ハルを置いて教室に入ったイルミナは、一斉にクラスメイトに囲まれた。昨日のアンデッド事件の解決を称賛するその言葉、それは今まで幾度となくい聞いてきたイルミナにとっては、もはや何の感情も抱かない単語の羅列だ。でも、それも笑顔で「ありがとうございます」「いえ、それほどでも」と、礼と謙虚を忘れてはいけない。シエンシアスのもとで、宮廷教師からそう叩き込まれている。

 教会出身のイルミナにとって、王族という縁のない世界に放り込まれたことは、それが逆らうすべのない自分の人生だと、諦めざるを得ないことだった。ほんの少し前までは。

「イルミナ様、シエンシアス殿下とお会いできなくて、寂しくないんですか?」

「え、ええ、そうですね……」

 いつの間にか、アンデッド事件から、話題はシエンシアスへ。

 婚約中の殿下のもとから見聞を広めるためとマカロにやって来た。

 自己紹介のときの説明は建前で、アンデッド事件を解決するためにマカロへ来たということは、今回の件で誰しもが理解したことだ。イルミナに課せられたのは、聖女であることと、シエンシアスの婚約者、それを崩さぬこと。ここで、ボロでも出ようものなら、シエンシアスにも、バーミセリにも迷惑がかかる。

「少し寂しい時もございますが、もうすぐお会いできますから」

「ランク会議ですね! 今年は荒れそうですね。フォルノもあの通り、毎日へばっているし」

 その言葉にイルミナが廊下側を見ると、机にへばりつきながらも書類に目を落とすハルがいる。前の席ではレフレが少々心配そうな顔で話しかけている。同い年の影の評価者であるハルが、イルミナがここに来た最大の理由だ。髪の中でくすぶる漆黒が、早く表に出たいと毎日訴えているのだ。

「イルミナ様、シエンシアス殿下と通信は?」

「ああ、通信は危険なのでしていませんよ」

 盗聴の危険があるものは、おいそれとできやしない。

「では、寂しくなったらどうなさっているのですか?」

「殿下とのお写真がありますから。恐れ多いですが、一つだけは持ち歩いています」

 そう言って、イルミナが胸元を押さえれば、「素敵!」「見てみたい!」とあがる声。

「申し訳ありません、殿下のお姿、あまり簡単にはお見せできないのです」

 これは本当だ。シエンシアスの肖像権、その行動や思考を推測されそうなものを勝手に公になどしていいはずがない。「ごめんなさいね」と申し訳なさそうに微笑めば、「いえ!」とすぐに納得してくれる。聖女とは実に便利だ。印象操作、万歳。

 四限目が終わると、後ろの席のレフレがハルを誘って教室を出て行った。それは別におかしいことでも何でもないが、レフレが持っていた書類の束が気になったイルミナは立ち上がり、「図書室へ」と言い残し二人の後を追おうとした。

「イルミナ様、いつもどちらでご飯を召し上がっているんですか?」

 数日一緒にいるクラスメイトが一度たりともイルミナと一緒に昼食を共にしていないが故の純粋な疑問だった。だが、その質問に目を泳がせ、「外に侍女が用意してくれています」と適当に答えた。「なるほど! 流石ですね!」と、快く送り出してくれた生徒に若干の罪悪感を抱いたものの、イルミナは胸をなでおろした。

 さて、イルミナが向かうはハルがよく使うという視聴覚室。いつも真っ暗にしているはずだが、今は隙間からほんのり明かりが漏れている。光が主属性のレフレがいるからだろう。

 一番明かりが漏れ出ている場所に行き壁に背を預けると、中の声が響いた。

「なんでお前がそんなもの持って来るんだよ……」

「提出する前に、ハルに見てもらおうと思ってさ。光の評価者のルス殿は倒れただろう」

「お前は、今回のブリッサ王女の一件なんて興味ないと思ってた……」

「別に王女には興味ないけど、魔法の一般化には興味があるんだよ」

「……見せてみろ」

 レフレが一般化申請をするらしい。十六歳にして魔導師階級五位の天才レフレ。男爵位相当の地位を持つレフレの一般化申請の魔法は、果たしていかようなものか。

「なんだこれ、『アンデッドの忌避』だと?」

 書類を握るハルの手に、力が入って、書類にはシワが寄り可愛そうなことになってしまった。アンデッドの肩を持つハルなら、彼らが人道から外れた扱いを受ければ嫌がるのは想像に難くない。

「アンデッドが人や物に危害を加えることの真偽は謎だけど、人のテリトリーに流入しなければ大きな問題にはならないだろう。その為の忌避魔法だよ」

「……野良猫じゃねぇんだぞ、って、これ、こんなに許可練習場で使ってたのか!?」

「ああ、ちゃんと、場外試験使用データも何もかも揃えたはずだ。アンデッドが人と理解し合えないのは確かだろう」

「……」

 ハルが沈黙した。まあ、今のところレフレが正論であるのは間違いない。

「あの……、聖女様、でいらっしゃいますか?」

 もう少し中をよく見たい、その一念で背後に対する意識が散漫だったイルミナは、突如後ろからかかった声に鳥肌を立てた。

 イルミナの後ろから声をかけたのは女子生徒。確かにこの学校にいるとは聞いていた。しかし、彼女は魔導師になりたてで、今は滅多に学校に来ないとも聞いていた。気をつけていれば会わないと。だが、迂闊だった、ハルの周りならこの人がいてもおかしくないのだ。

 あやうく顔に「貴女にはまだ会いたくなかった」と明確な意思表示をしそうだったイルミナは、ゴクリ、と、つばを飲み込んだ。今のイルミナは『聖女様』で『シエンシアス殿下の婚約者』、それは、いくらこの人でも崩してはいけない事実である。

「……『聖女様』だなんて私にはもったいないお言葉です。イルミナ・ブロードと申します」

 そうイルミナは取り繕った笑顔で振り返り、頭を下げた。大丈夫だ、何も間違いはないはずだ。下を向いた口から心臓がこぼれ出てしまいそうになる。

(頼むから、早く何か言って!)

「……お会いしたく思っておりました! この前、ハルを訪ねたときはもうお帰りになられていたと伺ったので!」

 イルミナが凝り固まった上半身を軋ませて顔をあげれば、そこには艶やかな赤髪の魔導師の生徒が黒瞳を優しく曲げてほほ笑んでいた。

「リアマ・ダンジェロと申します。イルミナ様」

「存じ上げております、ハルモニ様のお義姉様でいらっしゃる」

 その言葉に、さらにほほ笑んで「ええ、まあ」と嬉しそうにする彼女。それは、本心なのだろうか。

「イルミナ様、ハルに何か御用ですか?」

「……いえ、通りかかっただけです」

「そうですか、では失礼します」

 そう部屋に入るべくイルミナの前を通り過ぎたリアマ。通り過ぎた瞬間に、横顔から、その黒瞳から、たたえていた笑みが消えたのが、イルミナからかろうじて見えた。

「そうですよね、それでこそ、です。安心しました」

「……イルミナ様、何か?」

 ぽつりとつぶやいたはずのイルミナの声に反応して、振り返ったリアマは再び笑顔。首を振ったイルミナを訝しがったリアマだったが、急に視聴覚室の戸が開き「リアマ義姉さん!? と、イルミナ様!?」と、出て来たハルに抱えていた書類の束を差し出した。

「義姉さん? これ、まさか……」

「一般化の申請書類よ。ハルにどうしてもお願いしたいの」

「……ええ!? なんで義姉さんまで!?」

「あれ、リアマ先輩も?」

「あら、レフレ先輩」

「やめてくださいよその呼び方」

「魔導師は、歳よりも経歴でしょ、先輩」

 からかったように楽しそうに笑うリアマ。その向かいで、手元の書類を信じられないものを見たように凝視するハルは、盛大に肩を落として、数枚ページをめくった。そして、眉一つ動かさず閉じ、力を入れて表紙を押さえつけた。

「義姉さん、これは駄目だ……。俺、見なかったことにする。だから、義姉さんもこれは絶対に他の誰にも見せないで。許可練習場での使用もこれ以上重ねたらダメだ、場外使用なんてもっての外だ」

「ハル、お願い」

 つき返そうとするハルから書類を頑なに受け取らないリアマ。レフレが書類を覗くという良心に反した行為をしていると、ハルはその申請書を自分の胸に抱えて隠した。

「駄目だ、やっぱりこれは没収する」

 そう言って書類を持って部屋に一人で戻ったハルは、昼休みの間出てくることはなかった。

「一体何を書いたんですか、リアマ先輩」

「……内緒よ」

 リアマはそう肩をすくめて場を後にした。イルミナに対して微笑み会釈は忘れずに。

 リアマを見送りレフレと二人きり。噂の天才魔導師は、腕に抱えた書類をパラパラめくり、申請書類で、いや、魔導師が魔法を考案するうえで最も大事といえる、魔法精油の組成をつきだしてきた。

「どう思われます、イルミナ様」

 レフレの魔法精油の組成。光の属性をもっとも反映する小さな白き花、そしてそれを補佐する遅効性と持続性に優れた植物たち。その抽出要件や溶かし込む魔法基油に関して細かく記載されたもの。工程に従って取り出した魔法精油が金の魔環に描く香りが示す効果は、アンデッドの忌避。決して殺すことなく、人を襲わないようにさせるための魔法。活用すれば、確かにアンデッドの被害を出さずに一か所にとどめることも可能になる。

「レフレ様が、ここまでアンデッド事件に対して熱心だとは思いませんでした。素晴らしい魔法ですね」

「イルミナ様、一つよろしいですか」

「……なんでしょうかレフレ様」

「イルミナ様ほどのお力があれば、アンデッドを消さずに、死者へと戻すことができるのでは? 『聖女様』、なのでしょう」

「それは単なる愛称です。そもそも、この世界に『聖女』などというものが今までいましたか? おとぎ話の偶像ですよ」

 自分で言っていて悲しくなることこの上ない。だが、隠した漆黒髪が、『まがいもの』と日々イルミナに訴えてくる。隠すために、毎朝スプレーをふりかけ、物理的に押し込めているのだ。魔法が効かないというのは大変不便だと毎朝思ってしまう。だからこそ、魔法で色を変えられるハルの髪は羨ましい。

「それにしても、消す必要はないはずです。しかも、ハルの目の前で」

「……何がおっしゃりたいのやら私には分かりませんが」

「イルミナ様がハルの目の前でアンデッドを消すたびに、ハルは傷つく。それをやめてくださいと言っているんです」

「レフレ様は随分とご友人思いでいらっしゃるんですね」

「貴女様が感情の機微に疎いだけです」

 否定はしまい。他人の感情をまともに受けて、いずれ朽ちるのは自分なのだ。だから、イルミナはレフレに対してもそれを崩さない。

「では、機微に疎いついでに伺います。リアマ様の申請書、一体どんな魔法だったかお分かりになりまして? 覗かれていたでしょう」

「あれは……。興味があります」

 「ではこれで」、と一礼してクラスへと戻るレフレ。その天才レフレが興味を抱くというリアマの研究は一体何だろうか。

「嫌な予感がするわね。いえ、そんな偶然めいたものじゃだめよ。確かめないと」

 そんなイルミナが向かったのは職員室近くの端末。そこには、先客がいた。一体、どのタイミングで視聴覚室から出ていたというのだろうか。

 ハルは昨日もこうしていた。そうして、授業が始まるタイミングで出てくる教師たち。皆、画面にかじりつくハルに近寄らず、イルミナには一礼をして授業へと向かっていく。

 周囲に人がいないことを確認し、イルミナはそっと画面を覗き込んだ。ハルはパスコードを入力しているようで、画面は保護のために真っ暗になっている。そっと離れて窓に背を預け、しばし待つと画面が急に明るくなった。魔導師検索画面でハルは何人もの魔導師をランダムに検索した。その中にお目当ての人物を紛れ込ませて。そしてお目当ての人物の検索画面に表示されるのが、彼女のステータス。

「やっぱり……」と呟き、画面に手を叩きつけ、スクリーンを割るのではないかとハラハラさせるハル。その画面に出た彼女、魔導師としてのステータスの右肩にある黒い印。『右肩黒』、それは、属性の垣根を越える魔法研究をする恐れのある魔導師のこと。慌てて幾人かの魔導師を検索した後に画面を消して履歴も消去するハルに、イルミナは昨日のように話しかけた。すると、鬼の形相でハルは振り向いた。

「いい加減にしろ!」

「こんなところで見るからです」

「……管理機構で見る方が厄介なんだよ!」

 管理機構や魔導師協会は、既にリアマ・ダンジェロをマークしている。彼女が昨日のネグロのように事をなせば、監視の者が飛んで来る。義姉弟として育ってきたハルにとってそれは避けたい事態のはず。それは流石のイルミナにも理解ができた。

「申請書の締め切り、あと五日ですか? これ以上無理しなければいいですね」

 彼女も、他の魔導師も。





 放課後、案の定、学校を出たところで魔導師に捕まるハル。どうやら今朝はメッゼが来たために接触できなかった魔導師も一緒に来てしまったようだ。三人に帰路を邪魔されハルの背中が項垂れるのが遠目にも分かる。

 そんなハルの様子を暗くなりかけた教室から見ているのはイルミナだ。薄暗くても、実はそこまで辛くない。黄金髪の中に隠された漆黒髪の威力は絶大だ。だが、ハルにも黄金髪があるのに、彼は随分光に弱いように思えてならない。

「どうしてかしら。やっぱり魔法で隠蔽しているからかしらねぇ……。っていうか、魔法がかからず何者にも手を加えられない、それが髪色じゃなかったのかしら。やっぱり漆黒の方が強いのね」

 イルミナが髪の毛を返したい相手のハルは、先ほどから、公道で展開される魔導師の魔法を打ち消すことに忙しい。三人の魔導師が我先にと、ハルに魔法を見せているが、いずれもハル特性の『鎮静魔法油』を使用した魔法で瞬時に消されている。魔環の色からするに、今いるのは、赤色の火属性、黄色の大地属性、そして紫の水属性だ。遠目から次々展開される魔環だけ見ていれば、ハルの漆黒の魔環もアクセントとなり花が咲いたようで綺麗なのだが、巻き込まれたくはない。それ以前に、公道でのオリジナル魔法の使用は禁忌のはずだ。本当に、男どもは馬鹿だとイルミナは呆れ果てた。

「これじゃ、無理よねぇ、一般化なんて。ブリッサ様、なんであんなこと言いだしたのかしら」

 愛くるしい小動物のようなマカロの第二王女。何度か会った時も、その容姿に見とれたほどだ。シエンシアスとも仲が良いのも確か。でも、少々おかしい。

「あんな我儘、おっしゃる方だったかしら……」

 イルミナが知るブリッサ王女は自分よりも他人を優先する人物だ。そんな姫が「結婚は一般人がいい!」だなんて言うとは信じられない。

「まあ……、本当に好きな方が一般の方だとしたら、話は別だけど」

 ちくり、と、平べったい胸が痛んだ。メッゼのような、他人から見てわかるほどの胸は悔しいが無い。ただ、痛みを感じられる機能はきちんと備わっているのが救いだ。

 痛みを感じた胸から、この学校の生徒手帳を抜き出す。そこには、昼間クラスメイトから聞かれても見せなかった、シエンシアスの写真。銀髪と金瞳の自分に厳しく他人に優しいバーミセリの第一王子。写真はニか月前に執り行われた、バーミセリとマカロの合同軍事訓練、その最終日の式典でブリッサ王女自らが撮ったものだ。シエンシアスの隣にはもちろんイルミナ。そして、背後には、軍というより、招かれた多くの魔導師が写り込んでいる。その写真をギュッと胸に抱き、間違ってはいない、イルミナはそう自分に言い聞かせた。

「よし、やる気出たわ」

 イルミナはシエンシアスと約束をした。必ず、この髪をあるべき場所へ戻してくる、そして自分がやるべきことをなすと。それが、彼女が生きる理由に他ならないのだ。

 少し沈んだ気持ちを浮上させ、再び外を見ると、ハルはまだ魔導師と対峙している。しかも、状況がおかしい。魔導師が一つ魔環を開いたが、ハルが消さないのだ。公道にはおさまらず、壁まで侵食する紫色の魔環。それを止めないハルはおかしい。

 紫色の魔環が一色に染まり文字と草花が浮き出ると、突如突風が辺りに吹いた。それに乗って気分が高揚するようなキツイ刺激のある香りがイルミナの鼻腔を掠めた。状況は、悪い。魔導師も、当事者である一人を除いて逃げだすほどに。

 イルミナはスカートから白金銃を取り出し、カートリッジを手早く取り換えた。白金銃の弾丸は、アンデッドを消す魔法が基本だ。だが、それとは別の、強制的にホワイトアウトを起こさせる弾丸を詰め込む。教室の窓を開け薄暗い中、白金の銃口をいまだ遠方で草花を浮かべている魔環に向かってセット。

「『K値 0』『破砕』」

 小さい黄金の魔環が遠くの紫の魔環の上で展開されたのを確認し、手早くトリガーを引けば、弾丸は見事黄金の魔環に着弾する。そして、瞬く間に広がったイルミナの魔環は次の瞬間、紫色の魔環を己に吸着し始めた。地面からはがされて、二色同時に砕け散ると、光の乱反射が起き、ハルたちが白い発光に覆われた。あの紫色の魔法も消え去り、これで暴発はしない。

「これで良し、ん?」

 何か大事なことを忘れている、イルミナはそう一瞬思考を停止した。そして、ポンと浮かんだ、ものすんごい重大な事実。

「しまった!! ハル!?」

 慌てて校舎から飛び出て、いまだ白く霞む視界の中に突入すると、一人は、「何だこれ!?」と手で光の粒を振り払っていた。人影はそれだけだ。外に出ると、探していたハルは少し離れた所で倒れていた。

「ハル!? しっかりして!!」

 急いでハルを担ごうにも、イルミナには重くて持ち上げられない。

「ど、どうしよう……」

「……大丈夫だから、お前も離れてろ」

「ハル!?」

 体を起こしたハルは、壁にもたれかかって激しく胸を上下させた。気管支を通る息の量が多いのか、それとも管が狭いのか、音を立てて呼気と吸気が激しく出入りを繰り返し、無言でツラいと教えてくれている。

「うるさい、おまえ、光の魔力が駄々洩れだ……」

「あ」

 ハルから三メートル離れ、イルミナは動揺した自分を落ち着かせてみる。だが、どうやったら魔力が抑えられるのか思い出せない。最近付け焼刃で覚え込んだ方法は、動揺すると上手くいかなかった。最後の手段はこれだ。イルミナはカバンからパーカーを引っ張り出した。夏場だけど、日焼け対策だといって持ち歩いていた。まあ、それは真っ赤な嘘だ。イルミナは日焼けなどしないのだ。羽織って、フードを目深にかぶれば完成。なんだかんだといって、結局髪が最大の魔力の放出器官。色を変えられないなら物理的に隠すのみ。流石に、隠したフードや帽子を消すとか、そこまでの暴挙はそれぞれの属性の神とやらもしない。

「これで、平気?」

「……まあ、多少は……」

「ハルモニ・フォルノ! いい加減その『鎮静魔法油』……、て、誰だお前は?」

 紫髪の魔導師は、目深にフードをかぶった人間の出現に驚いた。その前にツカツカと大股で歩きでたイルミナは、慌てて途中からしおらしく、しゃなりしゃなりと歩いて、魔導師の正面に立ちはだかった。ハルにこれ以上無理はさせられない。

「……私、この様な騒ぎ、見過ごせませんの」

 フードをとって、微笑めば、「聖女様!?」とのけぞる魔導師。

「先ほどの魔法の公道での使用許可を見せていただけますか?」

「申し訳ありませんでした!!」

 そのまま踵を返して走り去っていった紫髪。まだまだ若いであろう二十代かそこいらの魔導師は、随分無茶をするようだ。見送って、フードを被り振り向くと。立ち上がっているハルがいた。

「助かった、ありがとな」

「ごめんなさい! ちょっと考えたら、あんな魔法使っちゃいけないって分かるのに……」

 光を受け付けないハルに向かって、光を乱反射させる光属性の魔法だなんて毒にしかならない。あの魔導師の魔法を打ち消すことだけを考えてあまりにも浅慮だった自分の行動に、イルミナはほんの少し、目頭が熱くなりかけた。幸い目深にかぶったフードが、良い感じに隠してくれる。

「いや、本当に助かった。あのままだったらここら辺一体が水に沈んでたぞ」

 下に向けたイルミナの視線の先に、ハルの靴が入り込んだ。

(なんで……?)

 ハルから近づくなんて考えられないこと、ではなかったか。イルミナは今までになかった状況に必死に頭を動かした。

「……どうしてあの魔法消さなかったの?」

「消せなかったんだよ。鎮静魔法油が底を尽きた」

 カチカチ、と音がしてイルミナが思わず顔をあげると、ハルと視線がかち合った。直ぐにハルの手元のペンに視線を移すと、ノック音は止まり、「イルミナ?」と、一言聞こえたけど、それは幻聴ということにしておこうとしたイルミナは話を先に進めた。

「ど、どうして無くなったの?」

「え、ああ、連日連夜使っていただろ? それに、さっきの連中が散々魔法を乱発しようとするのに対抗してたら、レフィルに入れていたものも全部使った」

 そういうハルの手には、空になった芯が二本握られていた。

「どうするの?」

「作るんだよ。帰りに材料買っていかないと……」

「鎮静魔法油を作るの? これから!?」

 鎮静魔法油は影の評価者お手製の門外不出の代物。知りたい魔導師も多いはず。現に、昨日のネグロ・プロフィビックはハルの鎮静魔法油を解析すると言っていたくらいだ。魔導師でないにしても、興味はあるイルミナは、ついつい、「見てみたい!」と口に出してしまいそうだったのを慌てて押さえた。

「……一緒に来るか?」

 その言葉にイルミナは思わず顔をあげた。だが、自分でも頬が緩むのが分かったイルミナは、ぷいっとそっぽを向いて、少しフードを引っ張った。

「って、言ってやりたいけど、俺の部屋はお前にはきついだろ? 明かりはないぞ」

「……言っとくけど、あの髪の毛のおかげで暗い所は平気なのよ。夜あれだけ出歩けてるんだからわかるでしょ? むしろ、その襟足を持っていて、光が苦手なハルの方が私には不思議よ」

「まあ、そういえばそうか。いっとくけど、誰にも言うなよ。作り上げるのに何年もかかったんだからな」

「……影の評価者に代々受け継がれるものじゃないの?」

「いや、それが、人によって作り方違うんだよ。歴代のつくり方で作ったものはどれも俺の魔環とは合わないから、改良に改良を重ねた」

「そう……、私が見てもいいの?」

「悪用なんてしないだろ? それにお前シエンシアスの――、あ!」

「今度は何?」

 ハルは頭をかいた。

「お前、シエンシアスの婚約者だったな。やっぱり駄目だ。家に連れて行けるわけがない」

 確かに外聞がよろしくない。変な噂でもたてば、シエンシアスとバーミセリ、そしてなによりハルに迷惑が掛かってしまう。

「そうね、残念だけど諦めるわ」

 もう日が落ちてしまった道。漆黒髪の少年と、フード付きのパーカーをかぶった少女。同じ学園の制服。どっからどう見ても、ハルとお忍びの聖女様ことイルミナだ。全然忍べない。

 イルミナは買い物に行くというハルと別れて、大人しく滞在中の屋敷へと戻った。





 あてがわれている一軒家は、最少人数の護衛とメイド、合わせても五人しかいない。

 最初はシエンシアスの婚約者ということで、マカロの王城に部屋を用意すると申し出てくれたのだが、第一高等部は遠く、なにより、アンデッドが出る墓地というのは王城付近にはない。それに、王城で世話役のメイドを沢山つけられては気が休まらない。

 正直、身の回りの世話などは自分でできる。特に、髪なんて絶対に触らせられない。メイドにやってもらうのは、おもに護衛の人の世話だけだ。バーミセリから一緒に来た、母親と同年代くらいであろう貫禄のあるメイドがいればイルミナとしては十分だ。

 このメイドはイルミナの世話を焼きたがるが、程よい加減でひいてくれる。イルミナは毎日、夕食を食べるのは義務とばかり無心で流し込み、お茶を淹れてもらい、はじめてゆったりとくつろげる。この時間を作ってくれる彼女には、感謝しなくてはならない。そんなイルミナの視線を浴びたメイドはじっと外を見ていた。

「イルミナ様、今夜は落ち着いたままですかね」

「どうかしらね、雲行きは怪しいわ。何か知ってる?」

「本日、河辺の許可練習場で、魔導師連中がそれはそれは大規模な魔法を使っていたそうです。いまだかつてあんな地響きは聞いたことないと、みな、不安がっていたようです」

「そう、困ったものね……。ねえ、ちょっと調べものしたいの、さがってもらえる?」

 部屋に一人になったところで、イルミナは壁につけられていた端末、学校でハルがいじっていたものよりも厳重なセキュリティの機種の通信端末に触れた。流石は要人を迎え入れるための家、広くなくても設備には申し分ない。

 イルミナはシエンシアスの婚約者といっても、何の権限もない。ハルが『右肩黒』を調べていたように、魔導師協会や魔法管理機構の深部データにアクセスする権限など勿論ない。調べられるのは、魔導師の名前や属性などの一般に公表されているデータのみ。その中から、髪色とおおよその歳で魔導師登録名簿からお目当ての人物を探し出した。

「『シオン・イヌーダ』ね」

 端末で確認し、横のスリットに自分の属性証明カードとこちらに来るときにもらったカードを通す。いくつか入力するパスワード、数分待って、落ち着いた声が画面から聞こえた。

『どうしたんだい、イルミナ。元気かい?』

「申し訳ありません、連絡は慎んだ方が良いとは承知しているのですが……」

『気にしなくていいよ。何かあったのかい?』

「調べていただきたい魔導師がいるのです、シエンシアス殿下」

 一度保留にされた通信が、再び繋がり潜められたシエンシアスの声が流れる。そしてそれを聞いて納得したイルミナだった。

「『シオン・イヌーダ』、三年前、合同軍事訓練で一般家屋を巻き込み一つの町を水没。幸い死者は無いため、一年の魔導師資格停止にとどまった『右肩黒』か」 

 窓から見上げた夜空、その半分は星と月が煌めくが、暗雲が幅を利かせ始めていた。ハルの鎮静魔法油の調合がどの位の時間かかるのかは分からないが、もし、造っている途中なら今日はハルは来ないかもしれない。それに、イルミナとしては、鎮静魔法油の手持ちがないまま来ないでほしいところだ。厄介な魔導師相手には、それ以外彼自身を守れる手段がないのだから。





 日付が変わったころ。寝ずに外を見ていると、耳に唸る音が聞こえた。

「行かなきゃ」

 階段を駆け下りると、ついて来ると言ってきかない護衛と、心配するメイド。

「大丈夫です。シエンシアス殿下からも言われているはずですよ、私のアンデッド退治に護衛は必要ありません。明日出かけるときに頼みます、ゆっくり休んでいて下さい。おやすみなさい、みなさん」

 その言葉が、聖女の慈悲から出たものではないのはイルミナ自身が百も承知だ。でも、それを心配そうな顔で聞いて見送ってくれる彼ら、本当に申し訳がない。だが、見られるわけにはいかない、イルミナも、ハルも。


 雷鳴と稲光が最盛を誇る場所の下。街の外れ、河川の近くにあるその墓地へ赴くとまだ誰もいない、立っている人間は、だ。一人、転がって苦痛に顔を歪めている者はいる。帰りにハルに最後まで執着していた紫髪の魔導師、シオン・イヌーダ、『右肩黒』。手にはめている魔法を使うための手袋が散り散りに破け、血塗られた片手は数本指が消失している。もう片方は氷が張りつき無事かどうかは不明だった。

 這いつくばり、呻く紫髪。雨が降り始めぬかるんだ泥水に浸かる彼の長髪が、這いずろうと身じろぐたびに汚れ顔にへばりつく。

 ブリッサ王女の一言で、ここまで己を犠牲にする魔導師が現れることがにわかには信じられない。王女の隣というその地位がそこまで魅力的なのだろうか。明らかに魔法を暴発し、己の身を犠牲にする魔導師を一瞥し、辺りを見回せば、ボコ、という音と共に石板の横の土が盛り上がった。

「お目覚めですか?」

 明確に返事を返される訳はない。イルミナはアンデッドとは意思疎通などはもちろんできない。だが、身振り手振りでなんとなくはお互い分かるものだ。そんな彼らはイルミナの心の機微に引っかかる。しかも今宵のアンデッドは今までよりも大分肉付きが良い。死してまだ間もないのだろう。弧を描く唇はおどろおどろしいが、生前はさぞかし優しい笑みだったのだろうと思い描ける。そんな女性のアンデッド、彼女が首を傾げてあたりを見回した。

「ハル……いえ、『ミドルネーム フェオ家』はまだ来てないわ。もう一回寝てくれない?」

 アンデッドは首を横に振り首を傾げ、足元で唸っている魔導師を指さした。

「それが原因かもしれないけど、でも、ほかにもいるかもしれない、だから、駄目」

 イルミナが首を振ったのを見て、頬を膨らませて怒った仕草をし、何度か魔導師の頭を軽く叩くアンデッド。

(あんまり無理すると、貴女の方が壊れるからやめてほしいのに……)

 そんなイルミナの思いを知ってか知らずか、アンデッドは立ち上がって、辺りをキョロキョロ見回すと、軽快な足取りで歩き始めた。さっさと撃ち抜けばいいものを、肉付きが良すぎて、白骨のアンデッドよりも気分がいささか滅入るイルミナ。そんなイルミナがいけなかった。目の前の彼女だけでなく、地面が数か所盛り上がると、ボコボコと、白骨のアンデッドが顔を出していた。

「うそ!? 今日、多い!」

 いち、にい、さん……、と数えている間に数は増し、その数十体。一時に現れるアンデッドの数としては、歴代五位には入るかもしれない。後から生まれたアンデッドに、最初のアンデッドが何かを耳打ちした。すると、全員が同時に頷き合うと、軽快なステップで墓地の外を目指してしまった。

「え、ちょっと、待って!」

 慌てて白金銃を構える。

(大丈夫、弾丸はきちんと変えてある、後は一体ずつ――)

「大丈夫です! イルミナ様の手を煩わせたりは致しません!!」

 イルミナが先頭のアンデッドに向かって放った弾丸は、頭上から突然落ちて来た登場人物に驚いたアンデッドが予想外の動きを見せたことで空振りし、空中で消えてしまった。

「邪魔しないでって言ったでしょう! メッゼ・キタラ!」

 無駄にハリのいい肌と谷間を出してまたやって来た、精神衛生上歓迎できない人物の登場にイルミナもついつい語気を強めてしまう。

「ぎゃー! アンデッドがこんなにたくさんんん!!」

 メッゼは勝手に来た挙句、数に驚き近くの墓石に抱き着いていた。

「本当に、本当に、本当に、なんなのよ貴女! 進歩といえば、靴が地面にめり込んでいないことくらいじゃない!! って、ああ!! 皆、行かないで!」

 まだ墓地にいたアンデッドを四体撃ち消しその場から出ると、最悪な展開になっていた。

 深夜一時、誰も家からは出ていないだろう、そうは思っていたが、甘かった。「キャー」という悲鳴に続き、「アンデッドだ!」という叫び声。そんな中、気にすることなく道を軽快に闊歩するアンデッド。中にはくるくる回って踊っているかのようなものもいる。慌てて逃げて、こけた子供、その子供に手を差し伸べて泣かれているアンデッドは、白骨の手をカシャカシャさせ、あたふたしている。

 落ち着いて見てみれば、決して怖くない彼ら。だが、逃げ惑う人々が追い付かれまいと、足元の水を蹴散らし互いに先を急ぎ、近づいて欲しくないと辺りにあるものを手当たり次第に投げ、物がなくなれば他人の民家の鉢や道具を掴んで投げる。それが、家の窓ガラスを割り、その欠片で人々が怪我をする。そんな最悪の循環が目の前に広がった。通りの一角で、誰かの動揺から始まったその混乱はあっという間に通りに蔓延した。ギリ、とイルミナが己の唇をかむと血の味がする。後手に回った自分が情けない。

「『K値 0! 魔環多展開!』」

 魔環を複数のアンデッドにセットし、住民に一番近い位置のアンデッドを一発撃ち抜く。そして次、もう一発。

「早く逃げなさい!! 見えないところに!」

 そう叫べば道から消え去る一般市民。イルミナを見ているのはアンデッド、そして、やっと来た人間だ。

「イルミナ……」

「遅かったじゃないハル。鎮静魔法油は作り終わったのかしら?」

 残り四体のアンデッドがハルに向かって突進していく。イルミナは魔弾を装填しなおし、そのうち三体を撃ち抜いた。ハルにたどり着けた一体は、最初に会った肉付きのいい女性のアンデッドだ。息をしなくていい、もっとも、息ができない彼らの声は人には届かない。それはハルも同様で、彼の前で口輪筋を動かすアンデッドを見て、ハルは一秒ごとに眉間のシワを深くし、唇を真一文字に噛み締めた。

「もういいでしょう、諦めたならこっち向いて」

「おい、イルミナ――」

「ハルには言ってない」

「イ、イルミナ様――」

「うるさいわね、メッゼ様は邪魔よ!」

「……」

 無言でイルミナを向いたアンデッド。少し窪んだ眼には雨水がたまり、そこからくすんだ頬を伝って落ちる雫は、死にながらも泣いているよう。その彼女の顔を見ていられず、魔環がセットされている中心に照準を合わせて撃ち抜くと、広がった魔法が消えるとともに、彼女も消え去った、跡形もなく。

「呆けてる暇なんてないわ。ハル、残ったアンデッドの体を回収して墓地に戻るわよ。メッゼ様も手伝ってください」

「ええ!? 私が!?」

「役立たずのままお帰りになりますか?」

 そう言ってやれば、少々青い顔ながらきびきび働くメッゼ。対して立ち尽くしたままのハル。あのアンデッドの泣いているような顔を見ればそうなる気持ちも分かるが、今はここから去るのが最優先だ。

「ハル、いい加減にして」

「だから、なんで消すんだよ……」

「レフレ様も言ってたでしょう。アンデッドは人とは相容れない。悪感情を向けられてこれ以上彼らを傷つけない為よ。残された遺族もそう。それに彼らが出て来てくれるのには理由があるの」

「理由?」

 カタン――。

 何かが動かされる音がして、イルミナは反射的に右を見た。ハルも左に己の首を動かした。目線の先には、一人の男の子。その子が、「ア、アンデッド……」と言って、民家の塀にしがみついていた。

「君、大丈夫かしら?」

 イルミナが慌てて駆け寄り目線を合わせるも、一歩後ろにさがられてしまった。十歳くらいの緑髪(みどりのかみ)の男の子。

「ア、アンデッドを殺したのか?」

 あり得ないとでも言うように、イルミナを恐怖に満ちた黒瞳で見て体を震わす少年は、遅れてやって来たハルを見て、「フェオ家!?」と口にした傍から飛びついた。

「だ、誰だ、君? 逃げ遅れたのか?」

「違う! どうして君はアンデッドを助けない!?」

「……何を言ってるんだ?」

「君はフェオ家の人間だろう!?」

 ハルがひた隠すミドルネームを言い当てた少年は、まっすぐな目で言い逃れはさせないとばかりにハルの腕を掴んだ。

「いや、ち、違うぞ」

「嘘だ、君――」

「みなさーん! 街の人が戻りますよー!」

 アンデッドを渋々担ぎ上げ、「早く!」と裾をひらひら、太ももをのぞかせながら脚をその場で動かすメッゼ。イルミナ的には気に食わないが、メッゼのいう事が正しいのは確かだ。

「話は後よ。君は……」

「一緒に行く!」

「よろしく、ハル」

 ハルから離れようとしない少年を引き連れ墓地へ戻り、アンデッドの残りを墓に戻す。その光景をまるでこの世のものではないようなものを見ていた少年は、倒れていた魔導師に目を移しハルに尋ねた。

「どうしたの、この人」

「え、あー、無理に魔法を使って暴発したんだよ」

「え!? 暴発!?」

 その一言で真っ青になった少年は、自力で立てずにハルに慌てて抱え上げられた。

「君、家はどこ?」

「……『クラスト』だよ」

「クラスト? それは、どこの……店か? あ、君の名前か?」

「州の名前だよ。『ブロート』の『クラスト』……。知らないの?」

 イルミナとハルは目を合わせた。だが、イルミナもそんな地名は聞いたことがない。沈黙した彼らの間に、一仕事終えたメッゼが当たり前のように入ってきた。

「お二人とも、『ブロート』といえば、失われたかの第一大陸にして国名。『クラスト』は、ブロートの州の一つですよ。そんな大昔の国名を知っているとは、ちびっこも魔導師かな? って、違った!! 魔導師の最年少はあのレフレだったぁ!!」

 そう勝手に頭を抱えてうずくまったメッゼ。どうやら、『ブロート』や『クラスト』は魔導師たちの常識らしい。

「失われた、第一大陸……!?」

 ハルの腕の中でポツリと呟き、顔面蒼白、カタカタ震えだす少年をこのままにはしておけず、一度、ハルが連れて帰ることになった。本当は、魔導師協会か魔法管理機構に保護してもらいたかったのだが、少年はかたくなにそれを拒み、自分の存在を誰かに知られるのすら拒んだ。

「俺に面倒が見られるのか?」

「明日の放課後様子見に行くわ。ハル、家どこよ」

「教えてもいいけど、人目に付かないように来いよ」





 翌日、ハルは学校には来なかった。イルミナが眠い目をこすりながら登校すると、途中でハルに用事がある魔導師がチラホラ。毎日こんなのを相手にしていたら、そのうち会った瞬間に眉間に一発入れたくなる。それでも評価者として対応しようとするハルは真面目だ。

 学校では、ハルが休んだことで、「ついに倒れた!」とざわついていた。

「イルミナ様がお気になさることではありませんよ」と、誰かに言われたイルミナは、最初は一体何の事だろうと不思議だった。ハルが休んだのは、体調云々ではなく、少年の件のはず。でも、そこで、ふと思いついた。クラスメイトのハルが体調不良で休むのは、魔導師たちの無理な襲撃に並んで、真逆の属性しか持たない、イルミナの存在が彼にとって負担、と誰もが認識しているからだ。なら、正解の言葉はこうだろう。

「ハルモニ様のご負担をもう少し考えるべきでした。私としたことが至らないことばかりで……。やはり、クラスを変えていただこうかしら」

 クラスが違ったところで、アンデッドを消したいイルミナに庇うハルという、二人の認識に変化はあるまい。




 放課後、イルミナは足早に学校を後にする。そのつもりが、呼び止められてしまった。授業中、鋭い視線を背中に突き刺していた、後ろの席の人に。

「ご自宅はそちらでしたか? イルミナ様」

「あら、レフレ様。どこから帰っても帰れますよ、道は続いていますから」

「そんな、胡散臭い言葉どうでもいいです。ハルのところに行かれるおつもりですか? おやめください」

「約束しているんです、放課後ご自宅に伺うと」

「はぁ!? 何を馬鹿なことを――」

 イルミナは少々得意げに、ずいっと紙をレフレの目の前に突き出した。その紙切れを手に取って、「これは……」と唸り始めた天才レフレ。見せた紙切れは、昨日書いてもらったハルの住所だ。

「確かに、ハルの字だけれども……」

 そう納得したくてもできないレフレを置き去りにしてイルミナは道を急ぐ。そうすれば、納得しないながらも、いまだに紙切れを光に透かして疑いつつ、だが、イルミナの事は止めずに、渋々後ろをついて来るレフレ。友人思いな人物ではあるが、いささか過保護だ。

 二階建ての集合住宅。その一室のドアをやや緊張した面持ちでノックしたイルミナ。そのノックの後ゆっくり開いた家のドア。必要最小限の隙間から顔をのぞかせたハルは、レフレに驚きを隠せなかった。

「なんでレフレまで?」

「……一応、見張り」

「なんだそれ? まあいいや。イルミナ、あの子……」

「何かあったの?」

「いや、ベッドから出てこない」

 例の少年は昨日帰ってからずっとベッドにもぐりこんだまま出てこないらしい。時折、「ああ!」という声や、すすり泣く声は聞こえるが、布団を剥がそうとすると「やめろ!」と叫ばれ、「それ以上来るとここで首かき切って死ぬ!」など、物騒なことを言い始めたため、もはやそっとしておくことにしたようだ。十歳くらいの少年が、自死をほのめかすとは全くもって穏やかではない。それが、彼の行動を遂行するための虚言か、はたまた現状からくる本心かは定かではないが、扱いは間違えたらいけない。

 イルミナもハルも、意に反してため息が出てしまう。

 部屋は、半分だけがカーテンで光が遮られており、その黒い部分から出ないようにハルは自分の机の椅子に座った。その机の上には空になったペンの芯が置かれていた。

「ねえ、まだ『鎮静魔法油』作ってないの?」

「ああ、材料が昨日足りなくて」

「なんで!? 評価者に揃えられない材料なんてないでしょう!? 特権はどこいったのよ!」

「いや、確かにそうなんだけど、在庫がないものを出せとは言えないだろ。最近、魔導師の購入が多いんだと。申請に間に合わせるために魔法を何度も作るからだ。これから取りに行ってくる」

「ハル、外はまだ明るいぞ。代わりに行こうか?」

「え」

 レフレの申し出に一瞬戸惑ったハル。鎮静魔法油の原料も精製方法も影の評価者の極秘事項。昨日はイルミナに見せることに疑問を持たなかった割に、何故だか今回は悩むハル。悩んだ末に、イルミナとベッドを見たハルは、一言「頼む」と言って、紙に一筆したためた。代理購入に必要な委任状。それを受け取り、レフレはハルの家を出た。

 人の気配が一人減ると、少年がもぞもぞ布団の下でうごめいた。

「昨日の人だけ?」

 くぐもったその声に、イルミナが「そう」と答えると、少年は緑の頭をひょこりと出し、亀のような状態になった。

「ねえ、このベッド、なんか匂うんだけど」

 顔を見せて開口一番、とんでもないことを言いだした少年に、ハルは固まった。別に匂いなんて気にしたことなかったイルミナだったが、そういわれると嗅ぎたくなる。

「はあ? ちゃんと洗濯してるぞ! って、イルミナ俺を嗅ぐな!」

「べつに変な匂いなんてしないわよ?」

「当たり前だ!!」

 後ろからばれないように鼻を近づけていたイルミナは、ハルによって引きはがされた。

「違うよ、調整した精油の匂いがする」

「ああ、よく寝られるように数滴つけてる。俺は、夜に目が冴えるから、それが無いと寝られないんだよ」

「ふーん、まあ、いい香りだけど、属性は選ぶよね。僕にはちょっと落ち込む香りだった」

 そう言ってベッドに腰かけた少年は、足をプラプラさせ始めた。部屋の中をキョロキョロ見る少年にイルミナは自ら名乗るところから始めた。

「私の名前はイルミナ・ブロードよ。こっちはハルモニ・フォルノ。君の名前は?」

「……教えない。嘘つく人には教えない」

「嘘じゃ、ないわよ」

 イルミナは思わずハルと顔を見合わせた。

「君の名前は、ハルモニ・フェオ・フォルノ。『ミドルネーム フェオ家』でしょ」

「ああ」

「そこは共通なんだね。なら、まあいいや。で、お姉さんは? それだけじゃないでしょ?」

 その言葉にイルミナはたじろいだ。何故この子がそれを知っているのだろうか。ちらと、横目でハルを見れば、イルミナ以上に驚いている顔が目に入った。

「……よく知っているわね、私の名前はイルミナ・ユー・ブロード」

「やっぱり、ミドルネーム ユー家だね。逃げた光の一族だ。闇と一緒にいるんだね。なら!!」

 ベッドから飛び起きて、少年はイルミナに縋りついた。

「ねえ、戻って来てよ!! そっちの人と一緒に! 皆間違いには気づいたんだ、だから――」

「一体何の話?」

「ブロートに戻ってきて! そうじゃないと駄目なんだ!」

「ちょっと待って、ブロートって第一大陸でしょう? もう四千年前の魔導暴走で消滅しているわよ。一体何と勘違いしているの?」

「よん、せん、年前……」

 しがみついていた手から力が抜け落ち、少年は床に座り込んだ。だらん、と床についた指が、何かを掴もうと鉤爪のように曲がっていく。だが、床は固く掴むに能わず、思ったよりも強い力で彼の爪が傷つくだけだった。

「やめなさい」

 剥がれかけた爪、その手を取って握ると、痛いだろうに握り返して来た。イルミナの手が折れるのではないかと思うほどに、ギュッと締め付ける。それだけこの少年が思いつめている証拠だろう。

「……もう、何も残ってないの?」

「大陸ごと消滅して、虚無の柱ができたのよ。何も残ってないわ」

「そんな……!!」

 少年の手が急に重くなり、イルミナの手の間からずり落ちた。何かをしゃべろうとしているのか、それとも空気をもっと吸おうとしているのか、口をパクつかせ視線を彷徨わせる様は、瀕死の魚類。「あ」という声と共に、顔の前で手を組んだ少年は、「ごめんなさい」という言葉と共に、腕時計の横から床に一滴何かをたらした。

 瞬時に広がる緑の魔環と文字。緑髪は鉱物の魔法が得意な属性だ。床は鉱物ではないし、しみ込ませられる素材でもない。それにもかかわらず魔法の対象に出来てしまう彼の魔法スキルは、二人がわが目を疑うほどに異常だ。

 そんな少年が床から取り出したのは、光る得物。それが向く先は彼自身。

 ズリ、と這い出て来た得物。イルミナが慌てて手を伸ばし刃を掴めば、ぷちん、と音を立てたかのように切り裂かれる彼女の皮膚と肉。掴んだところで動きを止めてくれたのが幸いだ。このまま動かされたら、イルミナの右手は綺麗に分断されてしまうだろう。

「何を考えてるの!!」

「どうにもならなかったんだ! 邪魔するな!」

 血の滴るイルミナの手から刃だけの短刀を奪おうとする小さい手。その手から逃げていると、外から手をはたかれ、イルミナは刃を落としてしまった。その刃は大きな手に拾われ、少年が届かない高さにあげられた。

「お前たちは、俺の部屋を血の海にする気か」

 額に青筋を立てたハルが唸った。ハルは手早くイルミナの手にきつくハンカチを巻き付け、「外で頭冷やしてろ!」と、叫び、少年とイルミナを窓からベランダへと放り出し、カーテンを閉めてしまった。

「……せめて救急箱も一緒に放り出して欲しかったわ」

 ジワ、と血が布に滲むのを見て上から押さえつけ、イルミナはため息をついた。その横でイルミナを見ている少年は、いつの間にか目に涙をためて、唇から血を流している。流血沙汰の二人がベランダにいるとは、誰かに見つかったらハルの家にあらぬ噂が立つんでなかろうか。

「……で、少しは落ち着いたかしら?」

「邪魔しないで」

「邪魔するわ」

「いつか死ぬんだから、いつ死んでも同じなんだ」

「それだと、人間誰にでも当てはまっちゃうんだけど。まあ、いつ死んでも同じなら、質問に答えてからにしてもらえるかしら」

「何さ」

「どうして、私のミドルネーム知ってたの? 陛下と殿下と機構と協会のトップ。この四人しか知らないはずなんだけど」

「目も髪も黄金なら、ミドルネーム ユー家の人間だよ。フェオ家と同じだ。ここではどうだか知らないけど、僕らの時代はそうだった」

「いつの時代?」

「教える義理はないよ」

「えー、この傷に免じて教えてよ」

 そう言って手をひらひらさせれば、滲んでくる血。まだ止血が足りないらしい。

「勝手に助けたくせに……」、とため息をついた少年は、バツが悪そうな顔をしてぶつぶつ喋り始めた。

「ブロート歴五百八年。それが僕のいる時代。昨日も言ったけど、ブロートは国の名前でもある。それが魔導暴走で滅びそうなのは本当。だからそれをどうにか食い止めたかった。でも結局できてないみたいだ……。この世界に、ブロートはないんでしょ?」

 夢物語。そうとしか思えないことを言ってのけた少年の黒瞳が、真っ直ぐにイルミナを見た。目を離せずに、イルミナが「そうね」と頷くと、少年は顔を覆った。

「駄目だ……。皆に、どう言ったら……。とてもじゃないけど、帰れない!」

「失敗して怖くて帰れないから、ここで死にたいの?」

「……世界を助けることが、他に何もなかった僕に用意された生きる道だ。それができないなら生きていても仕方ない」

「誰かに、お前がやれ、って、強制されてるの?」

「まさか! 皆がそんなことするはずないだろ!」

「じゃあ、いいじゃない。帰りなさいよ。帰って、助からないから逃げよう、って皆に言えば? 皆が大好きならなおの事そうしなさいよ」

「……なに、皆が大好きって……。なんで分かるのさ」

「『皆がそんなことするはずない!』って庇っといて何を言ってんのよ」

 無言で頷く少年は、誰か大事な人でも思い出したのだろうか、ほんの少し黒瞳を潤ませて下を向いた。そんな少年に、指折り数えながらイルミナは静かに話し始めた。まるで独り言のように。

「……生かされていると思うと死にたくなる。でも、生きなくてはと義務感に駆られると、少なくとも死ぬわけにはいかないとすんでのところで思いとどまれる。もうちょっとしたら、『生きたい』に変われると思う? それとも、疲れて元に戻っちゃうかしら」

「なにさ、それ……」

「さあね。まあ、君の詳しい事情は分からないけど、大事な人とやらが生き残れるようにもう少し生きるっていう道はないの?」

「それは……」

 それまで静かながら会話が途絶えなかったベランダ。そこに聞こえたのは、ドアが開く音。続いて二、三交わされた言葉の後でカーテンが開いた。

「驚いた、本当にここにいる……」

 ガラスの向こうで声を発し、レフレは二人を中にいれた。どうやら、鎮静魔法油の材料を受け取りに行ったが、やはりこればかりはハルに来て欲しいと店主に懇願されたらしい。入れ違いにハルが家を出て行ったようで、そこには家主の姿はなかった。

「……誰?」

 訝しがる少年は、イルミナの手を取った。時計の文字盤をいじり、その横から一滴何かをイルミナの手に垂らすと、両手の大きさに広がる青白色の魔環。

「ん?」

 と、少年は一回首を傾げ、イルミナを見た。

「お姉さん、もしかして……」

 そう眉をひそめた少年が、「ふうん、そっか」と呟くと、少し黒みを帯び始めた光と共に次第にイルミナの痛みは引いていき、ものの三十秒ほどで裂けていた傷は跡形なく治ってしまった。これにはイルミナ自身、そしてなにより、天才レフレも驚いた。レフレが、「嘘だろう!?」と言って、イルミナの手を取り凝視する。種も仕掛けもないマジックのようにあっという間に消え去った傷。あのケガの段階からがイリュージョンではなかろうか、と疑うほどのものだった。

「一体どうやって!? 君は主属性が鉱物で、副属性は影だろう!? 治癒魔法は、青の植物属性のもののはず。どうしてその魔法が君一人で使えるんだい!?」

 右肩青ともいわれる医療に必須の治癒魔法。いかに購入した魔法であっても属性が違えば使えないし、ましてや、十歳前後の子供には、医療魔法はまだ購入は許されていない。

「……秘密だよ。でも、ブロートではこれくらい誰でもできるさ。で、お兄さん誰?」

「ああ、レフレ・ヴェルミって言うけど。君、いま、ブロートって言ったかい? ブロートってあの、第一大陸のブロートか? 今はもうないはず……。いや、そんなことどうでもいい! どうやってやるんだい、教えてくれ!」

「そうだけど……。レフレ・ヴェルミ?」

 その言葉に少年は首を傾げた。少年の意味ありげな動作も気になるが、イルミナがそれより気になったのは、レフレの発言だ。

「レフレ様。他属性の研究は『右肩黒』ですよ」

「分かっていますよ。でも、こんな完璧なものを見たんです、原理を知りたいと思うのは当たり前!」

「そのお気持ち、よくわかりますが、よくよくお考え下さい。貴方が変なことをすればハルモニ様が心を痛めますから」

「アンデッドを消してハルを痛めつけている貴女に言われたくない」

 いまだイルミナの手を握るレフレ。その所作のせいで二人の距離は近く、早く離せとイルミナが手を振りほどこうとするも、なかなか手は外れずレフレとの距離は相変わらずだ。すると、「ねえ」と助けが入った。

「お姉さん、大事な人が生き残るために生きてみろ、って言ったよね」

「ええ、まあ」

「いいよ、その言葉採用してあげる」

 時計の文字盤を回して外し、中から転がり出たのはいくつもの色に光る小さな粒。

「気が変わったお礼に、いいこと教えてあげる。ブロートが滅んだ魔導暴走。その根本理由は知ってる? お兄さん」

「属性を超えた魔法研究の結果だろう?」

「それは、あまりにも大雑把すぎる答えだね。詳しく知らないの?」

 イルミナとレフレは顔を見合わせお互いに首を振った。

「属性の融合はできない。ただ一つの例外は、人の体の中でことが完結するなら可能ということ。それは今でも変わってないはずだ。レフレ、君なら、主属性の光と副属性の水を合わせた魔法だって問題なく使えるはずだ。だからこそ、魔法に複雑性を持たせられる。逆にそれができないのが『純属性』だ。ここまでの認識は間違ってないかい?」

「ああ」

「属性の融合ができない、それは属性が異なる他人との魔法の融合ができないということだ。それができれば、徒党でも組んでどこまでも魔法の威力を大きくすることができる。攻撃でも防御でも、医療魔法でも歓迎されるべき手法。でも、それは不可能じゃないと、それを夢見て研究する魔導師だっているはずだ。いや、魔導師なら、誰だってその可能性を模索したい、そういう生き物だ。どうだ? あってるだろ? さっきの君がまさにそうだった」

「……ああ、否定はできない」

「僕たちの時代はそれを可能にしていたさ。フェオ家が大陸から去るまでは」

「……どういうことかしら」

「ユー家が第一大陸から去った後、彼らを追ってフェオ家も姿を消した。それからだ、魔法の他者間での融合ができず、それでも邁進した結果ついに闇が欠損して、陸も空も全てを飲み込み第一大陸は消え去り、虚無の柱ができたはず。僕から言えることはただ一つ、『闇を使え』それだけだ」

「闇? 何だいそれは」

「それに気づけないなら、この先はないよ。言っておくけど、お姉さんの茶番に付き合ってあげたんだ。あとはしっかりやってね」

「……茶番って、一体何のことよ」

 少年は、ちょいちょい、とイルミナを手招きした。いい加減レフレから手を振りほどき、少年の目線に屈むと、耳打ちされた。

「え? どうしてそれを――」

 とん、と軽く突き飛ばされたイルミナが、レフレの隣におとと、と戻ると、少年が一番近くにあった粒を足で踏みつけた。途端に香るのは、目覚めに良さそうな強めなハーブの香り。それを皮切りに転がっていた粒が全て壊れ、中には勝手にはじき飛び天井まで到達したものもいる。そして、色とりどりの小型の魔環が床だけでなく少年を包んだ。

「過去には勿論、こうして未来にも時は超えられた。原因になりそうなところも変異点も全て直してきた。それなのに、第一大陸が消える未来が変わらないのは、その時一度やめさせただけじゃダメだった。きっと、どこかで、同じことを考える人間が出てくるんだ。人が変わらなければ未来は変わらない」

 少年は、外した時計の文字盤を握りしめ、片手の人差し指で頭の側面を叩いた。

「じゃあね、お姉さん。あのお兄さんをよろしく。そうだ、噂に聞いたけど、所有印は、一生に一度きりなんだよね? そこんとこ、どうなの二人は?」

 パリン、と文字盤が砕け散ったと共に、全てを消し去り姿を消した少年。魔環も、匂いも何もかもをだ。少年が抜け出した跡が未だに残るベッドだけが、ここに彼がいたことを物語っていた。

 窓から月明かりが差し込み、外は綺麗な夜空。今日はアンデッドの発生はないだろう。それならいい。今日くらいはゆっくりしたい。きっと、ハルもそう思う筈だ。そして、イルミナの隣で沈黙するレフレ。先ほどの発言といい、天才が故に道を踏み外しかねないかもしれない。

「レフレ様。魔導倫理から外れた研究はお止めください」

「……言われなくても、その辺の線引きはきちんとしていますよ。ハルの負担になるようなことはしません。誰かさんと違って。何故、シエンシアス殿下がイルミナ様を婚約者にされたのか、甚だ疑問ですよ」

「……私は構いませんが、殿下を愚弄するのはお止めなさい」

「そうですか、でも……。おかしいでしょう、あなたのようなアンデッドを消すしか能のない人間が――」

「誰が好きでそんなことやってると思ってるの――っ!」

 思わず動いた手を、レフレの頬に当たる寸前でかろうじて自力で止めたイルミナは、少年に治してもらった右手をぎゅっと握って未だ腕がくすぶる衝動に耐えた。息を整えた。胸元を触って落ち着いた。大丈夫、まだ大丈夫。そう息を吸えば、この場から動けと足が言うことを聞いてくれた。

「取り乱しました、先に失礼します」

 イルミナが隅に置いてあったカバンを掴み玄関まで足を必死に動かすと、ドアが開いた。

「イルミナ、もう帰るのか? あの子は?」

「……ハル」

 少しだけ息を切らし、紙袋を抱えたハルがイルミナの顔と室内を何度か行き来して、その視線を彼女に定めた。

「どうした? 何かあったか?」

 イルミナが首を振れば深くは追及せず、ハルは少年を気にした。帰ったことを伝えると、いささか腑には落ちてなさそうだが、レフレしかいない室内と、治ったイルミナの手を見て信じたらしい。すると、「これどうするか……」と、持っていた袋を開けた。開いた袋の口から、魔法とは違う、お腹と口を刺激する、いい匂いがした。よくよく見れば、紙包みは先日イルミナが見ていた雑誌の評判のパン屋のものだ。

「あの子、何も食べてなかったからテイクアウトしてきたんだ。もういないなら、イルミナが食べるか? ここのパンが気になるって言ってただろ?」

 そう言って差し出したのは、まだあったかい出来立てのバゲットを使った総菜パン。

「急いでるなら、持って帰れよ。ああ、クッキーも評判だっていうから買ってきた。お前何が好きなんだ? ほかにもまだある――。イルミナ?」

 泣きながら笑う。ハルの目の前で押さえられなかった涙を取り繕おうと無理に笑ったイルミナは、すぐに首を横に振った。それくらい、イルミナにとってハルが気にかけてくれたことが嬉しい。

「平気! 一個で十分よ! ありがとう!」

「そ、そうか?」と、腑に落ちなさそうなハルに、イルミナがもう一度「ありがとう」と言えば、彼は渋々道を開けた。あやうく握りしめてパンをつぶしそうになったイルミナは、丁寧に丁寧に抱えて、夜道を走った。少年に言ったように、誰かのために生きることで、消えるという選択肢がない今、イルミナがやるべきことはただ一つ。それが、今はハルの望まないことだとしても、結果として彼はきっと救われる。

「例えレフレに何と言われようと、上等よ」

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