第7話



 これまでの人生で俺が立ち入ったことのある女子の部屋というのは、唯一我が親友の妹ちゃんの部屋だけである。

 しかし今、俺は自らの人生を更新した。


 これがどういうことか分かるだろうか。

 現在の俺のいる場所。

 それは人生で二人目の女子の部屋だ。

 フローラル。


 混乱のあまりたどたどしい翻訳文のようになったことを謝罪する。

 しかし、それほどの衝撃であることは強調しておかねばなるまい。

 

 さて。

 事の経緯を説明しよう。


 昼休憩に俺を混乱の渦に突き落としたハートマーク女子だが、彼女は宣言通りに放課後になると俺の真正面に立った。


「一緒に来て」


「んあ」


 動揺のあまりうまく返事ができない俺。

 ハートマーク女子と仲良しグループを形成している『たまらん』一派が何やらざわついているが、そんなものどこ吹く風とばかりに彼女は俺を急かした。


「早く」


「ふぇ」


 いかん。

 焦ってカバンに教科書を突っ込もうとしたら床に落としてしまった。

 その場に膝を突いて教科書を拾う俺を蔑むような冷たい眼差しで見下ろす無表情系ハートマーク女子。

 

 俺の胸の奥深くで何かが高まる音がした。


 と思ったのだが、俺のすぐ脇にしゃがみ込んで一緒に教科書を拾い始めた我が親友の姿を見るとすぐに紛れてどこかへ行ってしまった。

 さようなら、俺の中のいけない高まり。

 

 そして我が親友よ。

 教科書を拾ってくれるのはありがたいし優しいが、何でそんなに肩を擦りつけてくるん?

 猫ちゃんかな?

 そんな密着する必要ある?

 お前がぎゅうぎゅう押すからよろけないよう踏ん張らなくちゃいけないんだが。


 ふと上を見あげると、ハートマーク女子が味わい深い無表情でこちらを見下ろしながらサムズアップしていた。

 ……分からん。

 分からんが俺もサムズアップを返しておこう。


 意味不明のやり取りを経てようやく帰宅の準備を整えた俺はハートマーク女子に向かって言った。


「いいぞ。行こう」


 よし、今度はちゃんと喋れた。

 颯爽とカバンを肩にかけた俺に無表情の頷きを返したハートマーク女子は、次に俺の隣へ視線を移してそこにいる人物を見た。


「あなたは来ないで」


「っ!」


 我が親友、絶句。

 絶句である。

 こんなにも分かりやすく見事な絶句をしている人をこれまで見たことがない。

 教室のそこかしこから女子たちの悲鳴が上がったが、放っておこう。

 我が親友は泣いているんだか怒っているんだか、それとも不貞腐れているんだかよく分からない、複雑極まりない表情を浮かべていた。

 しかし、それでもなお美少年ぶりはいささかも損なわれていないのがすごい。俺だったらただの変顔になるだけだろうが。


「来ないで」


「っ!!」


 ハートマーク女子の追い打ちに我が親友、再びの絶句。

 何だかよろけそうになっているから肩を支えてやる。

 喧嘩中じゃなかったのかって?

 そうだが?

 それにしてもさっきから教室の悲鳴がうるさいな。


「俺だけに話があるんだな?」


「そう。大事な話」


 俺の問いかけに対し、ハートマーク女子はなぜか我が親友と見つめ合いながら答えた。


「お昼にも言ったけど告白じゃないから心配する必要はない。それじゃ行きましょう」


「お、おう」


 告白のほうがむしろ嬉しいんだが、なぜそんなにも告白ではないと強調するのか。

 ……ははーん、照れ隠しだな?

 と思いたいところだが、俺は自分のことをよく分かっている。我が親友と違って俺はモテるタイプの人間じゃない。

 告白じゃないなら話って何なんだろうな。


「ついて来て」


 スタスタと教室を出て行くハートマーク女子の後を追いかけ、扉の前で一度振り返った。

 親友が何か言いたげにこちらを見ていた。

 俺は口を開こうとし、喧嘩中だったことを思い出してから軽く手を振った。


「後でな」


「うん」


 俺たちは親友だ。

 仲直りするのに余計な言葉なんて必要ない。

 これまでも、これからも。





 連れていかれたのは閑静な住宅地の中にある一軒家。

 はっきり言うとハートマーク女子の自宅であった。


「入って」


 玄関を開いて振り返ったハートマーク女子が、グズグスする駄犬を叱りつけるような口調で言った。


「え、でも」


 展開についていけなくて初心な乙女のような反応をしてしまう俺。

 しかしハートマーク女子は有無を言わさず俺の手を取って家の中へと引っ張り込んだ。

 何てことをするんだ。

 手なんか握ったら好きになっちゃうだろうが。


「手を握ったくらいで大げさ」


「そんなこと言ってもお前の手、ちっちゃいし」


 柔らかいし、いい匂いがするし。


「あなたの親友と大して変わらないわ。いいから靴を脱いで上がって」


「靴脱いだら足くさいかも」


 というか靴下の指のところが破れていた気がする。

 朝着替える時に気付いたけどそのまま履いて来てしまった。

 恥ずかしい。 


「私のお父さんも足はくさい。それに靴下の穴くらいで笑ったりしないから」


 だから気にしないで家に上がれ、とハートマーク女子は俺を促した。

 しかし彼女と手を繋いだまま、俺は動けなくなっていた。

 ゆっくりと顔を上げ、目の前の人物を凝視する。

 

「……実は昼から気になっていることがあるんだが」


「正解」


 先を続ける前にハートマーク女子は答え、にっこりと笑みを作った。

 その笑顔は抜群に可愛くて、あり得ないほど魅力的で、そして背筋が凍るほどに恐ろしかった。

 たぶん、悪魔とか魔女とか呼ばれる奴の笑顔はこんな感じなんだろう。


「信じられないくらい失礼。でも推しだから許してあげる」


 推し?

 推しってどういうことだ?

 無表情に戻ったハートマーク女子がくいくいと手を引っ張るので、観念した俺は靴を脱いで靴下の穴を隠すためつま先を丸めた状態でそっと足を上げた。


「お邪魔します……」


「さあ、早くこっちに……」


 相変わらず俺の手を握ったまま先導しようとしたハートマーク女子は、何かを感じ取ったように言葉を途切れさせると小さくため息を吐き出した。


「だから早くって言ったのに」


 何のことかと思っていると、とんとんと階段を下りる足音が聞こえてきて、ハートマーク女子そっくりなお姉さんが姿を現した。


「あらやだ。妹が彼氏をウチに連れ込んでるわ」


「彼氏じゃない」


 語気強めで反論するハートマーク女子。

 もうちょっと恥じらいながらでもいいんだぞ?

 そんなに力強く否定されると事実でも傷つくから。


 妹の様子をにやにや眺めているお姉さん。

 雰囲気からして大学生くらいだろうか。顔立ちはそっくりだが、妹と違ってお姉さんのほうは表情豊かだ。

 というかすごい美人。


「あまり見ては駄目。目がただれる」


 身内に対してその言い草はないのでは?

 と思ったのだが、お姉さんは気にした様子もなくからからと笑っている。


「妹の彼氏を取って喰いやしないわよ。ねえ、君?」


「ぴっ」


 流し目を寄こされ、全身にぶわっと鳥肌が立った。

 ……大人の女の人、怖い。


「君、名前は? 同級生なの?」


「お姉ちゃんが知る必要はない」


「相変わらずけちんぼね。分かった分かった。邪魔者は消えますわよ。ゴムがいるなら私の貸してあげるから使いなさいな」


「お姉ちゃん!」


 これまで聞いたこともないような感情露わな大声でハートマーク女子が抗議したが、お姉さんは気にした様子もなく俺たちとすれ違って玄関で靴を履いた。

 やべぇ、すれ違いざまにめちゃくちゃいい匂いがした。

 などと考えていたら、ハートマーク女子が俺と繋いだ手に万力のような力を込めた。


「息吸わないで」


「吸わなかったら死い痛たた」


 ハートマーク女子は見かけに寄らずパワー系女子らしい。

 すごく痛いんですが。


「優しくしてあげてね。妹は処女だから」


 扉に手をかけたところで振り返ったお姉さんの爆弾発言に俺は固まり、ハートマーク女子は激昂してスリッパを投げつけた。……いや、手にスリッパ持ってたか、今?

 華麗にスリッパを躱したお姉さんはけらけら笑いながらそのまま出かけて行った。


 しんと静まり返る家の中。

 明らかに他の人の気配がしないんですが、もしやお姉さん以外のご家族はご在宅でなかった?

 その状況下でああいうジョークをぶっ込むのかよ、お姉さん。

 やっぱり大人の女の人は怖い。

 ともあれ気まずい空気を何とかしようと頭をひねった俺は口を開いた。


「気にするなよ。俺も童t」


「知ってるから黙って」


 ぴしゃりと遮られて俺は黙った。

 相手が我が親友ならもう少し切り返しに手心があるんだが、やはり女子だと勝手が違う。

 難しいものである。

 というより、どうして俺が童貞だと知っているんだ?


「……来て」


 珍しく疲れ切った声でハートマーク女子が促す。

 相変わらず顔は無表情だが。


「どこに?」


「私の部屋」


「ぴゃあ」


 嘘やろ。

 俺が女子の部屋に?

 もしかして今日死んでしまうん?


「無駄に恥ずかしがらなくていいから、そのくさい足を動かしてついて来て」


「ひどすぎない?」

 

 確かにくさいかもしれないけどさ。

 しかしハートマーク女子に手を引っ張られながら俺は悟った。

 この調子では色っぽい展開は絶対に来ない、と。

 なぜかそのことに心のどこかで安堵を覚えていると、ハートマーク女子がこちらをちらりと振り返って笑った。






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