第23話 母と風師さまの物語

 母は幼い頃から風師さまとは顔見知りだった。そして、風師さまが神様であることを母は承知していたのだそうだ。夏が終わるころに二人は鎮守の杜で出会い、たくさんの話をした。多田羅町の歴史や秋の収穫、そして大祭について。秋の大祭は何を隠そう、風師さまが主役の神事なのだ。

 ある年、風師さまは母に狐の舞を教えた。覚えの早い母の舞は、とても美しかったそうだ。冬の神でもある龍然さまが言うのだから間違いない。


「舞衣子の狐の舞はわたしでも見惚れるほどであったな。相手がわたしならば、さぞ見栄えがしたに違いない」

「龍然さまは母の舞を見たことがあるのですね。そんなに美しい舞でしたか」

「正直に申すと、今の娘より遥かによかった」

「あの、わたしの名前は朱実といいます。どうぞ名前でお呼び下さい」

「ふむ。では朱実と呼ぼう。例えるならば、朱実の舞はまだ子どものようだ。それに比べて、舞衣子には不思議な力が宿っているようにも思えた。神をも跪かせるほどの力だ。正確には蒼然が跪いたのだがな。まだ、とおにも満たない幼き少女に」

「そんな小さなときに」

「持って生まれた力であろう」


 龍然は熱い夏が過ぎ秋の大祭が近づくと、この泉から外の世界に出ていたようで、その時に母の狐の舞を見たそうだ。


「そんな母の姿に風師さまは……」

「あの頃の多田羅には活気があった。それこそ老若男女が集い、神への感謝の言葉も多く聞かれたものだ。大祭が成功して蒼然は土地神になることを決めた。そして、十九を迎えた舞衣子との婚姻も叶うはずであった」

「でも母は、それを断ったのですね」

「それはなぜか、朱実には理解できぬだろう」

「教えて! 教えてください」


 小さい頃の約束は大人になるとただの戯れになる。それは仕方のないことだ。そんな戯れを神は本気にしたのだろうと思った。けれど、龍然さまの言葉を聞いて違ったのだと知る。

 母の風師さまと多田羅を思う気持ちは切なく、わたしの心を突き刺した。


「舞衣子も蒼然との婚姻を密かに喜んでいたし、望んでいた。しかし、知ってしまったのだ。神が人間と結婚し子孫を残すと、神はその力を失う。神は人間として生きていくことになる。病にもかかるし、怪我もする。老いてゆくし、人間と同じように死を迎えるということを」

「それは、泰然さまからもうかがいました」

「舞衣子は神が神でなくなることを憂いた。多田羅の繁栄は土地に住まう神々の加護あってのものだからだ。自分の幸せのために、この町を犠牲にすることはできないと」

「多田羅のために、母は風師さまとの約束を破った……」

「蒼然が姿を消すことになる最後の秋の大祭は、とても賑やかであった。これまででいちばん人々が集ったであろう。このわたしが自ら外に出たのだからな」


 その祭りで母は風師さまと狐の舞を踊った。その時にはもう母は父と結婚していたのだ。風師さまにとっても辛い秋の大祭だっただろうと思う。この祭りが終わったら、母との関係も全て終わってしまうから。


「母は多田羅の町を選んだのですね」

「蒼然は諦めてはいなかったが、舞衣子の意志は岩よりも硬かった。打ちひしがれる蒼然は神でありながら、人間の神職とやらに祓われてしまったというのが成れの果て。とはいえ、本当に祓われたわけではない。自ら姿を消したのだ。あり得ぬだろ。神が人間から祓われるなど」

「では、風師さまはどこかにいらっしゃるのですね!」

「ふん」


 龍然さまはそこまで話すと不機嫌そうに尖った鼻先をわたしから背けた。銀色の髪が揺れて蝋梅の香りがわたしの鼻をついた。


(怒ってる……)


「母は多田羅のために好きな人との結婚を諦めた。わたしはその反対。多田羅のためになると思って、好きな人との結婚を決めました。泰然さまの命がわたしと共にあることも嬉しく思いました。でも、それはわたしの独りよがりだったのかな。わたしは間違った選択をしたのでしょうか」


 土地神である泰然がいつか天命を全うしこの世から去るということは、この町から土地神がいなくなるということだ。そうしたらこの町はどうなる。


「わたし、なんてことしちゃったの――」


 母はわたしなんかよりも何倍も多田羅のことを考えて、祈って、風師さまとお別れをした。母と風師さまのことを思うと胸が張り裂けそうだった。苦しくて悲しくて、切ない。もしもそれがわたしだったなら、わたしは笑って過ごせるだろうか。母はいつも穏やかで優しい人だった。いつもありがとうの気持ちを持ちなさいと、わたしに教えてくれた。


(お母さん、わたしにはそんな決断、できないよ。だって、泰然さまのこと好きになっちゃったんだもん。泰然さまの想いを退けるなんて、できなかった。好き、だから)


「それでも蒼然を探すのか。秋の神を再び多田羅に呼び戻すなど……。なんと、残酷なことよ」


 あまりにも身勝手な行為だと、痛感した。龍然さまの冷ややかな声には怒りを感じた。多田羅を守るために傷ついた風師さまに再び多田羅の神になれと強いるのは、あまりにも残酷だ。

 でも、そうしなければ泰然さまに大きな負担がかかるし、多田羅の秋の空には二度と太陽が戻らないかもしれない。そうなると秋の豊作は、望めない。そして人々は生きるために町を離れて行くだろう。町は衰退し、いつか消える。


「どうしたらいいのっ」


 母が自分の気持ちに蓋をしてまで守ろうとした多田羅の繁栄も、このままでは衰えて行くばかり。やはり町には秋の神さまが必要なのだ。

 そうだとしても、風師さまに戻ってきてほしいなんてどの口で言えるだろうか。結局わたしは、自分だけが幸せになろうとしていた。その幸せには犠牲があるということに、気づいていなかった。


「気にするな。人間とはそういう生き物である。我が良ければ他などどうでもよいのだ。それも世界の均衡をたもっている一つだからな」


 ◇


 朱実は自分の考えがあまりにも浅はかであったと知った。多田羅の神社の娘として生まれ、この町のために生きていくことを誇りに思っていた。早くに病死した母の代わりになることをある種の使命とも感じていた。しかし、結果としてはただの独りよがりであったのだ。土地神である泰然に見染められ、完成した狐の舞を奉納した朱実には、どこか傲りがあったのかもしれない。そう思えば思うほど、自分に失望してしまう。

 朱実は力をなくし膝を床について項垂れた。

 処理できない感情が溢れ、涙で床を濡らす。胸を掻きむしられているようで苦しい。息をすることも苦痛に思えるほどだった。


(なんて馬鹿なの、なにが多田羅のためによ。ぜんぶ、ぜんぶ自分のためじゃない!)


「う、ううっ」


 抑えきれない感情が沈丁花の香りとなって部屋中に広がった。その香りは龍然が意図して放つ蝋梅を上回るものである。


「な、なんと――。わたしの蝋梅が負けるなど」

「ごめんなさい! ごめんなさい! ぜんぶわたしがいけないの。ううっ、うわぁぁん」

「この娘、なんということだ」


 龍然は狩衣の袖で口元を覆った。水伯の力を持ってしてもその香りを消すことができない。

 朱実の嘆き悲しむ声はしだいに龍然の結界を破り、とうとう泰然のもとへと流れる。


「朱実――」


 気づけば朱実の隣で跪く泰然がそこにあった。咽び泣く朱実を迷わず抱き寄せる。落ち着かせようと詞を口にするも今の朱実には効き目がない。泰然にも制御できないほどの沈丁花の香りが放出された。

 泰然は思わず龍然を睨みつける。


「龍然。朱実に何を吹き込んだ」

「わたしが見聞きしたことの全てを話したまでだ」

「それが真実であるとは限らぬ。だから我々はここにきた。蒼然に会い、直接聞くために」

「ふん」


 凍てつく空気があたりを包み込んだ。

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