌が選ぼうとしたが、すんでで抑える。

 今彼女の機嫌を損ね見捨てられたら、またくすくす笑いの的にされてしまう。

 拓生は桜井のように毛並みの良いエリートではない。が、野良犬には野良犬のプライド、劣等生には劣等生なりのプライドがあるのだ。

「判りました虹野さん、ご協力感謝します。このご恩は決して忘れません、明日の給食に出るプリンを進呈します」

「……下手に出ても答えは教えないからね……でもプリンはもらいます」

 消沈した拓生は、やや尖る彩の視線に「トイレ」と告げて立ち上がった。さすがに止められはしなかったが、まだ油断無くノートを胸に抱いている。

 ―─なんつー信頼性のなさ。

 肩を落として廊下に出た拓生だったが、すぐに呼び止められる。

「おい! どう言うことだ!」

 驚きに口の端を白くした松居が、追いかけてきたのだ。

「何が?」

 何となく問われる内容は判っていたが、敢えて惚けて見せる。

「何が、じゃねーよ! 拓生、お前委員長と付き合いだしたのか? やっぱりこないだのアレは……」

「違うよ」

 勝手に興奮していく松居のハイテンションを、拓生は一刀に切り捨てた。

「友達……ううん、それでもないな」

「はあ?」

 松居は納得していないように眉を上げたが、これから古文の宿題が待っているので説明を省き、トイレに向かった。

 虹野彩の接近。その理由を色恋に結びつけるほど拓生は図に乗っていない。

 確かに秘密の共有、という『恋』への第一歩は果たしたのだが、だから彼女が気にかけてくれるようになった、と単純に解答欄に書くつもりはなかった。

 ―─つまり、彼女は監視しているんだ。

 それが適切で合理的な模範解答だ。

 彩は自分が聖天使である、ということを拓生に知られた。そしてそれの秘匿を約束をもさせた。

 だが不安なのだろう。

 いつか聖ぴっこんを使わねばならない時が来るかも、という疑惑を拭えないでいる。

「まあ、今まで知らなかった僕を、いきなり信じてくれないさ」

 だから拓生は不快にならなかった。むしろ、彼女と言葉を交わすのが楽しくなってきている。

 その点、音羽拓生もただの男子中学生。年頃の男でしかない。

 トイレから出ると、呆れたことに松居はしつこく待っていた。

「なあ、本当に付き合っていないの?」

「いないってば」

 わざとぞんざいな口調で松居の疑念を払う拓生だったが、それを受けて彼は大きく舌打ちした。

「なんだそりゃ、お前根性ないなー」

 廊下の真ん中で立ち止まる。松居の発言の意味が分からない。

「俺だったら……」

 松居はまた自分を抱いてくねくねし出した。

「こうやって、こう!」

 空気に女性のバストとヒップラインを手で描き、やおら床に倒れ込むとぴこぴこ腰を振り出す。

「……何考えているんだ? お前」

 拓生がドン引きすると、生徒達が普通に通っている休み時間の廊下だというのに、松居が声を張り上げた。

「女の子の『イヤ』は、嫌じゃないんだ! むしろオケッ」

「は?」

「信頼できる聖なる書物で知ったんだけど……女の子は男にちょっとムリヤリっぽく襲われても、なんだかんだで受け入れていくもんなんだって、そして後はずるずると言いなりに、そして最後にはドレイ」

「すっごいエロマンガ知識だよね? それ」

 拓生は野良犬の羞恥心で辺りを探った。

 案の定、通過していく女子生徒達の目は冷ややかだ。汚物を見るときでも、こんなに瞳孔を縮めないだろう。

「とにかく、お前は千載一遇のチャンスをフイにする腰抜けだ」

 かちんと来た拓生は、エア・セックス続行中の松居を見捨てて教室に戻った。

「待ってたよ」

 その姿を認めた彩がにっこりと微笑んでくれる。

「古文、私も沢山ヒント出すからすぐに終わらせようね……ん? 何か廊下が騒がしいね? ひめい? どうしたの」

 拓生は悲しそうに手を振った。

「進化出来なかったケダモノが遂に一線を越えた惨状だから、見たら穢れるよ。むしろアレは忘れるんだ、虹野さん」

「え、ええ」

 その後、他人に甘い彩がヒントを出し過ぎてくれたので、ほとんど拓生は彼女の解答を丸写しにし、すぐに古文の宿題は消えて無くなった。

 松居の姿も、次の時間教室から消えて無くなっていた。

 所詮、他人だ。


 オレンジの光が教室の窓から斜めに入り込んでいた。

 その日の終わり、拓生は放課後の喧噪の中、荷物を手早くまとめる。

 運動部入部者達はジャージ姿になり、今日の抱負と目標を仲間と決め合っているが、帰宅部には関係ない。

 音羽拓生が学校終了と共に帰宅するようになったのは、二年生の中頃だ。

 それまでは陸上部に在籍し、短距離走選手としてそれなりに期待されていた。 

 結局、退部届を出したのは、夕暮れに走るのがバカらしくなったからだ。

 毎日毎日同じコースをひたすら走り、ひたすら柔軟を繰り返し、ほんの少しばかりタイムを縮める。そして、誰もいない家に帰る。

 暗い家では疲労にがっくりするだけだ。

 こんな詰まらないことはない。

 今もその思いは消えていないから、クラスの陸上部員の運動着姿にも郷愁など抱かず、鞄のヒモを肩にかけた。

 ―─そう言えば松居、結局職員室から帰ってこなかったな。

 部活動とは全く違う事柄に心を痛めながら教室を出て、正門へと急ぐ。

 何もないのなら迅速に帰る。

 インキャ中学生とはそうあるべきだ。

「あれっ」だが、拓生は驚きを声を出していた。

 正門の影に埋没するように佇む、見知った女子生徒を見出したのだ。

 虹野彩だ。

 ─―誰かと待ち合わせかな?

 顔を伏せ固まっている姿は迷子の子供を思わせ、いじりたくなる程、いじらしい。

 特に歩調を変えず近寄ると、彩の前髪が勢いよく跳ねた。

「音羽君、待ってにゃ……実は、お話がにゃって」

 拓生はどきりとした。

「やっぱり信用できないから、聖ぴっこんやっとくね」 

 とか言われるかもと思った……のではない。

 彩がずっと待っていてくれた、という事実に、どういう訳か心臓がどきどきと主張しだしたのだ。

 猫っぽく台詞を噛む所も花丸だ。

 少年と少女の並んだ影が道路を滑っていく。

 傾いた、目を痛める朱色の光の中、拓生はそっと傍らを見る。

 固い三つ編みの女の子が歩調を合わせ、俯き加減で歩いていた。

 傍目には仲の良い中学生の男の子と女の子が、一緒に帰宅するように写るだろう。 

 ただ、二人は学校から数分、全くの無言だ。

 拓生には彩に限らず女の子、と共有する話題など無い。

 ゲームやマンガ、萌えアニメの話しをしてしまったら元の木阿弥だ。

 ─―あれ? 僕、虹野さんに嫌われたくない、て思っている?

 そこに気付くと、舌はより硬化し、自然足も緊張にぎこちなくなる。

 だからぎくしゃくと、また何分か経過してしまう。

 例え二人がラブラブカップルだったとしても、所詮中三、何が出来るとと言ったわけではないのだが、女の子を隣で沈黙させているのは悪い気がする。

 葛藤の中、ついに拓生は全身の力を喉に集中して、発声した。

「えどっ」

「……江戸?」

 聞きとがめた彩が小首を傾げて見上げてきた。 

 ちなみに、えと、を噛んだのだ。

「……地元だから知っているんだけど……昔、江戸は穢土、けがれた現世と呼ばれていたって噂だよ」

「……そ、そんなんだ、私、実は地方出身者、生まれは北海道なんだ」

 拓生は内心悶える。違う、しがない東北の田舎出だ。つまり、最初の一言から失敗したのだ。

 ごほん、とリセットの為に喉の喝、空咳をする。 

「あ、あの」

「はい」

 彩の瞳は澄んでいた。色気のないレンズ越しにも、聖天使に選ばれた乙女の輝きが判る。

「さっきは、あ、りがとう」何とか舌は紡ぐ、まず第一歩だ。

「ううん、私はヒントを出しただけで、やったのは音羽君だよ」

 拓生は目眩に襲われた。彼女がはにかんだのだ。

 頬を染めて、ちょこと肩を縮ませて。

 どんどんどん、心臓辺りが反対からノックされる。

「あう」

 もう終わりだった。音羽拓生にはそれ以上女子に対峙するスキルはない。そんなパラメーター設定はしていない。

 キャラ作りって最初が意外に大事なのだ。

 だが、「これで僕は人生という荒波への偉大な一歩を踏み出した、この一歩は小さいが……」と一人満足していた拓生に、彩の方から助け船を出してくれた。

「あ、あの、音羽君にお話がありましゅ」

 噛んだ後、すっと腕を、華奢な指を伸ばした。

 見やると、小さな公園がある。

 ブランコとジャングルジムとベンチしかない、市の財政難の象徴のような場所だが、中学生男女が少し話しをするだけ、というにはあまりにも嵌っている場所だ。子供も数人いるから、二人っきりという緊張の要因も薄れる。

 ああ、と拓生は納得するが、彩はふらりと揺れた。

 どうやら今の言葉に相当な気力を使用したらしい。

「だ、大丈夫? 虹野さん! 気をしっかり」

「は、はい、でも少し休みたいです」

 異性との接触で疲労困憊した二人は、その原因と並んでしばしベンチに腰掛けた。

 ふうふう、何十秒かを浪費して息を整える。

「ごめんなさい……」

 男子の気概などもうゴミクズ決定なことに、最初に勇気を振り絞り切り出したのは彩だった。

「わわ、私、男の子とふ、二人っきりで、話すこと、初めてで」

「い、いや、僕の方こそ……ごめん」

 ネガティブ思考のスイッチが入る。

「折角二人きりで歩いたのにイケてる話題の一つも提供できず、君にいらぬプレッシャーばかりかけ、あろうことか女の子の方に会話の糸口を見つけさせる、僕は何てダメな人間なんだ、僕はゴミクズだっ、所詮野良犬にはプライドなんてないです」

「そ、そんなことない、よ、異性と話すと緊張するもんね。私が突然だったから悪いの……のらいぬ? まあ、いいか」

 そして懸命に慰めてくれた彩は、前触れ無く頭をすっと下げた。

「あえ?」拓生は自己嫌悪の海に漂っていたから、彼女が水平に近く体を傾ける理由も、何故、向かい合っていたのに、今小さな背中が上から見渡せるのかも分からない。

 一言「ごめんなさい」を聞いて、ようやく彩が謝罪していた、と理解する。

「なんで?」

 それほどまで彼女に何かされた覚えはなかった。これほど謝罪されるいわれがない。

「私、最低だ」

「ええ!」

 自分自身への憤りだろう肩を震わす彩の意図を計りかねて、ただ彼女の背中、清廉な白い、汚れも穢れも一つないセーラー服を見つめる。

「どどどど」どうしたの? どうして? どういうこと?

 何もかも言語化出来ないうちに、彩は進んでいく。

「わた、し、疑ってしまいました。この数日、ずっと、音羽くんを……もしかして、『約束』を破るんじゃないか、って」

 突如、拓生の世界がクリアになる。

 涙声になっている彩の、平身低頭の理由が分かったのだ。

「やめてよ!」

 声を荒げていた。びくり、と彼女がちらと頭を上げる。

「何言っているんだよ! 何してんだよ! 虹野さんっ、僕を見損ないでよ、野良犬には野良犬のプライドっ言うんだよ」

 野良犬のプライドはここに華々しく復活した。

 拓生はあらあらしい程の手つきで、彼女の体の傾きを押し戻した。

「僕はただ『秘密』って言われた事を守っただけだよ。何もしていない……そう、何もしていないんだよ、君が僕のことを疑っているのも知っていたし、だけど気にしなかった。当たり前じゃないか、君の秘密は重大なんだから、そんなのに、そんなのにこんな酷い謝り方、ソッチの方が傷つくって!」

 いつの間にか拓生の目にも熱い雫が湧いていた。彼女のこの大げさな謝罪は、鏡を返せば、それだけ信用されていなかった、ということになる。 

 ―─そりゃそうだろうけど。

 拓生は己を知っている。何の取り柄もない中学三年生だ。しかし、せめて『約束』は守りたかった。

 毫末な誇り、と嗤われようと。

「ご、ごめんね」

 その思考に思い至ったのか、慌てて彩の頭が傾ぐ。

「だーかーらー」

 胸、喉から通じる食道を焼くような感覚に耐えながら、拓生は微笑んで見せた。

「謝らないでって」

「う、うん」

 予期していた反応とは違ったのだろう、明らかに動揺している彩だったが、再度頼むとぎこちない笑顔になる。

「あっ」

 拓生はわざとらしく声を出した。こんな気まずいときは強引に話題を変えるのだ。

 折良く、空気の読める賢いお子様が、土煙を立てるほど派手に転んでいる。

「きゃっ」

 彩は拓生の声に導かれそれを見て、腰を浮かせかける。

 聖天使の神聖な母性が、子供、転倒、すぐ助ける。という思考を形成したのだろう。

 が、その前に子供は立ち上がって、何もなかったように友達らと駆け回り出す。

 ほう、と安堵した彩と二人、しばし小学校一、二年だろう数人の児童の無邪気な追いかけっこを目で追った。

「……かわいいね」

 と呟く彩の方が何倍も可愛い。とは口にしない。

 彼女の横顔はどこか侵しがたい、光輝に包まれているようだった。

 夕日が当たり、輪郭が淡い金色に輝いている。

 程なく、時間が来たのだろう、名残惜しげに子供達が別れていく。

 それが契機になったのか、落ち着きを取り戻した彩が、こんどは何気ない口調で語り出す。

「私、こないだ『約束』した時、心配だった」

「うん」 

 拓生も「そうなんだ」という平気な雰囲気で、彼女の仕切直しに応じる。

「だから、少し近くで伺っていたの」

「そうだね、知ってた」

「ごめんね」

「またっ、いいよ、君の偉業に少しでも手を貸せた、て思ったらむしろ鼻が高い」

「偉業なんて」

 驚いたように、彩が拓生に振り向いた。

「君は世界のために、人間の為に聖天使として戦っているんだろ?」

「う、うん」

「だったらスゴいよ、僕のこと何か気に病むことなんか無い、僕は宿題もやってこない適当人間なんだから」

「そんなことないわっ」

 彩は何故か眉根を寄せてムキになる。

「音羽君はいい人よ! 約束、守ってくれたし……それが判ったから私……」

 ここで何か言いかけて、彼女の頭から沸騰したように蒸気が上がるように見えた。 

 だが、拓生はそれよりも興味があった。

『聖天使』にだ。

「ねえ」

「ひゃい!」

 彩は少しうろたえている。

「どうして聖天使になったの? 『契約』したって言ったけど、どうして?」

「はい」

 彼女は正面を向いて座り直す。横顔は真剣だ。

「……どうしてか? と訊かれたら、やっぱりこの世界のため、としか答えられないです。ねえ音羽君、聖天使って何だか知っている?」

「もちろん」

『聖天使』……それがいつ世界に現れたか、そこまでは拓生は知らない。だが、物心つくと、大人達は聖天使という五字を良く連呼していた。

 悪いことをしたら聖天使にお仕置きされるよ。

 聖天使に褒められるような人間になりなさい。

 良い子だね、きっと聖天使も喜んでいるよ。

 そんなことしたらダメ、聖天使に言いつけますよ。

 オレが聖天使だ。

 まあ、大人としたら子供を躾る時に使用する、なまはげやら神様やらと同等に使用するのだろう。ただし『聖天使』は本当に存在していた。

 白い翼で空を飛び、麗しいスカートを靡かせて、無垢なる人の危機に地上に降り立つ美しい少女。

 聖天使。

 青いタイツ姿のアメリカのSの人と同じように、彼女達は率先して、人間の手では余る災害時などに人命救助にやってくる。

 国家ですら彼女達の存在を認め賞賛し、宗教家は「神の使い」と公式に発表した。

 その正体は至る機関の長年の追跡調査でも判明せず(きっとみんな、ぴっこん、されたのだ)、この世界の謎の一つ、敢えて触れない光とされた。

「なるほど」と拓生の認識に、彩は何度も頷く。 

「でもね、一つだけ違うんだよ」

「へ?」

「音羽君、聖天使は『デモン』を倒す存在なんだ、倒さなければならないの、だから人命救助とかは他の聖天使のサービスみたいなものなの、もちろん、大事なことだけど」

「サービス……デモン?」

『デモン』……その忌むべき名称も、拓生は知っている。

 聖天使、と同じようにいつの頃からか世界に潜み、人間を襲い殺す、まさに悪魔だ。

『化け物』と嫌悪すべきもの達は、しかし人外故に人間の勝てる相手ではない。時に物理法則さえも無視する戦闘力を発揮し、一匹のデモンによって、それなりの国家の軍隊さえも壊滅するときがある。 

 聖天使と真逆な存在であり、確かに『アレ』に対して勝てるのは彼女達だけだ。

「そっか」と拓生も納得する。

『聖天使』は『デモン』を打倒する者達なのだ。

 彩は顔をやや上向け、夕焼け雲の先を見ている。

「……中二になってすぐの朝、起きたら知らない場所にいたわ、うーんと、ギリシャの神殿? みたいな所、そこで女神様にあったの」

「めがみ……」

 話しの規模が、徐々に着いていけない領域に向かっている。

「ええっと……スッゴい美人の海外の女の人想像して……洋画とかの女優」

 した。美人で金髪で色白で、胸がもう……。

「そんな人」

 彼女は断言するが、おそらく違う。そこらの説明がメンドくなったに違いない。

「で」異論はあるが、折角の聖天使誕生の秘密だ。腰は折れない。

「それで私、びっくりして……だって起きたら別の場所で、美人の外国人女性とかいて……で、その女性はとても悩んでいるようで、ずっと地球を見ていた」

「ち、ち、きゅう」

「うんっ、地球をそのまま小さくしたような丸い……スクリーン? みたいなもの。それを見ながら『困ったわ、困ったわ』て呟いていた」

 想像しずらい話しだ。拓生はもうツッコミ所も判らない。

「それで、世界を何とかして欲しい、と私に女神様はおっしゃられたの、『人間がおかしくなったわ、困ったわ、困ったわ』て……音羽君」

 前触れもなくフられて、拓生は焦った。感想とか訊かれても、ここまでのところ「やったね」とかしか言えない。

 が、彩は口元を引き締めていた。

「デモン、て何だか知っている? 正体」

「化け物? 悪魔? 妖怪? 宇宙人?」羅列したのは一般のデモンへの仮説だ。

 ううん、と全て否定される。

「デモンはね……人間だよ」

 ―─ニンゲン……そんな怪物いたかなあ? 

 脳内に格納しているUMA大百科を開き、北極とかにいる巨大なカイブツを取り出そうとしたが、それ以前に思い至る。

「て、人間っ! うそ!」

 かつてどこかの出版物で、荒い写真で見たデモンの姿は、確かに人体を模しているようだった。だが、違う。『人間』と定義など出来ない。

 デモンには大体、定型などない。その場その場に併せて、姿を変えていく。

 空を飛びたいときには悪魔のような羽が生え、跳び上がろうとすれば足の筋肉が数倍に膨れる。水の中ではエラ呼吸になり、一昔の怪獣映画みたいな熱線を放出したりもする。

 そんな人間はいない。

「…………っ」

 彩は拓生の顔色から何となく否定的な空気を読み取り、納得する。

「わかるよ……私も最初に女神様のお話、信じられなかったもの。でも本当なの、デモンは……そうなる直前まで、私たちと変わらない人間だったの」

「にんげ、げ」

 喉にゴム片でも詰まったかのように、うまく息も吸えない。

「どうしてただの人がああなっちゃうか、は判らないんだ……でも、そう言うなら、人間の進化にはまだ謎が多いでしょ? ダーウィンの進化論になかった、ウイルス進化説、というのも近年出てきたよね?」

 滅茶苦茶だ。ダーウィンは無神論者だ。しかし彩は『女神』様から聖天使に選ばれたらしい。

 世界は滅茶苦茶だ。

「あるいは、デモン化とは病気、みたいな物かも知れないね。でも、それは世界の秩序、人の命を脅かすものなの。だから私達『聖天使』は必要なの、デモンを退治して、幸福に生きる人々を脅かすデモンを排除する、それが使命なの」

 不意に彩は体を捻って、スカートのポケットをごそごそする。そして大事そうに円形の何かを取り出した。

「これ」  

 彼女の掌の中には、金に縁取られた白と虹色の宝石がある。

 オパールだ。

「女神様が下さった、セントジュエル…これで聖天使に変身するの」

 五月の黄昏はまだ肌寒い。

 拓生は吹き付けた風にぶるる、と身震いした。

 また彼等に沈黙が戻ってきた。

 聖天使の秘密、女神様、デモンの正体。立て続けに聞いた拓生だが、どんな言葉を返せばいいか判らないのだ。 

 沈みそうな夕日に、セントジュエルはちかちかと煌めくが、目をすがめるしかない。

 彼女は何の感想も要求せず、また体を捻って女神様から貰った宝石を仕舞う。

 ぼんやりとその仕草を見ていて、セーラー服に包まれた肩が、まだあまりにも華奢なので、彩が普通の中学三年生にすぎない、と再認識してしまう。

「て」だから、突然舌の上に疑問が乗っかった。

「デモン、と戦うの? 昨夜みたいに」

 あるいは間抜け過ぎる質問だ。戦闘はもう目にしていた、眼前で彼女がデモンと凄まじいバトルを繰り広げたのを、記憶層はうっかりミスでゴミ箱行きなどにしていない。

「え」

 彩にとっても不意打ちだったらしく、目をぱちくりさせる。

「そ、そりゃあ、はい、戦います。えーと、私達の使命だから」

 もう一度『使命』の部分を繰り返したのは、『聞いてたのか? コイツ』という疑いからだろう。

「でもさっ」 

 虹野彩の姿を上から下まで見直す。

 同年代の少女よりかは少し発育がいい。背は高めだし、胸も大きく、体もやせ形ながらなだらかな曲線を描いている。松居の言は良く分かる。

 だが。

「君は、女の子だよね? その……デモンと戦うのって、大丈夫」

「ああ、心配してくれたんだね」

 彼女は拓生の意図に微笑した。

「でも、大丈夫、あのね聖天使は……デモンにとって天敵なの。ええと……シマウマとライオン? ほら大丈夫そうでしょ?」

「そんなことないんだよ!」

 補食関係にある生物の間に圧倒的な力の差など実はない。動物ドキュメントをテレビで観て知ったが、ライオンやトラ、等の猛獣界の王者達も、命がけで狩りをする。相手も命がけだから、どんな反撃を受けるか判らず、傷ついてしまったら、隙を狙う他の動物の餌食となる。

 圧倒的、完全な勝利、は自然界にはない。

「虹野さんは……その、聖天使になれたとしても、あんな常識の通じないデモン、怖くないの?」 

 拓生は怖い。その影が画面にちらつくだけでニュースからお笑い番組へと強制的にチャンネルを変える。人を殺すデモンは何よりも怖い。

 彩は「うーん」と唇に指を当て、しばし考える。

「こ、わいかな? うん、ちょっと怖いかも。でも私が戦うのは使命だし」

 朗らかに言い切る彩に、拓生は嘆息した。

「君は凄いな、僕なんか、君に比べたら本当に野良犬だ」

「そんなことないよっ! ただ聖天使の力がスゴイだけ、音羽君は優しい人だよ」

「え?」

 彩の頬が燃えているように、赤い。

「だって、聖天使の心配なんて普通しないよ? みんな勝手に私たちが勝つって信じているし、勝手に崇めているだけだよ、なのに音羽君は……」

 その時、ふと訪れた。

 日の光が地平線に没する寸前の、何もかもが朧になる瞬間。

 音羽拓生と虹野彩は見つめ合った。

 何かの拍子に近づいてしまった顔に、彩は最初驚いたようだが、すぐに真面目な表情になる。

 見つめ合う。呼吸を合わせているかのように、時が止まったかのように。見つめ合う。互いを細部まで覚えようとしているかのように。見つめ合う。

「あの……」

 彩の声はどこか上の空だ。

「音羽君……その」

「うん、何?」

 拓生が優しく促すと、催眠術にでもかけられたかのように、茫漠と彼女は言葉を継ぐ。

「お話、の目的、なんだ、けど……お」

 拓生の目の前で、彩が大きく呼吸する。重大決心の前らしく、耳まで朱に染める。

「私たち……お友達にならない?」

 驚きに目を開くと、彼女ははたと心づき、あわあわと補足する。

「あうう、だってね、考えて、もう監視とかしたくないし、でも聖天使のことは知られちゃったし、教えちゃったし、だから、その、いろいろ考えて、鑑みて、友達になったほうが、その、私、嬉しいです、だから」

「僕でいいの?」

 彼女の申し出は、拓生を呆然とさせた。

 取り柄のない、運動も勉強も中途半端な少年。桜井のような超人でない、普通人。

 血統書付きじゃない、腹ぺこ野良犬。

 拓生の自己採点だ。そんな些かな存在に聖天使たる彩が友情を持ちかけてきたのだ。

「当たり前でしょ」

 彩は力強く首肯する。

「音羽君は自分の評価、低いよ、野良犬って何? 私にこんなに優しくしてくれるし、約束も破らないし、素直だし、校則守っているし、服着ているし、ズボン履いてるし、靴下履いているし、靴履いているし」

 どうやら彩は混乱している。最後に付け足した色々な部分が余計すぎる。 

 拓生は恥ずかしさを隠そうと唇を尖らせている彩の前で、沈黙した。

 彼女は嬉しいことに彼への点数を不当に高く採点してくれたようだ。

 実際、拓生は自分の駄目さ加減を誰よりも知悉している。

 こんなに褒められたことはない。

 彼のテンションがぐんぐん上がったのは、仕方のないことだ。

「ありがとう! スッゴくうれしい。うん、友達になろう」

 もう泣きそうな拓生が了解すると、彩はほっとしたようだ。

「よろしく、音羽君」

「よろしく、虹野さん」

 彼女はちょこっと首を横に傾ける。

「にじのさん……なんだか他人行儀だね、あや、でいいよ」

 良くなかった、学校内で女の子の下の名前を呼び捨てなど出来ない。

「どうして? 友達なのに」

「じゃあ、君は僕を、たくみ、て呼べる?」

「当たり前です、たくみ……くん」

「あ」

「だって、だってっ」

 彩は二つの拳をぶんぶん振る。

「……恥ずかしい」

「ほら、下の名前を呼ぶのは恥ずかしいよ」

 むー、と彼女は唇を結ぶ。

「た、た、拓生君、て呼びます、私は恥ずかしくないモン」

 くん、を足しているクセに、やってやった感満載だ。

「なら、僕は虹野さんを、虹野さんて呼ぶー」

「ちっとも変わってないでしょ! あ」

 反論しかけ、彼女は固まった。

 スカートの上から、先程セントジュエルを出したポケットを抑える。

 さっと顔色が変わる。表情も恥ずかしがりな女の子のものではなくなった。

 精悍で神聖な、聖天使の横顔だ。

「拓生君、ごめん」 

 ベンチからスカートをはためかせてすっと立った。

「デモンだ」

 拓生は息を飲む。聖天使には感知能力があるようだ。人間の脅威の出現をどこかで捉えたらしい。

「行かなくちゃ」

「大丈夫?」それは心細い問いだったのだろう。聖天使の彩は、今出来た友達に、敢えて余裕しゃくしゃくを演じてくれた。

「もちろん! んじゃあね、気を付けて帰ってね」

 と、彼女は駆け出した。真っ直ぐ公園の出口へ。

 三つ編みを揺らす小さな背中が、ぴゅーと遠ざかるのを見送り、拓生は再び思う。

 ―─僕に出来ることはないかな?

 今度は有名になりたいからではなく、可憐な友達のためだ。


 聖天使はデモンの天敵。

 それは指摘されてみれば当然だった。人間が決して敵わない『化け物』を聖天使が倒しているのは、誰もが知ることだから。

 虹野彩が変身する『聖天使オパール』も、デモンに対抗するあらゆる力を持っているのだろう。 

 だが音羽拓生は、その日そわそわと落ち着けなかった。

 彼の脳裏に浮かぶ内気でか弱い少女が、デモンを倒す姿を想像できないのだ。

 泣きながら逃げまどう姿は楽に想像出来る。

 ─―虹野さん……本当に無事かなあ。

 だから次の日、教室でいつも通りの彩を見つけ、思わず駆け寄っていた。

「虹野さん」

「あら、拓生君、おはよう」

 いつも朝早く登校する真面目っ子は、朝日の薄いベールの中、ぴょこんと頭を下げる。

「おおお、はよう」咄嗟にろれつが回らない。

「どうしたの? 何かあったの?」

 虹野彩は頬に手を当てて心配してくれる。

 心配していたのは拓生なのに。

「何かって」 

 はた、と周りを気にする。

 学校で目立たない二人を観察する者はいない。皆、自分たちの話題でさざめいている。

「昨日のデモン」

 小声で囁くと、彩は太陽のように顔を輝かせる。

「らくしょう……心配してくれたんだね? ありがとう」

「いや、そうじゃなくて、ほら、何だか、気になって」

 かっと首から上に熱が上がる。目から火が出そうだ。

 心配していた。確かに心配していた。だが、それを本人の口から聞くと、恥ずかしい。

「あのね」 

 彩は松居の目を奪う、ボリューム感ばっちりの胸部を張った。

「私、聖天使オパールは簡単に負けないの、拓生君は何か私の力を疑っているようだけど、そこら辺とっくりとお話ししなければいけないね」

 どこか自慢げだから、拓生としては意地悪したくなる。

「そうやって油断していると転ぶんだから、足元のバナナとかに気付かずに」

 彼女の目が二回り大きくなる。

「何で知っているの! 昨日の戦いも見てたの?」

「ころんだんだー」

 なま暖かい視線を浴び、カマをかけられたと悟る。

「し、仕方ないでしょ! でも何もなく勝てたんだし、問題ないでしょ」

「ころんだんだー」

「もう! えいえいえいっ」

 彩は肩たたきのような手つきで、ぽかぽかと叩いた。

「拓生君は意地悪です! もう知らない!」

 ぷんぷん、と肩を張って彼女は席に戻っていく。

 拓生は全く振り向かない機嫌を害した背を見て、逆に安堵した。

 事故はあったようだが、彩は無事だ。

 昨夜丸々半日不安だった分、胸にぬくもりが広がる。

「ふーん」

 と、耳元でからかうような声を聞いた。

 硬直する。

 遥が、那智遥がいつの間にか横に立っていた。

 いつも通り目立つ容に校則完璧無視の薄い化粧を施して、茶色の巻き毛を指でくるくると弄んでいる。

「虹野と仲良くなったんだ」

 爆発しそうな心臓を抱える拓生などに構わず、遥は小鳥がさえずるように尋ねてくる。

「う、うん」

 拓生の舌ははっきりと感覚で分かるくらい、びりびりと痺れた。

 突如気になる。

 彩が無事かを早く確認したくて、今朝、身だしなみを一部省略したのだ。

 寝癖により、髪型がいびつになっているはずだった。

 ちくちくと羞恥心を刺激する程、気になって仕方ない。

「へー」

 遥は笑うように唇を歪めと、少し感心したように腕を組んだ。

「でも、今まで気にもしていなかったケド、虹野って結構可愛いのね」

 肯定も否定も出来ない。

 ギリシャ神話の伝説の怪物を目にしたかのように、石像にでも変わってしまったかのように、体は固まり体温も下がっていく。

 くすくすくす。

 石化をさらに促進する小さな笑い声が、背後で上がる。

 三國えみりと武藤望は、当然遥の近くにいた。

 神明中の最高カースト女子三人組は、いつもつるんでいる。

 石設定のまま、かちかちの体を苦心して振り向かせると、男子生徒達の視線を跳ね返しながら、目立ちすぎる少女達がいた。

 ため息しか出ない。

 三人は明らかに他の女子生徒とは違った。 

 恵まれた容貌を各種コスメでさらに磨き、制汗スプレー程度が限界の一般中学生とは違い、さわやかな果物のような香りを漂わせている。実際、彼女達は何かを語るたびに華やかに香るから、免疫のない男子は赤面するしかないのだ。 

 そして、何よりオーラがあった。自らへの自信を空気へと転化させた、圧倒するような存在感だ。

 拓生は今更ながら、幼馴染みの少女との間に絶対的な差が横たわっていると、思い知った。 

「んじゃあ、せいぜい仲良くね」

 まるで嗤っているような、揶揄する言葉を残して遥は去った。

 しばし、酔うような馥郁たる香に浸る。

「はあ」

 彼女が教室の端まで遠ざかった後、拓生は肩を落としていた。

 特に何かがあった、悪く言われた訳でもないが、心がざっくりと傷ついていた。

 いつも必ずそうなる。

 今の遥と一言かわすだけ、それだけで拓生のヤワな心は切り傷を負ってしまう。

 気のせいとか、自意識過剰の類なのだろうが、那智遥とは、女の子は彼にとってそんな存在だ。

 だが、それでも、しかし、機嫌は良くなった。

 懸案だった彩の無事も確認できた……否、何より、久しぶりに遥と会話できたのだ。 自然と鼻歌を歌いながら軽い足取りで、自らの席に向かった。


「拓生君」

 と、彩が声をかけてきたのは昼休みだった。

 昨日『友達』になった二人だが、学校で極端に仲良くすることは躊躇っていた。

 まだ照れがあるのと、他の生徒達から見て不自然に思われるのを憚ったからだ。

 だから拓生は最小限の挨拶くらいしか、それまで交わさなかった。 

 が、四時限目の受業が終わり、給食を食べ終わった後、彩が改まった口調で正面から話しかけてた。

「ん? どうしたの?」

 彼女の眉辺りに困ったような気配を見出し、聞き返した。

「あの、もし良ければ、手伝って欲しいんだけど……今暇?」

 暇だった。

 彼のような友達の少ない者にとって、長い休み時間はむしろ苦痛だ。過ごす術がないからだ。

 だが、例えそうでなくとも、彩が困惑しているのならいつでも暇になる。

「うん、何?」

「ありがとう」と申し訳なさそうに謝った彼女は、次の受業『英語』に使う問題集を職員室まで取りに行かねばならない事、一人では重くて無理そうだから応援を頼んだ事を簡潔に説明した。

「いいけど……」

 拓生は黒板の端に視線を走らせる。

 彩がその役目なのは、今日の日直だからだ。

 しかし普通日直は、このような事態を想定して、出席簿から男女一組が選ばれる筈だった。

「あのね」彩は眼鏡の下で濃い睫を伏せる。

「松居君、遊びに行っちゃって……」

 ─―あいつ。

 内心舌打つ。

 確かに黒板の右隅、日直の欄にあるのは彩と『松居吉郎』の名だ。

 松居はその性格から友達が多い。

 内向的な拓生とは逆に、休み時間に遊ぶ相手に事欠かないのだ。

「わかった」頷き椅子を引く。松居などどうでもいいが、彩の危急は何とかしたい。

「ありがとう」

 彼女は嬉しそうに目を輝かせた。

 共に一階の職員室へと向かい、英語担当の喜山先生から指定された問題集を受け取る。

 確かに意外に骨だった。

 十枚つづりのプリントをクラス分。つまり数百枚に達する。

 聖天使の力をおおっぴらに使えない彩一人では、運ぶのに何度か、往復しなければならなかっただろう。

 とは言っても、拓生が余裕だった訳ではない。元来力のない彼は彩同様、苦労した。

「……重いね」

 抱えるようにプリントを腕に乗せ、ふうふう息をつきながら階段までたどり着く。

 三年生の教室は三階だから、ここから階段を上っていかねばならない。

「ごめんね、大変なこと頼んじゃって」

 と彩がしょんぼりするから、「いいんだよ、気にしないで」と慌ててフォローする。

 彼女だって重いはずなのに不平を一言も言わない。自分だけ口を滑らせてしまったのが悔やまれる。

 ─―軟弱だなあ、女の子が頑張っているのに。

 拓生は自分自身を叱咤した。

「でも、拓生君が居てくれて助かりました、私他に頼める男の子いなくて」

 階段をゆっくりとバランスを取りながら上がりつつ、彩が感謝してくる。

「いいんだよ、それにしても……これ、次の時間やるのかなあ?」 

 強引に話を変える。彩に褒められるとくすぐったくて仕方ない。

「うん、大変だね」

「大変どころじゃないよ」

 秒単位で感覚がなくなっていく両腕と、英語の時間を思い奥歯を噛みしめる。

 喜山先生の受業はいつもこうだった。

 プリントをやって、その答え合わせと同時に進めていく。

 教師それぞれに教える方法があるのだろうが、拓生は喜山先生の下心を見抜いていた。

 生徒がプリントに取り組む時間、自分は教頭になるための昇任試験の勉強をするのだ。

 喜山先生は既に五〇歳を過ぎている。第一線の教師として生徒と相対するのに限界を感じているのだろう。

 だが、それは先生の勝手な理屈だ。

 プリントをやらせて……という部分が拓生には手を抜いているように感じられ、正直、喜山先生は好きになれない。しかも……。

「これ、授業中にゼッタイ終わらないよ」

 重量嵩むプリントを抱えながら、嘆く。

 終わらなければ自動的に次の時間までの宿題となる。これほどの量なのは、三年四組が次の時間の英語を終えると明日の時間割にそれがなく、明後日から土曜、休みに入る。という計算をしたからなのだろう。

 三日かけてやれ。とのお達しだ。

「そうかな? なんとかなりそうだけど」

「かぁー」彩の優等生発言に、拓生は呻く。

「それは虹野さんだからっ、僕は十日かけてもムリかも……プリント……燃えるかなあ、ふふふふ」

「た、拓生君、正気になって! 燃やしても怒られるのには変わらないよ。もっと現実を見つめて……今日できなかったら、私が教えてあげるから」

「ホント?」

 下降気味だったテンションが跳ね上がる。

 つまり放課後や休みの日にも彼女と会えるのだ。女子との交流イベントが数年間全く無かった拓生にとって、なかなか悪くない事態であった。

「うん、今日のお礼」

 はにかむ彩と拓生は、プリントの輸送を三階まで後少しの踊り場まで達成した。

 拓生は気配に顔を上げる。

 下から辛うじて見える三階の廊下に、イケてる三人衆を見た。

 喧しく横切っていく。

「うん?」

 気のせいか視線を感じた気がした。気のせいだろう。

「きゃっ」

 すぐ側で彩の声を聞いた。拓生も「わっ」と驚く。

 嫌な感触が肘にあった。少し目を離した為に、それが彼女の肩当たりに当たったのだ。

 彩がプリントをぶちまけながら倒れていく姿は、まるでスローモーションのようだった。

「虹野さん!」

 さあ、と頬の温度が下がる。

 彼女の横で中腰になり、声をかける。

「ごめん、大丈夫?」

 冷たい酸素で肺が凍える。だが、彩は照れたように見上げて来る。

「えへへへ、転んじゃった」

「ご、ごめん、僕が悪いんだ。よそ見してて」

 ぶつかってしまった。

「ううん」彼女は散らばったプリントを集めようと体を起こす。

「私も不注意だったか……、いたっ」

 数枚のプリントを集めようとした彩だが、すぐに顔をしかめた。

「虹野さんっ」思わず、大声を出していた。

 彼女は右手を胸の所に抱いている。 

「へいき」

 明らかに嘘だった。彩の顔色は悪く、胸にある右手は震えている。「平気なもんかっ」

 拓生は己の迂闊さに悔やんでも悔やみきれない。よそ見した挙げ句、彼女を転倒させ怪我まで負わせたのだ。

「ええと、どうしよう」

 プチパニックになりかけたが、「なんだ? どうした」と偶然通りかかり異常を見かけた誰かが、落ち着いた声で問うてきた。

 振り向くと見知った、整った容姿の長身の少年がいた。

「さくら、い」

 拓生は思わずその名前を口に出していた。

 桜井裕太。神明中学校の男子の方のイケてるカーストトップ。

「何だ、音羽か」

 桜井は日焼けした顔に物問いたげな表情を浮かべている。

 拓生の胸に一瞬遥の姿がよぎったが、今はそれどころではない。

「桜井君……ええと、頼みがあるんだ。プリントを運んでいたら虹野さんが転んじゃって、手を痛めたようなんだ」

「わかった」

 成績もいい桜井はすぐに了解した。

「俺がそのプリントを集めて持っていく、……四組だよな? 遥のところ」

 ずきりとした痛みを心臓辺りに感じながら、拓生は首肯する。

「虹野さん、保健室へ行ける? 僕は桜井君とこのプリントを」

「バカ」

 桜井は拓生の言葉を途中で遮った。

「お前も行ってやれよ、女の子一人だろ?」

「でも」

 腕にあるプリントは、かなり重い。

 だが、桜井はやすやすとそれらを抱え上げた。

「ほら、後半分だろ? 俺なら一人で楽勝だ、虹野を保健室へ連れて行ってやれ」

 拓生はぼんやりと桜井裕太を見つめた。

 二重の目と輝く瞳、高い鼻梁と薄い唇。今流行りの王子様系の顔立ちをしている。だが、バスケット部で主将とエースを兼任する体は逞しく隙もなく、確かにモテない要素を探す方が難しい。

 さらに、さらにだ、彼は性格もいい。

 こんな風に、誰かが困っていると躊躇無く手をさしのべてくる。

 友人の数も好意を寄せる女子の数も、拓生などとは桁違いだという理由を、計らずともたった今垣間見てしまった。

 拓生は桜井を知っている。桜井も拓生を知っているだろう。

 一年生の時分同じクラスだったからだ。

 ほとんど会話した記憶はない。その時からいつも話題の、人の輪の中心にいた桜井と外れていた拓生。接点はない。

 ただ一度、『山の学習』とか呼ばれる行事で、彼が体調を崩したとき、桜井は率先して面倒を見てくれた。

 ―─ああ、こいつには勝てない。

 拓生は数年前に、もう桜井裕太に全面降伏していた。

 だから遥も彼を選ぶのだ。

「おい、何してんだ」 

 桜井が整った眉を上げた。

 は、と我に帰った拓生は、立ち上がろうとしている彩に手を貸す。

「桜井君、一人で大丈夫かい?」

 最後にもう一度確認するが、彼はふらつくこともなく片手で拓生の分のプリントを持ちながら、もう片手で彩の分を回収し終わっていた。

「おお」と何事もないように返してくる。

「行こう、虹野さん」

「はい」 

 拓生は彩を庇いながら、一階へとゆっくり下りて行く。

 どうしようもない敗北感に押しつぶされそうな内心を隠して。


「軽い捻挫ね、二、三日、運動は止めときなさい、体育は見学ね」

 養護教諭の飛田先生は敢えてなのか、取るに足らないという口調と笑みで、そう彩に命じた。

「はい、すみませんでした」

 彼女は包帯ぐるぐる巻きの右手を左手で掬うように持つと、丸椅子から立ち上がり、ぺこりと頭を下げる。

「まあ大丈夫だと思うけど、痛みがあったらすぐ来なさい」

「はい」 

 拓生の見ている前で彩はもう一度、深く礼をする。

「ごめんね」

 保健室から出てすぐ、彼女はしょんぼり拓生にも謝ろうとした。だからすばやく下がりかける額を手で押さえる。

「待った、どうして僕に謝るのさ? 悪いのはぶつかった僕なんだから……ごめん」

「そんな、こと……私、やっぱり調子に乗ってたんだと思う、拓生君がさっき言ったとおり、だから注意力が散漫になってたんだ、だから」

「やめよう……」

 拓生はそこで止めた。これ以上の自責のし合いは無意味だと感じた。

「うん」

 彩も思い至ったらしく、小さく同意する。

「プリントも桜井君が持っていってくれたし、アイツはイイヤツだから気にするなって」

 わざと軽い口調を作った拓生は、まだ落ち込んでいる彩を元気づけようと試みた。

「みんなに迷惑かけたな……」

「こら」

 また自虐モードに逸れ出す彩を、叱る。

「虹野さんは一個も悪く無いんだよ。元々松居がさぼったのが元凶なんだし。強いて言うなら、真面目っ子なのが災いだね」

「なによっ」

 ようやく彩の目に強い光が戻った。

「真面目なのは良いことですよー、私、真面目っ子でいいモン」

「でも少しは冒険しないと、今時、何もかも白ってねー」

 しばらく無言で二人は歩いた。 

 ―─意味が通じなかったのかな?

 拓生がそう心配した頃、彼女は意味に気付く。

「はわっ! それって!」

 ぼふっ、と湯気を立てて真っ赤になった。

「たたたたた、たきゅみ君、みみみ、見にゃの?」

 彼女は、言葉を噛みながらスカートの前後ろを両手で挟むように抑えた。

「事故です」

「あうわわわ」

 信号のように彩の頬が赤青に点滅する。

「事故です」

「ひ、ひどいよ。それならば黙っていればいいものを、わざわざ口にしなくても」

「え? 何のこと」

「だからっ」

 珍しく、彩の語調が荒い。

「私の下着を見たんでしょ?」

「誰が? いつ? どこで? そんなこと僕言った? て、やっぱりそうだったんだー」

 己の失言に彩が、はっ、と全停止する。

「ううう」

 数秒のタイムラグの後、彼女が恨めしそうに下から覗く。

「意地悪だ……拓生君は意地悪だ、そうやって私をからかって喜んでいるんにゃ、変態!」

 ヘンタイ……意外に突き刺さる言葉だ。噛んだことは一端置いておく。

「ひどいよ! 僕はただ君が転ぶ時にスカートから見えた事実を伝え、さらに日記にでも書こうと決意しただけなのに」

「それが変態行為なの!」

 拳を振り上げて彩は怒る。

「事故です」 

「むうっ、下着が見えたのはそうだけど、その後に続く行動に悪意がありますっ、えい」

 惚けている拓生に、彩が掴みかかってきた。

「わあ、何をするんだ」

 普段教室の片隅で下を向いている彼女とは思えない行動に、拓生は目を白黒させてしまう。

「私だけ下着を見られたのは不公平極まりない事、非常に遺憾です、だから、拓生君のを見ます、見せやがれ」

「な、そっちこそヘンタイじゃないか!」

「事故なのよー」

「どこがだ、襲いかかっているっ」

 が、二人のじゃれ合いは長く続かない。

「いたっ」 

 彩は顔をしかめて右手を押さえ「あ」と拓生も焦る。

「ほら、虹野さんは怪我人でしょ? はしゃいだらダメだよ」

「……うん」

 今までの元気が嘘のように、彼女は萎れた。

「しばらく運動はダメ、か」

 困惑の中、拓生は呟く。

「うん? そうだけど、どうして拓生君がそんなに落ち込むの? 私的にはラッキーだけど、体育休めるんだよ! ほら私、運動神経壊滅しているから」

 小首を傾げる彩に、弱々しい笑顔を向けた。

「虹野さん、忘れているでしょ? 君は普通の学校生活ばかりじゃないんでしょ?」

「あ!」

「虹野さんは聖天使なんだから、運動どころの話じゃないよ……デモンとの戦いって、とっても激しいよね?」

 いつか見た光景を忘れていない。

「そ、そうね、でも何とかなるわよ」

「うーん」

「……て、どうして拓生君のが落ち込んでいるのよ。心配症ね」

「心配するよ!」

 のほほんとした彩に、拓生は少し苛立つ。

「あ!」

 そんな折に、彼女の表情がいつかのように硬化したので、拓生の背筋に電撃が走った。

「まさか……」

 恐る恐る尋ねると、彩は頬を引き締めて頷く。

「デモンだ……私行かなくちゃ」

「だめだ」

 宙に浮く羽のようにふわりと踵を返した彼女の肩を、反射的に掴んでいた。

「今どんな状態だか判る? 君は怪我をして居るんだ」

 が、彼女の視線は厳しい。

「こんなの大丈夫、私はデモンを倒すのが使命。さぼっていられないの」

「虹野さん!」

 拓生が食い下がると、彩はふっと口元を綻ばせた。

「ありがと、拓生君、心配してくれて嬉しいです、でも私が何とかしないと、沢山の人たちが困るの、もっと痛い怪我をするの」

 そして包帯ぐるぐる巻きの右手を、ちょこっと持ち上げる。

「このくらい大丈夫、余裕よ。私は女神様から、世界を人を守るように選ばれたんだから」

「じゃあ」

 なだめるような口調の彩に、拓生は抗う。

「じゃあ、誰が君を守のさ?」

 それは今まで考えて、思ってもみなかった事なのだろう「え」と彼女の動きが止まった。

「ええと……う、うん……だから、私の為にセントジュエルもあるし……聖天使になれば体も強くなるし……だから」

 しどろもどろの彩を前に、拓生は決意した。

「僕も行くよ」

「え」

 一瞬意味が分からなかったのだろう、彩はぽかんと口を開いた。

 清潔な真珠色の前歯が少し覗く。

「ダメだよ!」

 次には意味を悟って、ぶんぶんと首を振った。

「何言ってんの、拓生くん。そんなの出来るわけ無いじゃない!」

「君を怪我させたのは僕だ。だから君の、聖天使を手伝う、せめて手伝うくらい出来るはずだ」

「出来ません」 

 彼女らしくない怖い顔で、言下に否定した。

「デモンは人間の想像を遙かに超越したものなの。だから拓生君が手伝うことなんか出来ない、とっても危険なの、だめ」

 まるで鋼鉄の岩のように、彩は揺るがない。

「なら」と拓生は隙を懸命に探した。

「……見届けたい、本当に怪我してても勝てるのか」

「なっ」

 彩の眉尻が跳ね上がる。彼女にとって拓生の決意は無謀意外の何ものでもないのだろう。

「バカなこと言わないでっ……拓生君、私を困らせないでよ」

 一転、彼女は泣きそうになった。声にも湿りが混じっている。

「お願い、私、こんなに優しい拓生君を危ない目に遭わせたくないの、だから待ってて、私絶対に大丈夫だから、ね」

 それは懇願だ。涙目の彩の精一杯の願い。

 拓生は頑として受け付けなかった。

「嫌だ、僕は虹野さんと行く……僕らは友達だ、君の無事を間近で祈る権利は僕にある!」

 むー、と二人は廊下でにらみ合った。

 先に折れたのは、より優しい方の彩である。

「……わかった」

 がっくりと力無く肩を落とす。

「拓生君、我が儘すぎ、私時間ないのに」

 ぶつぶつ文句はあるようだが、拓生は彼女の中の天秤がもう傾いている事を見抜く。

「連れていってくれるんだね?」

「やくそく」

 彼女は笑顔になった拓生の前に、ずいっと小指を立てる。

「ぜったいデモンに近づかない、危ないことをしないこと」

「うん」

 それは事情によるが、そんな素振りは見せず、殊勝に小指を絡ませた。

「私の言うことは聞く」

「もちろん!」

 大きな声で誓約する拓生だが、彩はまだ少し迷っている。

「……見ているだけだからね、ほんとだからね、ヘンな事したらイヤだよ」

「はい、聖天使様」

 じいっと大きな瞳で拓生を見つめた彩は、やがて大きなため息をついた。

「……なら、行きましょう拓生君、約束守ってね」

 ようやく納得し階段を駆け上る綾の、か弱い背中を追いながら拓生は決意していた。

 ―─虹野さんのためになることをしよう……約束は二の次だ。


 第三章

 デモンは人間である。

 聖天使本人から聞いたことだった。

 しかし、今拓生が目にしている『それ』が人類の成れの果てだと、どうしても信じられなかった。

 確かに、体育座りしているような人の姿が胸の所にあるが、肩から伸びる腕は昆虫のナナフシの足のように細く、しかし手は鋭いかぎ爪であり、背中には蛾のような羽がある。顔は球体のようなのっぺらぼうで、表情も何もはなからない。 

 足は……ない。

 足なんて飾りですよ、なのか、眼前のデモンは長い腕と大きな翼はあるが、脚部に相当する部分で唐突にぷっつりと途絶えている。

 ─―人間て……。

 拓生は胸の中に霜柱が出来たかのように、ざくざく音を立てて戦慄していった。

「拓生君。これから戦うけど、約束忘れてないよね?」

 聖天使オパールエンジェルは、緊張感に満ちた声で今一度確認してくる。 

「判っているよ」

 聖天使とデモンの戦いが始まるのだ。


 数分前。

 虹野彩が向かったのは学校の屋上だった。

 いつだったか、拓生と約束した場所。

 続いた拓生は、雲もまばらな青空の真下にいた。

 彩は慎重に見回しているが、他の誰の人影はない。今はもう五次限目の受業が始まった頃なのだ。

「考えたら」

 ここに来て今更、彩は眉を顰める。

「午後の受業、さぼっちゃうんだけど、拓生君は出ないとダメよ、叱られるよ」

「君は?」

「私は……」

 少し言いよどむ彩だが、すぐに何かを断ち切る。

「怒られても平気」

「なら、僕も一緒に怒られる」

「……本当に一緒に行くのね? 後悔しない?」

「くどいよ。僕は聖天使オパールの大ファンなんだ」

「もう」

 だが、彩も諸々の決意を固めたようで、それ以上の問答はしなかった。

 さっと顔を隠すようだった黒縁眼鏡を取ると、スカートからセントジュエルを取り出す。

 それでなくとも輝かしい晴天だったが、セントジュエルがスカートから現れると、辺りはさらに眩しさを増したようだ。 

 包帯だらけの右手と何もない左手、両手でセントオパールを包む彩は、それを空高くかざす。

「セントジュエル、スパーク! オパールエンジェル、ドレスアップ!」

 虹色の光芒がセントジュエルから溢れた。

 間欠泉のように光が上空に吹き出し、太陽を圧倒した為に、青空が白黒に変わった。

 それが一瞬。そこまでで拓生は目をつぶった。

 痛みに耐えられなかったのだ。

 じいん、と光を目にした瞳は痛み、ぽろぽろと涙がこぼれる。

「拓生君、終わったよ」

 苦心して目を開くと、ぼんやりとした視界に虹野彩が立っていた。

 否、それはもう彩ではない。

 没個性の中学セーラー服は、胸に虹色のリボンを閃かせる白い半袖の上着と、ひだの細かいプリーツスカートに変わり、特徴だった固い三つ編みはほどけ、細かくウェーヴしているロングヘアになっていた。

 顔かたちこそ変化はないが、もともと抜群に整ってい為に、まるで別人、それこそ女神のように美しい少女が、見覚えのあるコンクリートの屋上にいる。

「あああ」

 ぼけっとする拓生に、彩……オパールエンジェルは眉根を寄せた。

「どうしたの? 変身終わったよ、行くなら行きましょう、それとも」

「ああ! もちろん」

 終わった議論を蒸し返される気配を察して、拓生は呆然と見とれる時間を切りつめた。

「離さないでね」

 オパールエンジェルは、痛めていない方の腕を彼の腰辺りに回す。

「え、何すんの? ……片手じゃ、無理なんじゃ」

 がっちりと左腕に抱かれた拓生は彼女の意図に気付き、おそるおそる尋ねてみるが、オパールエンジェルは気にしない。

 彼の体を自分に密着させ固定した彼女が空を見上げると、背にある小さな飾りだった羽が、成長の過程を早回しでもしたかのように、身長の何倍もある白い翼となる。

 ばさり、と一度はためく。次の瞬間拓生は青空の真ん中にいた。

 視界に学校とその周りの建物がある。

 皆、模型のような大きさで、屋上、てっぺんを彼等に向けていた。

 否、自分たちが空から俯瞰している。

 そう気付いた時には、それらは下方へと流れていった。

 オパールエンジェルが加速し出した。

「もし拓生君が高所恐怖症だったとしたら、ごめんね、少し我慢して」

 片腕で軽々と彼を抱きかかえるオパールエンジェルの翼が羽ばたき、さらに景色の流れは速くなる。

 川のように流れる街を見ながら、拓生はふと考えた。

 ─―こんなに速度を上げているのに苦しくない……。

 超高速で移動するということは空気の靄の中を突っ切る、ということだ。そうなると空気の壁にぶつかるような状態になり、高速移動体の周りに突風が吹き荒れる。 

 本来なら呼吸もままならないだろう。

 しかし、聖天使に抱かれた拓生は楽に息が吸える。それどころか、体に当たるのはそよ風程度で、髪が揺れる位でしかない。  

 空気の流れはどうなっているのか? 拓生は尋ねようと首を捻った。

 オパールエンジェルの顔が間近にある。

 虹野彩の時とは比べられないほど、険しく真剣な表情になっていた。

 ─―そうか。

 拓生はここでそんな質問が無意味であると、むしろ愚かであると納得した。 

 彼女は戦いに赴く。

 世界のため、人のため、命をかけてデモンと戦うのだ。

 声をかけてもいいものか、拓生は前方を見据えるオパールエンジェルの横顔をじっと観察した。 

 ─―虹野さん……?

 彼はオパールエンジェルが虹野彩だと知っている。だからその顔かたちも勿論記憶している。なのに、こうして見つめている間にも印象があやふやになり、記憶層から容姿の項がすうっと抜けていくのを感じた。

 女神とやらの力なのだろう。だから聖天使達は顔を見られても正体がバレない。

 それこそ決定的な場面を抑えない限り。

「あれよ」 

 拓生が聖天使についての色々な発見に一人驚嘆していると、オパールエンジェルが鋭く一言発した。

 振り向くと、いつの間にか繁華街の上空にいた。駅も程近い街並みが真下に広がっている。

 彼女が指摘したデモンは、すぐに見つかった。

 ビルとビルの間に異様な何かが飛んでいた。

 ボーリングの球のような頭、蛾のような翼、細くて長い腕。胸には蹲っているような人型。

「で、デモン……」

 拓生の舌がもつれる。

 聖天使が倒す相手、人類の脅威はひらひらと宙を飛んでいる。コールタールのようなねっとりとした黒色の体色が、妙に青空に栄えていた。

「拓生君は、ここにいて」

 不意に下のビル、真四角の灰色が大きくなった。

「わわ」と肝を冷やす彼に構わず、オパールエンジェルが急降下した。

 小さかった四角が一瞬で視界一杯に広がって、次にはそれがどこかの屋上であると、はっきり判別できるようになっていた。

「約束守ってね」

 オパールエンジェルはそう言い残すと、拓生の腰から手を抜いた。

「あ」と焦りの声を出していたが、苦もなくコンクリートの床に着地する。

「麗しき夢と未来への虹、セントエンジェル、オパール!」

 声に顔を上げると、オパールエンジェルが真っ直ぐデモンに向かっていく所だった。

 空を切り裂くような聖天使の拳。しかしデモンはひらりと闘牛士のようにそれをかわす。

『ワダジノアジ……ワダジノアジ……ワダジノアジッッッ!』 

 機械仕掛けのマジックハンドのようなデモンの腕がくいっと曲がり、オパールエンジェルへ急進する。

 ぎらり、と金属めいた鈍い光を照り返す大きな爪が、細い腕の先端部分を突き破って出ていて、見ていると不安になるほどアンバランスだ。

 華麗に、まるで新体操の輪くぐりのようにオパールエンジェルはその一撃をすり抜けた。そしてそのままデモンの上へ飛翔すると、ぶん、と一回転して球体の頭部にキックを叩き込む。

『グギャャャャ』

 耳を覆いたくなるような悲鳴が辺りに響いた。

 頭部を蹴られたデモンが発したものだ。しかし、黒い体が空中で少し傾いだ程度で、大したダメージを負っていないのは明白だ。 

 ─―これは……強敵なんじゃ……。

 拓生はいつの間にか汗だくになっていた。制服の下に着込んだシャツが肌にまとわりつき、額を撫でるように汗が流れていく。

 彼は一度、聖天使とデモンの戦いを見ていた。

 しかしその時は暗く、さらに身を隠していた。

 ここまで至近ではっきりと彼女達の戦いを目にするのは、これが初めてだ。

 デモンは蛾の羽を蠢かせ、上昇したオパールエンジェルのさらに上に出る。

 空中戦のセオリーが通じるのなら、相手より上にいる方が有利なのだろう。

 オパールエンジェルの頭上を取ったデモンから、細い腕が槍のように突き出される。

 オパールエンジェルはかわそうとした、実際片方の腕は宙を貫くだけだ。しかしもう一方のかぎ爪は彼女の肩に当たっていた。

「あっ」と拓生の喉が震える前に、オパールエンジェルの姿が下方へ消えた。

 ずずん、とどこかで重々しい音が鳴る。

 思わず拓生は駆けだしていた。

 並んで干されているシーツ群から、自分がいる場所が駅前の総合病院だ、と当たりをつけながら屋上の縁、灰色の柵まで走る。

 鉄柵を胸に押し当て下を覗くと、まず唖然と上を見上げる小さな人々が目に入る。

 関係ないから視点を変え、一帯を見回してみる。落下したオパールエンジェルの姿はない。

「どこに……」

 少し唇を動かした拓生は次の瞬間息を飲む。

 隣のビルの五階の部分に大きな穴が開いていた。コンクリートの外壁が破壊され、ぱらぱらと破片が落下していく。

「に……」ニジノサン、と続けようとした声帯が麻痺していた。

 が、彼がパニックに陥る前に、オパールエンジェルは姿を現した。

 ビルの穴から片腕を押さえつつ出てくる。

 深い息を吐きかけて、それが停止する。

 彼女が押さえているのは、先程怪我をした右手だ。

 ─―やっぱり。

 だが、オパールエンジェルは果敢にもまた飛び上がる。

 負傷していない左腕を前に、超速でデモンに迫った。

『グギギキャャャャ』

 ただの黒い球体がぱっくりと割れ、デモンが吠える。

 オパールエンジェルの飛行パンチが、腹部に突き刺さった。

「やった!」

 デモンが空でぐらり、と揺れたのを見て拓生は快哉を叫びかけた。しかし今度は球体の顔面が剣玉の玉のように飛び出し、オパールエンジェルの顔面を直撃した。

 彼女の方がふらつく番だ。

「なんだよっ!」

 拓生は固く拳を握りしめ、奥歯を鳴らす。

「何が余裕だ、ぜんぜん互角じゃないか」

 むしろ負けている、とは流石に口に出来ない。

 実際、遠目からもオパールエンジェルの苦戦は判る。

 女神様から力を与えられた聖天使でも、地上の生物の理から外れた『化け物』を相手にすると分が悪いのかもしれない。

 それとも、やはり捻挫した右手故に、本当の力が出せないのか。

 終わりのない消耗戦が始まった。

 一方的にオパールエンジェルがパンチ、キックを繰り出し、デモンが防御し、今度はデモンが長い腕で彼女を力任せに打ち据え、それに聖天使がいなし、堪え忍ぶ。

 一進一退。どちらが有利とも不利とも、素人の拓生には判別が付かない。

「オパールエンジェル……」

 祈るように見つめている先で、ついに均衡が崩れた。

 デモンの爪に囚われたオパールエンジェルが、すごい勢いで押されている。

 拓生が見たのは、ぐんぐん大きくなる彼女の背中だ。

 ─―こっちに来るっ!

 慌てて逃げる背後で、金属がぶつかるような音が上がった。

 どぐん、という衝撃が背を打ち、拓生は滑り込むように転んだ。

 ばらばらと振る砂埃に視界が奪われ、全身に細かな粒子が被さってくる。

 両手で頭を庇って縮こまる拓生だが、「ううう」というオパールエンジェルの小さな苦悶を聞いて、ぱっと半身を起した。

 振り向くと、屋上の三分の一近くが潰れていた。コンクリートがえぐれ、黒い断面を露出させている。

 鈍くなる心臓を奮い立たせて見回すと、オパールエンジェルは意外に近くにいた。

 仰向けに、病院の屋上コンクリートにはまり込んでいる。

「にじ……オパールエンジェル」

 我を忘れ、拓生は走り寄った。

「う、うう」

 だが彼女の生気が抜けたような白い顔を間近にし、足が動かなくなる。

「だ……い」大丈夫か? と問おうとしたが、舌が口腔に張り付いて言葉にならない。

『ワダジノアジ……ワダジノアジ』

 立ったまま気絶しそうになる拓生のすぐ近くで、獣が吠えるような叫びが上がった。

 ─―ああ……。

 ふにゃ、と彼はその場に膝を突いた。

 デモンが真正面に現れたのだ。

 ばたばたと羽を動かし、棒の組み合わせのような腕をくねくねと動かしている。

 頭部にある球体はぐるぐると回転していたが、拓生を前に、不意にぴたりと止まった。

 ─―見られている。

 腰の当たりから力と熱と感覚が抜けていくのをはっきり意識する。

 おかしな話だ。

 このデモンには目のような器官が無いのに、目を見開いてじっと上から下まで睨めつけられているが判る。

『ワダジノアジ……』

 拓生もだから見つめた、デモンの動きの全てを凝視した。

 金属のような爪を先端に生やす細い腕が、音もなく持ち上がる。

 ─―あ、そうか。

 拓生は理解する。

 あれが頭上に落ちてきて、彼の体を熟れたトマトのように潰すのだ。それで終わるのだ。

 人生の終焉。死。Dead・End。おしまいおしまい。

 走馬燈なのか、最近滅多に会えない父母の姿と……遥の微笑みが、流れるように脳裏に走る。

 予測通り、デモンの爪は拓生目掛けて無慈悲に落ちてきた。 

「ジャッジメント・レインボゥ!」

 七色の光が横切り、寸前に迫ったデモンの腕を包む。

『グギャャャャッッッッ』

「ええ?」

 くぐもったうなり声に目を開けると、拓生の命を奪うはずだったデモンの腕が消えていた。

 ぷすぷすとデモンから白煙が立ち上り、嫌な匂いがした。

「えい!」

 オパールエンジェルの跳び蹴りを食らった化け物は、キューに弾かれたビリヤードの玉のように吹っ飛んでいった。

「拓生君!」

 呼ばれて驚いた。コンクリに埋められた彼女だったが、かすり傷一つない。脅威の防御力である。

 ─―女神スゲー……。

 ただ、復活したオパールエンジェルは怒りに満ちていた。

 激情の発露を堪え、奥歯を噛みしめているのが判る。 

「何で逃げないの? 今諦めたでしょ!」

 熾烈な瞳に抗しきれず、拓生は下を向く。

「だ、だって……ええっと」

「だから言ったのよ、デモンになんて関わっちゃダメなんだから」

 確かに『戦闘』を侮っていた拓生としては、それを黙って聞くしかない。

「あれだけダメ、てお願いしたのに……危険なのに着いてきて、挙げ句の果てに危なくなったら生きるのを諦めて、バカバカバカッ」

 しかし、彼としても今、指摘すべき事があった。

「あ、それよりも」

「話題を変えようとしてもムダよ、私ひっかかんないもん」

「違うよー、……さっきのビーム? あれでデモンを倒せばいいじゃないか! 最初から」

 デモンはまだ生きている。滅びていない。

 病院ビルから少し離れた上空で、ひらひら飛んでいた。

 見ていると聖天使光線で消された腕は再生するようだ。背中から爪らしき先端が覗いている。血のような液体も吹き出しているが、デモンは気にしていない。

 だが今、さっきのビームを命中させれば、あの威力なら怪物も倒せるはずだ。 

 というか。

「何でアレ、さっさと出さないのさ、チャージに何ターンか掛かるの? MP沢山使うの? 一エンカウントに一回きり、とか?」

「だめよ」

 に続く彼女の答えは意外すぎて、拓生をその場に固定させた。

「あれ……ジャッジメント・レインボゥは威力が大きすぎて、直撃したら、デモンが死んじゃう」

「ば」バカなの? 拓生は口走りそうになり、オパールエンジェルはそれを察した。

「前に言ったでしょ? デモンも人間なの、だから私は殺さない……人間に戻してあげるの……この間だってそうだったでしょ?」

 この間、というのが彼等が知り合う切っ掛けとなった事件を言うなら、拓生は知らない。

 オパールエンジェルの正体を知った途端、逃げ帰っていたからだ。

 デモンが人間に……戻った所なんて見ていない。知らない。理解できない。訳が分からない。

「だからあんなに苦戦していたのー?」

「あ、呆れているでしょ! 何かムカツク、拓生君これ終わったらお話、あるからねっ」

「それどころじゃないよ! じゃあ早く人間にして終わらせよう、何だか君、負けてるよ、弱弱だよ、この負け犬、負け天使?」

「なにおぅ! もう許さないんだから、これ終わったら説教にゃからねっ、正座にゃよっ」

「噛んでるし、それどころじゃ、ないっ!」

 拓生が差す指の先で、もうデモンは復活している。

 ジャッジメント・レインボゥとやらで消滅した腕が再生して……「ぬぇっ」頓狂のような声を出してしまった。

 再生どころか、今まで二本だった腕が倍の四本になっている。

「そりゃあ、デモンだもん」とオパールエンジェルが訳の分からない納得をする。

「もうだめだー、今までだってボコボコボコだったのにゃー」

 拓生が叫ぶと、オパールエンジェルが、きっと睨む。

「どーいう意味? 噛んでるし……ちょっと失礼じゃない?」

 揉めている間に復活したデモンが何でもないように、ふよふよと接近してきた。

「拓生君、お願いがあるの」

 一転、凛々しい表情になり身構えるオパールエンジェルは、ファイティングポーズを取りながら、有無を言わせぬ語調で拓生に『お願い』してきた。

「何?」

「さっき言ったとおり、私はあのデモンを『人間』に戻します、それを『浄化』(ピュアリファイ)と呼びます」

「ぴ、ぴあ……?」

「とにかく、それをするにはあのデモンの素性、どうしてデモン化したのか、を知らなければならないの……実はさっきから接近したときに試しているんだけど、あのデモンはかなり強情で、心を開いてくれない……だから、ちょっと手伝って、ちょこっと」

 オパールエンジェルの目元がほんのり赤い。

 つれてかない、と散々ごねた手前、力を借りるのが恥ずかしいのだろう。

「いいよー、放っておいたら、君はスーパーボールみたいにボコボコ跳ね回るだけだから」

 ぐぐ、とオパールエンジェルが拳を握る。

「はあっ……拓生君のその意地悪な性格、私のパンチだけで治るのかしら?」

「行きます! ボク行きます! オパールエンジェルの助けになれるなんて光栄の極みです……て、どうしろってのさ? デモンの事なんか知らないよ」

「このビル」

 徐々に近くなるデモンから目を離さずに、彼女は説明する。

「このビル、総合病院なんだけど、三階辺りに穴が開いているのを空から見たわ、他は何ともないのに……だから、多分そこにいた人が……になっちゃったの、何でもいいから、名前とか姿が判る物を探して」

 拓生からやる気と力がごっそり抜け落ちる。

「ざっくりしてない? それホント? 大体さあ」

「はやく!」

 一喝に背中を突き飛ばされて拓生は走り出した。病院内へ行く階段だ。

 鈍い音にちら、と振り返ると、再びオパールエンジェルとデモンの戦いが始まっていた。

 ─―スーパーボールになるの、ちょっと待っててね、虹野さん。


 重い鉄の扉を引いた先はひんやりとした真っ白な階段だった。

「さん、かい……だっけ」

 拓生は反射的に踊り場のナンバーを確認する、六階だった。

 一気に下方へと駆け出す。

 二段、三段は当たり前、時には五段跳ばしで、目的の階へと転がるように降りる。

 人の姿がなかったのは幸運だったが、考えてみればデモンが出現したのだ。大半の者は避難しているだろう。

 まだ若く活力に満ちあふれている拓生だが、目指す三階にたどり着いたとき、息も絶え絶えだった。

 ─―階段て、意外にたいりょ……。

 意識が薄れてふらりとするが、辛うじて壁に手を付き体を支える。

 外でオパールエンジェルが命がけで戦っているのに、階段を下りるだけで潰れるのはみっともなさ過ぎる。

 ─―穴が……どこだ?

 病院の内部は突風でも吹いたかのように散らかっていた。 

 床にカルテらしき紙が散らばり、注射器や聴診器などの医療道具も投げ捨てられている。

 やはりデモン出現により皆避難したのだろう、人の姿は皆無で、どこからか吹き込む強い風に、病室を仕切る白いカーテンがふわふわと持ち上げていた。

 拓生はそこら中に乗り捨てられている車椅子を避け、「なら乗ってた人はどうやって逃げたんだ?」と一人ツッコミながら総合病院の廊下を駆け回った。

 一つ一つ病室を覗いていく。

 開いたベッドが沈黙しているだけだ。

 ─―具体的な所を教えてよ!

 オパールエンジェルへの文句がわき上がるが、差し当たって目の前にはいない。

 が、散々迷いはしたが、最後はあっさり見つかった。

 見つけた。

 横に開く扉を開いた時、明らかに今までと違う雰囲気、死の肌触りに触れた気がした。

 それなりの費用が嵩むだろう個人用の病室だった。

 一歩足を踏み入れると、まるで侵入者を外に押しやるような強い風が直撃して来て、よろけてしまう。

 ─―ここだ。

 すうっと胸辺りから温度が消える。

 人間だったデモンがいた場所。デモンが産まれた場所。

 ─―どうしたら人間が、怪物になるのか?

 教えられた時から、拓生にとってそれは大きな謎だった。

 それら全てがこの先の部屋にある。

 すーはー、と深呼吸を数度行い覚悟を決め、威嚇するように時折風に立ち上がるカーテンをそっとくぐった。

「うっ」

 拓生は反射的に口を抑えていた。

 真っ赤だった。

 本来なら白で統一されていたのだろうその病室は、真っ赤だ。

 人間の、血で。

 誰の血液か、考えるまでもない。壁に犠牲者らしきスーツ姿の肉塊がへばりついている。

 しかも二つ。

「うええええ」

 そこまで確認し、その場に蹲って吐いた。

 給食で出た物が見事に全部リバースした。

「うううう」と牛乳の一滴まで吐き出した拓生は、しかしざわざわという不快な胃の感覚にぐっと耐えた。

 オパールエンジェルを思い出す。

 一人デモンと戦う女の子。男の子がここでギブアップ出来ない。

 吐瀉物で汚れた手を、ベッドの血の染まっていない部分で拭き取ると、歯を食いしばり見回す。

 血のスプレーを浴びている他は、どこにでもある個人用の病室だ。

 真正面に大穴が空き、見晴らしが良くなってはいるが、何の変哲もないベッドと、テレビと小型冷蔵庫、そして棚がある。

 拓生は当たり前の取捨選択で棚を選んだ。

 入院患者らしき人物の持ち物がある。

 それはどうやら女の子だったようだ。いたる小物は少女が使用するそれだった。

 壁にめり込む肉塊は二つとも男物のスーツ姿……拓生の脳内で何かがスパークした。

 ─―デモン……女の子?

 大穴から入り込む風に全身を冷やしつつ、棚の下にある引き出しを開いてさらに探索する。 

 写真がある。

 幾つか年上の少女の姿が写っていた。

 どうやらバレエの選手らしく、ひらひらしている真っ白な衣装を身に纏っていた。

 意味があるか判らないが、写真を胸ポケットに滑り込ませる。

 今一度辺りをぐるりと観察した。

 あと何を持っていけば良いのか判らない。何があればいいのか。

 人がデモンに変わる。デモンを人に戻す。

 拓生はふと心づいた。 

 引き出しの一段、鍵が掛けられるようになってる段に手を伸ばす。

 ダメもとだったが、鍵は掛かっていなかった。

 開けると財布などの横に、古くさい、使い古されたトゥシューズが入っていた。

 手に持って気付いたが、内側にマジックで『さの』と書かれている。

 ─―名前……さの……さん。

 重い物が激しくぶつかり合う嫌な音が、ここまで届く。

 開いた大穴からおそるおそる顔を出すと、オパールエンジェルとデモンが激しい肉弾戦を繰り広げている。

 オパールエンジェルは明らかに右手を庇い、劣勢だ。

「これで」

 拓生は祈るような気持ちで踵を返した。手持ちのカードは少ないが、もう彼女が保ちそうにないのだ。

 息を切らせて屋上にたどり着いた彼を待っていたのは、かぎ爪により四肢を拘束されているオパールエンジェルだった。

 ぐったりと力無く頭を垂れている。

「虹野さん!」オパールエンジェル、ではない方の名前を叫んでいた。

 くいっと顔が持ち上がり、少し開いた彼女の目が彼を確認する。

 ぐぐぐぐと今まで昆虫標本のように止められていた腕が、持ち上がり出す。

『グワワワワッッッッ』

 デモンが咆吼してさらに戒めを強くしようとしているようだが、オパールエンジェルが力で押し返した。

「えいっ!」

 と気合いを込めた声の後、デモンに捕らえられていた彼女は脱出し、敵の真後ろに降り立つ。

 すくい上げるような太ももを上げる蹴りを放ち、デモンは病院屋上のコンクリを削り取りながら消えた。

 呆然としている拓生の横に、ふんわりとオパールエンジェルが着地する。

「拓生君!」

 胸ポケットから写真、そして握りしめたトゥシューズ一足を差し出す。

 彼の鼓動は速まり、肺も痛いほど収縮する。

 これで良いのか判らないのだ。もしかしたらとんでもないハズレを引いたのかも知れない。

 しばし彼が持ってきた写真と靴に目を落としていたオパールエンジェルが、視線を上げた。 

 拓生は緊張で怯える。

 間違いだったのかも、知れない。 

 だが、オパールエンジェルは太陽が輝くように微笑んだ。

「ありがとう! 拓生君、ぴったりの持ってきたね」

「そ……」そう、と胸郭から全ての空気を放出する拓生の前で、オパールエンジェルは胸に光っているセントジュエルを外し、かざす。

『グウウウウウ!』

 下界に消えていたデモンが、蛾の羽をはためかせ戻ってきた。

「セントオパールよ、その神聖なる力をもって、歪んだ人間の心を癒したまえ」

『グギャウウウウ!』

 突進してくるデモンに構わず、オパールエンジェルは両腕を空に向けるという無防備でいる。

「にじのっ」

 拓生が警告を発しようとした瞬間、辺りは白い光に包まれた。

 セントオパールの光芒が、周辺全てに降りていたのだ。

 見渡す限り真っ白な世界。音も景色も現実感さえもない、光の中。

 拓生は立ちつくし。デモンも凶暴性を忘れたかのように、ただふよふよその場に浮かんでいる。

 オパールエンジェルは、デモンにすっと指先を伸ばした。

「佐野、奈々さん」

 まるで親しい友人を呼ぶように、柔らかい口調で語りかける。

『グググゥゥ』

 ばさっと、デモンは下がった。何かに怯えているように小刻みに体が揺れ出す。

「もうお終いにしましょう、これ以上人を憎んではいけないわ」

『ググウゥ』

 唖然と金縛りのようになっている拓生の前で、聖天使とデモンの対話が始まる。

「あなたはどうしてそんなに怒っているの? 何を憎んでいるの?」

『ワ、ワダジノアジ、ワダジのあし……わたしのあし』

 オパールエンジェルの手にある写真が煌めき、白い光の空間に一人の少女が現れる。

 懸命にバレエの練習をしている少女。来る日も来る日もただバレエ教室に通い、友達との関係は悪化し、学校で孤立した。

 しかし彼女は歯を食いしばり耐え、バレエの練習を怠らなかった。

 激しい運動故に勉強が進まず、下がっていく成績に両親が怒りを露わにする。  

「バレエなんてやめろ」

 父の命令に、彼女は泣きながら抵抗し、口論と涙の末、ようやく親は折れてくれた。

 孤独な練習の日々。友達はみんな青春を謳歌し、輝く光の下遊んでいる。だが、だが、遂に彼女は次の公演でヒロイン・プリンシパルの座を射止めた。

 公演、と言ってもいくつかのバレエ教室が定例に開く、小さな学芸会のような物だ。しかし、それでも嬉しかった。夢にようやく一歩踏み出したのだ。

 世界のライトの中で、世界の人々を魅了するバレエ・ダンサーにほんの少し、ほんの少し前進した。

 急転。鳴り響くクラクション、耳障りなブレーキ音。

 その日の帰り、彼女は宙に舞った。

 信号無視の車に跳ねとばされたのだ。

 薄れる意識の中で、彼女ははっきりと見た。

 ぐちゃぐちゃに潰れている両足を。

 病院はあまりにも白かった。絶望の色のようだ。

 彼女はしかし見舞客に涙は見せなかった。

「大丈夫よ、次があるから」

 明るく朗らかに答える。

 しかし氷像のように感情の無い担当医は、至極当然のように説明する。

「手術の成功率は低いです、成功しても歩けるようになるかは判りません」

 ─―大丈夫、大丈夫、大丈夫、また一からやり直せばいい。

 そう自身に言い聞かせる彼女の前に、二人の男が現れた。

 暴走した車を運転していた者と、その弁護士。

「あ」と拓生は声を出した。その二人のスーツから彼等が病室を赤く染めた肉塊だ、と判断できたのだ。

「彼が一方的に悪かった、とは言えないんですよ、なんせ、あなたも気付かなかった」

 彼女は青信号を渡っていた。

「俺さ、クラクションならしただろ? な? あんたにも問題あるんだぜ」

 夢を奪った男は、妙ににやにやしている。

「……ですから、今回の事故についての責任は双方に……」

「てかさ、あんた金が欲しいんだろ? 可愛い顔してしっかりしてんな」

 ぐちゃぐちゃになった足。

 彼女は咆吼していた。

 何もかも狂っていった。

 世界が、世の中が、価値観が、自分が。

 人間が激しく憎かった。

 こんな詭弁を弄し、こんなに卑怯で、こんなに醜い、化け物ども。

 そして根元に辿りつく。

 自分も人間だ。

 事故を起こしておきながら「金目当て」とまで口にするクズと、どう解釈しても庇えないゲスを、言葉のロジックで誤魔化そうとする金の為なら何でもするクズ。

 人間は嫌だ。人間は嫌いだ。人間なんて死んでしまえ。

 人間を捨てよう。

『グォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッッッッッッ』

 拓生はそれら全てを見て、ふらついた。

 ─―なんだよ、それ?

 動揺しながらも浮かぶ疑問に、答える者はいない。

 ─―それって……デモンが悪いんじゃないじゃん。

「佐野奈々さん」

 痛ましそうな表情で、オパールエンジェルは優しく呼ぶ。

「まだ、あなたの夢は壊れていませんよ」

「わたしのあし……壊れちゃった、ぐちゃぐちゃだよ、どうしようもないよ、どうしようないじゃない!」

「いいえ」

 ゆったりと聖天使は首を左右する。

「お医者様もおっしゃったじゃないですか、治る可能性はあります」

「でも、でも」

 見やると、デモンの胸に張り付いていた蹲っている形の人型が、人間に、佐野奈々に戻っている。

「あなたにはまだ夢がある、希望がある、ここで諦めてしまうの?」

「諦めたくないよ! あんなに一所懸命だったのに、あんなに……」

 佐野奈々がぽろぽろと涙を流した。

「なら、帰ってきて、人の世界に、ほら」

 オパールエンジェルが拓生の見つけたトゥシューズを見せると、明らかにデモンは佐野菜々は、狼狽した。

「そ、それは……私の」

 うううう、と尽きることのない涙を流す。

「……そこに戻ったら、また踊れる? いつか世界的なバレエ・ダンサーになれる?」

「当たり前でしょ」とオパールエンジェルが断言するので、耳を澄ますしかない拓生も、安堵してしまう。

「あなたはきっとなれる、手術も成功するし、また光の中でバレエが出来ます」

「本当?」

 デモンの形が歪んでいた。

 風船のように膨張し、端の部分から砂だったかのようにさらさらと崩れて行っている。

 オパールエンジェルは、セントオパールを振り仰いだ。

「人の心はここに帰還し、人は人に還ります」

 一拍、置く。白い光はあまりにも静かだ。

「浄化!」

 刹那、辺りを覆っていた全ての光が一点、デモンに集中した。

 異形の怪物は光に包まれ、しばしもがく。

 やがて、その閃光が薄れ、消え、病院の屋上に全裸の少女、足をギプスに固められた佐野奈々だけが倒れていた。

 突然現実に引き戻されて、拓生が蘇った騒音に耳を塞いでいる間に、オパールエンジェルは彼女に近づき、落ちているシーツをかけた。

 衝撃に拓生の足は体は動かなかった。ただ肩当たりが細かく震える。

 静かな午後の太陽は暑いほど照りつけているのだが、寒気に歯の根が合わない。

 デモンは人間。

 確かにオパールエンジェルからは、そう伝えられていた。

 しかしそれを実際に目にし、心が粉々に砕けそうだった。

 ─―全部、人間がやったのか……デモンの事件。

 思い出すのは報道自体食事時を憚られている、デモンの所業の数々だ。

 虐殺、人肉食、子供殺し、無差別殺人。

 では全部、人の手によるものだったのだ。

 しかし、ここで拓生に湧くのは『ある』疑問だ。とても絶望的で、苦しい事実。

 浅く早い呼吸を繰り返し、オパールエンジェルの背に続く。

 倒れている佐野奈々は健康を害してはいないようだ。

 近寄って判ったが、シーツから出ている顔色は悪くない。コンクリートの屋上にいなかったら、ただ眠っているように見えただろう。

「ありがとう、拓生君、お陰で助かった」

「い、いや……あの」

「はい?」

「……この人、ここでこのままで良いの?」

 それは便宜上の問いだ。ボクシングのジャブのような牽制。

「ええ、お医者様を呼んできましょう」

「それで……」本題に入る。

「この人、デモンだよね、デモンだったんだよね?」

 蛾のような翼、ボウリング球みたいなつるつる球体の頭、ナナフシに酷似する腕。それらが記憶の中で蘇る。

「ええ、でももう大丈夫、心を浄化したから今はただの人です」

 どくん、心臓が跳ねた。

「さっき、光の中で見た……の、本当のこと? つまりこの人が……」

「はい、セントジュエルが見せたのは全て本当です、デモンは追いつめられた人間が、人に傷つけられた人が、最後に人を捨てた姿なの」

「……み、んな、そうなの? 今まで、の、デモンも」

「うん」辛そうにオパールエンジェルは頷く。

「そんな……じゃあ……悪いのは、この人を」

 悲しそうな寝顔を見せる佐野奈々を指す。

「この人達をデモンに変えたのは……悪い人間、デモンはむしろ被害者、悪いのは……」

「拓生君!」

 オパールエンジェルが鋭く遮る。こちらに向いた目は厳しかった。

「それは違います、デモンは少なくとも人を傷つける存在です、ならばそれを野放しには出来ない、判るでしょ?」

 判る、気がする。

 壁で潰された死体。確かにそれをやってしまうデモンは脅威だ、が。

 ─―でも、僕にはあの二人の方が悪く見えたよ、アイツら最低だよ、この人がかわいそうだよ。

 口にはしなかった。そうしてはいけないような気がした。

「さてと」

 オパールエンジェルはがらりと口調を変えた。無理矢理話題の方向を変える。 

 プリーツスカートのポケットから白く輝く細長い物を抜き出すと、耳に当てる。

「これはスマートフオン型通話装置、聖テレフォン、こういう時に一番肝心な人に繋がるようになっているの」

 物問いたげな視線でもしていたのか、彼女はウインクして説明したくれた。

「あ、もしもし、お医者様ですか? 病院の屋上に逃げ遅れた女の子がいます、早く来て下さい」

 ぷつり、と切り、スカートのポケットに滑り込ませる。

「この人……自分のこと、覚えているの? その、デモンの時のこと」

 オパールエンジェルは微かに顔をしかめる。

「ええ、ただ悪夢を見ているように、だけれど」

「あ! だったら、ぴっこん、しちゃったら? 聖ぴっこんで」

 ううん、と彼女は答える。

「デモンだった記憶は決して消えないの、私も何度か試したけど、怪我が増えるだけだった」

 ─―どんだけ叩くんだよ。

「それに」

 引いている拓生に構わず、オパールエンジェルは紡ぐ。

「あるいは忘れられないことが、せめての罪滅ぼしなんでしょう、デモンとして人を殺めた」

「はあ」

 判るような判らないような話しだ。

「さあ、拓生君、学校に戻りましょう、私達の仕事は終わったわ」

 答えるより先に、大きな翼を拡げたセントオパールにさらわれる。

「きゃー」

「何それ? まるで私、誘拐犯みたいじゃないっ」

「さらわれるー」

「……落とすよ」

 空中を高速移動しているというのに、オパールエンジェルは手を緩め、拓生の体が重力に従い下界、地面へと滑る。

「うそ! じょーだん、ごめん、何だかもやもやしてて」

 本当だ。どうしてか判らないが、大勝利の後だというのに、彼の胸中には黒雲が立ちこめていた。

 デモンを人間に戻した。右手の負傷があったが聖天使は勝った。だが……。

「いろいろ、あったからね」

 頓着せずオパールエンジェルは答え、時を置かず二人は出発した学校の屋上に戻った。

 午後の受業はまだ続いているらしく、幸運なことに他の人の姿はない。

 見慣れた世界に戻り緊張を解く拓生の後ろで、また虹色の光が天に立った。

 振り返ると、固い三つ編みと眼鏡という標準装備の虹野彩に戻っている。

「どうだった? 私……オパールエンジェルの戦いは」

 彩の頬が上気している。ねぎらいとか、賞賛が欲しいのは明白である。

「スーパーボールみたいだった」

 虹野彩は黒縁眼鏡で武装する生粋の眼鏡っ子であり、真面目っ子だ。その彼女の、大きく肩をスイングさせる腰を入れたグーパンチが、拓生に炸裂した。

 ひ弱な彼は、火花を見ながらひっくり返る。

「いだだだだ、酷いよ」

「知らない!」

 ふんっ、と彼女は三つ編みを跳ね上げてそっぽを向いた。

「そう言えば、オパールエンジェルは魔法とか使わないね、デモンとの戦いはずっと格闘だった。魔法とかは使わないの? ジャッジメント・レインボゥ以外の」

 意外なことを聞かれた、風に彩は目を丸くした。

「何言ってんの拓生君……戦闘は肉弾戦、て相場が決まっているのよ、いつも格闘戦、殴る蹴る」

「そ、そう」

 論評は控える。またグーパンチは嫌だ。

「でも」拓生は何とか明るい話題を探す。

「さっきの人、佐野さん? またバレエが出来て良かったね、手術成功して」

「へ?」

 小鳥のように彩は首を傾げた。

「どうして拓生君、それが判るの?」

「へ?」

 今度は拓生が首を捻る。

「だって、さっき……」

「ああ、あれは私の願い、私の希望を言ったの、手術はこれからだし、本人とお医者様ががんばるわよ」

「え」

「うん、でも私も信じているっ、きっとまたバレエ出来るわよね」

 思考停止に陥る拓生の前で、彩は両指を絡ませ頭上にひっぱるようにうーん、と伸びをした。

「さて、さぼった分、怒られに行きますか、拓生君もだからね」

 明るく軽い足取りで、すたすたと階段に向かう彩の背中を目で追いながら、拓生のもやもやは大きくなり、存在感すら増していた。


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